九州大学法学部 2004年度後期

統治機構論(憲法総論・統治機構)

聴講者による講義風景リポート集

 

その日その日の講義を聴講して感じたことなど、自由に書いてください。その日の講義がどのようなものであったか、その風景もあわせて描写されているととても嬉しいです。より良い講義の実現のため、大いに参考にします。

 このページには、上記講義の聴講者から寄せられた「講義風景リポート」を掲載しています。原則として、南野にメールで寄せられたリポートをそのまま掲載するつもりですが、明らかな誤字・脱字等については適宜訂正する場合がありますし、また Web 上での公開にふさわしくないと南野が判断した場合には、掲載しないことがあります。なお、後者の場合には、リポート送付者に対して、南野からメールでその旨を連絡します。また、このページでもそのことに触れるようにします。

 

 リポートの送付は、本名でもペンネームでも構いませんが、本名とペンネームの混在やペンネームの中途変更、さらに他人のペンネームと同じものもしくは酷似したものの使用は避けてください。学部・学年などの情報もできるだけ記載してください。なお、個々のリポートに対して南野が応答することは出来ませんが、必要に応じて、講義の場でコメントすることがあります。

 あらためて言うまでもなく、仮にリポートの送付者が特定できた場合でも、その内容が送付者の成績評価に影響を及ぼすことは絶対にありません。

最終更新:2005年2月7日

 

 

 

 

プロローグ編(講義開始前に届いたもの):講義を受けるにあたっての意気込みや要望・質問などを寄せてください。

投稿者:ズレータ(法学部2年) 2004.9.23.

 いよいよ本格的に箱崎授業が始まるぞー。そろそろ真面目に勉強しなくてはならないですよね。頑張りまーす!
というわけで、単位ください。

投稿者:はなわ(法学部2年) 2004.9.24.

 この頃後期の時間割がどんな風になるのか見ています。その中でも統治機構論は人権論の流れから楽しみにしています。人権論は身近(?)な話題が多かったので親しみやすかったのですが、統治機構論は難しいイメージがありますが、頑張りたいと思います。あと、南野先生はフランスに長くいらっしゃった(?)ようですので、講義中に少しでも話して頂くといいと思います! よろしくお願いします。

投稿者:日本国「拳」法(法学部2年) 2004.9.28.

 とうとう専門科目メインの時間割になるので、今まで以上に気合入れて臨もうと思ってます。とくに、統治機構論は日本法の根幹である日本国憲法の学習だし、法全体を俯瞰する意味としても重要になってくると思うので頑張りたいです。「単位獲得」を第一の目的とせず(実際、それもあるけど・・)、知識としてきちんと身に付けたいです。このやる気、三日坊主で終わらせないようにせねばっっ

投稿者:(法学部3年) 2004.10.2.

 聴講希望の人々へ。
昨年の前期、講義は言葉の説明から始まりました(ノートによれば)。『憲法』の初出は紀元前8世紀の中国古典、日本現存最古の例はかの「十七条憲法」。その後種々の『憲法』が現れますが、現代と同じ意味で使われるようになったのは幕末のことでした・・・。いかなる意味で確立したかは実際の講義でどうぞ。言葉の意味にこだわる方ですので注意しましょう。
「統治機構論」では文字通り国家構造を定めた憲法条文を主に学ぶ学問のはずですが、昨年は、憲法分類や憲法学の対象、日本国憲法成立の沿革など、「統治機構」からは外れるようにみえる内容も多く話されています。個人的には興味を持ったところでしたが、中間試験の選択問題に出題された結果、少なくとも一部の学生の不興を買ってしまわれました。専門の部分が手厚くなるせいか、大学の講義はそんなものです。
南野先生は3年間フランス留学されたので、ご専門のほかに仏関連のことも当然取り入れられました。モンテスキューの本名だとか。大講義室では恐ろしく真面目に講義されるでしょうが、性格は8割方フランス人だと言われています。ご自分の講義への反応は特に喜ばれますから、個人的に質問に行くと面白いでしょう。多分「陽気」なだけでは済みませんので。
以上、何か参考になれば幸いです。先生ご本人に送らねばならず、大変気を使いました。

回の選択に戻る

 

第1回(2004年10月4日・月)

投稿者:はなわ(法学部2年) 2004.10.4.     #05

 授業風景リポートということで・・・南野先生がスーツをおめしになり講義が始まりました。入学以来はじめてのスーツ姿をお見掛けしました。今日はガイダンス的(テキスト・評価の仕方など)なことが半分と、早速憲法総論に入りました。人権分野を学んだとはいえ冒頭の「憲法とはなんぞや?」という問いには正直いってなかなか答えられなかった自分が居りました・・・(涙)実質的意味の憲法と形式的意味の憲法・・・特に実質的意味の憲法はいわゆる「憲法(典)」のみならず、慣習法、制定法の中にも存在すると言われたときは、かなり分かりませんでしたが、イギリスの憲法と比較しながらの説明のおかげで何とか理解できました。それにしても、板書をここまでしない授業は久しぶり・・・というか、3限の内田先生といい南野先生といい、ハードな一日でした。

投稿者:T.M.(法学部2年) 2004.10.4.

 板書もレジュメもなしと聞いて最初はついていけるのかと思いましたが、先生の話は分かりやすかったですし、話し方もゆっくりで、また場合によっては反復して話してくださるなど、こちらに対する配慮もしてくださったので、私なりによい講義だったのではないかと思っています。

投稿者:まる(法学部2年) 2004.10.4.

 今回の授業は、初回の授業ということもあり、先生も、学生も、少々緊張した雰囲気の中で始まりました。イントロダクションでは、先生のこの授業に対する意気込みが示されました。「頭を鍛える」場としての大学において、知的な営みとしての面白さを求めるというお話でありました。身の引き締まる思いで拝聴しました。
そして、授業内容に入りましたが、憲法の総論部分について叮嚀に説明されました。
全体をとおして、まじめな雰囲気の中真摯な態度で授業を行われ、自分としては、好感が持てました。今後、努力してついてゆきたいと思います。
なお、先生が博多弁でお話しになるというので、『日本のことばシリーズ40 福岡県のことば』(平山輝男・平成9年・明治書院)を持参しましたが、必要を認めませんでした。

投稿者:スノーウィ(法学部2年) 2004.10.4.

 今日は第1回目ということで、どういう講義になるのかと思っていましたが、(私としては)講義は分かりやすくて、今後が楽しみになる内容でした。特に良かったのは、何か説明する前にまず概要を話す講義形式で、レジュメがなくても授業の構成がよく分かりましたし、言われたことを自分の頭の中で整理して理解するのに大変役立ちました。時々聞き漏らすことがあるので、ポイントになる点を繰り返してもらえる点も良かったです。まだ内容についてはこれからなので、講義の印象だけコメントさせてもらいました。講義についていけるよう頑張ります!

投稿者:NO.10(法学部2年) 2004.10.4.

 今日の南野先生は威厳がありました。こちらも気が引き締まる思いでした。そんな南野先生を驚かせるような答案を書きたくなったので頑張ろうと思いました。

南野的独り言 

 早速の「リポート」、ありがとうございました。いずれも立派な「リポート」で嬉しいかぎりです。「まる」さんのご指摘通り、やはり初回はとくに緊張します。初回のみならず、毎回毎回の講義が真剣勝負ですので、これからも緊張して講義を続けることになるでしょう。「はなわ」さんには、南野のスーツ姿は初めてと言われてしまいましたが、これでも時々はスーツを着てるんですよ。真冬になると南野の安物スーツでは寒いかもしれないので、「衣替え」する予定です。「NO10」さん、すばらしい答案を期待していますよ。びっくりさせて下さい。プロローグ編の「馬」さんご指摘の点ですが、この講義では狭義の「統治機構論」に加えて「憲法総論」をも講義することになっています。さて、次回は第1節「憲法とは」について重要な補足を行ったあと、予定通り第2節「憲法学とは」に入りたいと思います。準備が大変です! ところで、気がついた人がいるかも知れませんが、第1回講義の風景を少しだけ写真撮影してもらいました。クリックすると大きくなります。

            

回の選択に戻る

 

第2回(2004年10月7日・木)

投稿者:松田(法学部2年)     #10 

 南野先生の授業を初めて受けましたが、先生の講義は自分の憲法を学んで行く上での疑問をあらためて掘り起こして考えさせてくれ、とても知的刺激を与えてくれる今までにない興味深い講義で毎回が楽しみになりました。ところで、早速疑問が湧いてきました。今日の先生の講義での説明からすると、個人の尊厳を具体化した基本的人権の尊重も理念であるから、憲法の条文に明記するべきではない、ということになるのではないのでしょうか?

投稿者:成 眞海(法学部2年) 

 今日の講義で僕も同じ疑問を持ちました。つまり憲法は、憲法に理想を書き込まないという理想を表明しているのではないか、ということです。憲法が国家に対する規範だとか、個人の尊厳だとかはそれ自体理想というか、理念、価値観じゃないのかと。この点に関してちょっと自分で考えてみました。
僕はこの問題は近代に関わるんじゃないかと思います。つまり、憲法っていうのはそれが近代憲法である限りにおいて、自明の前提として近代の価値観が基盤になっている。で、その近代の価値観というのは、個人の尊厳であったり、公の場に個人的価値観(近代的価値観以外の価値観ね)を持ち込まないというものであったりする(多分)。ということは、憲法に理念(理想より何となくしっくり来るので理念って言葉を使います)を書き込まないっていう理念は自明の前提として近代では考えられている。だから「基本的人権の尊重は理念だから憲法に書いちゃいけないんじゃねーの?」という疑問は、憲法に対する疑問というより、近代という価値観そのものに対する疑問って事になるんじゃないでしょうか!?

投稿者:げんた(法学部4年) 

 南野先生については、都立大の卒業生で、当時の石川健治先生(すごい憲法学者さんらしいですね。私にはそのすごさを理解する能力はありませんが)のゼミ生であった友人からほんの少し聞き及んでおりました。彼によれば「あの樋口陽一先生の弟子で、めちゃくちゃ頭がいい人」、と。私からすると前半部分のすごさがわからず、ふーん、とだけ反応しておりました。しかし実際講義を聞くに及んで、その呼吸も論理も乱れないスマートな立ち居振舞いを目の当たりにし、「この人、頭が良いんだなぁ」と思い知らされました。民事訴訟法の八田先生も「格調高い講義が聴けると思うよ」とおっしゃっておられましたので、なるほど、と納得することしきりであります。また、某教授をネタにした若干きつめのユーモアもピリッとした独特の味わいがあります。私は友人と違って、『公共哲学12』を読んで鼻血を噴くほど興奮し、恋する乙女の眼差しで「健治…」とつぶやくようなアカデミックな知性や感性を持ち合わせておりませんが、南野先生の講義は某教授のものと並んで楽しみなものになりました。次回の講義を楽しみにしております。

投稿者:中華料理の2乗(法学部2年) 

 今日の講義、7人の友人に訊いたところ7人とも「混乱してようわからんかった」という感じの感想でした。やはり皆、まだ慣れないというか。慣れるための訓練がされてこなかったというのか。自分としては、「なぜ憲法学は形式的意味の憲法を中心に考えていくのか」というところ(「憲法学の対象・課題」の補足1として説明されたところですね)がいまいち理解できないままでした。多分ぼんやりしてたんでしょうね。他の友人3名も「ここどうなん?」と首を傾げていました。まあ質問に行けっちゅう話ですが。今度行きます。口頭での説明をノートに取るのって、一回集中が途切れるとえらいことになりますね。ノート取りは日々是精進です。先は長い・・・。けどあっという間なんだろうなと思う今日この頃。秋はセンチメンタルの季節ですね。

回の選択に戻る

 

第3回(2004年10月14日・木)

投稿者:福助(法学部2年) 

 3回目となると、先生の講義にもかなり慣れ、ノートをとる要領が分かってきました。先生の授業を受けると、本を読んでいるような気分にさせられます。それだけ講義がしっかり構成されているのだろうと思います。今回の講義は、議論的なものというより、説明的な内容が多かったので、理解しやすいところでした。(「憲法」という言葉は、意味こそ少し違いますが、あんなに昔から使われていたんですね!知らなかった…)認識と評価については、ケルゼンのことが取り上げてありましたが、彼の言う「価値判断から自由な法(法学?)」に興味を覚えました。法そのものに、すでにある程度の価値観が含まれていると思うのですが、それにも関わらず価値判断から完全に離れるにはどうするのか、これだけ多くの支持を得たのだから、それなりの論理があると思うので、少し調べてみたいです。

投稿者:げんた(法学部4年)     #15 

 今回の「認識と評価」のお話、大変興味深く拝聴いたしました。「べき」と「である」の区別は、法学において大きな意味を持つということが理解できました。なんといってもそれが法律になって強制力を持つ可能性もあるわけですし。それが個人的な思想からきた主観的な意見なのか、あるいは人間の認識が影響しないところの客観的な事実なのか。変な意見が客観的な事実として、また法律としてまかり通っては困ります。こういうものの見方の根本に関わるような話は、実定法の講義ではなかなか聴けないので非常にありがたかったです。そして、「実は自分の価値判断でありながら、単なる認識の結果として公表する場合がある。これは最悪で、学問の名に値しない」という言葉。感動しました。自分の価値判断の内容が社会的な地位を脅かすものであったりした場合、研究者でなくともついやってしまいがちなことです。しかし様々なマイノリティーからすれば、権威がある人が「自分もこうなんだ、こう思ったんだ」とカミングアウトしてくれたら、これほど心強いことはないと思います。並大抵の人にできることではないと思います。しかし!そこは批判的峻別論に立つ樋口陽一先生の弟子である南野先生ですので。これからのご活躍に超期待します。

回の選択に戻る

 

第4回(2004年10月18日・月)

投稿者:パンチ(法学部4年) 

 今日の授業は今までよりさらにノートをとりにくかったのではないでしょうか。
私は先生の言った事はほぼ全てノートに書くと勝手に決めているので、始めの雑談から西洋事情まで書きまくりましたが、途中の勅法からモンテンスキューの手紙までの部分は情報量が多く、今でも正直どこが雑談でどこが重要な部分なのかよくわかりません。
しかーし記憶には事例を単体で覚えるよりも、関連する話を連結して覚えた方が記憶し易いし、忘れにくいそうです。ようするに先生の雑談は全く無意味というわけではないのです。1748年「法の精神」モンテスキューと覚えるより、「へー。モンテは法の精神がバカ売れして手紙で友人に自慢してたんだー。意外に普通の人だな。」って覚えた方が記憶し易いし楽しいですよね。楽しくないですか? そうですか。私はその方が楽しいです。
っというわけで、この単位を落とすと卒業できないので先生に媚びを売っておこうと思います。以上。

投稿者:げんた(法学部4年) 

 講義の冒頭で、先生が解釈の妙技といいますか、名人芸を見せてくださったので、法解釈の真髄の一端を垣間見た気がいたしました。法解釈が「創造的」であり、「超科学的」であり、「主観的」であるとはこういうことなのですね。別名、牽強付会…。いえいえ、南野先生のお人柄がよ〜〜くあらわれていたのが理解できましたよ?

 今回は主に「憲法」という西洋語(constitutionとか)の語義を歴史的に明らかにしつつ、同時に近代立憲主義の歴史に触れる、というのが講義のメインコンセプトであった、…んですよね? 歴史的な流れを淡々と説明していく南野先生。前腕がつりそうになりつつもノートをとる自分。ついていくのが大変で、どこが肝心なのかわかりづらい。感触としては、「constitutionという言葉が『法の精神』の中で特殊な意味を与えられ、それがヨーロッパ中で読まれた」あたりがツボの様な感じがしましたが、どうでしょうか? それと「ミシェル・トロペール」「正しいモンテスキュー理解」の辺りで、なんだかほんのすこーし、興奮気味のご様子。最後に日本憲法史に少し入ったところで終了、でありました。今迄で一番疲れました。が、板書の量も今までで一番多かった気もします。少しご配慮いただけたのでしょうか。努力いたします。

投稿者:パンダ(法学部2年) 

 第四回統治機構論講義、Constitutionについてが主でしたが、モンテスキューの法の精神のところあたりまでは分かり易くてノートも取り易かったのですが、それ以降なんだかついていけない感じになってしまいました。まあただ単に私がぼーっとしていただけなのかもしれませんが。
第二節に入ったのは授業のかなり終盤でしたよね? 話の冒頭だけ聞いてしまって未消化な感じ〜を残しつつチャイム・・。木曜は是非早起きして消化したいと思います。

回の選択に戻る

 

第5回(2004年10月21日・木)

投稿者:AL(法学部2年) 

 今回、大日本帝国憲法が成立するまでがメインでした。その中で気になった点をあげます。明治九年、詔で日本の国が成り立ってきた特殊性に基づいて憲法を作る、海外の成文憲法を参考にするという矛盾がある、とのことでした。しかしながら特殊性に基づきながら海外の成文憲法を参考にすることはできないのか、という疑問点が生じます。元老院が「国憲按」を三回起草し、西洋主義になってるために棄却されました。両方ともを取り入れた起草はできなかったのでしょうか? この点について何故しなかったなどの講義をして頂きたいと思います。

投稿者:成 眞海(法学部2年)     #20 

 ALさんのレポートに関して。明治の日本は植民地化を防ぐために西洋を模倣して近代化したわけですが、不平等条約締結を見ても分かるように、日本は西洋の従属的な地位にあるとの認識が当時はありました。そこで当然そこには単純欧化に反発する気持ちがあったわけで、西洋の模倣はするけど西洋とまんま一緒にはなりたくないというアンビバレントな感情が当時は存在したと思われます。その中で、どこまでの欧化が許容されるかはそれほど簡単じゃないのではないでしょうか。その中で日本と西洋を画する一つの日本の特殊性として天皇が持ち出されるのではないかと思います。
要するに言いたいことは、日本の特殊性が何であると考えて、海外の成文憲法を同時に取り入れることが可能であると考えるのかってことです。

投稿者:黒豆ココア(法学部2年) 

 最近体調を崩してしまい一度授業を休んでいるため、授業の復習を兼ねて記憶を辿りながら講義リポを送ろうと思います。さて、自分が本講義内容で一番注目した点は、やはり上記の方々と似ておりますが、「19世紀西欧列強の植民地主義の渦中に立たされた日本の近代憲法」ということになるでしょう。とりわけ、「海外の成文憲法をお手本にしつつも日本の特殊性を出す」という矛盾する2つ要請のバランスをどう取り持っていくのか。この点に興味をそそられました。伊藤博文の第3次国憲按に対する批判的な見方然り、外見的立憲主義とならざるを得ない大日本帝国憲法然りです。何故伊藤は議会よりも天皇を前面に押し出したのか?1789年フランス革命以降、個人の尊厳に重きを置いた欧米列強の近代憲法とは大日本帝国憲法は似て非なるものであります。名ばかりで実はない「骨抜き憲法」と海外から揶揄されてもおかしくはなかったはずです。ここで「個人」と「社会」いう言葉に着目し西欧と日本の比較を行いたいと思います。

  「個人」(=individual、これ以上切り離すことのできない最小の単位)は西欧特有の概念だと思います。そこでは一人一人がある特定の宗教(主にキリスト教)を信仰し、神という絶対的価値を価値内在化させています。それ故、神という絶対的価値を善悪の価値基準とし個々の内面における倫理規範とすることで、西欧では社会秩序が保たれていたと思われます。法は(Dont's)、つまり社会に対する「しばり」であります。「しばり」が強ければ強いほど、「しばられる」側は解放されようとして社会に反抗します。大規模農民反乱然り、フランス革命然り。歴史はある意味「しばり」と「弛緩」のダイナミズムの歴史と言えるかもしれません。社会秩序のバランスをどう維持するかが社会的安定の必要条件といえるでしょう。特定の宗教が価値内在化する西欧において、つまり各人の倫理基準が内面化された西欧においては、相対的に外面的しばりは自然緩やかなものとなったと言えるでしょう。平たく言えば、外から強くしばらなくても「個人」に尊厳を与えることで社会秩序はある程度安定されるということなのかもしれません。

 では日本はどうか。今でも、私たちは「人(person)」よりも「人間(people)」という言葉を多用します。自分という存在を確認するために、一度自分を客観的に切り離して、他者の目にさらされなくてはなりません。他者を媒介として初めて自分という存在を認識します(「他者による自己同定性」)。つまり、日本人の潜在意識の中に他者と切っても切り離せない関係性が意識されているのです。(自然との共生、異性同士がお互いの共通点を探り合おうとする傾向、「腹を割って話す」という言葉、和の精神など枝葉を広げればいくらでも語り尽くせる内容ですが、先生も目が疲れていると思うのでやめます)。他者との関係性の中で日本に住む人々は生きてきました。だから、社会秩序として村の「掟」があり、社会的制裁として「村八分」がありました。「村八分」は人々を「個人」に還元する制裁という西欧とは逆点の現象であったと言えるかもしれません。日本はその風土・気候上生き延びるために極めて厳しい条件であったわけではないので、あらゆるものを神として崇め、八百万の神を信仰しているともいえます。そこには、唯一神たる神の絶対的価値の内在化は行われず、各人の善悪の価値基準は寧ろ外側からの「しばり」に重きを置いて社会秩序が安定化されたものだといえるかもしれません。

 宗教を信仰し、神と直接的に人々はつながれ、内面化された善悪の価値基準に重きを置き、個人の尊厳を重視した西欧社会。そして、他者との関係性を重んじ、比較的幅広い神を崇め、外側からのしばりによって社会秩序を安定化させようとした日本。こういう2極対立的な見方は必ずしも的を射ているとはいえません。が、少なくともそのような性質が見え隠れした日本という国が今や欧米列強の波に飲み込まれようとしており、憲法という形だけでも西欧に似せてなんとか独立を維持しようとした時、そして憲法を軸にこれからの国家運営を迫られた時、その憲法の軸となるものはいったい何にすべきであったのか。それが天皇であったと伊藤は考えたと思います。(苦渋の決断であったかどうかは別としますが)。次回の講義に続く「天皇機関説」問題は、まさに国体の存亡に関わる危機的事態と当時の国政をリードする政治家たちは思ったでしょう。

 単純な帰結にこうもダラダラと文を続けてしまい、すみませんでした。読み疲れしたと思います。自分は憲法学的なものの見方はできないので、上記の皆さんのような意見を述べることができません。法一般に関して得意ではありません。ただ、この授業を通じて、「法」とは何か? 「法」の本質とは何か? について少しでも何かを見つけられることができれば幸いと思い授業に臨んでいます。それでは失礼します。 

投稿者:げんた(法学部4年) 

 憲法が内在する相矛盾する二つの要請、すなわち日本独自の要素である「建国の体」と、欧米列強と伍していくための普遍的要素「海外各国の成法」。この二つの間でかつての日本がどのように揺れてきたのか、興味が湧きました。「憲法は最高の形式的効力を持つ法なので、下位規範と違って参照できるものが上にない」と以前の講義で先生がおっしゃいましたが、そうであるがゆえに「揺れ」も大きかったのでしょうね。穂積八束vs.美濃部達吉のバトルの詳細は次回ということで、楽しみです。

回の選択に戻る

 

第6回(2004年10月25日・月)

投稿者:オレンジ(法学部2年) 

 今日の授業では日本史で出てきた穂積八束先生や美濃部達吉先生の事を学びました。高校の授業では習わなかった詳しい歴史の流れ、特に美濃部先生の天皇機関説は最初から弾圧されていたのかと思っていたら、一時は多くの人々から支持されていたということが分かり驚きました。時代の流れと共に思想までもが変えられてしまう時代だったのだと思いました。

投稿者:(法学部2年) 

 私も美濃部達吉が打倒天皇を掲げていたわけではないということに驚きました。私が当初考えていたより天皇機関説はずっと奥深いものでした。そしてそれと激しく意見を対立させていた上杉慎吉をはじめとする神権学派ですが、「建国ノ体」を主張することと、他国のことは全く気にせず独自の道を進むこととは話が違うのではないでしょうか。

投稿者:はなわ(法学部2年)     #25 

 天皇機関説事件の発端となる議会での問答――男爵 vs 総理をはじめ大臣――。まさに今この大講義室の300人の前で『歴史が動いた』って感じでした。ただの受験ワードとして高校で習った歴史の一瞬間がこうも深く、しかもあの男爵ったら…しつこい! しかもあのしゃべり方…しからば〜であるのであります…なんて隣の人と興奮しながら聞いていました。ドイツなどに留学して穂積さん側に立った上杉さんと対照的に天皇機関説を唱えた美濃部さん。きっと美濃部さんはヨーロッパの意見を元にしたのでしょうね? いやあ、今日の講義、本当に面白かったです。

投稿者:成 眞海(法学部2年) 

 今回の授業の中での質問が二つあります。一つは、貴族院の議員達が、なぜ蓑田胸喜のような右翼のロビイングに乗ってしまったのかということです。それは単に知性が足りなかっただけなのか、それともほかに自分達の利益になるような事情が存在したのか、そのあたりを知りたいと思います。二点目は、今度は政治家達が、なぜ天皇機関説を正面から認めることが出来なかったのかということです。皇室も認めているのなら、政治家が認めてしまっても問題ないような気がするのですが。

投稿者:げんた(法学部4年) 

 神権学派と立憲学派の論争は、相当激烈なものだったのですね。資料集の「美濃部の対上杉批判」や「上杉の対美濃部反論」に目を通しただけでも、何かとてつもない気迫といいますか、不退転の決意のようなものが肌を刺すように伝わってきます。学説の話は理論の対立として語られるより、人の対立として語られるほうが臨場感があって面白いです。それにしても「美濃部の貴族院における弁明」は力強くて、カッコイイです。これを読むと、日本人は演説が下手というよりも、古典の教養がないという方が本質的な問題なのかもしれない、と思いました。それにしても名文ですね。なぜこれが『声に出して読みたい日本語』に収録されていないのでしょうか。今回の講義は私にとって、ロゴス的というよりむしろパトス的でありました。

投稿者:カフェオレ(法学部2年) 

 今回の講義の内容で、主に神権学派と天皇機関説を唱える者との対立が印象に残った。樋口さんの教科書をもう一度読み直したら、言っている事がよく理解できた。高校の時に培った日本史の知識が更に深まったので良かった。

回の選択に戻る

 

第7回(2004年10月28日・木)

投稿者:M3(法学部2年) 

 今日の講義ではいよいよ日本国憲法制定への過程に入りました。今回の講義内容で特に印象に残ったのは、1945年10月20-22日、朝日新聞に掲載された美濃部達吉の憲法改正不要論でした。明治憲法において天皇機関説を唱えていた美濃部のことだから、憲法改正にも手放しで賛同したのだろうな、と非常に浅はかな考えではありますがそう考えていました。しかし、美濃部は形式的憲法ではなく、種々の法律(=実質的憲法)を改正するだけで事足りるとしています。実質的憲法の改正および治安維持法などに見られる反民主主義的・軍国主義的な悪習、悪法令を正す事で、いわゆる「憲法の民主主義化」は実現しうると。ただ、ここでひとつ疑問が浮かんできました。美濃部はこの憲法改正不要論の中で何度も「この非常事態に改正は必要ない。混乱を招くだけ。」といった内容の事を書いています。つまり、この言葉だけを取って考えれば「事態が落ち着けば憲法改正も是である」という事でしょう。しかし、実質的憲法の改正だけでも「憲法の民主主義化は実現しうる」とも書いています。同文の中で憲法はそう簡単に改正したりする物ではない、ともしている美濃部が、種々の法律を改正するだけで事足りるとしているのにも関わらず、憲法改正を是とする内容の文を書いている。最終的に美濃部は憲法改正についてどういうスタンスを取っていたのでしょう? 実質的憲法の改正だけで「憲法の民主主義化」が成し得るのであれば、社会の状況に関わらず“不磨の大典”を改正する必要など全くもって存在しないと思うのですが…ただ、この疑問もあくまで「この非常事態に改正は必要ない。混乱を招くだけ。」という内容の言葉を「事態が落ち着けば憲法改正も是である」と解釈するが故に生じてくる疑問ですので、この読み解き方に間違いおよび勘違いなどがありましたら、南野先生にはぜひとも痛烈に批判していただきたいと思います。

 以上が講義風景リポートです。余談ですが、今日生協で“司馬さんは‥”の本を見かけたので少しだけ読んでみました。ホントに先生が出てきたんでびっくりしました(笑)。

投稿者:げんた(法学部4年)     #30 

 今日の講義冒頭では、南野先生の教育理念が語られました。「大学の講義とは、学生に疑問を持たせることができれば成功なのです」とのこと。あくまでも産婆役ということでしょうか。はるかギリシャの昔から続く知の伝統は、確かにこの教室につながっているのだ、と感じることができました。できるはずでした。質問に答えられなかったことに対する言い訳っぽくなければ。そして「密教と顕教」のお話に入ったのですが、ここで前回の蓑田胸喜の「蓑」に続き、南野的忘却(?)第二弾。先生、「ツル」は「鶴」です、「観」ではありません。その後は、角松先生の存在が確認され動揺が走った以外は、格調高く講義は進行。そして三度目の漢字忘れ(松本烝治の「烝」)の際には、もはや驚くことはなく、壇上の先生を微笑ましく見守る余裕すらありました。アインシュタインもバス運賃の計算間違ったそうですし。優秀であればあるほど、えてしてそんなものかもしれませんね。南野的授業の味わい方が、徐々にわかってきた今日この頃であります。

投稿者:トモ(法学部2年) 

 毎度楽しく拝聴させていただいてます。前の何回かの講義での抽象的な部分を離れて、今学んでいる憲法成立史はとてもおもしろいです。マッカーサーが示したいくつかの点が実際の日本国憲法の条文や機構にどのように具体的に現れているか、今後の授業が楽しみです。ただ今日の講義の中で天皇機関説と穂積・上杉説が密教と顕教になぞらえられていたのがちょっと唐突だったので、もう少し考えてみたいと思いました。

投稿者:パンチ(法学部4年) 

 今回の授業は3、立憲主義の崩壊から4、日本国憲法成立の途中まででした。特に印象的だったのは岡田内閣の国体明徴声明の部分とマッカーサー草案の部分でした。岡田内閣は天皇機関説論争に巻き込まれたくないので、貴族院議院での菊池議員の質問に対して腰砕けの対応を続けた結果、美濃部の著、三冊は発禁処分となり日本の立憲主義は崩壊していくという内容でしたが、岡田内閣は天皇機関説を守るという事にそれ程の重要性を感じていなかったのではないでしょうか。と言うよりも、天皇機関説のみならず、言論そして学問の自由についての守るべき法益について認識が内閣のみならず、政府全体に欠けていたのでこの結果になったように思います。現在でも発展途上国では国全体の成長の為に言論の自由等が封殺されている所もありますが、それと同じ状況でしょうか。
次にマッカーサー草案の部分で先生は、憲法作成の際に「最初はGHQも日本の自主性に任せようとしたのだが・・」というような内容だったと思いましたが、だとするとアメリカは戦争に勝ち、原爆を落とし、完全制圧して占領政策に入ったのに・・日本の自主性をある程度重視していたという事になります。これは矛盾してはいないでしょうか。喧嘩で言えばボコボコにして相手を全否定しておいて、「おまえもやればできるよ」と声をかける感じでしょうか。と言うかやればできるとアメリカ自身が信じている。
となると繰り返しになりますが、当時のアメリカはファシズムを打ち砕くという思想と同時に、日本には自主憲法を制定できる力があると考えていたという事でしょう。この考えの裏にはドイツとイタリアでそうしたように、ファシズム政権を倒せば圧政から国民を解放でき、後は自主性に任せればよいという解放者としてのアメリカという思想があるように思います。となると結局アメリカの思想は半世紀たっても全く変わってはいないのですね。いい悪いは別として。というわけで今日の授業は私にとってパトス的というよりエロス的でした・・・。間違えました。ロゴス的でした。(げんたさん、ごめんなさい)

投稿者:かどまつ(法学部教員) 

 予想してはいましたが、場違いな聴講者の存在にすぐ気づかれたようでしたね。私だったら仮に塩野先生が教室に座っていても気づかないだろうと思いますが。

 決して授業参観や授業評価の目的で聴講させていただいたわけではありません。来月研究会で「八月革命説」に関連するテーマについて報告するので、法哲学に弱い私としては、勉強させてもらおうと思った次第です。でも、残念ながら、そこまでたどりつきませんでしたね....月曜日にお伺いできるかどうかはわかりませんが、だめだったら個人的にご教示を頂ければと思います。

投稿者:まる(法学部2年) 

 今回の授業では、天皇機関説事件について、そのあらましが取り上げられた後、日本国憲法の成立について、日本政府とGHQの動きを中心に説明がありました。
天皇機関説事件については、丹念に事件のことを取り上げる中で野党が政治利用したことに対する問題意識、また、久野収・鶴見俊輔両先生による「顕教による蜜教の征伐」という観点を強調されたように思いました。
この事件について個人的な意見を述べると、先生が第一部第一章第二節で「法学と価値」についてお話をされた部分を想起したというのが一点です。まさに、この事件に代表される、戦前の様々な問題のある一連の出来事は、「国家の理想の名の下に一部の理想が推し進められた」状態によって生み出されたものであったと思います。普通選挙制度が施行されたとしても、軍に対する文民統制が存在せず、さらに、血盟団事件などの民間のテロ、5・15事件や2・26事件に代表されるような軍の暴走などの暴力におびえ、健全な言論をも封殺される事態がいかに危険な状態であるかを示している格好の例といえます。(その意味において、当時「天皇主権説」が唱えられていたことは、否定しません。)国体明徴声明も、天孫降臨神話を根拠とするなど、その文面はこれが政府からしかも重要文書として出されたことを考えると微苦笑を禁じ得ませんが、当時としては、これが大真面目に取り上げられていたのであることを思えば、時代の雰囲気のもつ恐ろしさを感じます。尾崎行雄の、言論が圧迫された下で作為された輿論民意が永続性を持たないという批判は、的を射たもので、時代を超えて通じるものであると思いますし、また、中島健蔵氏の教学刷新評議会についての記述を見ても、「嘘も百回言えば真実になる」という言葉を思い出させます。
そして、日本国憲法の制定過程についてのお話に移り、最後のほうでは、極東委員会発足の日程を意識した中で急ピッチで占領軍当局内で憲法草案作りが行われたことを急ぎ足で取り上げられました。
印象に残ったのは、「美濃部達吉の憲法改正不用論」でした。当時の人たちは、「国家の独立」ということを大きな価値としてもっていたのではないかということを漠然と考えました。
雑駁とした感想で申し訳ありません。たいへん面白い内容で、興味を持って受講しております。今後の現行憲法の制定過程についての講義を楽しみにしたいと思います。

回の選択に戻る

 

第8回(2004年11月1日・月) 国内出張のため、11月4日(木)は休講です。

投稿者:日本国「拳」法(法学部2年)     #35 

 今日の講義は前回に引き続き、日本国憲法成立過程の続きや、その過程における特に注目すべき三つの点、大日本帝国憲法から現行憲法への移行に伴う「天皇=統治権総覧者→象徴、国民=臣民→主権者」という変化についてのものでした。
特に印象に残ったのは、日本国憲法の内容が権力者にとって望ましくないために、政府が、「押し付けられた」憲法であるというレトリックを用いることで、国民世論に訴えかけるという時代があったことや、憲法改正の限界の有無についての論争(宮沢俊義vs尾高朝雄)の話でした。宮沢俊義の八月革命の論理構築はなるほどと感じましたが、そうかと思えば、尾高朝雄のノモス主権論の論理展開についても納得してしまい、そして現在のところ、この論争、あまり実益がないということにも納得。。。なんか今日は納得の嵐でした。
はっきりと分かったことが一つ。神権学派vs立憲学派、男爵 vs 総理、宮沢俊義 vs 尾高朝雄、どれにしても、やっぱり批判だらけの問答や論争は面白いですね。

投稿者:パンチ(法学部4年) 

 今回の講義は日本国憲法の成立とその法的問題点でした。特に面白いと感じた部分は宮沢俊義の「八月革命説」対、尾高朝雄の「ノモス主権論」がそれぞれ主張され、論争を巻き起こした所でした。憲法改正には主権の所在という変えてはならない限界があり、それを超えた日本国憲法の制定は革命があったと考えるしかない、という宮沢と、そうではなく主権が誰にあるかはさほど関係がないとする尾高。多少強引にも感じましたが非常に面白い反論だと思います。相手の説を崩す為にその前提を覆す事は議論において有効ですが、まさにそれのようですね。通常の授業ではここまでの内容で終わりでしょうが、そこはさすが南野先生!世界的に見れば無限界説が通説であると指摘するあたりは「世界の憲法まで視野に入れてるんだよ私は・・」という視野の広さがヒシヒシと伝わってきました。さすがです。少しだけ言及するあたりがなおいいですね。

投稿者:ズレータ(法学部2年) 

 教科書を買ってからというもの、見たり聴いたり書いたりと、てんやわんやです。
以前は、ひたすら板書してれば良かったので、ある意味楽でしたけれど。でも、みんなが頑張ってる姿を見るとやる気がわきます。
明日はIQテストがあるので、きばってやろうと思います。

投稿者:はった(法学部教員) 

 予想してはいましたが、シビリアンで当てられるとは思いませんでした。

 決して授業評価の目的で聴講させていただいたわけではありませんが、授業参観の目的はありました。自分(民訴)の講義では、レジュメ・板書を用いているので、自省のために、それを用いない授業を、聴講したかった、というわけです。

 聴講していて、これはレジュメ・板書がなくとも、理解しやすく、ノートの取りやすい授業だな、と思いました(話す内容を、相当に吟味されているのだと、感じました)。民訴で自分が真似できる自信は、出ませんでしたが。。。

 敢えてケチをつけさせていただく暴挙にでるならば、全体的に理解しやすい分、全体的に淡々とすすまれ、平坦な印象を少しうけました。なんというか、『おお。ここが「山場」なんやな!』というのが、読み取りにくいというか(あ。自分のことは棚に上げてます。もちろん)。

 内容について、日本国「拳」法さん、パンチさん、と納得納得といった感じのレポートが続いたので、すみません。それにちょっと異を唱えさせてください。なんというか、納得納得で終わらせないで、もっと疑問をいろいろ持ってもいいんじゃないかな、と。
例えば、「押し付け」改正論は、政府のレトリックだという話。政府がレトリックとして用いたとしても、「押し付け」改正論自体がそれによりただちに不当になるわけではないように思います。「誰が」押し付けられたといえるのか、というのを、授業の受け手としては、この文脈では、もうすこし考えてみてもいいんじゃないでしょうか。
それから8月革命説についても、なぜ、宮沢は断絶を強調しつつも「改正である」ということにこだわったのか、とか、宮沢はポツダム宣言の受諾を物権的効力を持つように捉えているが、約束という債権的効力しか持たないという理解は成り立たないのか、とか、なんで憲法改正で主権主体は変えられないんだろう?とか、反対説の尾高については、どうして「ノモス」をもちだしたんだろう、とか、主権主体としての「ノモス」と「天皇」/「国民」の位置関係はどうなるんだろう?、とか。
いろいろ疑問のきっかけはあるんじゃないか(上記はすべて的外れかもしれませんが、それは敢えて恐れません)、、、とちょっと思った次第です。

 乱文、すみません。とにかく憲法がいかに自分の頭から抜け落ちているか、自身を恥じ入りながらも、それが自分にとって、非常に新鮮な驚きでした。

投稿者:まる(法学部2年) 

  「統治機構論」の授業も歴史の部分が終わり、次回から憲法の具体的な規定に入るところまで進んだ第8回の授業でしたが、内容としては、現行憲法の制定過程の続きと、それに関する論議(押し付け憲法論、八月革命説)が中心的な内容でした。
制定過程の説明の続きでは、第九十回帝国議会における帝国憲法改正案の審議を中心に説明がなされました。衆議院の委員会では、第9条に「芦田修正」がなされ、貴族院の安倍委員会(また、橋本小委員会)では、GHQの「示唆」により、文民条項が挿入されたことの説明がされ、衆議院の採決においては日本共産党が反対票を投じたことなどについて触れられました。
男女普通選挙によって選ばれた議員によって構成された衆議院をもつ帝国議会での審議と、国民の圧倒的な支持(当時の世論調査による)によってこの憲法改正が民主的正統性をもっているという説明がなされたと思います。
そして、この制定過程について政治的にどのように考えるのかということと、法的にどのように考えるのかということでお話を進められました。
「政治的」の部分については、1950年代に自民党を中心に唱えられた「押し付け憲法論」は、現行憲法の内容が気に入らない人たちによってなされた議論であり、天皇元首化、再軍備、家制度など「先祖帰り」を隠蔽するためになされたものであるという説明であったように思います。そして、現在においては、この説は、憲法施行以来60年近く、独立以来50年以上が経ち、もはや議論の意味を失っているという説明でした。この部分については、言葉を選んで慎重に説明をされていたように思いました。
「法的」の部分については、八月革命説について、憲法改正限界説が前提となっていること、ポツダム宣言受諾が「法的意味における革命」であったことなどについて説明がされました。個人的に疑問に思ったのは、明治憲法においては、天皇主権が前提とされていることが一点目です。つまり、戦前の通説であった天皇機関説によれば、法人たる国家が主権者であるとされているのに、この説では、天皇が主権者とされているということです。二点目は、天皇が存置され、政府や統治機構も変更されない中で改正がなされ、憲法制定も旧憲法の規定にのっとる「改正」である、などのことがあるのに、戦前と戦後の国家にそんなに大きな「断絶」があるといってよいのか(「法的意味における革命」の議論であるのだから関係ないのでしょうが)といったことを考えました。(あくまでもその場で直感的にそう思っただけです。)最後に、「延長」してノモス主権論について説明されました。
引き続き、「天皇」や「戦争の放棄」など議論が多い部分に入りますが、今後とも、ついてゆけるよう努力したいと思います。

回の選択に戻る

 

第9回(2004年11月8日・月)

投稿者:げんた(法学部4年)     #40 

 今回の講義は、象徴天皇制の総論部分が中心でした。その中で、天皇が日本の象徴であることの意味に関する部分が、特に面白く感じました。樋口先生の教科書によると、「象徴とは、抽象的で無形ないし無定形な何ものかに対応しそれをあらわす具体的で有形なもの」とあります。「日本」という概念を、天皇という生身の人間であらわす、ということでしたが、「主権者たる国民がそう思っている限りにおいてそうである」という事実の言明に過ぎないから、そうでなくなったらそうでなくなる、ともおっしゃっていたと思います、確か。このことに関して、他の国は象徴を形式的な憲法において定めているのか、あるいは、事実上そうであるからそう扱っているだけで別に明文で規定していないのだろうか、ということが気になりました。また、その象徴をその国の象徴であると憲法典によって明記することが、ある特定の人々若しくは国民全体に対する人権侵害を誘発するような機能を事実上してしまっている場合、それは憲法による人権侵害にはならないのか、という疑問も持ちました。

 余談ですが、今日の南野先生は時々口調が崩れておられました。出張でお疲れなのでしょうか。慌てて修正しておられましたが、そのお姿はほんのりとキュートな魅力を感じさせるものでした。眼福、眼福

投稿者:渋井丸(法学部2年) 

 今日からいよいよ憲法の具体的内容に入っていったわけで、以前より実感が湧きやすく、割とすんなり飲み込むことが出来ました。今日は天皇の位置付けについての帝国憲法と現憲法の比較が主な内容だったのですが、私は特に「国民の総意」という現憲法の規定に疑問を持ちました。なぜなら実際に天皇を日本の象徴と思っている人は昭和期より少ないと思うし、これから更に少なくなることもあると思うからです。そうした時にこの規定をそのまま採用すると、天皇って一体…ということになってしまうからです。

投稿者:スノーウィ(法学部2年) 

 今日久しぶりに南野先生のサイトを見ましたが、皆さんかなり熱心に論じておられて、とても感心しました。  
さて、今回の講義から天皇制が扱われたわけですが、なんとも微妙な問題でした。私は天皇制に賛成だとか、反対だとかいった思い入れは特にないので、ただ授業を聴いて天皇制に関して思ったことを少々書こうかと思います。  
ちょっと気になったのは、国民の天皇に対する意識が変化しているかという議論です。実際、先生も授業中に言われましたが、地震の被災者を慰めに天皇陛下が新潟へ訪問した時の人々の対応や、もっと政治的に思えるものとして、教育委員長(でしたっけ?)が、国旗掲揚・国歌斉唱を推進しているというようなことを言ったことを考えると、日本国民にとって天皇は依然として何か「人」以上のものを感じさせるのだろうかという気がします。しかし、これはそもそも国民が「天皇=日本」という意識を持っていることが一因として挙げられるでしょう。そしてこの意識の背後には日本国憲法があるのではないかと思います。
旧憲法下の日本は太平洋戦争において、天皇にあらゆる権限を持たせ「暴走」してしまったゆえに、GHQは新憲法の制定にあたり、まず国民主権を確立しようと、その旨を表記させただけではなく、当時国民が絶対視していたであろう天皇の権限を制限する規定を盛り込んで、国民主権を強調(…というより天皇に対する意識の改革を)したかったところがあるのではないでしょうか。当時の国民の意識を考慮すれば、憲法第一条を制定したことは当然のことだと言えます。
しかし、戦後半世紀以上を経た今日では、この第一条はいわゆる「消極的な意味」を国民に思い起こさせるものではなく、逆に「天皇=日本の象徴」という意識をわざわざ国民に植え付ける原因となっているように思えます。同時に、国家を一個人に象徴させる場合、どうしても国民はその人物に、国家の持つ力を重ね合わせてしまう面があるので、天皇制を維持していく以上、天皇に権限のないことを憲法で規定するのは不可欠なことなのだろうとも思います。そうやって考えていくと、だいたいどうして日本という国を象徴する人間が必要なのか、また民主主義国家において、大臣責任制にしてまで世襲制の王族を維持し、時に政治的な権限を与えるのはなぜなのか、つまり、単に政治を行っていく上ではそう必要でない王族・皇族が存在し続けている理由は一体何なのか、と疑問が続々と出てくるのですが、まだもう少し天皇制の講義は続くでしょうから、興味深く聴講させてもらおうと思います。

回の選択に戻る

 

第10回(2004年11月11日・木)

投稿者:はなわ(法学部2年) 

 今日は天皇の国事行為の「認証」の分類からでしたね。全権委任状の書式について言及がありましたが、たしかにその出だしが「日本国天皇は・・・」から始まり、委任する(内閣に権限§73、二ですかね)旨の内容の表示と認証する(天皇の国事行為§7、五)旨の表示が同時にあれば、他国から天皇が委任権(←こんな言葉があるのかは分かりませんが)を持っているように見えますので、率直に驚きました。今日の講義でもおっしゃられていた通り、ほとんどの天皇の国事行為の効力は形式的なものであって、実際には仮に天皇が認証したくないと思っていても、「No」とは言えないとのことでしたが、それではなぜ、そのような国事行為をする必要があるのかが疑問に思います。また、友だちと話していたのですが、天皇が例えば政治的な発言(例えばイラク戦争の是非など)を、個人的に話された場合、どこまでがプライベートな領域でどこからは公的な領域と判断するのかなと思いました。天皇も人間であるため絶えず、私たちと同じように、思ったことも話されるでしょうから、記者会見の場面ではないときに、ご友人に話された場合で、それが公になった場合などは公私の境界でグレイゾーンなのでしょうか?
それにしても、大昔からの歴史を持つ天皇という世界でも独自の存在が日本にあり、それを考えられることは有意義なことだと思います。全く関係ありませんが、飲み過ぎには注意してください。

投稿者:松田(法学部2年) 

 「今日は少し早く終わらせてもらいます」・・・これまで遅刻なし早退なしを貫いてこられた南野先生からは想像できないセリフが発せられたその時、それまで天皇の国事行為と私的行為以外の行為が認められるのかという問題に関して、「儀式を行ふこと」(7条10号)についての宮沢説は文理上無理があるだろうと思っていた自分はもうそこにはいませんでした。ただただ早く終われる喜びで、その後の先生の講義中、僕は時計とにらめっこ、終には先生の姿が僕の尊敬する政治学の教授にダブってくる始末。でも反省はしません、だってこれが健全な学生だと思うから。そう思いませんか?南(藪)野先生。(追伸、飲みすぎには注意してくださいね。そんなに頑張らなくていいですよ!)

回の選択に戻る

 

第11回(2004年11月15日・月) 九大祭のため、11月18日(木)と22日(月)は休講です。

投稿者:A型以外(法学府修士1年)     #45 

 毎回、嫌がらせのように出席しておりますが(実は一回休んでしまって残念です)、お元気のようでなによりです。私が先生の講義に出るのを、先生はあまり歓迎してくださらないので、阪本先生の講義にもでております。
そのほか学部生用の講義にいくつか出させてもらっていますが、先生方の人柄が講義に表れていて興味深いです。
今日の講義では皇位継承の順序を説明されましたが、常陸宮まで皇位が回ってくるのは常陸宮が百何歳か何かで、昭和天皇の弟が百三十歳か何かのときと説明されましたが・・・、もしかしたら、百何歳まで計算されたのは、A型の方の緻密なジョークだったのでしょうか?
確か常陸宮には子孫はいないので、もし、今のままで女帝にならなければ昭和天皇の兄弟皇族に皇位が行くということになるのでしょうか。
天皇家のことで長くなってしまいましたが、もうひとつ、天皇の兄と言うのは、‘側室’がお産みになった男子を想定しているのかなと思ました(これでいいでしょうか)。
それから、前に少し触れられた尊属殺人についても(先生の講義についてではなく)疑問を持っているのですが、次回、だれからもリポートが来なくて先生が寂しいときにでもお送りしますので読んでください。
また近々、修士論文の構想案でアドバイスを受けにお伺いしたいと思っております。よろしくお願いいたします。
では、お風邪などお召しになりませぬように。

投稿者:げんた(法学部4年) 

  今回の講義は、日の丸・君が代→君主・元首と天皇→天皇と民事・刑事裁判権→皇位継承と女帝→衆議院の解散という流れだったわけですが、タイムリーな話題があったこともあって、個人的には日の丸・君が代に関する話が興味深かったです。「爆弾発言」について、直接国政に関わるものではないが、なんらかの政治的なインプリケーションを含んでしまうのでまずい、ということでした。確かに、仮に逆の内容の発言、「ぜひ全国の学校で国旗を掲げさせ、君が代を斉唱させてください」と述べられた場合を考えてみると、問題が浮き彫りになりますね。実際の発言内容は政府見解に沿っているということでしたので、その点「今の天皇は頭がいい」とおっしゃっておられましたが。
天皇制に関する講義に入ってからというもの、感情的になりやすい微妙な問題が取り上げられていますが、そういった問題に関してさえ冷静に考えるための道筋はちゃんと存在するのだ、と示していただけることで、未来に対する希望を感じることができます。オーソドックスな講義の力を、より一層これからも示していただけるものと期待します。

 〜リポート・終〜

 (南野より:げんたさんの「リポート」は以上で終わりですが、その後に書かれていた「個人的な感想」も面白かったので、あわせて掲載させていただきます。げんたさん、お許しを。「人格を疑われ」る心配はないと思いますので・・・

 樋口先生の教科書は記述が重厚で、復習が追いつかずなかなかリポートが書けませんでしたが、それではいつまでたっても書けないので、とりあえず見切り発車で書きました。実は以前、長谷部先生の『憲法と平和を問いなおす』を立ち読みしたのですが、偶然めくったページ(70頁)に、かなりの毒を含んだ痛烈な記述がありました。「シンボルに感動するのは訓練された犬と同じだ」というくだりです。その表現があまりに自分のツボにはまったので購入いたしました。以来その部分だけを何度も読み返しています。南野先生の発言から時折感じられる毒と性質が似ている気がします。その起源は長谷部先生でしょうか。この辺のこともリポートに書こうかと考えましたが、「訓練された犬という表現に感動した」、などと書くと人格を疑われそうなので、穏当な記述にとどめました。その分面白みに欠けてしまいました。毒を人に受け入れられる形で発信するのも一つの技術ですね。いつかはそういったスキルを身に付けたいと思います。

 〜個人的な感想・終〜

投稿者:デルタブルース(法学部3年) 

 三年生なので、二回目の統治機構論を受けている者です。二回目ということは去年は…? 落としたわけではなく放棄したんです! あくまで放棄です(前期の南野先生の部分はちゃんと出たんですがね・・・笑)・・・まぁそういうことです。それで、 今回の講義で僕が面白みを感じたのは次の2点ですね。まず69条の衆議院解散についての論点のことです。三年にして恥ずかしながら、69条が『衆議院が解散されない限り』と受け身の文体で書かれてたことに初めて気がつきました! 内閣が衆議院を解散させるのだという今までの常識を覆された気になりました。んじゃ誰が…? ここらへんが次回のポイントになってくるんだと思いますが、とにかく今まで常識的に認識していたことがひっくりかえされたカンジがしてとても面白かったですね〜。高校までそんな風に習った記憶ないな〜。寝てただけかも(笑)
そんでもって、2点目が日の丸・君が代についての米長発言についての話です。米長サンってかなり面白い人らしくて、あの発言もギリギリのラインで面白みを追求したもので、天皇の返答も多分米長サンの思惑通りだったと僕は思っていて、なんだかとても高度な知的ゲームみたいな発言だなぁ、そんな米長サンっておもろいなぁと自分の中で解釈してました。先生の解釈とは多分違うと思うし、別にそれは問題じゃないと思うんですけど、先生の受けとめ方がすごく憲法というものにレスペクトを持ったものだと感じたんですよね。それが憲法学者なんだなぁ〜と変に納得したんですよね。
そこらへんの僕ら(僕だけかな)との違いが面白く感じたのでした。とまぁ今回はこんなところです。

投稿者:黒豆ココア(法学部2年) 

 今回の講義で特に印象に残った点は2つあります。第一に、日の丸・君が代問題に関連して先生が述べられていた、都立高校の国旗掲揚・国歌斉唱の問題です。2003年度卒業式及び2004年度入学式において、都職員を派遣し国旗掲揚・国歌斉唱の実施率を調べたところ、98年に7.2%だったのが03年に100%になったのは極めて異常だと思います。国に対する愛着というものは、外側からの強制ではなく、長年その土地に住み続けることで時熟していくものではないのでしょうか。また、これらを行わなかった学校職員を処罰することは、憲法に明記されてある思想・信条の自由にあからさまに反するではないかと思います。次に、元首と天皇の話なのですが、さきほど自民党の新憲法草案大綱の素案が提示されましたが、そこでは象徴天皇が「元首」として位置付けられています。確か先生は、元首は対外的に国家を代表する機関であり、天皇は元首なのかという議論は意味のない議論だと仰っていましたが、その点今回の自民党新憲法草案大綱の素案についてどうお考えになっているのでしょうか。

投稿者:まる(法学部2年) 

 今回の授業では、「象徴天皇制にまつわる様々な問題」のうち「日の丸・君が代」問題や皇位継承と女帝問題など巷間話題になっている問題、そして、君主・元首の定義や衆議院の解散に関して憲法7条と69条の問題などと、法律的な問題についてと幅広い問題が取り上げられました。
まず、「日の丸・君が代」に関しては、TBSの田畑光永氏の問題やこのたびの園遊会においての天皇陛下の御発言を取り上げ、その強制性に関して、また、併せて天皇の政治的発言のもつ問題性を強調していらっしゃいました。
田畑氏になされたような言論封殺行為は論外であると思います。そのような形で国旗や国歌について考えなければならないのは不幸であると思います。
天皇の政治的発言については、授業ではその政治利用が危険なものであるという観点から批判がなされていました。この観点は、戦前からも言われており、護憲運動のときの尾崎行雄の「弾丸演説」などは挙げるまでもないかもしれませんし、幣原喜重郎が浜口雄幸の首相代理をしていた時にロンドン軍縮条約について、それが天皇の裁可を受けていることを理由に批判を封じるような答弁をしたことが大問題となったことなど、枚挙に暇がないといってよいと思います。(なお、その当時は、天皇に責任を及ぼさないことによって「天皇を守る」という観点からこのような政治利用を不適切と見ていたという点で現在と違いがあることに留意しておかなければならないと思います。また、このようなことがまともに取り上げられたのは、恐らく、政党内閣期を中心とした一時期に限られたことではないかと思います。)現在においても、法的には国政に関する権能を有しないとされていますが、事実上の政治的な影響力はないとは言えず、また、天皇や皇族の行動や発言に対して反論しづらい雰囲気がある以上、その政治利用が起こり、その結果としての理不尽な言論弾圧が引き起こされないとは言えず、皇室関係者の発言には、慎重さが当然求められているといえると思います。(蛇足ですが、「保守派の頭目」たるべき皇室がかなりリベラルな考えを持っているようであるというのは、興味深いことであると思いました。)
そして、元号・国旗・国歌については、戦前からいずれも変わっていないことを取り上げ、戦前からの連続性を前面に打ち出そうとしていることを批判されていたようでした。特に、国旗の変更に関して、ドイツ・イタリアとわが国が比較されていましたが、ドイツはナチ党の党旗を元に戻しただけのことですし、イタリアは、サヴォイア王家が廃されたことによりその紋章が除かれただけのことで、この点に関しては、結果だけを比べれば確かにそうですが、比較の仕方について考えました。(もちろん、そのような当時の敗戦国同士の比較自体、特に憲法の変更であるとか、民主的な制度の取り入れなどについての比較、は大事なことと思います。)
次の、君主・元首の定義問題では、いずれも議論の意味を持たないというお話で、いかに天皇の政治利用を防ぐかが問題であるということでした。
続いて、天皇と裁判権の問題では、刑事裁判権と民事裁判権に分けて説明がありました。刑事については、皇室典範の摂政の不訴追に関する規定が、また、民事については、「象徴であることにかんがみ」民事裁判権が及ばないとした平成元年の最高裁判決が取り上げられました。なぜ、そもそも天皇が不訴追であるのかについてが疑問として残りました。(「法を作る主体=君主」よって「君主無答責」という考え方が不文法で引き継がれているのでしょうか?)
そして、皇位継承順位と「女帝問題」については、系図などを用いつつ詳しく説明がありました。「皇兄」が何であるのかという問題は、恐らく、皇室典範3条によって継承の順序を変えられてしまった結果、皇位の継承で弟に先を越された人を差すのではないのかと思いました。(なお、天皇又は皇族の非嫡出子は、典範6条により皇族とはなりませんので、同2条の「皇位は‥皇族に伝える。」との規定により現行法上は皇位継承の対象とはならないと思います。)
また、「女帝問題」については、過去の例もあるし、輿論も賛成のようだからその流れだろうというお話でした。留意しておいてよいのかなと思うことは、過去の女帝は全て、男親は天皇又は皇族であった(つまり、その女帝は男系の女子であった)ということだと思います。つまり、敬宮殿下が皇位を継ぐのは前例があることですが、同殿下が皇族以外の者と子を儲け、その子が即位することは、男系でない者が即位するという意味では前例のない事態ということになるということです。
男系の男子のみに皇位継承を認めた皇室典範の規定は、憲法14条違反だとする説については、そもそも、天皇・皇族の存在自体が憲法の「飛び地」であり、人権規定は直接、当然にはそこに及ばないという説が通説だという説明でした。
最後に、衆議院の解散に関する憲法7条と69条の問題について説明がありました。個人的には、7条解散の結果、憲法の文面を見れば「国権の最高機関」を内閣「ごとき」がいとも簡単に解散できていいのか、という意見もあるのではないかと思いました。(もちろん、「国民の信を問う」といった機能がありますので現行制度が悪いとは思いません。)
今回もまとまりのない文章で恐縮です。皇室に関する問題については、複雑で、法学だけでなく、政治学、社会学や人類学、歴史学など幅広い観点から考えることが必要だと思います。今後、さらに議論があり、複雑な問題に入りますが、引き続き努力したいと思います。

投稿者:福助(法学部2年)     #50 

 今回の講義で一番関心をひかれたのは、「日の丸・君が代」問題です。どの県だったか、「国旗及び国歌に関する法律」制定後ここ数年で学校現場での国家斉唱率が7%から100%近くにまでなった、ということでした。一応政府は「強制ではない」と主張してはいるそうですが、やはりこの増加の仕方は不安を感じさせるものです。特に、戦後日本人がファシズムから民主主義へ、短期間のうちに(善かれ悪しかれ)考え方をがらりと変え得たことを合わせて考慮すると、長年支持されていた考え方が、簡単に崩れてしまうこともあるのではないかと少し危機感を覚えました。よく指摘されることですが、やはり上からの意識改革のもろさ、また市民の思想一般に対するこだわりの薄さが現れている気がしないでもありません。また、こうした極端な国家主義的な動きが、教育現場でなされたことも、無視できない点だと思います。最近のこうした教育に関する一連の流れについて、「愛国心」の意味と教育方法を少し取り違えているのではないか、またたとえ「愛国心」を育てるためだとはいえ、あまりに表面的な教育方針ではないか、と疑問に感じています。  

 少し短いですが、今回は「日の丸・君が代」問題について意見を書かせてもらいました。

投稿者:成 眞海(法学部2年)     

 天皇が私的パーティーである園遊会の席上で、国旗・国歌について「強制でないことが望ましい」と発言したことが憲法学的に問題があるという説明がありましたが、私的発言であるならば、発言した天皇に問題があるというよりも、その私的な発言で大騒ぎをしてしまう国民の方に問題があるんじゃないでしょうか? グレーゾーンにおいて天皇の影響力が利用されてしまう原因もそこにあると思います。

回の選択に戻る

 

第12回(2004年11月25日・木)

投稿者:A型以外(法学府修士1年)     

 今日の講義は、はじめて・・・、じゃなくone of the most でおもしろかったです。

 敗戦国であるドイツやイタリアには、なぜ日本と同じ戦争放棄条項がないのか疑問に思っていました。(その他のinteresting なところは割愛)

 ちなみに、中講義室はチャイムが鳴らない(聞こえない)ようです。勇気ある一学生のおかげで、大好きな阪本教授のゼミに遅刻しなくてすみました。

 P.S 困ったときの「長谷部説」、それでもだめなら、おもいきって (傍点付き)「阪本説」に行く、というところが気に入りました。

投稿者:松田(法学部2年)     

 遅刻、早退なしの南野先生すごく立派だと思います。でも、終了時刻を忘れてまで熱く講義をするなんて・・・・・。僕が受けている次の講義の教授はきっちり早く終わってくださるのに・・・・・・・。

回の選択に戻る

 

第13回(2004年11月29日・月)

投稿者:松田(法学部2年)     

 今日は、9条に対する政府見解の変遷、様々な判例の対応と、先生が予告されていたとおり教科書的な内容の講義で、南野色(南野先生の講義の特色、あくまで講義です!)があまり出せていなかったような気がします。そのせいかこの講義で初めて居眠りをしてしまいました。僕が眠くならないようにがんばってください!(責任転換かな?)

投稿者:成 眞海(法学部2年)     #55 

 9条の解釈に関し、学説は全面放棄説、全面不保持説で一致しているということですが、その学説が果たして今の日本の現状において説得力を持つのかということについて疑問が残ります。自衛隊のPKO活動にしても過半数の国民が賛成しているわけで、そのような状況で自衛隊憲法違反を言っても意味がないのではないでしょうか。加えて、以前憲法押しつけ説に対する反論として、当時の国民の多くが憲法を受け入れたことをあげましたが、だとすればなおさら、現在の国民が自衛隊の存在を受け入れている以上、自衛隊を憲法違反とすることには無理があるのではないでしょうか。

回の選択に戻る

 

第14回(2004年12月2日・木)

投稿者:HOCKT(法学部2年)      

 本日の授業は南野先生の、特に最近の日本の右傾化についての意見を知ることができ、大変興味深いものでした。最近の有事法制などの、特に自民党が主張する矛盾点なども鋭く指摘され、改めて南野先生のすごさを実感させられました。さらに、現在の日本のアメリカ追従外交の要因の一つに、外務省のエリート教育がかかわっているなど、なぜ日本政府がアメリカにそこまで追従するのかということが少しわかった気がします。
しかし、現実問題として九条と自衛隊をどうするのか、つまりここまで肥大化した自衛隊という組織を、極端に言えば解体することが難しいことを考えると、前回の講義レポートにもあったように、改めて現実の政治と憲法理論とのギャップを考えずにはいられないと思います。日本も違憲を判断する裁判所を別に作ることが必要なのかもしれません。
ここからは私的な質問なのですが、仮に裁判所で自衛隊が違憲であるとの判断が出た場合に、実際に自衛隊を解体することが難しい現実がある中で、やはり解体ということになるのでしょうか。よろしくお願いします。

投稿者:成 眞海(法学部2年)      

 今日の授業で「いっそのこと自衛隊を認めて、その上で自衛隊をコントロールするほうがいいのではないか?」という見方に対し、内閣法制局の解釈は非常に緻密であり、政府は今まで蓄積されたその解釈によって自己拘束されていること、9条が存在するからこそ、海外における武力行使が禁じられていたり、非核三原則、武器輸出三原則が存在することをあげて反論していました。
しかし、その主張に対しても疑問があります。確かに、内閣法制局の解釈は緻密で、よくできているのだろうと思います。しかし、その解釈も小泉という一人のバカ(彼の知的レベルはそれこそライオン程度ではないかと思いますが)によってその説明に苦慮しなければならなくなってしまいました。海外における武力行使もいつ起こってもおかしくはない状況であるし、武器輸出三原則も崩壊しかかり、極東条項も事実上死文化されかねない勢いです。このような現状に対し、自衛隊を違憲とする学説は端的に無力ではないかと思うわけです。
「国民にすべてを任せるのは危ない」という意見には同意します。しかし、それと今現在実際に生じている問題に無力であってよいのかとはまったく別の問題であるはずです。
また、「普通の国」論に対しては、アメリカに追従することが普通の国なのかということでした。これはそのとおりだと思いますが、小沢氏が言う「普通の国」と自民党が言う「普通の国」は別のものだと思います。ずるずる解釈を変えてアメリカに追従する現状を脱し、自主外交をするという意味での「普通の国」論に対してはどのように考えるのでしょうか。自主外交のためには憲法改正が必要と考えることもできると思います。政府がこれまでの憲法解釈に拘束される以上、今回のイラク攻撃のようなことがまた起これば、またアメリカに協力せざるを得ないからです。その意味で政府の憲法解釈は自主外交の足かせとなりえます。
憲法9条は、それ自体が正しいとか絶対の真理といった性質のものではないはずです。今日「国益」という言葉が出てきましたが、憲法もまた国益を考慮に入れて考えるべきではないでしょうか。
憲法問題とは憲法だけを考えればいいというわけではなくて、そのときの政治状況や国際関係を総合的に見て考えなければならないのではないかということです。そうしないと九大生に政治を任せるのはあほな国民に政治を任せるのと同じくらい危ないと思いますね。

投稿者:AL(法学部2年)      

 今回の講義で議題になった自衛隊ですが、先生の話の中で疑問に思った点があります。それは自衛隊の海外派遣なんですが、憲法解釈でいくと、自衛隊は自国防衛のみに使われるはずなんですが、自国防衛に必要な最低限度のはずなのに他国に派遣出来るのはおかしいのではないでしょうか? もし最低限度の武力しかもたないならば派遣したらその間は自国防衛ができないことになりますよね? そうでないなら必要以上の武力ということになり憲法違反だと思います。だから憲法改正(改悪?)しようとしてるのでしょうが。

南野的独り言・特別編(2004.12.7.記)

 角松助教授より特別寄稿がありましたので、以下に掲載させていただきます。これまでも重要な質問等が寄せられているのに、なかなか応答できなくて申し訳なく思っていました。角松先生、ご厚意に心より御礼申し上げます。

*****投稿者:かどまつ(法学部教員)

 HOCKTさんの感想の

ここからは私的な質問なのですが、仮に裁判所で自衛隊が違憲であるとの判断が出た場合に、実際に自衛隊を解体することが難しい現実がある中で、やはり解体ということになるのでしょうか。よろしくお願いします。

 という部分、興味深いですね。当日の授業には出席しておりませんが、考えたことを書かせてもらえればと思います。間違っていたら、ご指摘よろしくお願いします>南野先生

仮に裁判所で自衛隊が違憲であるとの判断が出た場合に

 まず前提として、最高裁の確定判決で違憲判断が下されたという前提で、また言うまでもありませんが、これまでの9条に関する最高裁の態度を一切無視して、あくまで形式論理の問題として考えます。
結論的には、「最高裁の違憲判決は、即時全面解体を義務づけるものではなく、立法府の責務として、自衛隊法を改正し、自衛隊を合憲状態にまで持っていかねばならない」ということではないでしょうか。
ここで問題になるのは、(1)違憲判決の効力論と(2)当該違憲判決の理由付けではないかと思います。
(1)ある法律を最高裁判所が憲法違反とした場合、通説は、「当該判決の効力はその事件限りで(その当事者にのみ)及ぶ(個別的効力説)」という考え方をとっているとされます。それを前提にすれば、最高裁の違憲判決の直接の効果は、具体的な訴訟事件において原告等が求めていることが実現するだけで、自衛隊法=違憲というのはその「理由」に過ぎません。具体的に言えば、「保安林解除が取り消され、指定が元に戻る」(長沼ナイキ)「通信線等を切っても無罪になる」(恵庭--全く異なる理由付けで、現実の判決もそうなったわけですが)「基地用地として売った土地を取り戻せる」(百里)ということが実現し、このうち、長沼と百里では、特定の基地の利用は停止しなければならないでしょうが、自衛隊全体を即時解体しなければならないことにはならないでしょう。「理由」としての違憲判断を尊重するのは、あくまで立法者の責務ということになるのではないかと思います。
(2)また、当該違憲判決が、「最小限度の自衛力保持は認められるが、現実の自衛隊はその規模をはるかにこえる」という理由なのか、「そもそも最小限度の自衛力保持も認められない」という理由なのかで、異なってくるでしょう。後者であっても、警察や海上保安庁レベルの国家の「暴力装置」は認めざるをえないでしょうから、現行自衛隊法を廃止し、段階的にそのレベルに持っていくことが、最高裁判決を尊重すべき立法者の責務として政治的に要求されるということではないかと思います。
「だから安心して違憲判決を出していいんだよ」(^^)というのがこの文の本旨であるわけですが、昨今の社会情勢ではおよそそんな議論が受け入れられなさそうなところが、化石のような政治思想の持ち主である私には非常に寂しいところです。

回の選択に戻る

 

第15回(2004年12月6日・月)

投稿者:稲井(法学部2年)      

 今回の授業での代表概念については、八田先生が投げたというだけあって私には到底理解の及ぶものではなかった。しかし、興味深かったのはナシオン・プープル主権という二つの主権原理と、宮沢の言葉による誤解、即ち「代表は法的代表ではなく政治的代表である」という今も続く間違いについてだった。
ナシオン主権原理下では主権は抽象的集合体としての国民に帰属し、それ自体は意思主体となれない。よって代表は法定代理の関係に近く、宮沢はこれを「法的意味の代表ではない」と言ったということであった。そして、任意代理ではない以上議員は選挙権者に拘束されないことをもって純粋代表制と呼ぶ。あるテキストでは「政治的代表(純粋代表)」という記述があり、通説化した誤解の一端を垣間見た。
最後に、私は、代表との関係で国民が意思主体となりえないならば、「意思主体でない者によって選ばれた代表」が、はたして信任された「代表」と言えるのか、という問題があるのではないかという疑問を抱いた。単純な私の勘違いかもしれないので、お酒の席でこのことについて絡むのはやめようと思う。

投稿者:7!!(法学部2年)     #60      

 憲法41条後段で、国会が「唯一の立法機関」であるとは、「実質的意味の立法がすべて、?国会中心立法の原則と、?国会単独立法の原則によって議決すること」ということであるとのことでした。その内、国会単独立法?の原則については、憲95条の特別法のほか、(A)憲法改正(96条)と、(B)条約の締結(73条3号)が例外であると「一般に考えられている」というのが南野先生の説明でした。
翻って、長谷部恭男『憲法(第3版)』(新世社、2004)では、「〔上記AおよびBは、〕通常は、この原則〔国会単独立法原則〕に対する例外とは考えられていない」(329頁)とあります。で、一体どちらが通説なんでしょう? もとより通説・有力説・多数説の峻別がそれほど本質的な問題とはならないでしょうし、その区別は困難でしょうが、あるいはここ数年でがらりと学説変動があったんでしょうか。素朴な疑問です。
続いて、「上記AおよびBは例外には当たらない」というのが南野的見解でした。これらが「立法」と呼べるのか、というのがその根拠であったと思います。素直に考えて、確かにその通りだと私も思いますが、またまた前掲書同頁では「国会単独立法の原則が実質的意味の立法一般にかかわるものであるとすれば、これら〔A、B〕も、同原則に対する例外と考えるべきであろう」との見解があります。
それで、両説の優劣の判断はともかくとして、以上2説のどちらを採るかによって、何か具体的な問題が起こる可能性(危険性?)があるのでしょうか。私にはちょっと思いつかないが、ひょっとしたらあるのかも。あるいは、単なる個人の思想上の問題なのでしょうか。前掲書の英文タイトルは「CONSTITUTIONAL LAW」とある。憲法は、普通Constitutionであって(この本の中にも憲法=constitutionとある―3頁)どうやらこの辺りにも何らかの意図があるのかもと思う次第です。
追記:「代表」概念(43条1項)はなんだかよく分かりませんでした。もう少し自分で考えてみたいと思います。ま、酒に酔ってからんだりはしませんけどね(:-P
今日(7日)の福岡は曇りです。防衛庁長官が、サマワに行って、あっという間に帰って来られたそうで、本当にご苦労様です。もうちょっと向こうでのんびりされてても良かったと思いますけどね。代わりの人なんていくらでもいるんですから(:-P
それでは、9日の講義を楽しみにしてます。

投稿者:T.M.(法学部2年)      

 先日の講義より、とうとう内容が統治機構論へと移りましたが、こちらも実りのあるよい講義だったのではないかと思っております。
ところで、本講義の中で国会単独立法の原則がでてきまして、その際先生は、その例外として3つのものを挙げられていました。しかし、その中に私の期待していた内閣の法案提出権が例外に含まれるかどうかの話がでてきませんでした。「種なきところに芽は出ず」と同様、法案なくして法律は成立しえないので、明らかに内閣の法案提出は国会の立法行為に関与するものであるように思えるのですが。私としては、この内閣の法案提出について先生がどのように考えておられるのかも聞きたかったです。

回の選択に戻る

 

第16回(2004年12月9日・木)

投稿者:7!!(法学部2年)      

 今回の講義は、前回に続いての「代表」(ナシオン、プープル等等)についてを全て終え、次節「選挙」へと進みました。代表(全国民の代表)について、頭脳明晰で酒癖の悪い八田先生(ほら、ちゃんと分かるように書いたぞ)が分からないと仰っていたらしいのは「公約」と「命令委任の原則」との関係だったのだと思いますが(ですよね? 今ノートが手元に無いから分からない)、別に公約という形でなくとも地元への利益誘導というのは今でも行われている訳ですよね。もとより正確なところはしらないけれども。例えばグリーンピア(この、ピアというのは何なのだ)とかね。
ちなみに、僕の地元の倉敷市(中国地方の岡山県にある。他県人にも、倉敷市民は、岡山県倉敷と言わずに、たんに倉敷市と呼ぶ)の北にある総社市というところは、元首相・厚生大臣の橋本龍太郎の本拠地であるわけですが、そこ(岡山県総社市秦(はた))にもやっぱり「ウェルサンピア岡山」というネーミング(ピアというのは何なのだ)も、設立目的も良く分からない建物がある。都会の喧騒に疲れて、もう人には一切会いたくない、という人にはある意味お勧めですが。それで、この建物は、いったいどんな経緯で建てられたのか。まあ、橋龍先生はご記憶にないだろうね。
「選挙」の節では、公職選挙法などの条文にも触れながら、選挙権20歳についても触れられて講義されてました。先進国では、選挙権は18歳というのが世界的な潮流とのことで、先生自身もそのことに賛成されているように思いましたが、それは僕もそうなんですが、果たして実効性はあるのかどうか。若い人は選挙に行かないですよね。このことは藪野先生の「政治学」講義でも述べられていたことです。(ついで、選挙と政治は違うものであるとも―7!!の理解。)だから、仮に今18歳普通選挙となっても、徒に投票率の低下を招くだけになって、でもそうなるとマスコミの扱うネタが出来て良いかも知れません。
評論家の呉智英(くれともふさ)という人が、どこかで「選挙権が20歳なのは人間が十進法を使用しているからだ」というようなことを書いていて、思わず笑ってしまったんですが、20歳でも18歳でも、特に一方がより合理的というわけでもないから、「さあどっちに決めるんだ」と言われると結構困りますよねこれ。個人(あるいは集団)の価値判断がかなり表面化する問題だと思います。

投稿者:HOCKT(法学部2年)         

 今回の授業では、代表ということで、八田先生も悩まれたという、消極的意義であるならば、公約等はおかしいのではというところにも触れられました。当然のことながら、この問題の方は、私の頭では分かりません。
しかし、今日の授業を聞いて、裁判所は権力に迎合しているのではないかということを思いました。つまり、一票の格差の問題で裁判所は参議院特殊論ということで、参議院においては職能代表や地域代表的意義があるという判決を出したということです。政治家にとっては、それこそ自分の選挙区の利益になるようなことを言えば、自分の身は安泰なわけであって、おそらくほとんどの政治家は積極的意義を主張するであろうと思います。
今の政治家が狭い見方しかできないのも、そこのところにあるのかもしれません。ならばこそ、裁判所が消極的意義を主張することで、政治家の意識を少しでも変えることになり、日本を少しでもよくすることができるのでは、ということも思いました。700兆の借金を払わないといけないのは、われわれの世代でしょうから。

回の選択に戻る

 

第17回(2004年12月13日・月)

投稿者:HOCKT(法学部2年)      

 本日の講義で、私は主な選挙制度の種類として三種類あることを知りました。そしてイギリスは、小選挙区で相対多数代表の単記1回投票であることを習うと同時に、南野先生は、イギリスは2大政党制であるので、この方式でよいといえるが、日本でこの方式を導入したのはどうかとおっしゃられました。
そこで、ふと最近の選挙を思い返してみると、メディアは日本も2大政党制にすべきだ、と主張していることを思い出しました。これはイギリスの選挙制度を日本が導入していることを意識したのでしょうか。
とはいえ、日本の2大政党のひとつとして期待されている野党が、与党と主張が似ていたりして(例えば憲法改正など)、2大政党自体がどうだかという面もありますが。
もっとも、だから少数野党のために比例代表制がいるという主張をすることもできますが、UFO党のような政党が増えても・・・。UFO党、どんな政党なのでしょうか?

投稿者:7!!(法学部2年)     #65         

 先週から、憲法総論の憲法史だとか天皇制だとか9条・自衛隊だとかが終わって、統治機構論(の国会)に入ったんですが、どうもめっきりとリポート投稿が減ってきたようです。南野先生の専攻(のひとつ)が日本国憲法史で、かなり力を入れて講義に臨んだということもあるのでしょうが、やっぱり天皇制だとか自衛隊というのは議論が燃えるところがあるんでしょうね。別に統治機構が特に難しいということではないと思います。
それで、先週から書き込む人がかなり固定化してきたような、という危惧を抱いているわけです。もっと多くの人に書き込んでもらいたいものです。先月の末ごろに発売されたドラクエ8を、今月に入ってどうやらクリアしたらしい某Sくんが再び大学に来るようになったので、「リポートを書け書け」とせっついたんですが、まだ大冒険から帰ってきたばかり(笑)で頭が切り替わってないようです。いつも同じ人が書き込むというのは、あまり面白くないだろうし、他の人が変な遠慮を抱いてますます書き込みづらくなる恐れもあるだろうし、そのうち「南野先生と7!!はデキてる」というような変な噂を流されても、僕は本意ではないので(まそりゃお互い様だろうけど)、皆様どしどし書いて講義を盛り上げていきましょう。
第17回講義では選挙制度が終わって国会議員の地位に入りました。南野先生はもともと板書をほとんどされないんですが、今回はとうとう1度もチョークを握らずに終わってしまいました(多分)。今までも、口頭で説明するのが面倒な人名だとか用語(日本語は同音異義語が多いので聞いただけでは確定しないコトバが結構ある)を板書されるぐらいでしたが、今回はそれもなく、ずーっと喋っておられました。大学にはいろんな人がいて面白いが、ここまで極端な先生というのも珍しい。でもまあ、受講者もそれで苦労しているわけでも無いんですね実際(T.M.さんも第1回でこのことは書いている)。ですから、これはこれで名講義として語り継がれることとなるかも知れないです。
それでもやっぱり一人ぐらいは「短期移譲式」なんて書いてるだろうな。

回の選択に戻る

 

第18回(2004年12月16日・木)

投稿者:渋井丸(法学部2年)      

 テストがだんだん近づいてきて、不安が募り出す季節です。ノートも完全でなく、教科書を読み込むのもあまり得意でない私としては不安要素だらけです。がんばりましょう。がんばります。

投稿者:げんた(法学部4年)         

 今回の講義は、議員の不逮捕特権・免責特権、そして二院制についてでありました。制度に関する技術的な説明が多かったためか、かなりややこしく感じました。院の逮捕許諾に期限をつけることは是か非か、といった論点についても、これらの制度がどのような歴史をたどって今の形に落ち着いたのかを知らず、実務上どのような不都合が生じるのかということにも実感がもてなかったので、理解するのが難しいと感じました。その上この論点については、肯定説・否定説ともに一理あると感じたので、どちらを支持していいのか決めかねます。もはや好きな学者さんがどちらを支持しているか、ということを決め手にするしかないような気もします。こんなことを言うと南野先生に怒られそうですが。

投稿者:HOCKT(法学部2年)      

 参議院の存在意義はあるのだろうか、と日ごろ思っていた私としては、本日の授業はなるほど、と思わせるものでした。
二院制を取っている多くの国は、それぞれの院で選挙制度が違うという特徴があります。旧憲法においても、参議院と貴族院ということで、参議院は市民が選び、貴族院は天皇が選ぶということになっていたので、二院制の意味はあったといえますが、現在の憲法では、両院とも国民から選ぶ、すなわち全国民の代表ということになってしまったので、二院制にする必要があるのやら、というところですね。実際マッカーサーも一院制を主張していたそうですし。
とすると裁判所が、参議院は地域代表と職能代表の意義があるといったのもこのような事情(参議院と衆議院で差をつけるという事情)を踏まえていたのか、ということが分かりました。もちろん、その判断が良いか悪いかは別の問題ですけど。
あと、話は変わりますが、微妙な同音異義語は板書してほしいです。7!!さんのリポートにある短期移譲式と書いたのが一人くらいいるというのは、私のことですから、残念!(^。^;)

投稿者:スノーウィ(法学部2年)     

 第4章として国会について一連の講義がありましたが、今まで当然だと理屈抜きに受け入れていたシステムに(議論の余地があるかは別の問題ですがとりあえずは)1つ1つ憲法的な裏付けがなされていて、新しい視点をいろいろ教えられました。
特に、二院制の話は新鮮でした。二院制は、単に、国会の仕事として法を制定するなどする時に、可決するまでの行程(手続き)を重ねることで慎重さを期すことが目的だろう、と思っていましたが、もともと何(どの身分)を代表するかで院が区別されていたことを聞いて、初めてそうした院の性格について考えました。諸外国では、上院下院の性質の違いが比較的はっきり認識されているということでした。代表するものの違いによって、別々の代表組織(つまり院のことですが)を作ることは、特定の人々だけを代表することの危険性はもちろん考えられますが、様々な角度、立場からより多くの意見を具体的に政策に取り入れる機会の増加にもつながっているのではないかと思います。
国民はどの代表を通せば、一番自分の意見が反映されるのか理解しやすいでしょうし、また各議員も自分の果たすべき役割をもっとよく把握できるのではないでしょうか。やはり国民が政治家に期待するのは、自分たちの意見を何らかの形である程度政策に反映してもらうことだと思いますが、その点今の日本の政治はあまりに国民の意思が置いていかれている、またはないがしろにされている様に感じます。誰に投票したら自分の意見が反映されるのか漠然としており、国民の意見と政策をつなぐパイプがよく分からないのが正直なところです。
「全国民の代表」というのは、確かに民主的ではあるのでしょうが、実際に政治を行っていくうえでは、全員のニーズに応えようとして、結局誰のニーズにも応えられない面があるのかもしれないですね。

回の選択に戻る

 

第19回(2004年12月20日・月)

投稿者:松田(法学部2年)     #70      

 今日、先生の講義で聞いたことのない言葉があらわれました。「メルクマール」です。話の流れからすると重要という意味をもつのかな? と思いながら聞いていましたが、「ベルマーク」とどうしてもだぶってしまい、「メルクマール」をなかなか正確にノートできず、苦戦しました。鹿児島の人間は標準語にも苦戦しているので、なるべくお手やわらかに!

投稿者:HOCKT(法学部2年)         

 本日の授業で、南野先生が、統治機構論と政治学の対象は重なる部分も多いとのことをおっしゃられていました。そして、さらにその結論は統治機構論と政治学で、異なることがあるかもしれないとのこともおっしゃられました。
そこで、本日の授業で扱われた議院内閣制のところで、責任本質説と均衡衡量説の二つの説があって、責任本質説が通説とおっしゃられましたが、私がかつて読んだ政治に関する本の中に、議会と内閣は互いにチェックアンドバランスの関係になければならない、と書いてあったことを思い出しました。つまり、その本は均衡本質説を取っていることになるわけであり、南野先生がおっしゃってた、統治機構論と政治学はその結論が異なることがある、というのはこのことなのかな、と思いました。(←間違ってたらすいません)

投稿者:井の中の蛙(法学部2年)      

 本講義から第五章内閣へと進んだのですが、国会に引き続き、やはり一筋縄ではいかないという感じでした。その中でも特に難しく、同時に面白いと感じたことが2点。1つ目は、「行政」の実質的意義で出てきた「行政の定義」、そして2つ目は議院内閣制の本質の議論です。
まず、行政の定義について。行政を「国家の権力作用から立法と司法を除いたもの」と消極的に定義する、ほぼ通説的見解の控除説。これに対して「権力分立」と「法の支配」の観点から、国民主権の下では行政ではなく立法が広範な機能を有するべきだから、立法を「国家の権力作用から司法と行政を除いたもの」と定義し、行政を「法律の執行」と定義する高橋先生の説。前者が「君主主権の下で、司法である裁判所と立法である議会が分立し、君主の手元に残った権能を行政とした」という歴史的な流れに沿っているのに対して、後者は「国民主権という近代憲法の基本原理」から三権の関係を再構築している、という印象を受けました。どちらも説得的かつ魅力的な論理だと思うのですが、そもそも前提が異なる(極端に言えば、歴史を重視するのか、近代憲法の原理を重視するのかという前提の違いがある)ので、中々比較しにくい気がします。確かにこのような三権分立に至る過程=歴史の流れというのも捨てがたいし、かといって国民主権という観点からは、選挙を通じて国民との関係が密接な国会=立法の権能を広げることも必要だし・・・でも迅速性にかける国会に広範な権能を与えても宝の持ち腐れだから、やはり行政を広く定義したほうがいいのか・・・いや、それでは行政の肥大化を招いてしまう・・・という感じで、延々と悩み続けてしまう感じです。
二つ目の議院内閣制の本質は、これまた大変な議論でした。講義の中では責任本質説と均衡本質説があるんだなぁ、くらいにしか考えていなかったのですが、『憲法の争点』の樋口先生の論文を読んで、ようやくそんなに単純なものではないことに気付きました。そもそも何をもって「議院内閣制」と定義するのか、また「責任」「均衡」についてもどのように定義するのか、という定義一つとってみても複雑だし、加えてそれぞれの国によって歴史的背景が異なるため、それに応じて定義も異なると。だからこそ、この論文の中で樋口先生は「日本の『均衡』本質論は、フランスの『均衡』本質論とのちがいを、自覚する必要があろう」と述べられているのではないでしょうか。
上記2つの論点とも、私の理解力不足のために、勘違いしている可能性もかなり高いですが・・・。ただ、憲法において「定義」というのが非常に重要であることを改めて認識させられました。南野先生が「言葉の意味にこだわる方」と評されるのも納得です。あいにく高見先生の論文は貸し出し中だったので、返却されていたら読んでみようと思います。

回の選択に戻る

 

第20回(2004年12月22日・水)補講

投稿者:7!!(法学部2年)         

 「形式的意味の…」「実質的意味の…」という言葉を何度聴いたことか、しっかり染み付いてきました。「南野森はフランス人だ」という命題?は、形式的には偽だが、実質的には真ということですね。なるほど便利な言葉ではあります。
というわけで今日も「内閣」をやりました。場合によっては、内閣法・国会法・国家公務員法なども参照にしつつです。先生が講義で述べられたように、憲法73条1号後段の「国務を総理する」というのは、確かにすごい日本語です。そうでなくても法律用語というのは変な言葉が出て来ますが、星野英一先生(先生、といっても会ったことないけど)によれば、民法の「催告」「婚姻」もそれぞれ外国(フランス?)語では「催促」「結婚」と呼ぶそうで、(あくまで7!!の理解です。文責は僕に在りますよー)それなら「催促」「結婚」て書けよ、というのが正直な感想です。技術用語が難解になるのは不可避ですが、法律学が市井の紛争の解決を目指すのであれば、あまり形式的・難解なロジックに入り込まないほうが良いとは思うんですがねえ。先生は、「顕教と密教」という言葉を、統治機構論講義の最初の方の回で使われたと記憶しますが、それとはやや違う文脈ではありますが、法律学の密教性を感じる次第です。あ、文民というのも造語ですね。小学校の社会の時間に聞いて、なんのこっちゃと思いましたが、今回、というか前回の講義にて沿革がわかりました。

南野的独り言・番外編(2004.12.24.記)

 特別企画「統治機構論忘年会」を、去る12月22日夜、大名にて開催しました。合計13名という少々こぢんまりしたものではありましたが、たいへん楽しかったです。八田助教授・笠原助教授、特別ゲストとしてご参加いただきありがとうございました。またこういう機会があればいいなと思います。今回参加できなかった学生諸君、次回こそは・・・。

 ほんの少し写真をアップさせていただきます(クリックすると大きくなります)。

        

忘年会風景リポート

投稿者:takaでした。(法学部2年)  

 12/22の飲み会は全員で13人、そのうち助教授が南野先生を含めて3人、学生が10人。みんなもっと来いよ!とか思いつつ実は自分も直前まで行かない気満々だったから妙に納得。そんな中飲み会は進行していきました。
僕としては、H田先生が酔って南野先生に絡み出すのを期待していたんですが(かなり有名な話ですし)、今回その場面に遭遇出来なかったのが非常に残念です。でも、それに見合うだけのすべりっぷりは見れましたが....。その度に南野先生から『H田君、場の空気読めよ〜』と言われていた姿がとても印象的でした。そして、そのすべりっぷりは伝染するのか、隣に座っていた学生二人も微妙にすべり始めました。南野先生の飲み会でH田先生の隣に座るのは注意が必要かもしれません。ちなみに僕も座りましたが....すべってないかかなり心配です。

回の選択に戻る

 

第21回(2005年1月13日・木)

投稿者:げんた(法学部4年)     #75         

 裁判観が国によって正反対だったりするのが印象的でした。フランスが「裁判ペシミズム」、アメリカが「裁判オプティミズム」ということでしたが、日本はどうなのでしょう。やっぱり「お上が決めてくださる」みたいな、自分とは関係ない、関わりたくない、というような捉え方が伝統(?)なのでしょうか。そういえば大昔に、「遠山の金さんは怖い。弁護士も検察官も裁判官も一人でやりよる。しかも自分で見てきとるから捜査まで自分でしよる。こんな恐ろしい番組を喜んでみる奴の気が知れん」と薮野先生がおっしゃっていたのを思い出しました。そんな裁判であれば、まぎれもなく「かくも恐るべきもの」ですね。

投稿者:HOCKT(法学部2年)         

 今年最初の統治機構論の授業が始まり、今年も統治機構論をがんばろうと思うと同時に、テストも近いことにあせりつつある今日この頃です。
さて、今回の授業ですが、司法ということで、以前自衛隊のところでも取り扱われた、違憲立法審査権等について授業をされました。特に今回の授業では、行政事件は独立の裁判所にゆだねる大陸法型と、抽象的違憲審査権までひとつの裁判所でしてしまうアメリカ型になぜ分かれたのかということを歴史的にみていき、なるほどと理解することができました。
さらに、大日本帝国憲法と日本国憲法でも行政裁判の取り扱いが異なることを習いましたが、これはよく考えてみたらすごい変化をしたわけであり、すんなり国民が受け入れたことが疑問に感じました。やはり、一般の国民にとってはどちらも外国から来た制度、そしていわゆる日本より進んだ国から来たという感覚もあったことでことで、国民も違和感を感じなかったのではなかったのかなと思います。もっともこれは私が勝手に考えたことなので、南野先生から違うとか言われそうですけど。

回の選択に戻る

 

第22回(2005年1月17日・月)

投稿者:井の中の蛙(法学部2年)              

 今回の講義では、統治行為論を中心に話された後、部分社会の法理にも少し入りました。まず、砂川事件と苫米地事件の判決について述べられて、一般的には前者は純粋な統治行為論ではなく、後者のみが純粋な統治行為論を採用していると考えられているとのことでした。その後には内在的制約説と自制説、統治行為論否定説の3説について言及し、軽く阪本先生のエピソードなども交えていらっしゃいました。阪本先生宅でのお食事は阪本先生の手作りなのか否か、若干気になるところではありますが、それはともかく、統治行為論については何か釈然とこない論議、という印象が残ります。民主的な過程を経てない裁判所が、高度に政治性を有している事項についてまで審査するべきではない、というのがどうもよく分かりません。裁判所の役割は、民主主義に基づく立法府・行政府が間違った方向に進もうとしているときに、歯止めとしての作用を果たすことであり、その際に裁判所が判断の基準とすべきは国民の多数意見ではなく裁判所が蓄積した経験(それは裁判の歴史とも言い換えてもいいかもしれませんが)である、というのが私の認識(思い込み?) だったせいでしょうか。それに、「高度に政治性を有する国家行為」には司法権が及ばない、と言いますが、「高度な政治性を有さないような国家行為」のみを審査することが裁判所の役割というのも変な感じがします。現在ではあまり議論されていないようですが、個人的にはすごく気になりました。南野先生のゼミではこの統治行為論を(も)取り上げる予定だそうで、思わずその宣伝に乗るところでした(笑)

投稿者:はなわ(法学部2年)         

 今日は司法権の限界について話されました。終盤に内在的制約説の自己矛盾について話されましたが、なかなか理解に苦しんでいます。つまり、こういうことなのでしょうか?
「高度な政治性を有する問題は違憲審査権の外にあるという統治行為論は結局のところ、三権分立の原理に由来し明文の規定はないけれども憲法上の本質に内在している。」
内在している制約を具体的に見れば、裁判官は国民から直接選ばれていないので民主的正当性がないということが挙げられるが、南野先生は「そもそもこの憲法の下で司法審査をしようとやり始めたのだから、宗教的な裁判や抽象的な争訟を裁判権の外におくことは内在しているが、民主的正当性がないから裁判官が政治的なことについて違憲審査してはいけないということは、理由にはならない」ということでいいのでしょうか?

投稿者:はちみつボーイ(法学部2年)      

 今回の講義ではあまりにも当然のように「裁判所は民主的でない」とされていたのですが、私はどうしても国民審査との関係で疑問です。確かに政治家のように選挙によって選ばれてはいないにしても、憲法問題を扱う最高裁判所では、裁判官が国民審査によって罷免される事も有り得ます。これは民主的であるとはいえないのでしょうか。私自身まだまだ言葉足らずでうまく疑問を言葉に表せないのですが、それは選挙(あるいは審査)の期間(議員の4年や6年に対して裁判官は10年であること)の差として(より)民主的でないとするのか、そもそも選挙と審査の間の目的の違いからそうでないとするのか、それとも現実として考えた時に国民審査の持つ民主的役割の低さ(あまり裁判所が開放的でないため、罷免するか否かを決める判断材料が乏しいこと)からそうでないとするのか・・・。あぁ、書いてて余計わからなくなってきました。気になって気になって夜も眠れない勢いです。だから、最近は毎日のように憲法の勉強にいそしんでいるわけですが・・・。少しくらい頭が良くなってたらいいんだけどなぁ。。。

回の選択に戻る

 

第23回(2005年1月20日・木)

投稿者:ぱんち(法学部4年)     #80              

 今回は部分社会の法理について前回の続きの「山北村村議会判決」からでした。
次に大学の自治における部分社会の法理を正面から認めたと解される「富山大学事件」、政党の内部規律が問題となり争いのある具体的権利義務の前提問題についてはその手続きについてのみ司法審査が及ぶとした「袴田事件」、宗教団体内部の訴訟では形式的にも実質的にも前提問題である場合のみ宗教団体の規律にのっとった手続的保障がなされているかについてのみを裁判所は判断するとした「種徳寺事件」「本門寺事件」、そして「板まんだら事件」「蓮華寺事件」と、今回は判例のオンパレードで大変でした。
しかし結論としては地方議会は地方自治、大学は学問の自由、政党は結社の自由、宗教団体は信教の自由いったようにそれぞれ司法審査の及ばない根拠が異なる事から、これらをひとくくりにして議論する必要があるのか、そして部分社会の法理は少数者に対する救済を認めないといった方向に向き易いことからもこのような考え方、まとめ方自体が無意味なのではないかという結論だったように思います。
しかし部分社会の法理とは概念的なもので判決にもその理由中にそれ自体を理由としていない以上、学問的なカテゴライズに過ぎず、これがあるから少数者の保護が疎かになるわけではないので、先生のご指摘は僭越ながらあまり意味はないんじゃないのかなーと思いました。
ごめんなさい。

回の選択に戻る

 

第24回(2005年1月22日・土曜4限・補講・大講義室)12月27日休講分の補講です。

投稿者:M3(法学部2年)     

 補講お疲れさまでした。講義中は先生の話を聴きながら必死に考えてるので、その場その場では一応理解をしているつもりなんですけど、いざテスト勉強としてノートを開いてみると、ノートに書かれてある内容がまったく理解出来なかったりして非常に苦しい想いをしてます…さらに刑法総論、行政過程論の勉強でいっぱいいっぱいです(;^_^A
まぁ、だからと言ってテストを簡単にしてくれと言ってるワケではないんで気にしないでください(笑)。

 さて、今回の講義についてですが、今日は「法律上の争訟にあたらないのに裁判所の審査対象となるケース」として客観訴訟に関する様々な説が出てきました。佐藤説、浦部説、そして南野オリジナル説、高橋説です。佐藤説に対しては、まさに先生が講義で述べられたとおりの感想を抱きました。そして、今日の講義を受ける前(前回の講義が終わった時点)での自分の意見が、まさに浦部説そのものでしたので、この説に対する批判なり何なりを先生に期待していたのですが、「この説も『んっ?』といったカンジがします。」で終わってしまったので、自分としては「えっ?」といったカンジでした(笑)。
次に我らが南野オリジナル説ですが、非常に面白いものだと思いました。憲法76条は「司法権はすべて裁判所に属するが、それ以外の権利を裁判所に付与する事を禁じているわけではない」という、このロジックはまさに法律学の基本とも言える姿勢を示してくれていると感じました。大前提として存在する法を、いかに解釈・適用していくか…あらためて法律を学ぶ意義を認識させられました。さらにこの南野オリジナル説のように解釈すると、憲法65条の“行政権”の定義も単なる控除説では説明がつかないロジックになり、南野先生の一貫した主張を感じ取る事が出来ました。
そして最後の高橋説。司法と行政を…@発動条件 A手続き B終局性の3つの観点で区別し、司法を「適法な提訴を待って、法の解釈・適用に関する争いを適切な手続きのもと終局的に裁定する作用」と定義した点にこの説の素晴らしさが凝縮されていると思いました。こう定義する事によって、客観訴訟を「立法政策によって提訴権を付与された市民が起こす訴訟」と位置付ける事が出来ます。とすると、裁判所はこの訴訟に対しては「適法な提訴を待って、法の解釈・適用に関する争いを適切な手続きのもと終局的に裁定する」事になるので、あくまで「司法」の枠組みに含まれるというロジックでしょう。間違ってたらすみません。
ただ、この高橋説もすごいと思うのですが、これだけ複雑な論理をレジュメも何もナシで話す南野先生もすごいと思いました。この講義風景リポートを書くために必死にノートを見直している自分はまだまだだと痛感させられます…

投稿者:松田(法学部2年)         

 私は資格試験を目指しているため、憲法についてもいわゆる受験本とよばれるものを読んでおりますが、今回の講義は学問の本質はそのような本には存在しないという事をいたく痛感させられるものでした。今回の講義で触れられた、客観訴訟と司法権(事件性の要件)の関係について、講義前においては「政策上の適当性の観点から考えるのが通説である」と本に書かれており、私もそのことについて何の疑問も抱かずに講義に臨みました。しかし、いざ講義にはいってみると、そのような考えが通説かどうか怪しいだけでなく、論理としても緻密さに欠け、もはや古いものになりそうだということを感じ、衝撃を受けるとともに、今この場で語られていることがそのまま憲法学界の「今」なのだということに深く感動しました。資格試験だけではなく、期末試験も近くなって、最近は学問というより勉強をしているという感じですが、講義の後、先生からいただいた関連文献を読みながら、しばしの間、学問の世界にひたってみたいと思います。

回の選択に戻る

 

第25回(2005年1月24日・月)授業評価アンケート実施。

投稿者:HOCKT(法学部2年)     

 いよいよ来週がテストということで、統治機構論も今週までとなりました。アンケートがあったため、実質の授業自体はいつもより短くえらく早かったように感じました。とはいえ、本日やった内容もいつもどおり、拙い僕の頭では難しいなあと思いました。
さて、本日の授業の具体的中身ですが、意外とかつては裁判所は政治からの独立を果たしていたということが分かりました。以前授業の自衛隊の判決のところで、裁判所は政府よりであるとの印象を受けていたので、裁判所が以前は(それも明治憲法下でも)違ったということは驚きでした。
大津事件は高校の現代社会か何かの教科書に載っていて、私も司法権の独立の例ということぐらいは見たことがありますが、これも司法権内部の独立という観点から見れば、独立を果たしていないかもしれないということで、同じ事件でも見方によってはすばらしくも悪くもなるということで、様々な観点から見ていくべきだと思いました。
司法権内部の独立は次回の授業でも述べられるみたいですが、今の裁判所が政府よりな気がするのも、司法権内部で独立ができてないために、下級裁判所が自由に動けないせいかもしれないなという気がしました。

投稿者:7!!(法学部2年)         

 今回は司法権の独立についてでした。つまり、司法権の外部、特に政治からの干渉・圧力と、司法府内部での裁判官の独立の2つですが、大津事件で児島院長の言動が後者の視点からどうなのか、との提起は僕には新鮮でした。ただ、「外部の圧力に屈するな」と言うことも圧力だ、というのは、禅問答ぽくなりますが、これを越えて死刑にするな無期で判決を書けとなれば、確かに問題となりうるでしょうねえ。面白かったです。

南野的独り言(2005.1.25.記)

 本日の講義の最後の部分で、予告通り「学生による授業評価アンケート」を実施しました。179名の受講者から回答を得ました。協力してくれた諸君、ほんとうにありがとうございました。集計が終わり次第、このHP上で公開したいと考えています(昨年実施したものはすでに公開しています)。

 当然のことですが、南野の講義に対して厳しい意見もあれば評価してくれる意見もあり、大変参考になりました。半年間の講義の最後の部分で実施しているために、回答してくれた諸君に対して直接効果が還元されることにはならないのが申し訳ないとは思いますが、来年度以降の講義については、改善すべき点は是非とも改善していきたいと思っています。諸君の協力は、諸君の後輩たちと南野自身のために多大な貢献をしていることを理解してください。南野の今年の講義が昨年のものに比べて少しでも良くなっていたとすれば、それは諸君の先輩達が、諸君同様に昨年のアンケートに丁寧に回答してくれたおかげです。このアンケートをするのは今回が二度目でしたが、教師は学生によって育てられるということを実感しています。

回の選択に戻る

 

第26回(2005年1月27日・木)最終回

南野的独り言

 ようやく終わりました! ほんとうにこの半年間、大変でした。毎日苦しかった。。。最終講義の最後でも少し述べましたが、統治機構の部分はまったく初めての講義だったこともあり、未熟な内容であったかも知れません。そのことをお詫びすると同時に、にもかかわらず最後まで熱心に聴講してくれた諸君に、心からありがとうと言いたいと思います。南野もたいへん勉強させていただきました。これからも、他の科目の聴講・学修において引き続き精進してください。諸君らの大部分とは講義の場面ではもはやお目にかからないことになる(はず!)と思いますが、今後は、楽しい大学生活の方面で時々お目にかかれれば、と思います。遠慮せず研究室を訪ねてきてください。では、来週の期末試験、がんばってくださいね。少なくとも主語と述語のきちんと対応した日本語を書いてくださいよ(笑)。

投稿者:憲子(法学部2年)     #85     

 今日は最後の授業でしたねー。憲法はさておき、先生の授業で初めて大学の授業に出席することの意義を感じました!講義に無欠席なんて高校以来(笑)です。半年間どうもありがとうございました。

投稿者:M3(法学部2年)         

 半年間の名講義をありがとうございました。講義を通して先生の教育者・研究者としての熱意がひしひしと伝わってきました。自分としてはこの講義のおかげで法律学的な思考力がついたと感じております。普段何気なく受けとめていた新聞やテレビのニュースを見る目もかなり変わってきたような気がします。本当にありがとうございました。来週は大雪との予報が出ているので、交通機関が麻痺せず予定通りに試験が実施出来る事を願っています。

投稿者:はる(法学部2年)      

 今日で統治機構論も最後。先生、半年間本当にお疲れ様でした。先生の授業は、先生が予習を完璧になされていることがこちらにもひしひしと伝わるほど内容のある授業で、“これが大学の授業か”と思わせる授業だったと思います。
今日の講義では裁判官の身分保障と違憲審査制についてでしたが、先日の授業で出てきた“宮本裁判官不信任”が身分保障の例外として出てきた瞬間、宮本裁判官→青年法律家協会→平賀書簡→福島裁判官→・・・裁判制度論→大出先生と頭の中でつながったのは私だけでしょうか・・・?それはさておき、裁判官の裁判所上層部からの独立は重要なのに再任されないことがあるのはやはり問題だと思います。しかも、理由提示もないとなると、人事権について最高裁を法律より優先させることができないのも頷けます。(これ、先週の内容ですね・・・すみません。)
憲法判断の方法についてでは、裁判所の憲法判断回避について札幌地裁の「恵庭事件」「長沼事件」が再び登場しましたが、最高裁が合憲判断について回避していないことには少し驚きました。合憲が多いからでしょうが・・・最高裁こそ回避しそうだという偏見(?)があったのかと反省しています。。。
最終講義も終わり、あとは試験のみ・・・頑張ります!
半年間、本当にありがとうございました!

投稿者:三期生(法学部2年) 

 半年間、苦手な早起きとの戦いでしたね。お疲れ様でした。今日が最後の講義ということもあり、はじめて講義風景レポートを書かせていただきます。本日の講義内容で「裁判官の再任」についての箇所ですが、先生は「憲法の文言上、日本の裁判官の任用の制度は任命制ではあるが、定年制ではない。この制度では、任命権者の権限が強くなってしまう」とおっしゃいました。確かに、憲法にはしっかりと任期が記してあり、この説明に納得しました。そこで、考えたのは「日本の裁判官の採用方法を、現在の任命制から公選制に変える」ということです。公選制に変えてしまえば、法曹一元モデルの実現もより簡単になるであろうし、国民の司法への積極的参加を促すことの一助となり司法制度改革の目的にも副うものとなるのではないでしょうか。
何はともあれ、半年間お疲れ様でした。

 追伸
本日の講義において、南野先生の恵庭事件の説明の際、指摘された条文が自衛隊法122条となっておりましたが、自衛隊法121条の誤りです。南野先生に代わりまして、この訂正をもってお詫びに代えさせていただきます。(笑)

投稿者:オレンジ(法学部2年)          

 今回の授業で統治機構論の授業がすべて終了しました。受講しはじめのころは話しの速さについていけず、ノートをきちんと取ることができなくてレジュメや板書がないことに不満を感じていました。しかしだんだんと聞き取れなかったことを家に帰って復習するようになりました。また今まで教科書というのはテスト前に読むだけのことが多かったのですが、樋口先生の教科書も毎回授業の項目に沿って読みました。最後の授業で南野先生が話されたように、この授業を通して積極的に授業に臨む力をつけることができました。レジュメや板書が充実した授業では甘えた授業の受け方しかこれからもできなかったと思います。私にとって統治機構論は難しい授業でしたが、これから先の学習につなげることができることをたくさん身につけることができた授業でした。

投稿者:リッチー(法学部2年)     #90         

 最終回の統治機構論では、裁判官の身分保障と違憲審査制が取り上げられました。前者においては、下級裁裁判官の再任についての2つのモデルが印象に残っています。他のリポートでも指摘されているように、違憲審査制では以前扱った重要な判例が再び登場しました。@憲法判断回避、A合憲限定解釈、B適用違憲、C法令違憲という4段階構造は、司法権の限界や裁判所・裁判官の地位などと合わせて理解する上でも、非常に重要だと思います。
半年間の講義を通じて憲法学に興味を持つことができ、よかったと思っています。

投稿者:7!!(法学部2年)      

 最終回です。今回は違憲審査権などをやりました。論者によって違憲立法審査権だとか違憲審査権だとか司法審査権だとか言われている例のあれですが、なんで用語が統一されていないのか、という説明が出るかと思って聞いていたら、出ませんでした。院生の某閣下に先日聞いたから、別にいいですけど。最終回となるとどなたも授業進行が駆け足になりますからね。ぜんぜんそうでない人もいますけど、どちらが良いのか僕にはわからないです。
まだ試験もありますが、一応、半年間お疲れ様でした。書きたいことは授業評価アンケートにすべて書きましたが、ひとつ言えば板書なし・レジュメなしの講義は良かったと思います。別に悪くなかったという意味で、良かったと思います。レジュメもあれば便利だが、資源は有限ですしね、大学も貧乏(失礼)のようだし。板書も、しないほうが教官の健康にはよいでしょうね。あのチョークというのは、見た目は千歳飴に似ているが、あまり粉を吸い込まないほうがよいだろう。
それでは試験勉強がんばりたいと思います。

投稿者:まる(法学部2年) 

 今回の授業では、引き続き、司法権についての講義が行われ、最後に「統治機構論」の授業が締めくくられました。
まず、裁判官の独立を担保するための身分保障制度について具体的に触れられました。罷免不能性、報酬、再任制度といったことに関して、憲法上の規定、法律、実際の運用を取り上げて説明がありました。特に、再任制度については、憲法の条文では任期制を採っていると読み取れるが、実際の運用は、職業裁判官モデルを採っており、定年制であるということでした。行政法の「裁量の収縮」や「裁量の消極的濫用」といった概念を用いて説明がありました。その観点から、宮本判事補の再任拒否についても、学説のほとんどが「再任は新任と同じで最高裁の裁量にゆだねられている」という最高裁の見解を批判しているということでした。
ところで、今回の司法制度改革では、裁判官・検事の弁護士職務経験が法制化されましたが、弁護士の中から裁判官が選ばれる制度を採らず、職業裁判官制度を維持しつつ多様な経験を積ませるという今までの枠の中に納まるものになるようです。漸次、法曹一元に近づいてゆくのか注目されるところだと思います。
そして、いよいよ最後の内容として、違憲審査制についてお話がありました。その類型や対象について詳しく説明があった後、憲法判断の方法について「憲法判断回避」「合憲限定解釈」「適用違憲」「法令違憲」といった方法それぞれの説明がありました。その中で印象に残ったのは、「憲法判断回避」について、最高裁は、厳格に適用していないが、皇居前広場使用不許可の事件や朝日訴訟において、「なお、念のため」合憲判断は回避していないということです。最高裁判所は、余程のことがない限り違憲判断の含みのある判決も出せないということが感じられました。
内容の最後として、違憲判決の効力は、日本が付随的違憲審査制をとっている当然の帰結として個別的効力説がとられているという説明で、一般的な効力については、尊属殺重罰規定が放置されたことに見られるように国会や政府が対応するかどうかにかかっているという説明でした。
なお、憲法改正論議の中で、裁判所の憲法判断への消極性を是正するために日本にも憲法裁判所を設置すべきといった意見や最高裁判所に憲法裁判部を設置すべきといった意見があるようですが、よほど制度に工夫をし、裁判官の人選を考えないと、授業で伺った司法の現状を考えるとかえって消極性が増す気がしてなりません。
以上のようなことに触れた後、他大学の例を引きながら、「財政」以降については取り上げられないことを説明されました。そして、この授業を通して私たちの「頭脳を鍛える」という所期の目的が達成されたという総括があり、私たちに激励を頂いて、4ヶ月に及ぶ講義が終了しました。
全26回の講義に出席させていただきました。先生の若さもあるのでしょうが、今まで受けた授業の中で最も熱意をもって行われている授業であったと感じました。個々の項目についての丁寧な解説も然ることながら、「ナシオン・プープル主権」についてや、「司法概念の再検討」といった部分をはじめとして興味深い論点を取り上げられ、それらの部分については十分な理解に至っていませんが、学問の蘊奥を究めることがどういうことであるのか、その入り口のその一端だけでも覗くことをさせて頂けたと思います。
ありがとうございました。

投稿者:デルタブルース(法学部3年)          

 今回半年間の講義を受け、最も伝わってきたことは「憲法」という法律の「重み」でした。日本という国の根幹を取り決めている法なのだから重たいものであるのは当たり前なのでしょうが、先生の話し振りからは憲法学者としてその重たい憲法に対して敬意を持って接しているという感じが伝わってくるのです。だから憲法とは?とかその歴史について半分の時間を割いて授業したのだと思えるし、そのようなプロセスを経るからこそ僕は憲法の「重み」を感じることができたのだと思います。そしてそのような重たさは学者(研究者)が講義をするから伝わってくるんじゃないだろうかとも思えます。予備校とかに行ったことがないんで確かなことは言えませんが、今回伝わってきた重みは研究者が教えるという大学ならではの持ち味だったのではないでしょうか。そういう意味でも、また板書やレジュメもないというスタイルのことも含め、結局この講義は「大学らしい」授業だったなと僕は思っているのです。知識を得たり、試験に通るため以上のものが大学の授業には存在し、やっぱり大学でも「試験のための」勉強はしてはいけないんだということを近頃やっと実感できてきたのです。(遅っ!)まぁもう三年後期ですけどね(笑)。それでもやっぱりそういう実感を得れたのはプラスだったと思います!(せめてそう思いたい!)。
と、ここまで統治機構論をまとめる感じで書いてみましたが、全体を当たり障りなくさらっとまとめるってのは、勉強不足で個別具体的なことに踏み入れない時の「逃げ」の常套手段ではありますが、会社法(先生のお友達の授業です!なんで試験日かぶってんですか!死にますって!)に追われる身としてはこれが精一杯なんですよ(笑) お許しを!

投稿者:はちみつボーイ(法学部2年)          

 気付いてみればこんなにたくさんの人が書いててびっくりです。。今回の講義については皆さんが書かれている様なので、敢えて書くのは控えて(というか、まとめる才能がないので)、授業評価アンケートにも重なりますが、本講義の感想でも書こうと思います。
本講義は板書無し、レジュメ無しでしかも話すのが早くて正直に言えばかなり辛かったです。増してや、法学部の学生としては致命的かも知れませんが僕は歴史が大嫌いなので、最初のほうは本当に散々でした。でも、なんとかついていこうと話を聞きながら大事だと感じたところはノートに書く、この作業を続けてきました。
その甲斐あってか、ただ単に歴史が終わったからか、段々と考えながら話を聞いてノートに書く、という作業が出来るようになりました。今試験勉強しながら思うのですが、それが出来るのと出来ないのでは記憶の残り方にも影響するのかも知れません。その意味でいい経験が出来たかなぁと思います。
植物に喩えるならば、最近やっと芽を出したところとでも言いましょうか。ですがこのまま何もしなかったら、せっかくの芽も枯れてしまう様に思います。本講義を無駄にしない為にも、今後は本講義で得た物を枯れない様に育て上げ、立派な花に繋げられる様に頑張りたいと思います。
半年間の講義本当にお疲れ様でした。

投稿者:ぱんち(法学部4年)     #95      

 全26回、お疲れ様です。半年間楽しく受講させて頂きました。しかし全部授業を受けたとしても、最終的に試験で良い成績をとり、知識として自分のものにしなければ意味はないと考えています。そのためにも主語と述語でしたね。しっかり書きたいと思います。思えば私が*に受けた*の授業は先生が主語と述語を使いこなせていらっしゃいませんでした(笑)。しかし*で大学最終年次となりましたが、南野先生の授業を受講でき非常に有意義だったと思います。もし低年次からこのような授業を受けれていたら・・と今は思う次第です。ありがとうございました。

(三ヶ所を南野の判断で伏字にさせていただきました)

投稿者:TAMA(法学部2年) 

 今回の統治機構論の講義は、病気に罹ってしまい殆ど参加することができませんでした。従って、来年ももう一度受講する予定です。その時も南野先生でしたら、大変嬉しいのですが……。時々、何とか参加できた数少ない講義、友人から借りたノートから、先生の肌理細やかな講義、教育者・研究者としての熱意、憲法を愛する心が伝わってきました。病気だからとはいえ、殆ど参加できなかった自分が悔しいです。健康な身体で、毎回の講義に参加し試験を受ける事ができるのは、大変喜ばしい事だと思います。毎日の生活の中で当たり前だと思われる事、何気ない学生生活を送れる事こそが、一番の幸せなんだと分かりました。試験を受ける皆さんは、良い結果が出ますよう頑張ってくださいね。(講義の内容から思い切り外れてしまい、すみませんでした。)

投稿者:成 眞海(法学部2年)          

 授業の最初に、在日韓国人の都の管理職受験資格訴訟に関する最高裁判決についての話がありました。まさか授業で触れてもらえるとは思っていなかったので、少し申し訳ない気分でしたが、しかし重要な問題だと思っているので南野先生の考えを聞けてとても嬉しかったです。
なぜ重要だと思うかというと、今の日本はこのような問題に非常に鈍感なんじゃないかと思うからです。例えば似たような問題で裁判制度論で裁判員制度についてやりましたが、裁判員の資格は衆議院議員選挙資格のあるもの、つまり在日は含まれていません。にもかかわらず誰もその事につっこまない。
大出先生は強者と弱者図式でずっと話してましたが、弱者の中の弱者の問題にも、法律を扱う人間になるならもう少し敏感になってもらいたいと一在日韓国人として思うわけです。というわけで最後の授業は今までで一番いい授業だったと思います(笑)

投稿者:げんた(法学部4年)              

 半年に及ぶ統治機構論の講義も今回で終了。真面目な学問の話であるのに引きつけられる講義も存在するのだと知って、ちょっとしたカルチャーショックを受けた半年でありました。なんといっても南野先生の熱意が素晴らしかったです。学問と学生との距離、教員と学生の距離をできるだけ近づけようとする様々な工夫は、「参りました」としか表現の仕様がありません。
残るは試験のみとなりましたが、せめて正しい日本語を使うことと誠実に答えることだけは心がけようと思います。先生が提供してくださった講義の代価としては釣り合わないかもしれませんが、少しでも多くをお返しできるように努めます。

投稿者:福助(法学部2年)      

 とうとう(といっても結構前に)最終講義も終わりまして、半年間は短かったなぁ…としみじみ感じています。少し遅くなりましたが、最後なので久しぶりにレポートを書かせて頂きました。
最後の講義で扱われた「違憲立法審査権」についてとても興味がわきました。特に「個別的効力説」と「一般的効力説」は講義内でもたびたび出てきた概念ですが、裁判所の判決の重みが全く変わってくる、結構大きな違いではないかと思います。それぞれの説と、関係する諸制度について、まだあまり知らないので的外れなことかもしれませんが、どうして日本は一般的効力を持つ抽象審査制を取り入れずに個別的審査を固守する必要があるのか、疑問に感じました。つまり、憲法は国の最高法規で且つ他の法律の基盤になっているので、法を憲法的に「正しい」ものかチェックする、という点などから、個別的ケースでなくても「おかしい」と思ったら正面から扱う制度を併用しても良いのではないかと思うわけです。違憲判決は実際に大きな影響力を及ぼしはしますが、やはり最終的なところは国会の対応いかんにかかっていて、これでは違憲立法審査の意味が半減するような気がします。確かに一般的効力説の下、裁判所が違憲判決をやたら連発しては立法権の立場がありませんが、現状は裁判所は努めて違憲判断を避けているようですし、その一方で政治部門は憲法の理念をあまり重視していないよう思えることが度々あるので、「判決の効力」について考えさせられます。
違憲立法審査については、両説の利点・欠点や実際に抽象審査制をとる国々の現状などをもっと考慮すべきでしょうし、その他いろいろな問題が絡んできそうですが、一度詳しく調べてみたい裁判制度です。
……と、こんな風に先生からはこの半年間考えるための良い刺激をいろいろ頂きました。とても有意義な授業で、正直「憲法」にハマりそうです。本当にありがとうございました。

回の選択に戻る

 

定期試験(2005年2月2日・水曜3限・大講義室)一切の持ち込みを認めない・小六法を貸与する

南野的独り言

 天気予報では大雪が予想されていたため、やや心配してはいましたが、杞憂に終わりホッとしています。みなさん、定期試験お疲れ様でした。おそらく大方の予想を裏切る問題ではなかったのではないかと思います。まだ答案を見てはいませんが、採点するのが楽しみでもあると同時に、ふだんの受講生を大きく上回る受験生の数を前にして(苦笑)、やや戦々恐々としてもいます。いずれにせよ、2月17日から2ヶ月の予定でパリへ行きますので、採点の殆どは彼の地で行うことになりそうです(ちなみに、パリに来ることがあればメールで連絡をください。食事くらいはご馳走できるかも知れません!)。

 なお、定期試験問題についてはこのHP上にアップしました(見たい人はここをクリック)。採点が終わったら、成績分布についても公表する予定です。

 最後に、「定期試験風景リポート」を募集していますので、これまで投稿したことのない人も是非どうぞ! 2年生にとっては最後の試験になる角松助教授の行政過程論が終わったら、大宴会(?)でも企画しましょうか?>ねえ、角松さん(笑)

投稿者:タロ(他学部2年)     #100 

 今日の試験をもって、半年間の統治機構の授業が全て終了しました。試験では書きたいことが絞り込めずに勉強したことを羅列するというあまり論理的ではない文章になってしまっている箇所もありますが(後で気付いたところでは判例の引用が間違っていた(汗 「一見極めて明白に違憲無効」というフレーズは純粋な統治行為論ではないんでしたね。いわば裁判所の見解を述べているわけだから…)、問題自体は興味深いところでした(問1)。これまでの授業を通じて憲法というものに興味が出てくると同時に、法学というのがどういうものであるのかが少しずつ分かってきたように思います。最初のうちはレジメと板書がないということで不安もあったけど、授業の内容自体が興味深く、よく準備されているんだなあ、と感心しました。個人的には裁判所のところが面白かった。やはり具体的な判例を見るのは楽しいです。中にはなんだかおかしな判決だな、と思うような裁判もあったけど、現実というものは得てして理想どおりにはいかないものなのかもしれません。自分は他学部だけどまた機会があれば、法学部の授業を受けてみようという契機づけにもなりました。半年間お疲れ様でした。

投稿者:sense(法学部2年)         

 本日3限、予定通り期末試験が行われ、半年間の統治機構論のプログラムすべてが終了しました。先生、半年間ありがとうございました。講義では、先生の憲法と憲法教授に対する熱意を感じることができ、また授業内容に集中することのできるレジュメなし板書なしという講義システムのおかげで、充実した受講生活を送ることができたと思っています。前回(講義最終日)分レポートを提出することができなかったのでここにて述べさせていただきます。
さて、本日の期末試験。自分の答案がさてどれだけの評価に値するものか、それ以前に評価のしようがあるものなのかという話はさておき、「大方の予想を裏切る問題ではなかったのではないか」という先生のお言葉には「そうですね」とお返しします。あまり予想という予想を立てていなかった、というのも事実ではありますけれど。今振り返ってみると、試験中は自分の書こうとしていることを、どのようにまとめていこうかということに必死で、きれいな、いえ、正しい「日本語」が使えたかどうかは疑問です・・・。
今日の結果自体が出るのはまだ先ですが、今後は、本日の試験を含め、統治機構論の受講で得たものをさらに発展させていけるような学生生活・学習生活を送っていきたいと思います。
半年間、本当にありがとうございました。

投稿者:ぱんち(法学部4年)      

 テストは1、解散権の根拠と2、司法権の限界でした。・・だったでしょうか。・・・たぶんそうでした。そう思って答案構成したんですけど、後で友人と話ていたらもしかして司法権内部の独立の話(宮本裁判官再任拒否)も論点の一つだったのか?という疑問がふつふつふつと沸いてきました。でも今考えたら少し裁判所法第3条1項と司法権の独立の話は関係ない気がします。どうなんどぇしょうか。
それはさておき大学の授業に勝手に意味はないと思っていた私が、答案三枚まるまる書けたのは(内容はともかく)、先生の授業ひいては人柄のおかげ以外のなにものでもないでしょう。そしてたった今「褒めすぎた!」と思っているのも事実です。なにはともあれ半年間、ありがとうございました。

投稿者:はちみつボーイ(法学部2年) 

 前日、試験が雪で中止になるかもしれないということを知り、僕は期待に胸を膨らませながら勉強のあいまに雪積もってないかなぁ、って外を確認していました。....が!しかし4時の時点で全く積もってなくて、かなりのショックを受けました。。。積もってくれれば万々歳だったのですが....。
そしてテストですが、先生が「おそらく皆さんの期待を裏切らないような内容です。」とおっしゃったので、僕はてっきり総論一題、統治機構一題だと思っていました。ところが、予想に反して統治機構から二題でした....。えっと、、、思いっきり期待裏切られました。。っていっても総論より統治機構の方が僕は好きだからよかったんですが....。結果についてはあまり期待出来ないかも知れませんが、前期のある試験で論点が全くわからず手も足も出なかったことを考えれば、論点がわかっただけでも嬉しかったです。ただ、友達と「もっと書けたのに悔しいよね....。」とか言い合って、、悔しいと思えるのもやはり勉強頑張った結果なんだよなぁ、とか思ったりしました。あと残すヤマは刑法総論と行政過程論です。まだまだ気が抜けません。頑張るぞー!
とりあえず今更ですが統治機構論、目指すは優です☆(言うだけならタダですから♪)ちなみに、講義名を「統治行為論」「統括機関論(説)」と書きそうになった人、僕だけではないはずです。。

投稿者:すずこちゃん(法学部2年)           

 こんばんは。今日のテスト無事終了しホッとしております。遅ればせながら、授業お疲れ様でした。先生が苦労?されてたこと、メーリングリストを見て初めて知りました。真摯な姿勢で授業にぶつかって頂きありがとうございました。個人的に、最後の授業で先生が「日本で一番頭のいい(だったかな)学生達に教えてるんだと自分に言い聞かせた」的な事を言ったのが、ジーンときました。。なんか学生を尊重してくれてる感じがして。 ではおやすみなさい。

投稿者:まる(法学部2年)     #105         

 二月二日水曜日、「統治機構論」の試験行はれり。当日、朝より雪のいたく降りて電車の稍々遅れにければ明日より七隈線開業の地下鉄に乗りて登校す。学校に着きし後も学習に努めれども段々諦観を持つようになりゆき「終はつてしまへば何といふことない、これは、人生も一緒だらう」なる後から考ふれば恥ずかしき思ひ抱けり。
然れども、不安が先に立つ性格柄五分置き位に焦躁の念に襲はる。昼食を友人と摂り、話などをせばやゝ気持ちも収まれり。
十二時十分過ぎに大講義室に入る。ノートなどを見て復習せり。教室内、段々騒がしくなる。十二時四十五分頃監督者の助手の方々及び南野先生御入室。六法を貸与さる。次いで、解答用紙配布、科目名等記入。いづくにか「統治行為論」などと誤記せし者のあらざらんや、と思へり。引き続き、問題用紙配布。先生より「透かして見ない様に」又、「予想を裏切る問題」にあらざる旨御発言。
予定より六分程遅れ、試験開始が宣せらる。終了時刻は十四時四十分とする旨告げらる。教室に静寂が走るも、窓の外には雪の変はらずいたく舞ふ。緊張した中で、まづ書くべき要点を問題用紙に記して、ご要望どほり、ペンにて解答を書く。つらつらと書き行けども付け加へたきことが該当部分を書きたる後に出で来、「く」の記号を用ゐて書き足し、又、余白に小さき字にて書き足しにければ、げに醜き答案となれり。又、何処までの範囲を書くことの求めらるるか悩めり。
かくの如く、十四時三十分頃一通り書き終へれば、一旦見直し、余り良き答案は出来ざりしとの後悔の念起こるも、最早時間もなく、詮方無しと思へり。よりて答案を提出す。その際、先生依り「お疲れ様」と声をかけられるも自信のなければ唯、黙礼の外はなし得ず。而して、退出す。
帰路、種々反省し、書き落とした点など思ひつく。また、解答の方法の正しかりしか不安に思へども後は、天命を待つのみなり(天命は遥か仏蘭西共和国にて下さるといふ)。外は、雪の降りつづけ寒かりけり。
翌、二月三日木曜日朝、携帯電話のメエルを確認せば未明の零時五十八分南野先生依り受信あり。何事ならんと思へば此のレポートを書く様にとの由。然るに、同日十六時頃九州大学附属図書館中央図書館にて本文を執筆せり。

投稿者:井の中の蛙(法学部2年)      

 「期待を裏切らない内容」とのことで安心しきって受けた試験でしたが、実際に一問目を見てびっくり、「憲法学者にとっては悩ましいところ」と言っていた、内閣の議会解散権の問題が出ているではありませんか!「悩ましい」くらいだから、てっきり出ないものと(勝手に)思っていましたが、あえてそこを問題にした南野先生に脱帽・絶望しながら(笑)、何とか必死に書き上げました。
一問目は、内閣の議会解散権が行使できるのは69条規定の場合に限定されるのか否か、そして裁判所はこの点につきどのように考えるのか、というのがポイントだったのでしょうか。特に「悩ましい」のは、憲法の条文からは、69条限定説とするしかなさそうなのに、実際には69条非限定で行われており、どのようにして69条非限定説を根拠付けるか、という点でしょう。また、裁判所は苫米地事件でこの問題が争点となるも、結局純粋な統治行為論を用いて判断を回避してしまった、というのも重要な論点だと思います。この判決には、コラムの執筆者もさぞがっかりしたことでしょう。ただ、この点については時間の都合上触れることができませんでしたが・・・。
二問目は、裁判所法を持ち出してはいますが、要するに「司法」と「行政」をどのように定義づけるか(=限界を確定するのか)、という問題だった気がします。「言葉を大切にする南野先生のことだから、一問は定義に関するものだろう」と思っていたので、こちらはそんなに驚きませんでした。と、偉そうに書いているものの、今思えば「定義」を重視しすぎて、ちょっと裁判所法とはかけ離れた議論を展開してしまった気が・・・。もっとテーマに沿った議論をすればよかった、と後悔しています。
何はともあれ、無事に最後まで書けてほっとしました。変な言い方かもしれませんが、この講義で初めて大学の講義らしい講義に出会い、大学の試験らしい試験を受けることができたと思います。また、それに見合うだけの学力も養っていただけました。この半年間、本当にありがとうございました。

投稿者:M3(法学部2年) 

 ついに2005年度版の時間割りが出ましたね!! さっそく拝見させてもらってます。3年生からはいろんな講義を受講出来るんでかなり楽しみです(^-^)
それにしても統治機構論のテスト、ヤバかったです…書きたいコトがまとまらないまま書いてしまったんで、内容にまとまりが無い文章になってしまいました…

南野的アノンス(2005.2.5.記)

 角松先生の「行政過程論」の試験が終わったあとに(2月10日18時頃から)、箱崎で「お疲れ様コンパ」を開催する予定です。すでに統治機構論MLに、幹事を引き受けてくれた方からの案内メールが届いているはずですので、参加を希望する学生はそちらに早めに応答してください。MLに参加していない学生(そして法学部教員ももちろん大歓迎です!!)は南野まで直接メールで問い合わせてください。

投稿者:(法学部2年)           

 先生、統治機構論の講義おつかれさまでした。そしてこれからパリで採点がんばってください。
テスト、疲れました。樋口先生の教科書を三回も読んだので。問題は確かに期待を裏切らないものではありました。しかし、衆議院の解散に関しては去年も出ていたため、自分は勉強を怠ってました・・・。(2)については多分できたと思います。
講義に関してですが、初めは先生のペースについていけず困惑しましたが、次第に慣れてきました。自分にとっては司法の部分が面白かったです。特に高橋説の司法の概念を根底から覆す理論には感動しました。テストでも高橋説を書きたかったのですが時間がたりませんでした。

 さぁ、残る試験もあと三つです。がんばります。10日のコンパ楽しみにしてます。
それでは!

投稿者:やまっくす(法学部2年)         

 この講義を振り返ってまず感じたのは、今までの講義の中で一番集中できたな〜ということでした。もちろんレジュメ、板書がないので集中して聞いてないとすぐついていけなくなるというのもありましたが、何より講義自体に引き込まれていたような感覚でした。しっかりと準備されてきているのが感じられる講義と、どこか高尚な語り口調。最後の講義が終わったときに、もうこれで終わりなんだな〜という気持ちがこみあげてきて、先生の最後におっしゃってくれた言葉は強く心に染みて、授業を受けてこのような気持ちになったのは初めてでした。なんだか半年という、とても長い講演を聴き終わったような感覚でした。板書がないということで、必死に毎回の講義でノートを取り、少しはノートを取る力もついたのではないかと思います。講義内容では、やはり判例を読んでいって、判決内容についての分析をするのが興味をひかれ、おもしろかったです。以上、とりとめのない文章になりましたが、感じたことを素直に書いてみました。半年間、朝早い中お疲れさまでした。そしてありがとうございました。

回の選択に戻る

 

 

 

南野のHP  >  南野的授業  >  2004年度統治機構論  >  講義目次

 

inserted by FC2 system