九大法学部 南野(基礎)ゼミ 第1回ゼミ旅行

 2004年3月3日〜3月5日、ソウル

更新:2004年6月29日

 今回のゼミ旅行は、九州大学法学部2003年度後期授業「法政基礎演習1『シネマで法学』」の参加者有志(10名)、担当教員の南野、それからなぜか(?)商法専攻の笠原助教授、の合計12名が参加して行われました。当初は2月に予定していたものの、ソウル発福岡行きの飛行機にどうしても座席を確保することができず、ぎりぎりになって(出発の前日!!!)、急遽3月に延期するというハプニングがありました(参加者にはいろいろと迷惑をかけてすみませんでした)。松永君は直前に風邪をこじらせてしまい、当日キャンセルという残念な結果になってしまいましたが、彼を除けば、予定変更にもかかわらず当初の参加予定者全員の参加を得て、とても楽しい旅行となりました。今回参加できなかった諸君(「法律演習『憲法学の争点』」や教育学部の「社会科指導法1」の履修者も)、そしてとくに松永君、次回は(?・・・たぶんあると思います)是非とも参加してくださいね。

 今回のゼミ旅行は、行き先としてソウルを選びました。福岡からだと、東京へ行くよりも早く行ける外国の首都です。しかも、往復の飛行機代とホテル二泊の宿泊代をあわせて3万円かからないというのは、ひょっとすると東京へ行くより安いかもしれません。もちろん、行き先をソウルに決めたのはそれだけが理由ではありません。

 日本という国の文化が、古代より、アジア大陸、とくに朝鮮半島から渡来したものがその源にあるということや、第二次大戦後東西対立が厳しさを増すなか、この極東において「冷たい戦争」は「熱い戦争」となってしまい、その結果、南北分断国家が誕生してしまったこと、そして、第二次大戦が終結するまでの35年のあいだ、日本が朝鮮半島を植民地として支配していたことなどは、ゼミの皆さんならすでによく知っているはずです。とくに最近は、北朝鮮による拉致や核開発に関する報道が多いこともあり、上の第二の点、つまり分断国家であるという点についてはなおさらそうかも知れません。とはいえ、よく言われるように、我々にとって韓国、いわんや北朝鮮は、まだまだ「近くて遠い国」ではないでしょうか。ワールドカップの日韓共催や草?君(「草」の次の漢字が文字化けしてるかも知れません、もちろんクサナギ君です)の活躍などで、とくに若者の間には親近感が増大したと言われることもありますが、やはり知らないことがまだまだ多い国であることには変わりがないような気がします。

 日本の、そして世界の将来がその両肩にかかっている皆さんには、若くて感性の豊かなうちに、様々な出会いを経験して欲しいと思っています。文字通り物理的な出会いもそうですが、読書など知的な活動を通じての出会いもまた重要です。大学時代というのは、そのためにあると言っても過言ではないかも知れません。外国へでかけることも、そのような出会いの場を提供してくれるかも知れませんし、出会いそのものになるかも知れません。

明洞にて    景福宮にて

 ほんの2泊3日という短い期間ですが、この旅行に参加する皆さんが、朝鮮半島についてはほとんど何も知らない僕とともに、そういう貴重な経験をほんの一瞬でもしてくれれば、と思い、ソウルを行き先に選びました。

 スケジュールについては当日まで何も決まっていませんでしたが(!)、「統一展望台」や「自由の橋」まで足を伸ばし、対岸に北朝鮮の村をみることができたのはとてもよかったと思っています。僕は、こんなに近いのか、と正直驚かされました。万が一北が攻めてきた時の場合に備えて、北とつながる幹線道路には、車両の通行を妨害するための巨大な落とし蓋のような装置がありました。ソウル市内のとても幅広な道路のいくつかは、軍用機が離着陸できるようになっていました。大雪の降るなか、ぶらぶらとウィンドウショッピングを楽しんだ明洞(ミョンドン)地区の、日本の繁華街となんら変わるところのない風景からはなかなか想像しがたい、緊張に満ちた厳しい現実がそこにはありました。統一展望台の付近は、国境となっている漢江の川幅がかなり小さくなるところです。肉眼でも対岸の村にある建物がよく見えました。こちら側の河川敷には厳重な鉄格子、そして物見櫓では武装した韓国兵が昼夜警戒にあたっています。他国、ましてや敵対国との国境をこんな形でもったことのない日本から来た我々には、まるで映画のセットかなにかのような、にわかには現実感の湧いてこない風景だったのではないかと思います。

 参加者それぞれに感じ方は違うはずですが、僕にとってはこの部分が今回の旅行で一番印象に残ったところでした。

 今回は「ゼミ旅行」ということで、「ゼミ合宿」ではなかったために、全員でそろってなにかゼミめいたことを行う、ということは一切ありませんでした。いかに近いとはいえ、そこは外国、そんなに頻繁に行けるところでもないですし、椅子に座っての勉強よりは、最大限、その地の空気を吸って貰った方がいい勉強になるだろうと思っていました。あきらかに観光客、それも日本人観光客しか来ないようなレストランにも行きましたし、それとは逆に、日本人観光客なんか来たことはないだろうというようなところでも昼食をとりました(ハングルの読めないチームは苦労していましたねえ)。植民地時代のレジスタンスを解説した西大門独立公園にも行きました。景福宮(キョンボックン)も見学しました。仁寺洞(インサドン)での土産物の買い歩きは楽しかったですね(女子3人と最後に再会できたのにはほっとしました)。日本でも有名な南大門市場には、残念ながら大雪のための寒さと、笠原助教授の迷子事件(?)等のために行けませんでしたが、その日の夜の居酒屋では、もうからいものはいらない! と叫びながらも満腹になりました。ソウルツアーでは定番(?)の免税店にも行きました。そしてなにより、最終日の夜、明け方まで「教師部屋」に集まってみんなで大騒ぎしたのは楽しい思い出です。堤君の「問題発言」は一生忘れられないかも知れません。硬軟入り交じった今回のゼミ旅行、みなさんにとってもいつまでも良い思い出になってくれれば幸いです。

南野 森(2004.3.14.)

 

(2004.6.16.追記)南北の「宣伝放送」について、朝日新聞(2004.6.16.西部本社版・朝刊)に次のような記事がありました。

軍事境界線上で最後の宣伝放送

【ソウル=高槻忠尚】韓国と北朝鮮は15日、軍事境界線一帯で続けてきた拡声機による宣伝放送を停止した。先の南北軍事会談での合意を受けたもので、韓国軍の「自由の声」放送は14日午後11時50分からの最終放送で「本放送は北の放送とともに幕を下ろします。(北朝鮮の)人民軍の皆さんありがとう。末永い幸運を祈ります」と伝え、15日午前0時に停止した。

 北朝鮮側も14日深夜、「統一のその日に会いましょう」と伝え、放送を終えた。南北は8月15日までに拡声機や看板などを撤去する計画だ。宣伝放送は韓国では62年に始まり、北朝鮮も対抗してきた。ともに相手の体制批判が主だった。00年の南北首脳会談後、韓国はニュースや歌、北朝鮮も体制宣伝や音楽中心の編成に転換した。

 自由を訴える韓国の放送について、北朝鮮は将官級軍事会談で廃止を要求、南北共同宣言4周年の15日にあわせて終了することで合意した。

 

 ゼミ旅行の写真集 (2004年3月17日、湯村君撮影の写真を20葉ほど追加しました)

 参加者による旅行記

網谷  拓
堤  雄史

戻る

トップ    プロフィール    南野的写真集    南野的授業

 

inserted by FC2 system