九州大学法学部 2009年度後期

憲法 II (人権論)

聴講者による講義風景リポート集

その日その日の講義を聴講して感じたことなどを自由に書き、南野までメールで送ってください。その日の講義がどのようなものであったか、その風景もあわせて描写されているととても嬉しいです。より良い講義の実現のため、大いに参考にします。

 このページには、本講義の聴講者から寄せられた「講義風景リポート」を掲載しています。原則として、南野宛にメールで寄せられたリポートをそのまま掲載するつもりですが、明らかな誤字・脱字等については適宜訂正する場合があります。また Web 上での公開にふさわしくないと南野が判断した場合には、掲載しないこともあります。なお、後者の場合には、リポート送付者に対して南野からメールでその旨を連絡します。

 リポートの送付(投稿)は本名でもペンネームでも構いませんが、本名とペンネームの二重使用やペンネームの中途変更、さらに他人のペンネームと同じものや酷似したものの使用は避けてください。学部・学年などの情報も記載してください。なお、個々のリポートに対して南野が応答することは出来ませんが、必要に応じて、講義の場でコメントすることがあります

 あらためて言うまでもなく、リポートの送付者が特定できた場合でも、その内容が投稿者の成績評価に影響を及ぼすことはありません。

最終更新:2010年2月13日

 

 

 

第1回(2009年9月28日・月) 

投稿者1:ヤマシロ(21世紀プログラム2年)

 他学部からきましたが、学生が求めているものと、先生が求めているものの双方がレベルが高く、自分も触発されました。
 話が聞き取りやすく、テンポがいい。今後の授業に対するモチべージョンが上がりました。

投稿者2:カレー(法学部2年) 

 今日から後期の授業が始まりましたが、今日の講義はまさにそんな日にふさわしいものでした。周りのみんなもいつもとは違った面持ちで、真剣そのものでした。講義も、90分間単調な話が続くのではなく、緩急のついた集中できる講義だったと感じました。
  自分自身も、夏休みボケした体に鞭打って、気持ちを切り替えて頑張っていこうと思いました。

投稿者3:わっち(21世紀プログラム2年) 

 割と後ろの席に座っていましたが、頭が下がっている学生がほとんどいなかった気がします。
 このままいい雰囲気で講義が続いていけばいいですね。

投稿者4:イチカワ(法学部2年) 

 本日の講義、初回にもかかわらず、90分があっという間で、内容がとんこつ並みに濃かったです。
 夏休み明けの、だらっとした気持ちに喝を入れられた気分!
 次回からは、どうなっていくんだろうという気持ちでいっぱいです。
 あっ、あと、蛇足ですが法学入門に関する話は、かなり面白かったです。
 『ブリッジブック』買おうかなと思いました。

投稿者5:すのー(法学部2年)

 初回の授業楽しかったです。恥ずかしながら、今までまともにノートを取りながら受けた授業が殆どなかったので、新鮮でした。目次をきちんと口頭で示して下さったのでノート取りやすかったです!今後とも精進していきたいと思います。
 何より気付いたらほぼ授業の終わりで、時間を忘れて授業を聞けたことに自分で驚きました(普段は早く終わらんかなーと時計を何度もみるもので…)。

投稿者6:えっちゃん(法学部2年) 

 先生の今日の講義は僕が考えていた大学の講義って感じがしてとてもよかったです。
 僕はレジュメがあっても自分でノートを作る派なんですけど後押ししてもらえた気がしてうれしかったです。今後のノートの取り方も改善できそうです。
 GPAや基本書の重要性の話などは疑問も若干あったんですが、参考になりました。今伊藤塾でタブルスクールしているのですが、体験談等を読んでいると予備校のテキストだけで大丈夫だとかよく書かれているんですね。僕も伊藤塾で論文対策もあるからいいかと思っていたのですが目が覚めました。基本書もよく読み込むようにします。そこで早速長谷部先生の憲法を読み始めました。まだ少ししか読めてないですけどじっくり読んでいきたいと思います。

 読み返してみるとレポートというよりは個人的な感想になってしまっていてすいません。ですが、今日先生が話しているとき、夏休み明け一発目の授業の人も多かったのではと思いますが、頭が下がっている人がいつもより少なかった気がします。やっと法律科目をメインで勉強できるようになるのでこれからが楽しみです。

投稿者7:えむ&えむ(法学部2年) 

 事前に周りからから先生の講義が難しいと耳にしていたので、若干不安な気持ちで臨んだ初回の授業でしたが、受けてみると楽しく内容も充実していてこれから頑張ろうとやる気を持つことができました。

 このやる気を忘れずノート作り、予習、復習をしっかり行いたいと思います。

投稿者8:マルブランシェ(法学部2年) 

 法政基礎演習でもお世話になりました南野先生でしたので、非常に楽しみにしてました!
 今回は笑いありの授業でしたが、二面性を持つ(笑)南野先生ですから、次週からは生真面目な授業になるのではないでしょうか?
 個人的には笑いを随所に散りばめてほしいです。

 最後に、過去問で「講義レポートで3回以上登場した人を書け」という問いがありました。なので、みんなでレポート書いて正解候補を増やしましょう!

投稿者9:タク(法学部2年)

 法政基礎演習で南野先生のクラスであったので、南野先生の授業というものが、まるで初めてというわけではありませんでしたが、毎回新たな刺激を受けます。
 まだ授業らしいことは始まっていませんが、大変良い刺激を受けました。
 話の緩急の付け方もすばらしく、「あぁ、すごいな」と、ついニヤニヤしてしまいました。
 これから半年間、授業についていけるように全力でガンバリます。

投稿者10:きすけ(法学部4年) 

 憲法Uを未だに履修していなかったので受講させていただいてます。南野先生についてのお話(噂?)は色々聞いておりましたが、話が聞きやすくわかりやすいを心がけていらっしゃるというよい印象をうけました。今後の講義において期待がもてました。

投稿者11:今日のわんこ(法学部2年) 

 いよいよ南野先生の憲法が始まりましたね!
 2年生は南野先生の講義を受けるのが初めてなので、私も含めてみんなちょっとドキドキしていたと思います。
 今回はガイダンスでしたが、先生のお話は自分の頭の中に目次が浮かんでくるくらい整理されたものでしたので、これから始まる講義も聴くのが楽しみです。
 最後の方で先生が少し言及されていましたが、今年もこの講義を通じて「びっくりするくらいの南野先生ファン」がいっぱい出てくる予感がします。
 それではみなさん法セミ読みましょう!

投稿者12:いの(法学部2年)

 始まりましたね、南野先生の憲法。
 五感をフル回転させないとついていけないと某先輩に聞いていた南野先生の憲法が、新学期の初日にあるなんて、ついてないぜ!って思っていた未熟な自分でしたが、いざ講義が始まると異様なまでに集中していて、いつの間にか講義終了の時間になっていました。
 おそらく、この不思議な現象は私の友達にも起きていたらしく、いつもは眠気眼の某友達も童心に返ったかのような満足そうな笑顔で、講義終了を迎えていました。恐るべし!南野先生!!
 これからも、関西仕込みの軽快な講義、期待してます!

投稿者13:ろっちゃん(法学部2年) 

 初回の講義を受けて、南野先生の大学教育に対するご熱意が伝わってきました(ゼミでもないのにメーリスがあるのも驚き!)。大学教育はどこか冷めているイメージがあるので、すごく新鮮に感じました。

 南野先生の熱いお気持ちに応えられるかわからないけれど、予習、復習をきちんとして、たるんだ自分を変えなきゃ!!!と思いました。

投稿者14:Uchi(法学部2年) 

 前期は基礎ゼミでお世話になったということで、講義を楽しみにしていました。
 講義ということでゼミの時とはまた気持ちを入れ替えてより真剣に臨みたいです!

 今回はガイダンスが主となりましたが、時が過ぎるのが早かった気がします。
 先生は関西出身ということで話術に長けていると感じました〜。

 後期は教科書を常に先に読むのを目標に頑張りたいと思います。

投稿者15:ベルクト(法学部2年)

 これから先生の熱く面白い授業が始まるのかと、ワクワクしてます。
 ついていけるのかという不安もありますが、まわりの友達に負けないように、集中して勉強したいと思います。

投稿者16:くどぅ(法学部2年)

 今回は初の授業でした。
 本ゼミ生の先輩方から「南野先生の授業はわかりやすいし、面白いよ」と聞かされていたので、楽しみにしていました。
 運悪く今週の月曜日は部活のリーグ戦があったので初回からでられないのかぁと思っていたのですが、雨で延期となり、運良く出席できました。出席してみて、先輩方の評判通りの授業になりそうでこれからも楽しみです。
 基礎ゼミでは発言を毎回することができないヘタレでしたが、今期の憲法では汚名返上とばかりに頑張りたいと思います。

投稿者17:ほたて(法学部2年)

 南野先生の授業は大変だと聞いていましたが、初回の授業に出席して良い意味で期待を裏切られました。
 正直前期の成績は散々たる結果でしたが、後期からは気持ちを入れ替えて新たに頑張りたいと思います。

投稿者18:羊の夢(法学部2年) 

 「授業は面白いけど、テストは鬼畜」と聞き及んでいた、南野先生の憲法がついに始まりました。
 まず感じたのは、南野先生の講義は、噂通り面白い、というのが正直な感想です。
 そして、この先生すごいなぁ、と思わされました。
 話に引き込まれて、もっと聞きたいと思わされました。
 筋道のたてられた話し方によって、話について行きやすかったです。
 憲法について学ぶと同時に、人を引きつける話し方などのスキルも学べそうですね。

 最後に、「今年の基礎ゼミには女子学生が一人しか来なかった!女子に嫌われいてるのか!?」とおっしゃっていましたが、言い訳ですが、先生のこと嫌いじゃありませんから!実力不足で先生の基礎ゼミを敬遠しました。
 この授業を通して、しっかり実力をつけていけるようがんばろうと思いました。

投稿者19:Leon(法学部3年) 

 初回の講義お疲れさまでした。ガイダンスとはいえ久しぶりの先生の授業で、あぁ〜こんな感じだったなぁと思いながら受けていました。
 残念ながら私の失われたGPAが回復することはありませんが、憲法自体は好きですし、先生の授業も楽しかったので、今期再履修することにしました。昨年の二の舞にならないよう努力してリベンジしたいと思います(笑)。
 そういうわけで、楽しみながら授業を受けたいと思いますので、よろしくお願いします。

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第2回(2009年10月1日・木)

投稿者1:マルブランシェ(法学部2年)   #020

 今日は2回目だったわけですが、まず人権や自然権は奥が深いなぁと思いました。外国を知ることや見ることの意義が伝わってきました。
 また、日本語というか言葉の解釈の大切さと難しさも感じました。

 最後に・・・
 先生、今日は個人的な進路相談に応じていただいて、ありがとうございました! 次回の授業も楽しみにしてます!

投稿者2:じょん(法学部2年) 

 遂に、授業が本格的に始まりました!
 90分喋り倒す大学の講義を、ノートにまとめられるのかと不安でたまんなかったわけですが、ノートをとり始めると思った以上に手が動きました。いつもは講義中は仮死状態の友達も、起きてしっかりノートをつくってたので、それにも驚きでした。
 書いてて、『漢字を忘れてる』と思ったので、そこも思い出していきたいです。 

投稿者3:やす(法学部2年) 

 「人権論」ということでやはり最初は人権の概念についての講義でした。法学セミナーの「憲法学と人権」を読んでいたおかげで講義が分かりやすく思えました。復習も大事ですが予習の大切さも実感しました。
  講義の中で印象に残ったのは伊藤博文と森有礼による憲法草案についての論争です。彼らが西洋の思想をいち早く理解し新しい国家作りに役立てようとする熱意があったからこそ今日の日本があるように思いました。
 次回の講義も楽しみにしています。 

投稿者4:いいちこ(法学部2年)

 やはりレジュメの配布なしだと授業に対する気合いの入りようが違いますね。聞き逃したらアウトの緊張感がプラスの効果になりました。
 授業後に仲間同士でノートを確認し合ったりと、学生らしい行動を久しぶりした気がします。
 やはり予習はマストですね。理解度が全然違います。

投稿者5:雨林(法学部2年) 

 真ん中の方の席にいると、鶴翼みたいに学生が座っているように見えます。先生の側からはどう見えるんでしょう。
 法の精神の原本があったという話は初耳でした。蔵書の充実度を知るにつれ、九州大学が本来持っている可能性というものが迫ってくる気がします。
 関口教授はミルでした。

投稿者6:1093(法学部3年)    #025

  昨年も受講した者です。今年は、昨年自分が取りこぼしたと思われる所を意識しながら、講義を受けたいと考えています。半年間よろしくお願いします。
  今回は人権総論でした。人権という言葉について考えてみると、その内容をはっきりと、かつ網羅的に定義することは、非常に困難なことがわかります。ですので、内容の正確な定義に固執するよりも、歴史や思想を一旦通してその語感を「感じとった」方が、より人権について理解できるのかなと思いました。特に樋口先生の教科書は、歴史に関する記述が相対的に豊富で、他の教科書では知ってて当たり前と詳述されていないところが丁寧に書かれていて、重宝しています。 総論というものは、概して細かいことを気にしすぎないことが重要だと思います。ノートをとるときも、話の論理関係を中心にまとめた方が、流れがつかみやすく、後で詳しく復習することで全体像がより鮮明になるのかなと思いました。

投稿者7:今日のわんこ(法学部2年) 

 今日から本格的に人権論の講義がはじまりましたが、 個人的には、今回の講義の予習参考資料にもなっていた南野先生の法セミの論文を去年から何度もくり返して読んでいたので、今日の講義を受けてなんだか感動してしまいました。たとえるなら、自分が前から読んでいた本が映画化されたのを見たような感じです(笑)。今まではこのような体験がなかったので、改めてなんだか大学っぽいなぁとも思いました。次回の講義も楽しみにしてます!

投稿者8:仮死状態(法学部2年) 

 初めての投稿です!ペンネームは諸事情によりこれに決定しました。
 ええそうです、じょん君(投稿者2)のせいです。由来はおそらく、僕が講義中にときどき集中が切れてふとあちらの世界に旅に出ているときに見せる、あれのせいだと思います。
 ええそうです、半目です。いつだったか友だちに僕の寝顔の写真を見せてもらったことがあります。「半目」とか言ったってたいていはせいぜい2〜3割開いている程度でしょうが、僕のはきれいに「半目」でした。

 閑話休題。

 今回からいよいよ本格的に内容に入りましたね!
 前もって先生から読んでおくべき資料の紹介があったこともあり、内容がスッと頭に入ってきた気がします。
 復習もさることながら、予習も大事ということですね!頑張りましょう!!
 次回からの投稿ではもっと授業に関連したことを書きます。

投稿者9:ほうく(法学部3年) 

 今日は1年ぶりに南野先生の講義に出席しました!先生はスーツでバッチリきめてらっしゃって気合い入ってるなぁ〜と感じました!「去年もスーツやったやんけ!」と先生はおっしゃってましたが、「スーツちゃうかったやんけ!」という印象が残っています(笑)。
 また、昨年からこのリポートを書いている身からすれば、(第1回は特に)講義風景リポートを書く方が多く、ものすごく盛り上がってるなぁ〜と感じます!!これからもこのページを活気づかせていけたら面白いと思います!
 今日は「人権」という語の話でしたが、森vs伊藤の論争がやはり面白かったです。たしかに森の主張するように憲法に「人権」を書くことによってそれが自然権であるという「思想」は薄れるかもしれませんが、しかし、結局のところ、憲法(という「国制」)としてはそれに書かれた分(範囲)の権利の保護を予定しているのだから、憲法に権利が書いてあるといぅことに意味があるような気がしました。特に現代の日本国憲法ではそれに基づいて裁判所が違憲審査をするわけですから…このことは「自然権」とはいえそうにない参政権などについても同じだと思いました。
 とはいえ、「人権」と「憲法上の権利」を区別する、次回の講義でこの点についてさらに明らかにされると思います!!

投稿者10:タク(法学部2年)

 ついに授業が始まりましたが、やはり内容の濃い90分だったと思います。
 ここまで、さまざまなことに気を張って授業を受けたのは、恥ずかしながら初めてだと思います。ノートの取り方を改めて考えつつ、授業内容を理解するのは大変難しく、大変疲れました。
 今後とも、しっかりと授業についていけるよう、ガンバリます。

投稿者11:シュー(法学部2年)   #030 

 今回から本格的に人権論の講義に入った訳ですが、まぁ〜充実した90分でしたね。
 講義の大事な箇所を理解しながらノートに書き取る…もし1限から5限まで南野先生の講義だったら腕がつってたかもしれないですね(笑)。そうならないためにも、講義の予習・復習・腕の筋トレ?を欠かさずにこれからの講義を受けていこうと思います!!

投稿者12:カレー(法学部2年) 

 第2回の講義は、人権ということばやその背景についてがメインでした。一言でいうならば、「あっという間」。師弟双方が一生懸命といった感じの90分間でした。
 しかし、家に帰って自分のとったノートを見直してみると、穴だらけでした。講義中いくら集中してるとはいえ、聞き漏らしたり、書き間違えたりする箇所があるようです。今までは、自分のとったノートは完璧だということにして、講義が終わればテスト前までそのページは開かずじまい、というようなことをしていました。これでは駄目ですね。毎回の復習が肝要だとつくづく感じました。

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第3回(2009年10月5日・月)

投稿者1:マーヴィン(法学部3年)

 憲法11条と12条についての部分で、人が人であるが故に持つ「人権」と憲法上の権利を分ける解釈を聞いてふと死刑制度のことが頭に浮かびました。
 ”憲法上の権利=人権”と定義すれば、人を何十人も殺した凶悪犯罪者は社会に多大な害を及ぼすから、死刑に処すことも公共の福祉にかなうので認められると解釈できるように思えます。
 しかし、先生のおっしゃるように、人権と憲法上の権利を区別し、人権=人が人であるが故に持つと定義すれば、先生の言葉を借りると人権とは”たとえ社会全体の利益に反してでも守るべき権利”であるのだから、どんな凶悪犯であっても公権力がその命を奪うことは違憲であろうと思いました。
 現在は、法学部で学ぶ者として南野説に大きな説得力を感じる部分と、感情的な面でどれだけ他人の命を奪っても死刑にはならないことへの抵抗とが頭の中で対立して妥当な結論をずっと考えています。

投稿者2:Uchi(法学部2年)

 今日は人権の概念の第3節の説明が講義の中心となりました。
 授業の後、ノートをまとめようとすると書くべきことの取捨選択がなかなかうまくいきません。難しいです。

 ブリッジブックの第6章を読み返したのですが、去年の法学入門での内容を思い出して少し懐かしい気分になりました〜。

投稿者3:イチカワ(法学部2年)

 人権の概念と分類が講義内容だった3回目でしたが、改めて「人権」とはなんなのか?と考えさせられた講義だったと思います。
 「人権」と「憲法上の権利」を使い分けるという考え方は、 聞いた最初は?という感じでしたが、講義を通して「人権」と公共の福祉 の関係、マイノリティー問題にまで考えが及ぶ、深いものに思えます。 (←ちょっと日本語がおかしいですが。)
 マイノリティーや社会的弱者の問題に以前から興味があっただけに、ノートをとりながら、思わず考え込んでしまいました。

投稿者4:タク(法学部2年)   #035

 授業がどんどん進行していますが、毎回たるむことなく授業を受けられています。
 二回の授業で「人権の概念」を学んできたわけですが、授業を通して「人権」という言葉の意味を改めて考えさせられました。
 判例を読む際のとても参考になる考え方だと思います。

 あと、昨日は久しぶりの基礎ゼミコンパ、どうもありがとうございました。ぜひ人権論受講者の飲み会も企画してください。

投稿者5:ほうく(法学部3年) 

 前回とはうってかわって「危機」ということでリポート書きます。
 今日は人権と「憲法上の権利」の区別について講義されました。両者を区別する意義について、人権という語のパンチ力を取り戻すという話には強く共感しました。
 一方、日本国憲法の文言の解釈として整合的であるという説明には多少の違和感を覚えました。たしかに文言上「基本的人権」と「自由及び権利」という違いはありますが、共に「この憲法が国民に保障する」という言葉がくっついていて、そうだとすると、両方とも「憲法上の権利」ではないのかと感じました。結局のところ、両者を区別する考え方には、自然権思想を採用するという以上の論拠はないのではないか、また、それだけで解釈を支えられるのか、という疑問が残りました。
 こんなことを書いては先生から「人権感覚」を疑われるかもしれませんが…(笑)

投稿者6:カレー(法学部2年) 

 今回も前回に引き続き人権総論の部分の講義で、人権の概念やその分類について学びました。人権を「人が人であるがゆえに当然にもつ権利」と定義することで、人権の分類や理解が容易になるような気がしました。

 今回の講義に限らず、やっと大学で「学ぶ」ということの楽しさが感じられる、そんな90分間だと感じています。そして、大講義室に一体感が生まれているような気がするのは私だけでしょうか。出席している学生全員のベクトルが、同じ方向に向いている、そんな感じです。おかげさまで、サッカー選手並みに90分集中できています^^

 これからも、90分間集中力を切らさず、一戦一戦を闘い抜いていきたいです。

投稿者7:すのー(法学部2年) 

 授業の始めに前回の内容に軽く触れて下さったので、聞き漏らしていた部分やあまり理解出来ていなかった部分を復習できてよかったです。
 さて、今回は人権についてでしたが、「人権」を「憲法上の権利」と区別して使うという考え方には非常に説得力があるように感じました。また、長谷部さんの教科書を読んでいたのですっと頭の中に入ってきました。やはり予習も大事なんですね。

 今日はブリッジブックを読んで寝たいと思います。

投稿者8:くどぅ(法学部2年) 

 お疲れ様です。

 前は統治機構の方が好きだなと思っていたのですが最近この充実した人権論の授業をうけてきて、人権論もいいなぁと思うようになってきました。そして、そろそろ基礎ゼミでも扱った私人間効力のところが来るのではないかと思われるので楽しみにしているところです。次の授業も90分しっかりとできるだけ聞きもらさないよう集中していきたいと思います。

 そして、完全な余談ですが、飲み会などで全くトークのできないダメなやつというポジションが固まってきてしまっています。なんとか打開せねばと思うので、憲法の学力向上とともに南野先生のようなトーク力とはいかないまでも、普通の学生レベルに引き上げるのを今学期のテーマとして頑張っていきたいと思います。

投稿者9:今日のわんこ(法学部2年)   #040 

 今回の授業は第1章3節「人権」と「憲法上の権利」の話がメインでした。
 この話については長谷部先生の教科書で予習をしたときに理解はできたもののいまいちピンと来ていなかったのですが、今回の南野先生の授業を聞くととても納得できました。

 ただ私は普段から人に影響されやすいので、授業の中で先生がおっしゃった「いろいろな学説を学ぶときはどれも鵜呑みにしないでちゃんと自分の頭で考えるように!」という言葉も常に頭に置いておきたいと思いました。
 次回の講義の日には台風が接近するみたいですが、がんばりましょう!

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第4回(2009年10月8日・木)

投稿者1:バーベキューソース(法学部2年)

 ナゲット美味しかったです。遅くなってすいませんでした。

 今回初めてリポートを送りますが、毎回充実した授業で時間いっぱい集中することができています。
 この授業を含め専門科目が本格的に始まりましたが、予習の大切さを痛感しています。
 連休中にしっかり予習復習をして、これからの授業についていけるようにしたいと思います。

投稿者2:カレー(法学部2年) 

 今回の講義では、人権の類型と違憲審査制の思想の誕生の背景を学びました。
 日本は違憲審査制を採用することで、人権や憲法の最高法規性の保障を目指していますが、同時に付随審査制を採用しており、違憲審査はあくまで紛争の解決に付随的に行われます。そして、違憲審査の対象となる訴訟には具体的争訟性が必要で…といったように、人権の裁判的保障という割には、十分に役割を果たしているのか不安です。紛争(人権侵害)が起こってから付随的に審査するようでは遅いですし、本当の人権保障とは言えないのではないでしょうか。

 話は変わって、憲法学に限らず、学問は繊細だなと思いました。
 ノートを取るときに、「人権」と「権利」のどちらを使うべきかということを真剣に悩んだことは生まれて初めてです。定義次第で全てが変わってしまう繊細さに、学問の「味」を感じた一日でした。

投稿者3:マルブランシェ(法学部2年) 

 まず、台風の影響もなく良かったです。
 さて、今回の講義ですが、チキンナゲットに始まり、チキンナゲットに終わりました(笑)
 重要なのはその真ん中のわけですが、権利について、さらには九大法文学部初代学部長の美濃部達吉さんの話にまで及びました。

 最後に月曜日は休みなので、しっかりと復習します。

投稿者4:タク(法学部2年)

 三回にわたる授業を通して、「人権」「権利」という言葉の意味を考える契機となりました。
 前回の授業では「人権」という言葉を深く考えさせられましたが、今回の授業では「権利」という言葉について考えさせられました。
 日本では、第二次世界大戦中の治安維持法と男子普通選挙法のように、いわゆる「アメとムチ」のような関係で、国家が義務を課すかわりに権利を保障する、という雰囲気が戦後も残っているような気がします。
 やはり「権利」は「正しいもの」でなければならず、無条件に保障されて然るものだと思います。
 日本人の意識の問題かも知れませんが、重大な問題であるので、真剣に取り組まなければならない課題であると思います。

投稿者5:あーちゃん(法学部2年)   #045 

 先生の授業も4回目となりましたが、レジュメや板書がないほうがかえって授業に集中できて90分充実した時間を過ごすことができています。
 今日は権利の類型と、日本国憲法におかれている権利についてのお話でした。
 「〜からの」自由は「国家からの自由」であると同時に、裁判的保障という点では「国家による自由」であるという話に目からウロコでした。

 上杉慎吉や夏目漱石の話も興味深かったです。私は生まれてこのかた日本を出たことがないのですが、急に海外に飛び立ちたくなりました!

投稿者6:すのー(法学部2年) 

 今回の講義では、「権理」という言葉に妙に納得させられました。いつか「権理」が正しい日本語になったらいいのにと思います。

 さて、リポートはこの辺迄にして、HP上の「南野的手品」について。あれは手品と称していい代物なのでしょうか?苦笑
 しかし、大好評!と書いてあるだけあって、楽しめました。
 「南野的錯覚」も感動の連続でした。
 皆さん、騙されたと思って是非一度クリックしてみてはどうでしょうか?

投稿者7:あま党(法学部3年)

 本日10月13日発売の法学セミナー11月号を早速購入して、南野先生企画の「統治機構論入門」を読ませていただきました。
 2年前に南野先生の憲法の講義を受け始めて以来ほとんど興味を持てずにおり、勉強も放棄していた統治機構論ですが、今回の企画、特に南野先生の論文を読み、自分でも驚くほどに今更ながら興味を惹かれ「ぞくぞく」しました。
 恥ずかしながら、未だに『岩波講座憲法1/立憲主義の哲学的問題地平』も読んでおりませんでしたので、できるだけ早く読んで勉強を深めたいと思います。

投稿者8:イチカワ(法学部2年) 

 南野先生、生協書籍部で挨拶しただけなのに、2年生と知るや否や、『法学セミナー』最新号の押し売り、ありがとうございました(笑)。
 さて、チキンナゲットから始まり、チキンナゲットで終わった 第4回の講義は、「権利の類型」と「人権の享有主体」についてでした。
 「権利の類型」では、違憲立法審査制に話が及びました。統治機構論でよく出てきますが、こんなところにもかと素直に思い、そのためにも『法学セミナー11月号』は必要かなとか思いました(笑)

 あと、講義の感想ではないですが、授業後に上杉慎吉をwikiで 調べたところ、上杉氏のエピソードがかなりあっさりしていて、 残念でした(苦笑)。

投稿者9:やす(法学部2年) 

 今回の講義では違憲審査制が取り上げられました。それまでの議会主権の流れを断ち、憲法違反と判断されれば国民に選ばれた代表の決定でさえ覆す制度を認めるというのは19世紀初頭においては突拍子もないことだったと思いますが、イギリスから独立したアメリカで権限が宣言された歴史を振り返ると納得がいきました。憲法及びそれにまつわる思想はその国の生い立ちと密接に関わっていることが分かります。憲法を学ぶにあたっては歴史に着目することも大切だと思いました。

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第5回(2009年10月15日・木)

投稿者1:カレー(法学部2年)   #050

 今回の講義では、人権の主体について学びました。まず、天皇の人権享有主体性についてですが、通説は通説なのに理論的に筋が通っていないなあと感じました。そして、人権や国民の定義がぶれているように感じました。
 私としては、高橋先生や樋口先生の考え方のほうがしっくりきました。

 次に、外国人の人権享有主体性についてですが、外国人を事実上雁字搦めにするような最高裁の方針に恐ろしさを覚えました。外国籍を持つ友達がいるので、判例変更させるべく近々提訴させようと思いました(笑)。いえ、笑いごとではなく、日本という国家は、表向き平和を訴え世界に貢献する国でありながら、恐ろしい一面を隠し持つ国家だなとつくづく思いました。

投稿者2:タク(法学部2年) 

 今回の講義では「人権の主体」が主たる内容でしたが、難しい問題だと思います。
 特に、外国人の権利については悲惨な状態だと思います。外国人だからという理由で、権利を制約されてしまう、特に「表現の自由」などの不可侵な権利としての「人権」までもが認められないというのは、グローバル化された現代社会においては間違ったことだと思います。
 だからと言って、無制限に認めてしまうのも、問題があるようにも思います。

 個人的には、「外人」の言葉については興味深かったので、ぜひお聞きしたいと思いました。

投稿者3:アーキ(法学部2年) 

 『法学セミナー 人権論入門』『ブリッジブック法学入門』を先生の研究室で買わせていただきました。どうもありがとうございました。『法学セミナー 統治機構入門』も購入して、読み進めていこうと思います。

 さて、今回の授業ですが、いつものようにあっという間の90分でした。やはりレジュメがないことで講義に集中できている気がします。今回の授業ではマクリーン事件を取り上げましたが、論文や教科書を熟読してしっかり復習したいと思います。

投稿者4:くどぅ(法学部2年)

 今回は権利の享有主体性について学びました。講義の中で特に外国人の権利についてが個人的には興味深かったです。マクリーン事件の判例の理論にはどうしても疑問を感じずにはいられませんでした。そこで、メーリスで補足資料として挙げられた安念論文・長谷部論文をコピーして早速読ませていただきました。学者の先生がいっていることを鵜呑みにするというわけではありませんが、だいぶ頭の中が整理出来た気がします。個人的にはこれからの講義でも、このように判例が出て来た時に参考資料として論文を挙げていただくと大変勉強になりありがたいです。

 次にですが、法学セミナー統治機構論特集を買って、現在読み進めさせていただいています。南野論文の感想といたしましては、この講義の最初の方で触れられたことが詳しくそして分かり易く書かれており、授業の復習にもなり、並びに近代立憲主義に対し、いまだになんとなくふわふわしていた部分が実像として現れてきた気がしました。また、現在他の先生の統治機構の論文を読み進めている所ですが憲法T(統治機構論)の講義で習った箇所が書かれているので、より一層興味深く読めている気がします。

 次回の講義も頑張りたいと思います。

投稿者5:雨林(法学部2年) 

 『法学セミナー2009年11月号』の「近代立憲主義」、時間ができたのでようやく読めました。大変面白かったです。
 前回の「人権論特集」と併せて読むと、歴史の歩みの大いなる流れがひしひしと重みを伴って感じられたように思います。

 折角大学に在学しているのですから、ロックやモンテスキューの古典に挑戦しなければならないですね。します。

 第5講は、権利の主体についての講義でした。
 今回出てきたラテン語も出題されるのでしょうか。覚えましょう。

投稿者6:今日のわんこ(法学部2年)   #055 

 今回は人権の享有主体性についての講義でしたが、いよいよ人権総論の総論が終わってこれからはもっとしっかり
頭を使っていかなければならないなという印象を受けました。
 講義の途中でちらっとみんなの様子をうかがってみましたが、みんなかなり真剣な様子でノートをとっていたのでこちらもまた身が引き締まる思いがしました。

 さて、講義後私も安念先生と長谷部先生の論文を読んでみたのですが、私はくどぅさんとちがってすぐに頭がすっきりという訳にはいきませんでした。しかしやはりくどぅさんも書いていたように、参考文献として論文を挙げていただくと大変助かります。内容ももちろんですが、論文を読むという作業自体を継続していくこともこれからの勉強のために意識していこうと思いました。

投稿者7:new(法学部2年) 

 正直、憲法は苦手な分野で興味もなかったのですが、村西先生の授業を受けて、憲法に興味がもつことができ、南野先生の講義をうけて憲法が好きになりました!私的にではありますが、ナイスコンビだと思います!

 「授業中は集中しなければおいていかれる!」という危機感はありますが、参考書には書かれていないことを授業で学ぶことができ、とても充実しています。残りの期間もどうぞよろしくお願い致します。

投稿者8:つまぶき(法学部2年) 

 5回目にして初のリポートを書かせていただきます。
 第1回〜第5回までの講義が終わり、先生がおっしゃるとおりそろそろ復習に力を入れなければと感じています。
 今回講義の内容に関しては、先生が主張した「憲法十条はいらないのではないか」ということに考えさせられました。また、これは私的な疑問ですが、国民を守るためにある憲法が、国民の範囲を法律で決めることを容認するということは、憲法の適用範囲が下位法規である法律によって決められてしまうことになると思います。これはどうなのでしょうか。この点に少しもやもやした疑問を抱えています。

投稿者9:ぴっころ(法学部2年) 

 後期も始まり、楽しく講義を聞かせて頂いています。
 大学生として低レベルなことではありますが、まだ一回も寝ることなく、憲法なんて…と思った時期もあった頃を悔やむ今日この頃です。でもやはり,憲法よりも講義中の雑談の方が楽しくて仕方ないです。

投稿者10:えっちゃん(法学部2年) 

 今回は権利享有主体性についての授業でした。講義を聞いていくうちに、もし自分が天皇だったら、非嫡出子で生まれたら、などを考えさせられました。
 憲法との関連はないですが、個人的にマクリーン事件については無届で転職をしているため在留期間を更新してもらえなくても仕方がないのではと思いました。

 法学セミナーの人権論特集を先日読んでみました。二重の基準論や私人間効力について予習ができてよかったです。
 統治機構特集のほうも読んでみたいと思います。

投稿者11:しばさきこう(法学部2年)   #060 

 講義も第5回を終了し、どんどん内容は本格的なものなってきている気がします。
 さて、今回の講義では、個人的には権利性質説のところが一番印象に残りました。保障されるかされないかは権利の性質によるというのは、第3回目の講義の内容である「人権と憲法上の権利」の部分と関連しており、とても理解しやすく、先生の講義が体系だっていてわかりやすいことに感動を覚えました。と、同時に一つ一つの講義内容の関連性とそれらの復習の必要性を強く感じました。
 これからは予習としての復習をしていきたいと思います。

投稿者12:しぇる(法学部2年)

 今回の授業は権利の主体についてでした。第三章の題名に「国民の」となっていることに重大な問題があることは全学教養の徳永憲法で聞いていたんですが今回の授業でイメージがつきました。つまり、天皇の権利制約の問題も外国人の権利制約の問題も国家が治安維持法のように気にくわない奴に手出しができる余地があるということだと思います。外国人に対する国家の権力の使い方にはもっと注意を払う必要があると感じました。
 正直人権の概念や類型の授業は研究者肌ではない自分にとってあまり興味が持てなかったけど、今回のように具体的な被害者や判例があると頭に入って来やすかったです。ぼぉっとしてると言われましたがこれからも集中して授業に臨もうと思います。

投稿者13:オスカル(法学部5年)

 毎回楽しく講義を拝聴させて頂いております。
 講義後半の「外国人の人権」は、今回たくさんの方々が感想として述べられているように、考えさせられることが多いテーマだと思います。

 人権保障の概念がこの60年間で一応のグローバルスタンダードになったとはいえ、「外国人だから」いう理由で、その国の国籍を持つ人と比べて権利が一定の条件で制約されることはいささか仕方ないように思います(南野先生や長谷部先生が言う「人権」が制限されてはいけないですが)。
 今回のマクリーン氏の場合のように日本にルーツを持たず、在住が数年の方の場合は、です。
 では、在日朝鮮人の方々の場合はどうすれば考えればよいのでしょうか? 彼らは日本で生まれ、または育ち、日本社会にほぼ溶け込んだ存在です。ただ、日本国籍を有しない方は地方選挙権を持たず、社会給付も一部制限されています。歴史的背景もあり、この問題は複雑に感じられます。
判例や参考文献を熟読する作業がこれから増えるかと思いますが、その量と難解さに遅れを取らないように、精一杯ついていきたいと思います。

 長くなりましたが、もうひとつ。前回(10月8日)の講義で、南野先生が上杉慎吉氏の例を引き合いに海外渡航の重要性を語っておられました。
 お金のかかるイベントですが、騙されたと思って行ってみることを是非お勧めします。自分も3年生のときに南野先生に海外渡航を勧められ、実際に学祭期間を利用して2週間弱イタリアと中東に行ってきました。言語の壁というどうしようもないものにぶち当たり、異国の空気を満喫する体験は、社会に出ればなかなか実現できないかもしれません。今しか出来ないという意味でも、この若い年代の長期の海外旅行は非常に貴重です。そして、その時はぜひ1人で行ってみてください。周りに何の助けも無い、まさに自分ひとりしか頼る存在が無いとき、その人の真価が試されるかもしれません。

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第6回(2009年10月19日・月)

投稿者1:Kusunoka(法学部2年)

 今日の講義の流れは、外国人の権利に関する学説、マクリーン事件の概要とその解決案の紹介でした。日本における外国人の権利、特に在日外国人の問題は、非常に興味をそそられるテーマですので、面白く聴かせていただきました。
 ところで、在日外国人の問題は、(憲)法的問題よりも、政治問題として語られることが多いと思います。その最大の原因は在日外国人に対する法的な権利保障制度が不十分で、そもそも法的問題に発展しにくいこと。また、歴史的な民族感情や民族差別が、法の及ばぬ地域で存在していること。あと、これは憶測に過ぎませんが、200万人を超える在日外国人の「票」に関する政争も挙げられると思います。
 未だ不勉強ですので、外国人参政権に関する個人的な結論を出すのは躊躇します。
 しかし在日外国人参政権付与に賛成と言われている民主党が政権を獲得した以上、政治の動きは躊躇しないでしょう。眠っていた国民(有権者)感情がイデオロギーをまとって噴出するはずです。ですので未成年者の私は、その国民的議論を、とりあえず注視したいと思っています。

投稿者2:new(法学部2年) 

 今日の授業は前回の授業に引き続いてのマクリーン事件についてでした。表現の自由は認めはするものの、行使したら不利益を与える。言葉は悪いのですが、正直のところ「日本政府はせこいなぁ」と思いました。様々なことを考慮した上での判決だとは思うのですが、実質的には権利を保障できていないという点で、果たして本当に評価できる判決なのか疑問に思いました。また、この問題をどのように解決すべきか、ということについては、日本国憲法ではなく、国際人権法に救いを求めるというものがありましたが、なるほどなぁと思いました。日本で起きた問題だからといって、日本の最高法規が絶対ということではないことを新たに認識することができました。今後はワールドワイドな視野をもって、憲法問題に取り組みたいと思います。

投稿者3:タク(法学部2年)   #065 

 前回に引き続き、外国人の人権がテーマでした。
 現代日本の人権の在り方に関しては、世界的に非難されていることは知っていましたが、ここまでひどいことを知り、悲しくなりました。外国人に基本的人権すら許さない先進国は、本当に「先進国」であるか疑問に思います。
 マクリーン事件への考察に関しては、裁量の問題は概ね理解できましたが、国際人権法の範囲は、自分の知識の不足もあり、なかなか難しかったです。復習で補えるようにがんばります。

投稿者4:今日のわんこ(法学部2年)

 今回は前回に引き続き、外国人の権利享有主体性についての講義でした。
 前回参考文献として長谷部先生、安念先生の2つの論文が挙げられましたが、今回の講義でそれらの参考文献についても触れていただいたので、今回の講義の内容に対して参考文献をどういった視点で読めばよかったのかなどの確認が出来てよかったです。
 また私たちでは知ることの出来ない、論文の筆者がどのような方か、さらに他にどのような論文を書かれているのかというようなお話は、特に論文を読むにあたっての楽しみの一つになるのでこれからも時々お話していただければありがたいです。

投稿者5:カレー(法学部2年)

 今回は、日本における外国人の権利享有主体性の問題を、国際人権法によるアプローチで解決できないか、という論点について学びました。確かに、外国人の権利享有主体性の問題を、憲法問題としてではなく、国際法上の問題として考えるという発想はよいと思いました。
 しかし、国際法の法源のひとつである条約は、事実上厳格な拘束力はないのではないかと私は考えます。条約は複数の国の間で結ばれる取り決めであり、その構成員である国々たるや、人種や言語はおろか、宗教や法制度までも異なっています。制定の過程には、各国の利害が衝突しあいます。つまり、条約は、純粋に正義を貫いたものは少なく、各国の利害の衝突が積み重なってできた、いわば妥協の産物である面があるからです(具体例を挙げれば、核廃絶に向けた諸条約です。正義を貫くなら、一発で「今日から核を廃絶しよう、の条約」ができあがるはずです)。加えて、条約ができても批准するかどうかは各国の判断に委ねられます。日本が、通報制度等、不利益な部分を批准していないように、内容が気に入らなければ批准しない、のでは解決が遠いのではないかな、と感じました。
 余談ですが、法学セミナーの統治機構論特集のうち、南野先生の部分を読んでみました。先生は、「Aであろう――これをBではCと呼ぶ――」とか、「D――これにはE、Fを含む――」という書き方がお好きなんだなと感じました。皆さんもぜひ読んでみてください。きっとわかるはずです。笑

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第7回(2009年10月22日・木)

投稿者1:new(法学部2年)

 今日の講義ありがとうございました!難しい内容でしたが、憲法以外の話も聞けて興味深かったです。

 今日の講義は外国人の公務就任権でした。今回の授業で「特別永住者」という言葉を初めて聞いたのですが、私も「外国人であるから」という理由で一律排除してしまうことに反対です。先生もおっしゃっていたように、在日朝鮮・韓国人の中には、日本人によって無理矢理連れてこられた人々の子孫もいます。そんな人達に対して、日本の都合で権利を制限するのはおかしいのではないでしょうか。様々な事情があるとは思うのですが、日本という国は本当に自分勝手だなと思ってしまいました。
 憲法とは関係ない話になるかもしれませんが、北朝鮮の拉致問題・核開発に対しても、日本は北朝鮮側を批判する一方です。私も、北朝鮮に対しては怒りを感じています。ですが、かつての日本も同じくらい、あるいは、それ以上の非道なことをしてきたと言えます。「それは、過去のことだから。」と逃げるのではなく、まずはそのことを、しっかり認識、謝罪するべきではないかと思います。悪者を決め、責めるのではなく、まず自らの過ちを認めることから全て始まるのではないでしょうか。話しがそれてしまったのですが、今回の講義で、その様なことを考えさせられました。

投稿者2:アーキ(法学部2年) 

  今日の講義は大講義室のマイクが復活したこともあってか、南野先生の話術が冴えわたり興味深い話が満載でした。ただ、『司法戦争』のオチだけは話してもらえず、とても気になったので読んでみたいです。(期末考査に出題されるかもしれませんし。笑)
 さて、今回の講義では東京都管理職選考訴訟を題材に「外国人の公務就任権」について考えました。ただし、藤田裁判官が指摘されているように、この訴訟では「外国人の公務就任権」ではなく、「すでに地方公務員として勤務している特別永住者が管理職に昇進できるか」が問題になっていることに注意が必要でした。
  判決の多数意見は地方公務員の昇任について、日本国民と在留外国人(特別永住者も含む)を区別しても憲法に違反しないと述べています。しかし、私は特別永住者については昇任の際に日本国民と区別すべきでないと考えます。特別永住者は、日本で生まれ、日本語を話し、日本の教育を受け、日本で就業しています。つまり、外国籍ということ以外は、私たち日本国民とほとんど変わりません。それにも関わらず、国籍を理由に日本国民と特別永住者を差別することには大きな疑問を感じます。また、特別永住者もその人が住む地域の構成員であることから、地方公務員として積極的に自らの地域の自治に関わっていくことは認めなければならないことだと思います。特別永住者については日本国民と平等に扱うべきで、少なくとも地方公務員の昇任の差別は許されないと考えています。

投稿者3:ドナルド(法学部2年)   #070 

 今日の講義では,公務就任権を中心として判決に対する意見の種類(意見・補足意見・反対意見)、またその効果的な読み方から日本の司法制度において裁判官達がいかに劣悪な状況におかれているのかまで幅広く話が展開されました。
 私も先生と同じように法と政治の交錯部分に興味があるので今回は興味深い話が多かったのですが、話に聞き入ってしまいつい手を動かす事を忘れていました...

 さて、今回の話の中心であった外国人の公務就任権についてですが、私も先生がおっしゃったように一口に「外国人」・「公務員」といってもそのおかれた立場や中身は様々だと思います。ですから、やはりこのような場面で権利性質説が重要となってくるのだろうと感じました。

 次回の講義も楽しみにしています。

投稿者4:KS(法学部3年)

 はじめて、講義風景レポートを書きます。
 どういう授業だったのか、については他の方も書かれているようなので、割愛します。
 ただ、南野先生に一言。今日は脱線が多い講義だったように思いますが、とても有意義な脱線だったと思います(特に、裁判所の内部事情?についての部分や、裁判「官」個人についての話)。今後も是非、時間が許す限り統治機構論の方へ脱線して、教室を温かくしてください。笑 
 ちなみに、ググってみたら『司法戦争』は3部作中の第三弾のようですね。

 以下、個人的な意見を、拙い文ですが。
 「特別永住者」に職業選択の自由があるのか、とりわけ、それ以外の外国人と区別すべきか、という対立点について、自分は、藤田裁判官に近い意見、つまり、南野先生(及び泉裁判官)とは違う立場をとります。
 もちろん、「実質的に」見てみると、「在日」と呼ばれる人を、他の外国人と同一にして扱うべきでない、というのは尤もな意見であると思います。ただ、藤田裁判官の補足意見にあるように「我が国現行法上,地方公務員への就任につき,特別永住者がそれ以外の外国籍の者から区別され,特に優遇さるべきものとされていると考えるべき根拠は無く,そのような明文の規定が無い限り,事は,外国籍の者一般の就任可能性の問題として考察されるべきものと考え」られるのだから、この問題は司法の領域ではなく、立法の領域で解決されるべき問題であるように思います。
 そうは言っても、現実問題として、こういった「在日」問題といったデリケートな問題に立法府が踏み込めるのかという懸念があるかと思います(ネット右翼が多い昨今です笑)。ただ、民主党政権になって、(良くも悪くも)その手の問題にもリベラルなアプローチがされるようになってくるのでは、と個人的には感じている次第です。
 他にも、悶々と考察してみたい論点(当然の法理など)はたくさんあるのですが、考えれば考えるほど、頭が混乱してきました笑。文章として形に出来るところまで、意見がまとまらないので、ここで終わりにしたいと思います。

 追伸:まだ、講義風景レポートを書いたことがない人は、是非書いてみてください。「書く」という作業には、「読む」「聞く」という作業とは比べ物にならないエネルギーが必要ですが、それによって得られるものは大きいです。

※以下は、講義風景レポートに載せてもらわなくても結構です(個人的な質問なので)。

 事情判決の法理について、色々と調べてみたのですが、判例評釈(最大判S51.4.14.)でその点についての記述が見つけられなくて、どうしても気になっていることがあります。

  公職選挙法219条によると、確かに先生が仰っていたように、行政事件訴訟法31条の準用がわざわざ除外されていますが、この趣旨は何なのでしょうか?
 立法段階で、選挙の効力に関する訴えがあった場合に「選挙は違法(違憲)だが、影響が大きいから、無効にはできない」という事態が起こるのは、容易に想定できたと思うんですが、それなのに敢えて準用除外規定を置いているのには、何か理由があるとしか思えません。
 もし時間があれば、講義中に触れていただきたいんですが、その余裕が無ければ、いずれ個人的に質問しに行きたいと思います。

投稿者5:トルベイラ(法学部2年) 

 初めての授業風景レポートはなぜか緊張してしまいますね。
 今回の講義は、当然の法理、人事院規則といった、日本における“グレーゾーン”の広さを見てとれる内容だったように思います。ある程度の裁量余地や委任は必要なものだと思いますが、範囲が大きすぎるのは問題だと感じました。
 また、外国人の公務就任権は制限する積極的な理由がないように思いましたが、他方で役場に行ったとき金髪の方が出てきたらツッコミを入れてしまいそうな自分がいます。

 最後の一文は法学部にあるまじき発言ですね。カットでお願いします(笑)。

投稿者6:やす(法学部2年) 

 今回の講義で興味深かったのは裁判官人事についてのお話でした。国家権力にとって都合の悪い裁判官が左遷させられたり、学閥主義を露骨に示す人事が行われていることは腹立たしいことでした。しかし最近はそうでもないようです。どちらかというと左派でリベラルな考えの持ち主であり、言うなればエリートコースから外れていると目されていた裁判官が最高裁調査官に登用されることは喜ばしい変化だと思います。しかし国民の目を欺くためのパフォーマンスかもしれず、今後も裁判官の動向に注目しておこうと思いました。また、「徳さん」こと泉徳治裁判官は昔と比べて意見の性質も変わっているそうで、組織だけでなく個人の思想の(戦略的?)転向も面白く感じました。
 外国人の公務就任権に関する判例を読んで思ったのは、特別永住者にも昇任するチャンスを与えるべきだということです。昇任後の役職が統治作用に関わる程度が弱くても昇任を制限するのは理由なき差別としか考えられないからです。ここ数回の講義を通して、日本は外国人の影響を排除しようとするあまり外国人に対する規制の度合が過剰になっているように思いました。それが原因でマクリーンさんや鄭香均さんに日本が嫌われるのであれば、この国にとって大変不幸なことです。

投稿者7:幽霊(法学部2年) 

 初リポートです!
 今回の講義は外国人の公務就任権についてでした。色々な興味深い小話も出てきて楽しかったです。
 特別永住者は外国籍を有してはいますが、生まれたときから日本人と変わらぬ生活をしていることや歴史的経緯を考慮すると、外国人として扱うのは問題があるように感じました。
 また、管理職への昇任についてですが統治作用に直接に関わるような地位ではなく、選考受験資格に制限をかけるべきではないと思いました。

 講義風景リポートを読む度に、皆さんの考えのレベルの高さと自分のレベルにギャップを感じて毎回焦ってます(笑)。置いていかれないように頑張りたいと思います!

投稿者8:イチカワ(法学部2年)   #075 

 今回の講義は、外国人の公務就任権、特に「管理職選考受験資格確認等請求事件」(以下、管理職事件とします)についてでした。
 今日取り上げられた事件は、特別永住者の管理職就任が問題になっていましたが私は、言葉は日本語を使い、生活基盤が完全に日本にある特別永住者(在日)の問題は、前回の講義でちらっと取り上げられた national origin に密接にかかわっているように思います(すいません、このことをうまく説明しようと考えましたが、どうもまとまりがつかなかったので・・・やめました泣)。
 また、どうでもいいことですが外国人問題の講義を聴いている中で、数年前に起こったアフガン難民の自殺を思い出しました。
 管理職事件と合わせて、日本の妙な閉鎖性が感じたからなのかもしれません。

 P.S. 講義風景レポートを書くときは記憶を一生懸命辿るので、いい復習になります(笑)。

投稿者9:まゆこのつくだに(法学部2年) 

 南野先生が外国人の権利侵害にどれほど強い関心をお持ちであるかよく分かりました(笑)。
 なかなか次に進みませんが、大学の講義において(このような形で)シラバス通りにゆかないという事もあっていいのではないでしょうか。

 さて藤田先生の補足意見読みましたが、自分はこれに賛同しかねますね。
 まず「『憲法上,外国人には,公務員の一定の職に就任することが禁じられている』ということは,必ずしも,理論的に当然に『こうした禁止の対象外の職については,外国人もまた,就任する権利を憲法上当然に有する』ということと同義ではない」という部分ですが、第2回の講義であったように「人権規定は国家権力の行使を制約することの裏返し」ではないのでしょうか。そうなると、「憲法上,外国人には,公務員の一定の職に就任することが禁じられている」ということは、裏を返せば「こうした禁止の対象外の職については,外国人もまた,就任する権利を憲法上当然に有する」ということに必ずなると思います(そうでないのなら、外国人の公務就任を一切禁止するといえばいい話です)。
 また、確かに「本件は,外国籍の者が新規に地方公務員として就任しようとするケースではな」いのですが、権利性質説を前提にする以上、どのような公務に就任できるかという問題は残るはずです。その点まで「外国人の公務就任権」の問題に含めてしまってもよいのではないでしょうか。
 とはいえ、「外国人の公務就任権」を司法判断だけで片付けることも無理があると思いますので、立法政策に頼ることしかないのではないでしょうか。

 それと余談で登場した徳さんの新聞広告、当日僕もみて驚きました。
 見出しに若干せこい部分があることは否めませんが、(徳さんのポジションがそれを可能にしているのだと思いますが)ある程度自由にものが言えるようになることはいいことだと思います。

投稿者10:公卿の弟(法学部2年) 

 初めて書かせていただきます。

 今回のレポートを書くにあたって最高裁の判決文を読んでみました。先生のおっしゃった通り、藤田宙靖裁判官の文章はとても綺麗ですね。そして論理的でした。反論されそうな部分についてはあらかじめきちんと述べられており、反対意見での指摘に対しても十分に説明がなされていました。藤田裁判官の補足意見を読むと、判決に納得することができました。

 判決には納得できましたが、金谷裁判官と上田裁判官の意見には疑問を感じます。二人は「地方公務員法には外国人を地方公務員に就任させることができるという規定も、それを禁止するという規定も置かれていない。したがって各地方公共団体は就任させるかどうかを、裁量によって決めることができる。」と意見されていますが、それは言い過ぎではないでしょうか。就任を認めるか禁止するか規定していないのは、(実際の立法に際し、どのような背景があったかはわかりませんが)地方公共団体に裁量を認めているからではなく、立法当時に想定されていなかった、もしくは保留されていたからではないのでしょうか。理由はわかりませんが、規定が置かれていないことを、地方公共団体に裁量権が与えられていることと読み取ることは少し強引なように感じます。

 次回の講義も楽しみにしています。

投稿者11:Red-Herring(法学部2年) 

 初の講義風景レポートです。

 とは言っても、講義内容とは直接関係ないのですが…
 少し気になったので、書かせていただきます。

 講義の脱線の中で、左陪席より右陪席の方が偉いといった話が出てきました。日本は古くから左上位にも関わらず、なぜ裁判では、右陪席の方が偉いのでしょうか? 海外の法律を真似た時に、その席順も、ともに真似たのでしょうか?
 ネットで調べても、左大臣が右大臣より偉いといった話しか出てきません。

 どうでもいいようなことが気になる性格なので、理由を教えて頂ければ幸いです。

 それと、『司法戦争』ですが、乱歩賞受賞の『検察捜査』の関連作品みたいなので、時間があけば読みたいと思います。ですので、ミステリーの絶対的タブーであるネタバレだけは、授業中しないようお願いします。

投稿者12:タク(法学部2年)

 今回は「外国人の公務就任権」についての講義でしたが、今回の判例を読むまでこの問題の存在を、恥ずかしながら知りませんでした。
 率直な感想を述べるとすれば、「なぜ?」と理解ができませんでした。外国人の公務就任権を一律に禁止する(実際は判例中に述べられているように、すでに「公務員」として働いているわけですが)理由としては、納得がいきませんでした。今後、国際的に非難されかねない問題だと思います。なので、「徳さん」のような裁判官が増えていただきたいと思います。
 今回は授業風景リポートの質も量も増えていて、すごく難しかったです。ですが、この調子で増えていけば授業にも活気が出ると思います。

投稿者13:カレー(法学部2年)   #080 

 今回は、外国人の公務就任権のお話を中心に、憲法Uでしか聴くことのできないことばかりといった内容でした。島田紳助さんは、私の尊敬する名司会者ですが、ご存じのとおり、あの方のフリやツッコミはほとんどアドリブだそうです。関連する事柄が次から次に出てくる紳助さんの話しぶりに、お茶の間の私たちは引き込まれてゆきます。このような話し方は、知識の引き出しの数が多くなければ為し得ないものだと思います。今回の講義に限らず、多くの方が興味を持って講義を聴いているようですので、南野先生の講義は、紳助さんの司会のような魅力があるのかもしれない、と感じました。

 さて、話を元に戻すと、私は、@外国人には原則として公務就任権があり、Aその能力に応じて重要な役職に就く(昇進する)権利も認められるが、B当然の法理の想定する、公権力の行使や政治意思の形成に参画する役職には、外国人は例外なく就任することはできない、と考えます。これは、外国人の公務就任権の問題を、サッカーになぞらえて理解すると分かり易くなります(たぶん)。つまり、@サッカー選手は、海外のクラブチームで自由にプレーでき、A能力に応じレギュラーを獲得したり、場合によってはキャプテンになったりすることもできるが、Bワールドカップは、自分の持つ国籍に基づき、母国の選手としてしか出場できない、ということと同じではないでしょうか。能力のある外国人(選手)が、日本で公務(プレー)をしたいというのであれば、能力や意欲に応じて積極的に雇い(獲得し)、日本の行政(Jリーグ)を活性化することは、日本にとっても外国人本人にとっても良いことなのではないか、と思ったのです。これは、日本に限らず言えることではないでしょうか。国を背負って公務(試合)を行う舞台(ワールドカップ)においてのみ、国籍による「シバリ」をかけておきさえすれば十分ではないかと思います。

 ただし、これはあくまでカレーを配達しながら思いついたつまらない提案です。共感していただければありがたいです。

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第8回(2009年10月26日・月)

投稿者1:茶子(法学部2年)

 こんにちは、今日も講義お疲れ様でした(*^^*) 初めてリポートを遅らせていただきます。

 実は私、南野先生のことを4年前のオープンキャンパスで絡まれたときから知ってます(笑)。
 入学するまでは先生のホームページをかなりの頻度でチェックしたり(騙し絵が好きでした!)となかなかのファンでした。今だから言える話ですが(笑)。
 もちろん入学後の今も先生の授業を受講することができ、とても嬉しく思ってい ます。

 では、以下リポートです。
 今日の講義は、前半は前回に引き続き外国人の権利享有主体性について、後半は 団体(法人)の権利享有主体性についてでした。
 前半に関して、私は藤田裁判官の補足意見にとてもインパクトを受けました。なぜ、最高裁のメンバーともあろう方々が、ここで問題にすべき外国人の管理職への「昇進」権に触れることなく就任権のみに言及したのか。せっかく司法にまで訴えて解決を望んだのに、これでは原告の思いは報われないのではないかと思わずにはいられませんでした。
 毎回、特に先生の講義では予習の大切さを実感しています!
 次回も塩野さんを読んだ上でしっかり臨みたいと思います★

投稿者2:KS(法学部3年)

 自然人の精神的自由権を保障する必要があるのは、自明のことだと思います。ただ、団体に精神的自由権を与える「必要性」が果たしてあるのか、という疑問が湧きました。
 八幡製鉄事件では、「イヤなら脱退すればいい」、48事件では、「合祀の宗教との係わり合いは間接的だ」という理由付けで、それぞれの団体の行為の「許容性」について述べて、団体の権利を認めています。
 しかし、企業から政党に献金する権利や、団体の意思のとおりに合祀する権利を保障したりする「必要性」はあるのでしょうか。
 そもそも、講義であったように、資本主義の発達の歪みに対応するという文脈で、「法人格」が認められるようになった、ということを考えれば、あくまで、「法人には人権がないのがデフォルト」であり、例外的に、「『必要性』がある場合については、法人にも人権を付与している」と考えるべきだと思います。
 つまり、精神的自由権を認めてもよい、という消極的な理由だけでは不十分で、精神的自由権を認める必要がある、という積極的な理由が無いならば、個人の精神的自由を優先して考えるべきである、と思います。

投稿者3:カレー(法学部2年) 

 今回の講義では、先生がろれつが回らず頬をたたく場面が何度かあり、六甲でのお酒の席がかなり充実したものだったことがうかがえました(笑)。

 さて、今日は、人権の享有主体の議論の最後のトピックである法人(とりわけ会社)について学びました。八幡製鉄事件の最高裁判決では、明示的ではありませんが、憲法第10条の前半部分と憲法第30条から導き出された「納税の義務を負っている国民(自然人)は、人権の享有主体である」という大前提に、「法人は納税の義務を負っている」という小前提をあてはめ、「法人も国民(自然人)同様、人権の享有主体である」と結論づけました。私は、判例百選にも書かれているとおり、鈴木竹雄先生のいう「とんだ勇み足の議論」ともいえるこの理論構成に少し疑問を感じました。それと同時に、参政権が、直接国税15円以上の男子にしか認められていなかった時代を思い出しました(笑)。確かに、納税の義務と参政権は表裏一体の関係にあり、納税しない者に政治に参加する資格はないともいえますが、より説得力のある論拠がないのであれば(KSさんのお言葉をお借りすると、消極的理由しかないのであれば)、無理に認める必要もなかったのではないでしょうか。

 余談ですが、『憲法論集〔樋口陽一先生古稀記念〕』がよく参考文献として講義中挙げられますが、樋口先生と私の祖母は同い年です(笑)。

投稿者4:まゆこのつくだに(法学部2年)

 今日の講義で一番僕を驚かせたのは、「個人が中間団体によって搾取されるのを防ぐため、フランス人権宣言には結社の自由がなく、むしろ結社は犯罪だった」ということです。歴史に出てくる中間団体はいずれも統治主体に対する抵抗手段として結成されたものだとばかり思い込んでいたので、そのような視点は新鮮でした。

 おそらく「日本の裁判所は中間団体による個人搾取に無頓着すぎる」というのは、日本が明治維新以降進めてきた「上からの近代化」の弊害の1つと見れるとお思います。西洋に追いつけ追い越せでいろいろな制度を輸入したはいいものの、制度「しか」輸入しなかったので「仏作って魂入れず」の状態になってしまう。近代日本の構造にまで関わってくる問題で、興味深かったです。一般的に中間団体は一個人より強い社会的地位を有してますし、日本の司法は人権概念の基本に一度立ち返る必要があるのではないのでしょうか。

 とはいうものの、長谷部説のように「法人の権利は公共の福祉の役に立つ時のみ認めよ」というのでは、たとえばある宗教法人の私有地が公権力によって無許可で接収されたといった時に説明がつかなくなるので、それだけでは無理があると思います。
 いずれにせよ難しい問題です。

投稿者5:ほうく(法学部3年)   #085 

 遅くなりましたがリポートを書かせていただきます。
 今日の講義では法人の権利享有主体性について学習しました。法人に憲法上の権利を認めるかどうかは非常に難しい問題だと改めて思いました。近代立憲主義の歴史を考えれば、人権を法人に認めるのは慎重であるべきだと思います。ただ、あまり歴史にこだわり過ぎるのも裁判所の解釈としては望ましくないこともあるような気がしました。そもそも歴史や「〜主義」というような理念をどこまで解釈に反映させるべきなのでしょうか。法人の権利については(講義では触れられませんでしたが)高橋和之先生の整理が自分にはしっくりきました。とはいえ、憲法とは何か、人権とは何か、というような歴史の話について、樋口先生の教科書を読み直す必要があると思いました。

 ところで、前回の講義では「雑談」のなかで司法の現状について熱く語られました。数多く繰り出された「ネタ」のなかでも、先日九大にいらっしゃった櫻井裁判官が『司法戦争』について先生に「面白かった」とお話されたというくだりで、「黒板の上げ下げが面白かったんかな」と静かにおっしゃったのがとてもシュールでツボでした(笑)。また、個人的には、泉裁判官のことを「徳さん」と連発して呼ばれると笑ってしまいます。

投稿者6:タク(法学部2年) 

 おくればせながらリポートを書きたいと思います。

 今回の講義では、団体の人権享有主体性がテーマとなりましたが、そのことに関連して高橋和之先生の教科書を読んでいて思ったことを述べたいと思います。
 高橋先生は、今日の人権の根拠を「個人の尊厳」という思想に求め、社会あるいは国家という人間集団を構成する原理として、個人に価値の根源を置き、集団(全体)を個人(部分)の福祉を実現するための手段とみるべきである、としています(高橋先生は続けて、日本国憲法は「個人の尊厳」を表明しているとし、その根拠を日本国憲法第24条としているようですが、その点には条文を読む限りでは賛同しかねます。しかし、少なくとも全体主義を否定していることは日本国憲法に見ることができると思います。また、歴史的にみても、集団よりも個人を重視することは当然に予定されたことだと思います。)。
 日本においては集団が個人に与える影響は少なくなく、個人の行動や価値観にしばしば干渉しています。そういった意味では、仮に団体に権利享有主体としての地位があるとしても、当然に個人の権利を重んじ、団体の権利は制限されるべきだと考えます。もちろん、だからと言って団体の人権をあまりにも認めないというのも問題があるとは思いますが、その範囲は個人の福祉の実現にとどまるべきだと考えます。
 外国人には権利享有主体性を実質的には認めず、団体には認め、さらに個人の自由よりも重視するようでは、本当に「個人」というものを重んじているような司法であるのか疑問を感じずにはいられません。

投稿者7:やす(法学部2年) 

  先生のお話をうかがううちに、先生が講義で伝えたいニュアンスと私の中での理解にズレがあることに気づきました。そのズレに気づかないまま前回の講義風景リポートを送ってしまい、もしかしたら多くの方に誤解を与えたかもしれません。言葉の受け取り方は人それぞれではありますが、先生の真意を正しく汲み取ることにもう少し注意を払うべきだったと反省しています。小学2年生の時に通信簿の「人の話を聞く」の項目が「よくできた」「できた」「ふつう」のうち私は「ふつう」だったことで当時担任のY先生を恨めしく感じたものですが、Y先生の評価は正当なものだったのだと今にして思います。

 今回の講義では法人と自然人の権利の対立構造について学びました。フランス革命の人権のカタログから意図的に消されるほど結社の自由はろくでもないことだと考えられ、裸の個人と国家という二極構造を創って初めて法的な意味での人権を語れるようになったという歴史の流れを説明された後では、今日の日本の判例に違和感を持たざるを得ませんでした。法人の権利を自然人の権利に優先するものとして判決したように見える判例の裏には詳しく調べるとまっとうな理由があるのだと考えられるのですが、ヨーロッパと同様の歴史を踏まえていない日本では法人と自然人の権利関係について再考する必要があるのではないかと思いました。

 ところで先日の南野先生との飲み会ではHさん(法学部3年)が受講生200人以上にお誘いのメールを送りながら、わずか二人しか来ませんでした。そのことでHさんは傷心のご様子です。次回Hさんからお誘いのメールがあれば、先輩の顔を立てるためにも参加してみてください。先生から○道○や○ン○○ー○の対処方法等興味深い話を聞くことができますよ。

投稿者8:new(法学部2年) 

 今回は法人の人権がテーマだったのですが、いつもながら難しい問題だなと思いました。実は2年前期の法政基礎演習Uで、民法ゼミと会社法ゼミとのディベートをし、会社は政治献金をしてもよいのかということについて議論したのですが、その時も、正直よくわかりませんでした。ただ、「会社構成員の全てが同じ政党を支持しているわけではないのに、献金をするのはおかしいのではないか」ということについて、少し疑問に感じました。

 確かに、その献金先の政党を支持しない構成員の人もいると思いますが、それと同時にその政党を支持する構成員も当然に存在しているのではないでしょうか。もし、後者の方が過半数を占めるのであるならば、会社の政治献金は問題ないのではないかと思います。多くの人が集まって活動する際に、考え方や思想が違うことはよくあります。そのような時は、多数決で決めるのがナチュラルなことではないでしょうか。そうすると、少数者の意見・思想を排除することになるのでは、という批判もあがると考えられますが、今回の場合では、政治献金をしたからといって、全ての構成員に対してその政党を支持するように強制するわけではないし、他の政党を支持したいのであれば個人的に献金をしたり、選挙のときにその党に投票することもできると思います。

 言いたいことが上手くまとまらないのですが、「会社構成員の全てが同じ政党を支持しているわけではないのに、献金をするのはおかしいのではないか」という点に関しては、一理あるような、ないような気がしました。

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第9回(2009年10月29日・木)

投稿者1:今日のわんこ(法学部2年)

 今回は10月最後の講義ということで(?)、先生のネクタイが緑色でした。

 それはさておき、第9回の講義では新しい章に入り、かつて支配的だった特別権力関係論と、その特別権力関係論が否定されたいくつかの判例を見ていきました。
 また今回は講義に入って以来初めて資料が配られ、いつもと違う様子に講義開始後2、3分はなんだか大講義室がざわざわしていたような気がします。
 配られた資料に関してですが、今まで教科書を読んだときや予習をした時に監獄法や監獄法施行規則の条文にまで遡って見てみたことがなかったので、とても勉強になったと共に学習をする上での自分の怠慢さに気付くことができました。

 今回の講義とは直接関係ありませんが、第7回の講義風景リポートKSさんが問題提起されていた点について、佐藤功「議員定数不均衡違憲判決の問題点」法学セミナー255号(1976年6月)8−25頁が有用でしたのでこちらに書かせていただきます。

投稿者2:RAINBOW(法学部2年)   #090 

 遅くなりましたが、初めてリポートを送らさせていただきます。

 第9回の講義では「よど号ハイジャック記事抹消事件」の判例を見ていきましたが、私なりに考えたことを書かせていただきます。

 この判決では「相当の蓋然性」の認定や措置の必要性合理性の判断につき、監獄長に広範な裁量を認めていることに対して疑問を抱きました。様々な情報に触れる機会をもつことは、自己形成や自己実現のために必要なものであり、民主主義のもとでは欠かせないものであるから、監獄長に広い裁量を認めるのではなく、裁判所による厳格な審査によるべきではないかと思いました。

投稿者3:たく(法学部2年) 

 今回は「権利の妥当範囲」ということで、特殊な法律関係が取り上げられました。
 身近なこととして考えられなかったので、今回の講義は難しく感じました。
 しかし、当然に人権が制限される空間というのは恐ろしいところですので、問題意識を持たなくてはならないと思います。
 特に、未決拘禁者の問題は、一般国民としての地位を優先的に考えてもらいたいと思います。

投稿者4:くどぅ(法学部2年)

 今回の第九回の講義では権利の妥当範囲という章の中で、特別権力関係論、そして、関連する判例などを見ていきました。

 当然のごとく人権の制約が許されるというような特別権力関係論は認められるべきではないと思います。そこで、講義では、特別権力関係論をとらなかった判例と言える「よど号ハイジャック記事抹消事件」(最判S58.6.22)を中心に進みました。

 この判決は@特別権力関係論をとらなかったA未決拘禁者の新聞閲覧の自由について厳格な審査基準を打ち出したという点では大きな意味をもつ判決だと思います。が、結果として合憲限定解釈を行い、厳格性の判断について監獄の長に広い裁量を認めた点は人権の過度な制約につながる可能性をかんじずにはいられず疑問です。

 このような疑問を抱えたまま授業は進み、次に新聞の種類制限に関する訴訟が紹介され、よど号事件の引用により棄却した大阪地裁とは異なり、よど号事件を基本的には引用しつつも監獄長の裁量の逸脱を認め、逆転判決を下した大阪高裁判決(大阪高判H21.6.12)をみて、やはり裁判所は監獄の長の判断について合理的根拠があるかどうか厳格に審査する必要があるのではないかと思いました。最高裁に上告されているならば、今後どのような判決が出されるか非常に気になります。とはいえ、もし裁量逸脱の判決が出ても、よど号事件とは記事抹消と種類制限という違いがあるので、判決を読む際には事案の違いを意識しながら考えていく必要性も感じました。

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第10回(2009年11月2日・月)

投稿者1:まゆこのつくだに(法学部2年)

 今日は在監者の人権に関する講義でしたが、それよりも裁判所による法解釈のありかたに興味を持ちました。
 確かに熊本刑務所事件の結論は、泉裁判官はじめ第一小法廷(当時の)良心に基づくものだとは思いますが、裁判官は良心以外に法律にも拘束されるはずです。
 熊本刑務所事件やグレーゾーン金利の判決は、いくら結論が歓迎されるべきものであろうと、法の文言をあまりに捻じ曲げすぎて「裁判官による事実上の立法」になっている気がします。
 法解釈には色々なテクニックがあるがあくまでも基本は文理解釈なんだ、というのはそれこそ法学入門Tで教わるような基礎的な話ですが、その基礎原則を無視してしまうのはさすがに問題があると思います。そんな曲がりくねった解釈をするくらいなら、いっそ堂々と意見だといってしまうほうがすっきりするはずですし、「いざ訴訟になった時に法律がどう解釈されるかわからない」というのでは、国民の自由は保障されないのではないでしょうか。
 裁判官の法解釈はあくまでも文理解釈が基本だということをもっと徹底してほしいです。

投稿者2:new(法学部2年) 

 今回の講義は、前回に引き続き権利の妥当範囲についてでした。今回の授業で最も気になった点が、在監者の信書発受の権利のところです。裁判の結果、法解釈を誤ったとして熊本刑務所長の過失を認め、賠償を命じたようですが、これはなんの問題もないのでしょうか?この所長は監獄法46条2項の「特に必要な時に限り」という言葉に従ったのになぜ、賠償を命じられなければならないのでしょうか?法律の専門家ではない、刑務所長に解釈をゆだねること自体がおかしいのではないかと私は思いました。法律は誰が見てもわかるように制定されるべきだと思います。過失があるとすれば、誤った解釈を引き起こしうるあいまいな法律を作成した立法者にあるのではないでしょうか。
  「この点については、きっと先生も熱くなるはずだ!」と思っていたのですが、意外に、さらりと授業がすすんだので、裁判所の判断は私が思っているほど不可解なものではないんだなと思いました。この点についても今後勉強していけたらなと思います。

投稿者3:カレー(法学部2年)   #095 

 今回の講義は、前回の特別権力関係論の続きで、在監者、そして公務員について学びました。ちなみに、11月一発目の講義ということで、先生は濃紺のスーツ、青のワイシャツ、そして紺のネクタイでした。

 まず、伝統的に特別権力関係の一類型と捉えられてきた在監者についてですが、よど号ハイジャック記事抹消事件判決(以下、よど号判決)で特別権力関係論を用いないことにより、在監者の人権問題はようやく日の目を見たように見えました。しかし、同判決が合憲限定解釈を行い違憲判断を回避した(合憲判断を前提とした)ことにより、かえって後の判決が(南野先生のお言葉をお借りするとすれば)「条文をひっくり返って読んだような」法文解釈を余儀なくされ、かつ、監獄法という悪名高き法律が長きにわたって改廃されなかったのではないかと感じました。加えて、講義中に先生が指摘されていたとおり、同じ在監者の問題とはいえ、よど号判決は文書図画の閲読の事案であり、熊本刑務所事件判決は信書発受の事案であるのに、後者が前者の判例を引用したのは、少し疑問を感じました。先の講義で扱った南九州税理士会政治献金事件において、「税理士会は、会社とはその法的性格を異にする法人であって、その目的については会社と同一に論じることはできない」としたように、在監者についても、その当時に、より丁寧で個別具体的な判示がなされるべきだったのではないかと思いました。

 次に、公務員の特別権力関係についてですが、次回の講義でも扱う内容のようなので、次回のリポートに譲りたいと思いますが、公務員というだけで政治的活動の自由が制限され、さらに罰則も存在するという事実は、「自分自身がもし公務員になったら…」と考えると、「教え子が公務員講座に消えていき、飲みに行く相手がいない現実」と同等に、受け入れがたいことだと感じました(笑)。みなさん、金曜日に限らず、5限終了後は予定を空けておきましょう!

投稿者4:イチカワ(法学部2年)

 今回の講義は、在監者の人権妥当範囲に一区切りをつけ、公務員の政治的活動の自由(猿払事件)に移りました。
 「国家公務員の政治的活動には罰則規定がつき、地方公務員のそれには罰則規定はない。」ということが取り上げられましたが、立法者は何を根拠にこのような違いをおいたのか、本当にわからないです(苦笑)。
 公務員の政治的活動を一律・全面的に禁止出来さえすればよかったのでしょうか? それとも国家公務員に比べ、地方公務員の政治的活動は、国家への直接的影響が少ないからと考えたのでしょうか?
 疑問だらけのレポートになりまして、すいません。しかし、いずれにせよ公務員問題はかなり深いですね。

 追伸:
 朝日新聞の globe は、ざっとですが読みました。
 「少数意見が変える」(だったかな?)という見出しとともに 最高裁の裁判官の顔写真が。。。かなり強烈です。 globe の企画はこれまで環境もの/経済ものが多かっただけに、今週のはかなりタイミングがいいなとニヤニヤしながら読みました。

投稿者5:タク(法学部2年) 

 遅ればせながらのリポート失礼します。
 皆さんのリポートの内容に感心しながら、自分も近づけるように精進したいと思います。

 さて今回から「公務員」の講義に入ったわけですが、公務員という特殊な立場を考慮しても、問題を感じずにはいられませんでした。特に、最近の公務員バッシングのため、月給は減らされる。しかし、文句が言えない。残業代もどんどん減らされる。昇進しても給料が減る。(私の父も地方公務員なので、大変身近な問題であり、はなはだ憤りを感じています。)職業柄仕方のないことかもしれませんが、さらに厳しい制限をかけられ、虐げられるのはおかしいと思います。(愚痴みたいになってしまい、すみません。笑)
 今回の講義でもう一点感じたことは、カレーさんと重複してしまいますが判決の引用の問題です。よど号事件と熊本刑務所事件では、明らかにその射程としている事柄が違うにも関わらず、何の詳しい説明もなく引用しているのは、法律の初心者である自分でも読んでいて違和感を感じました。やはり、判決には論理性が重要であるので、この判決はいかがなものかと感じます。

 最後に、昨日(11月3日)は日本国憲法公布63年にあたり、さまざまな新聞で特集が組まれているようなので、読んでみたいと思います。

投稿者6:今日のわんこ(法学部2年) 

 毎回こちらの講義風景リポートを拝見していますが、講義の回が重なるごとに皆さんのリポートのレベルがとても高くなっていっていますね!

 …ということで、私は、今回は敢えて料理でいえば「箸休め」のようなリポートを送らせていただこうという趣旨のもとで、今回(教室の一番後ろから見て)みなさんがよく笑っていた先生の一言ベスト3を発表します。

 第1位 「あべしゃん」
 第2位 「…まぁ条文は座って読んだ方がいいと思いますけどね」
 第3位 「それだけが楽しみでゼミをやっているようなものですから」

でした。皆さん覚えていましたか?

 こうして見るとただただ私が遊んでいるだけのように見えるかもしれませんが、このように講義中くすっと笑った先生の一言を思い出していると、鉛筆を片手に復習をしている時よりもスムーズに前後の話の流れが頭に浮かんでくるということがあります。皆さんもぜひ上の一言が、講義中のどんな話の流れで出てきたものなのか思い出してみてください。
きっとノートを見ながらのものとは異なった視点の復習ができると思います!

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第11回(2009年11月5日・木)

投稿者1:たたら(大学院生)

 今日の講義で出てきた立川反戦ビラ事件について、以前友人と話した時の話ですが、友人は、「表現の自由がいくら重要な権利であるからといって、居住者(住居権者)に、不快なビラの配布を甘受しなければならないと強制することまではできないはずだ。とすれば、一度ビラの配布を断ったのにもかかわらず再度ビラを配布しに行ったのは罰されてもしかたがないといえるのではないか。むしろ、刑法に住居侵入罪の規定がある以上、形式的にいうならば構成要件、違法性、責任のすべてを満たす場合に刑罰を科さないのはよくないのではないか。」と言っていました。
 たしかに、たとえば嫌がらせ目的で毎日ビラをポストに投函しつづけ、再三やめるよう求められたのにもかかわらずそれを繰り返したような事案であれば、最高裁が本件と同様の判断を示してもしかたないと思います。表現の自由も無制限ではないと考える点で、私は友人と同じ考えだからです。(また、表現の自由を行使しているのは私人であり、行使されるのも自衛隊の官舎に住んでいる私人なので、私人と私人との利益調整という問題もありますが、刑罰権の行使という国家と私人との関係に焦点をしぼります。)
 しかし、本件では、月に一度のペースで計5回反戦ビラを投函した、そのビラには電話番号など団体の連絡先が記載されている等の事情があります。このようなビラ配布の態様を見ると、結論からすれば、本件行為は表現の自由の行使として許容できる範囲にとどまっており、刑罰権を行使して規制すべき行為ではないと思われます。
 もっとも、だからといって裁判官が表現の自由を前面に出して被告人を無罪とする判決を書くのは難しいと思います。なぜなら友人の言う通り、形式的には住居侵入罪が成立しそうだからという理由もありますし、表現の自由という美声のもとに、行き過ぎた行為にもお墨付きを与えたという印象をもたれる危険性(住居権者はビラ配布を表現の自由として常に甘受しなければならないと勘違いされるおそれ)もありそうだからです。
 そこで、結論として、住居権者の意思に反する立ち入りではあったが、刑罰を科すほどの行為とはいえないとした第一審の東京地裁の判断が妥当だったと考えます。なぜなら、可罰的違法性の問題で処理したほうが、基準として明確であるし、憲法に立ちかえって難しい話をしないですむからです。ただ、この結論をとった場合、ビラ配布をやめてほしい住居権者はどうすればよいのかという問題は残ります。何も手段がないとすれば、月一回の平穏な態様の行為であれば、住居権の及ぶ範囲であったとしても、そしていくら住居権者にとって不快な内容のビラであったとしてもぐっと我慢しなければならないのかについては、別途方法を考える必要があると思います。

 講義風景リポートというより、自分の言いたいことを書いただけの文章になってしまいました。以前その友人と話した時に、うまく自分の考えを話せなかったため、少し熱くなりすぎた感があります・・・。先生は、住居権者との利益調整はどうすべきだと思われますか。公共の福祉による制限は許されるけど、住居権者もほっとかれる自由があるわけで、、、と考えてぐるぐる同じ思考をたどってしまうだけで結論が出ません。縦の関係と横の関係がからまってしまい難しいです。

投稿者2:雨林(法学部2年)   #100 

 今日は、公務員の政治的行為の自由と、労働基本権についてでした。

 そういう話は他の人に任せるとして、樋口先生の講義の話が印象的でした。九大にもそういう文化を作りたいです。かといって、全講義で机を…というのは珍妙で、他大から来られた方はびっくりされるでしょうが(笑)。

 ところで、六本松時代、某理学部教授が「物理や数学よりも、キミらの法学の方がよっぽど高い論理力が必要とされる」というようなことをおっしゃってました。
 その時は「???」といった感じでその意味が全く分からなかったのですが、今回の冒頭の話の「数学みたいに、法学は簡単にいかない」「実際に解釈の区別なんて可能なのか?」といった部分を聞いて、まだ分かったわけではありませんが、少し頭がスッキリしたように思えます。
 変わりに、じゃあ法解釈って何なんだろ、みたいな疑問で頭がゴチャゴチャしてしまいました。

投稿者3:カレー(法学部2年)

 今回は、公務員の政治的行為の自由について、猿払事件を中心に見ていき、最後に公務員の労働基本権について少し学びました。ちなみに、今日の南野先生は、グレーのスーツに、BVLGARIのネクタイで決めておられました。

 さて、本題の公務員の政治的行為について考えてみると、講義でも言及されていたとおり、猿払事件が当時の時代背景を考慮してやむをえないものだったにもかかわらず、下級裁判所が未だに猿払事件をリーディングケースとしているのは少しおかしいと感じました。そして、講義中に紹介された「公務員が勤務時間外に政治的意見表明を行うことは、公務遂行が実際に党派的に行われるか否かと無関係である」(長谷部恭男『憲法〔第4版〕』(新世社、2008年)146頁)という指摘と、「(猿払事件などの)問題は、普通、「公務員の政治活動」という標題のもとに議論されているが、呼び名自体がミスリーディングであり、その中身が公務員たる個人の公務の場面以外での意見表明の自由の問題であるならば、それに対する制約は、「優越的自由」としての表現の自由への制約として、厳格な司法審査に服するべきである。政官界の密接な関連、高級公務員の選挙立候補のための事実上の準備活動などをどう規制すべきかは、別の問題である」(樋口陽一『憲法〔第3版〕』(創文社、2007年)192頁)という指摘はもっともであると感じました。公務員の勤務時間外の政治的行為に対する制限については、厳格な司法審査を行うべきであり、特別権力関係論の中で論じるとしても、国家公務員法が人事院規則へ白紙委任ともいうべき委任のしかたを取っている以上、人事院規則が憲法に違反するような規定を置く可能性はゼロとはいえないわけですから、当然厳格な審査を行うべきでしょう。 ただし、厳格な審査とは、猿払事件のような形式的で美しいだけの審査では足りません。現在継続中の目黒事件、そして世田谷事件が、公務員の政治的活動についてさらなる厳格審査を行うことによって、新たなリーディングケースとなってくれるよう期待したいです。

投稿者4:やす(法学部2年)

 今回は猿払事件の上告審にいかに問題があるかが取り上げられ、とても面白く感じました。中でも上告審が提示した審査基準の一つ「政治的行為を禁止することにより得られる利益と禁止することにより失われる利益との均衡」の禁止することにより得られる利益を国民全体の共同利益としていることには驚きました。これでは公務員によるどんなに些細な政治的行為も許されないのは当然ということになります。35年前のこの判決をそれでもなお下級審では指導的判例と考えることもあると聞いたときにはいっそう驚いてしまいました。
 他に面白かったことはやはり何と言ってもゼミ卒業生による樋口陽一先生古稀祝い文集のお話です。「旱天の慈雨」とはすごい表現だなと思いながらも、樋口先生の「猿がどうしたという話ではありません」に満場の爆笑で応える東大生のすばらしさに感動し、自分の講義は面白くないと謙遜なさりながらも決してユーモアの精神を忘れない樋口先生にますます尊敬の念を抱きました。私が南野森先生古稀祝い文集で在りし日の先生の講義を表現するならば「通り雨」だろうかと考えたりしていました。
 先生によると、次回とその次の回は人権論の講義の中でも例年最も熱く語るところだそうなので今からわくわくしています。

投稿者5:トルベイラ(法学部2年) 

 今回の講義では、猿払事件を中心に、公務員の政治的行為について学びました。
 講義中先生も言っておられたことではありますが、近年の下級審判決が、今もなお猿払判決を指導的な判決と位置づけていることには違和感を覚えました(特に目黒区の事件については、猿払判決に全面的に賛成していないようにみえる判決を出しているにも関わらず、です)。
 確かに、法の安定性の観点から言えば、下級審が最高裁の判決に倣うことは自然かもしれません。しかし、上訴によって審理をやり直せる下級審だからこそ、むしろ積極的に、事件や時代に合った、いい意味で最高裁に挑戦的な判決を出すべきではないかと思いました。
 百選はTだけで事足りよう(笑)という甘い考えを反省しつつ、次の講義もしっかり準備して臨みたいと思います。

 講義とは直接関係ない話ですが、国家公務員法第108条の2第2項は、第5項があれば必ずしも必要でない条文のように思いました。“加入できない”という規定がありながら、あえて構成員から一部の職員を除く旨の規定を置いているのには、なにか理由があるのでしょうか。

投稿者6:new(法学部2年)

 今回は猿払事件を中心に公務員の政治的表明の自由を勉強しました。この授業で一番ハッとさせられたのは、「政治的表明の自由は最も重要な権利といえる。なぜなら、それは国家が一番制約したがる権利であるからである。」という言葉です。私的には、政治関連の権利は未成年にはあまり関係ないし、一番というほどまで重要な権利ではないだろうと考えていました。しかし、よくよく考えれば、憲法というのは国家を制約するために存在しているのであって、そのようなことを考えれば国家が制約したがる権利こそ、最も厚く保障すべき権利でもあるのだなと感じました。当たり前のことではあるのですが、私的に衝撃でした。
 次の授業では、猿払事件判決の時代背景についてみていくようです!しっかり学びたいと思います!

投稿者7:まゆこのつくだに(法学部2年)   #105 

 今回は4点に分けて書きます。

 @今回の講義は公務員の労働権について、猿払事件最高裁判決を中心に展開しました。猿払事件判決については、よく見ると最大の争点の審査を骨抜きにしているとか、国家公務員法102条の立法趣旨と比較してこの判断は厳しすぎるとか、様々な批判が既にあるようです。にもかかわらず今でもこの判決の指導力を認める判断が出ているようですが、その判決では前述の批判にどう答えている(或いは答えていない)のでしょうか。近いうちに本文を見つけて確認したいと思います。

 A葛飾事件に関しては、被告人のお坊さんが逮捕された記事がちょこっと新聞に載っていたのをたまたま読んでいたのですが、当時は「こんなことでも捕まるんだ」と思ったものです。可罰的違法性は低いと思われますし、罰金額も猿払事件などと比較して法外に高いのではないかと思われます。
 最高裁判決が今月30日に下されるようなので、どういう結末になるか見ておきたいと思います。

 B確かに前回の講義レポートで、文理解釈から極度にかけ離れた法解釈ってどうなんだ、といったことを書きましたが、別に激しく怒っているわけではありません(笑)。
 疑念を呈する、というのが僕の正しい心情でしょうか。

 C南野先生は大変素晴らしい話術をお持ちだと思いますので(お世辞抜きで)無理に「猿払事件の猿真似を…」などと仰らないほうがいいかとお思います。普段の南野先生でいてください。

投稿者8:タク(法学部2年) 

 最近の授業風景リポートは内容のレベルが高く、難しいですが、がんばって書きたいと思います。

 今回は猿払判決を取り扱いましたが、この判決に関してはこれからの講義の中で重要な意味を持っているようなのでしっかり復習したいと思います。
 くわしくは授業の中でお話があると思いますが、時代の流れを意識した判決であるようです。
 それから、笑う時は声を出して笑っていることが先生に伝わるように努力したいと思います。しかし、どうしても授業に集中してしますと笑うタイミングを逃してしまいます。
 (事実、僕のノートには「猿まねではいけない」と書いてあります。(笑))

投稿者9:Kusunoka(法学部2年) 

 授業は、公務員に関する人権保障について、判例の紹介を中心に進みました。

 いつも思うことなのですが、何でこう最高裁の判事たちは、大抵政府を擁護するほうに動くのでしょうか。まるで内閣と裁判所が一体化しているかのようです。現在の司法改革における裁判員裁判や、国民審査制度などで、現状を打開することはできないと思っています。そもそも、私は司法権の独立は信じられませんし、信用も出来ません。 今回の猿払事件にしても、司法権が勝手に基準を作って、自分の主観で審査するなど、何を血迷ったかと思いました。猿払に関しては、次の講義で続きがあるそうですから、それを聴いた上でもう一度、考えてみたいです。
 ただ少なくとも、司法権が誰かに支配される(べき)なら、それは内閣ではなく、国民であるべきだと思います。最終的には、裁判所に対する内閣の影響力を今より少なくし、逆に、もっと国民の影響力を強めるような改憲をすべきだと私は考えています。

 さて話は270度ほど変わりますが、先生から印象深かった私的名言が飛び出しましたので、感想を書かせて下さい。「法は数学のように割り切れない。」まさに法の長所と短所を言い表したすばらしい言葉だと思います。上手く書けませんが、法が割り切れないからこそ、支配者の都合で私たちは苦しめられるし、同じく法が割り切れないからこそ、私たちは支配者に抵抗できるのです。そこでは、法よりも思想が重視されます。そうすると、初期の授業で人権思想(主義)についての講義があったのもしみじみと感慨深く思われ、感動した次第です。(違っていたらごめんなさい)

 もう一つ、別の話をします。それは樋口先生の小話です。よく、飢えた人は何を食べても至高の食べ物に感じると言いますが、当時の東大生もそういうことなんだろうと思います。逆に、南野先生のギャグ(?)がうけないとしても、悲観なさらないで下さい。それはいつもご馳走を出していて、九大生が飽食気味であるだけなのです。

 それでは次の授業も楽しみにしております。

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第12回(2009年11月9日・月)

投稿者1:new(法学部2年)

 だんだんと授業が難しくなってきたような気がするのは僕だけでしょうか。しっかり予習していかなければと決意を新たにしました。
 今回も前回に引き続き公務員の権利制約についてでした。公務員志望の僕にとって関心の高い問題です。公務員は政治的表明の制約など、多くの権利制約があるようですが、それらの制約が本当に全て必要なのかは疑問があります。監獄法のように必要以上の権利制約があるのではないでしょうか。だからこそ、労働運動は公共部門が中心であり、労働判例も公共部門関連が多いのだと思います。
 権利制約の部分は、全逓東京中郵事件判決の様に労働法には違反しているが、刑事法上では正当な行為になる、など複雑な問題であるので、あまり内容に踏み込んだ講義風景レポートはかけないのですが、少しずつ知識を身につけていきたいと思います。

投稿者2:まゆこのつくだに(法学部2年) 

 今回はレポートお書きになった方が少ないようですね。
 先生にとって乾空の慈雨になるのかどうか分かりませんがせっかくなので今回もまたまた書こうと思います。

 今回は全逓東京中郵事件、東京都教職員組合事件を題材に公務員の労働基本権制限を司法はどう考えているか学びました。

 多数意見の言う、法分野が違えば違法となる範囲も違ってくるというのは正しいと思います。むしろ違法性一元化論は反対という結論を書くために原則を無視してまで持ち出した理論ではないでしょうか。たとえば民法総則に出てくる詐欺は刑法上の詐欺より広いはずですが、民法総則上の詐欺をすべて詐欺罪で摘発したらおそらく留置場は大変なことになるはずです。それこそ1億総取り締まられ社会になってしまいます。
 反対意見の反対意見を書かれたこと松田裁判官の気持ちが分かる気がします。

 おそらくこの事件の被告人の方々はこの訴訟の結果にかかわらず、旧郵政省なり都教委なりから何かしらの懲戒処分はされているはずですし、それに加えて刑罰を加えるほどの事案ではないのではないのでしょうか。
 国家公務員法成立時は労働運動や社会主義運動がそれこそ敵視されていましたが、60年経った現在とはわけが違うと思います。
 110条の存在理由について考え直す時期がきているのではないかと思います。

投稿者3:イチカワ(法学部2年)   #110 

 微妙な時間に投稿です(笑)
 南野先生曰わく「郵便局のただのおっちゃん」な猿払事件が終わり、「郵便局の労組」の事案である全逓東京中郵事件と地方公務員の労働基本権が争点となった東京都教組事件についてやりました(途中、obiter dictum や「司法の危機」が登場です!)。
 さて、最高裁が、これらの事案にて「二重の絞り」論を適用し、非常にリベラルな判決を出したわけですが、個人的に判決、そして公務員(主に現業公務員です。公務員全てを認めるということになると以下の理由に該当しない職種もでると思いますので)のストには賛成です。実際にストをされて、自分がなんらかの迷惑を被った時イラっとするかもしれませんが(苦笑)ストによって職場改善がなされたのなら、モチベーションが上がり最終的に国民の利益になるのではないかというのがその理由です。
 他の投稿者のように論理的ではなく、単なる想像で書いている感じですね。失礼しました。勉強せねばと思います。

投稿者4:タク(法学部2年)

 さすがに講義が難しくなってきたため、レポートが書きづらいですが、がんばってレポートは書きたいと思います。

 さて、公務員の労働基本権の問題を取り扱っています。が、難しいですね(笑)。
 難しいと感じる理由は、純粋な憲法だけの問題というわけではなく、社会や政府(自民党)、さらに個々の裁判官の様々な思惑が入り混じっての問題であるからだと思います。
 この問題は多方面から見ることができ、考察できそうですが、とりあえず憲法の問題としてどのような道筋となるのか、今後も見ていきたいと思います。
 短文かつ皆さんに比べて稚拙な文章で申し訳ありませんが、これから精進していきたいと思います。

投稿者5:しぇる(法学部2年) 

 今回は公務員の労働基本権に関する判例の動向についてでした。戦後は公務員を国家の狗という発想から、公務員への制約を簡単に考えて許しており、その後公務員の労働基本権を一定程度認めようという流れになったのは、自然な流れだと思います。
 今回はここまででしたが、気になるのは次回の第三期に起こる公務員の労働基本権を再び制限しようという流れです。その原因に政府が嫌う判決が出続けた(全逓東京中郵<1966>恵庭<67>猿払一審<68>東京都教組<69>)という流れがあり、リベラルな青法協への圧力を加えたという政治的な話を聞けました。
 法学を学ぶ前は法は一定のものでありそれにのっとってただ裁くだけと思ってましたが、しだいに法は良くも悪くも政治の動きに影響を受けて変わっていくものと思うようになりました。今回はそういうものの一例であり、そういうところからどう考えてもおかしい合憲限定解釈が生まれるのかなぁと思いました。次回にどういう説明をされるのか楽しみです。

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第13回(2009年11月12日・木)

投稿者1:カレー(法学部2年)

 本日の講義では、全農林警職法事件判決を扱い、公務員の労働基本権および特殊な法律関係の部分のお話が完結しました。南野先生は「講義の進行がだいぶ遅れている」と心配されていたようでしたが、非常に有意義な遅れである、と私は認識しています。というのも、数回の公務員についての講義は、猿払事件判決の「当時の事情を鑑みれば、その結論しかありえなかった」という先生の言及の、いわば「たねあかし」として、非常に説得力のある説明であったと感じているからです。ただ、あまりに有意義なお話であるために、南野節ともいうべき面白い発言を聞くことができないのは残念です(笑)。

 さて、本題の公務員の労働基本権についてですが、私は、「(公務員の労働基本権の判例の流れの第二期における)最高裁のこの態度」が「政治部門の強い反発を受け、最高裁判事の定年退職による交代等もあって、結局その後、…(第三期の判例変更を経て)現行法制をまるごと合憲としたまま現在に至っている」(高橋和之『立憲主義と日本国憲法』(有斐閣、2005年)268頁)以上、判例変更したとされる三つの判決を公務員の労働基本権のリーディングケースとして片づけることなく、もう一度議論しなおすことが求められていると考えます。本当に公務員には争議権を認めないままでよいのか、そして、仮に認めないにしても、「公務員の労働条件についての国会法定主義ないし財政民主主義は、公務員の争議行為を全面一律に禁止し違反に刑事罰を科す法令を、合憲なものとして説明するには不十分」である(樋口陽一『憲法〔第3版〕』(創文社、2007年)288頁)という点で、本当に議論がし尽くされたのがが疑問です。
 また、第三期の判例変更をしたとされる三つの判決が、政治圧力によって捻じ曲げられたのではないか、という問題ですが、担当裁判官の退官や、恣意的な人事により判例が政治に都合のいいように変更されていたのであれば、当時の司法は形式的で低レベルなものと言わざるをえません。当然、そのような司法の下す判決の信頼度は低くなるはずなので、ますます公務員の労働基本権について議論しなおす必要が出てくると思います。

投稿者2:new(法学部2年) 

 今回の講義で猿払事件判決の時代背景がわかり、モヤモヤがすっきりしました!
 また、公務員志望の私としては、リベラルな判断が多かった第2期が続いてほしかったので少し残念でした。しかし、よく考えてみれば第2期が続いていたとしても、公務員の権利がきちんと保障されるかどうかは疑問です。先週の授業を受けた時は、「第2期の裁判官はいい人だな。無罪判決を出された公務員も満足できたんだろうな。」と簡単に思っていたのですが、先生が今回の授業でおっしゃっていたように、真に怖いのは刑罰ではなく懲戒処分だと思います。裁判に勝つことができたとしても、その公務員は懲戒処分を受けたり、仮に受けなかったとしても上からの圧力が加わり職場にいづらくなるかもしれません。裁判に勝てたかどうかという形式的な面だけでは、公務員の権利制約を考えることはできないのだなと感じました。
 今回の講義で公務員の権利制約が終わり、次回からは私人間効力に入ります。置いて行かれないようにしっかり勉強したいと思います。

投稿者3:モナリザ(法学部2年)   #115 

 憲法Uの講義が半分終わったということで、講義風景リポートでも書いてみようかと思い初投稿した次第です(*^ー^*)/

 公務員の政治行為に関する判例をいくつか検証し、遂に猿払事件判決の全貌が明かされ、ただただ「へぇ〜〜」と納得するとともに、当該事件の判決をするに際し、直接関係しない要素(時代背景)に判決が左右されてしまうという、人が人を裁く限界を見たように感じました。また、今回のように第1期、第2期とその動向を追って見ることで、より広範な視野で問題を検討でき、より深い理解が可能になることを学びました。

 最後に一言!!
 先生・・・怖いです(名指しで指摘するとか・・・)←多数意見。もう少し優しくしてください(p>∧<q)。

投稿者4:今日のわんこ(法学部2年)

 今回の授業で、3回にわたって行われた公務員の労働基本権のお話が終わりました。
 ここでは公務員の労働基本権の判例を軸にして講義が進みましたが、これらの判例展開については先生が判決の出された時期を第1期から第3期までに分類の上、各時期の判例の特徴や時代背景も併せて明確に示されたのでわかりやすく感じました。
 改めて、初回のガイダンスで先生がおっしゃっていた「形式にこだわる」ことの重要性がわかった気がします。
 講義の内容についてですが、今回私は第2期の3つの判例(全逓東京中郵事件、東京都教組事件、全司法仙台事件)が第3期で全てきれいに(それぞれ順に、全逓名古屋中郵事件、岩教組学テ事件、全農林警職法事件へ)判例変更されていた部分に驚きを感じました。
 全農林警職法事件判決における5裁判官の意見のように「憲法の解釈変更は軽々に行うべきではない」という視点と、足並みを揃えたように行われた上の判例変更及びその方向づけに政治的な思惑を感じるという視点の両方から見て、当時の司法への不信感を持たざるを得ません。また、同時に判例を無批判に見ることの危うさも感じました。

 しかし他方で、裁判所の判断に何らかの思惑を感じることへの批判は、あくまでも現在の時点から過去を見るからこそできるものだとも考えられます。上でモナリザさんがおっしゃっていたように、裁判所では人が人を裁いているので政治的に中立的な判断が機械的に出てくるわけではありません。裁判所の判断にはもちろん政治的中立性が求められますが、万人の納得する普遍的な政治的中立性というものは無いに等しいものなので、いかにその時代と場所に生きる国民の感情と折り合いをつけるかが重要なのではないかと思います。

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第14回(2009年11月16日・月)

投稿者1:今日のわんこ(法学部2年)

 今回の授業は、本来私的自治が原則となっている私人対私人という横の関係において、憲法上保障されている権利
が侵害されている場合に、どのように権利を救済すればよいかという私人間効力についての講義でした。
 今回は久しぶりに1講義90分で1節が完結したのですが、1つ前の節の「特殊な法律関係」の部分は5講義450分の時間をかけてやったので、今回の講義は内容が濃かったのにも関わらず時間的にはとても短かったような気がします。

 さてそのような濃度の高い今回の講義で私が最も印象的だったのは、(少なくとも憲法の分野に関していえば)裁判所が必ずしも学説の枠組みの中で判決を出しているわけではないというお話でした。
 というのも、私は今まで憲法の判例を読む中で、裁判所が学説の枠組みにとらわれずに判決を出すことはよくある当然のことだと思い込んでおり、「そういえばなぜ学説の枠組みの中で判決を出していないのか」ということについては考えたことがなかったからです。思えば民法の判例は学説をベースにして判決が出されているものが多いので、それと比較すると憲法の学説は裁判所から少々雑に扱われすぎているのではないかという気もしてきました。
 この両者の違いは、ただ学説が実務に直結しているか、それとも間接的に影響を与えているかだけの違いなのでしょうか?
 先生が講義中に、この学説と裁判所の判断についての関係性は、他国ではまた日本と異なるとさらりとおっしゃっていましたが、なぜここに違いが生まれてくるのかも気になるので、連休中に時間を見つけて探ってみたいと思います。
 いずれにせよ、前回の講義でも今回の講義でも、「裁判所の判断ってなんだろう」というかなりぼんやりとした疑問が浮かんできました。

 余談ですが、百選Tが第4版から第5版に改訂される頃の喫煙所での裏話はかなりおもしろかったです。

投稿者2:えっちゃん(法学部2年)

 後半戦のスタートということで久しぶりにリポートを書きたいと思います。 今回は私人間効力の適用に関するお話でした。

 先生は三菱樹脂事件は間接適用説に見えるけれども、学説に沿った判決ではないとの見解を示して、小山先生の百選第4版の一節を紹介なさってました。そうしたら長谷部先生も小山先生と同様に、「判例も、間接適用説を採用しており、その旨を明らかにする代表的な判例として、いわゆる三菱樹脂事件最高裁判決がある。」(長谷部・憲法135頁)と教科書にお書きになっていました。これは紹介だけしておきます。
 そして、授業の最後のほうに「もしかしたら、10年後にはこの議論はされなくなっているかもしれない。」とおっしゃってました。僕はそもそも間接適用だとか直接適用だとかは議論する必要はないと思いました。最高法規として憲法が頂点にあり、その下に民法や刑法が並ぶピラミッド構造になっているのであれば、民法等が憲法に違反できないだけでなく、憲法の精神や人権保障規定は当然民法等に反映されるのではないでしょうか。そうであれば、私人間の契約などであっても、憲法の人権規定に違反していると一般に判断できるものに関しては、その契約を規定する民法によって(ここでは民法にしておきます)公序良俗違反・信義則違反で無効にすべきではないのかと思いました(裁判官の裁量に任せるところが大きくなってしまいますが)。適用・無適用の議論以前に元々民法等は憲法の規定を反映させていると考えていくことはできないでしょうか。
 ズレた話をしていたらすいません。

 話は変わりますが、先生はサ行の発生が苦手なようです。
 「安倍しゃん」に始まり今回も「しょうしょ(勝訴)」とおっしゃってました。(笑)

投稿者3:オスカル(法学部5年生)

 今回の講義は「まだ明確な答えが出てない」という、南野先生らしくない(?)落とし所となりました。
 しかし、学説上まだまだ議論の余地がある状況だからこそ自分の頭で考え、自分なりの解釈を煮詰めることがより必要とされるわけで、有意義であると思います。
 個人的には、@国家権力を制約する近代立憲主義の本来の目的、A民法その他の法律で解決できるならば憲法が登場するまでもない、を根拠とする新無適用説のほうが今のところ納得がいきます。憲法は形式的にも最高法規なのだからどっしり構えておくべきです。その一方で、高橋先生に反論した間接適用説の論者の主張もそれはそれで頷ける部分があるように思えます。
 しかし、この概念の対立もあくまで「学説というフィルターを通して考えれば」どちらがより妥当なのか?という問題でしかないですね。学界の大論争もどこ吹く風で、司法はなおもこのような枠組みに囚われないマイペースな判決を出していくかもしれません。新無適用説すら無適用という(?)憲法学界ががっかりしないような判決が出ると、いいですね(笑)

P.S. 南野先生へ
 『死ぬまでに一度は行きたい世界の1000ヵ所 ヨーロッパ編』、『半落ち』を読了しました。
 ということで、明日の講義後に研究室にお返ししに行きます。
 学祭期間中に読む本もお借りしたく思いますので、またよろしくお願い致します。

 この1週間勉強の合間になにか小説読みたいな、と思う方は、南野研究室を訪ねてみるといい本にめぐり合えるかもしれません。興味のある方はぜひオススメします。

投稿者4:つまぶき(法学部2年)   #120

 今回は憲法の私人間効力についてでした。三菱樹脂訴訟は基礎ゼミでも取り扱った判例だったのですが、個人的にはやはり新無適用説に傾いてしまいました。
 しかし一方で、先生のおっしゃった通り、判例に学説をあてはめることの限界というものも感じました。
 そこらへんをもう一度自分の中で整理しておきたいと思います。

 余談ですが、最近は気温の変化が激しいので、先生も体調に気をつけて下さいね。

投稿者5:まゆこのつくだに(法学部2年) 

 今回は憲法の私人間効力についての講義でしたが、一番印象に残ったのは「10年後にはこの議論自体なくなっているかもしれない」の一言でした。
 センター政治経済の授業をとっていた頃の自分であれば、「いやいやそんなことないだろ」と突っ込みたくなるかもしれませんが、今考えると、正直この議論の実益はあまりないのではと思います。

 なぜなら、そもそも憲法の精神を織り込んで法律がたくさんあるため、間接効力説と無効力説は結局同じになると思うからです。
 たとえば民法1条1項「私権は、公共の福祉に適合しなければならない」・1条3項「権利の濫用は、これを許さない」は、憲法12条後段「又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」を言い換えたものですし、民法2条「この法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として…」というのは、憲法24条2項が「…法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と言ってあるから、その通り制定したという話です。

 つまり、裁判所が無効力説を採用して、私人間の権利侵害問題を民法の一般条項だけで解決しようとしても、その条項には憲法の人権規定の精神が最初から読み込まれている(あるいは読み込むよう要請される)ので、間接効力説と差がないのではないでしょうか。

 また戦前から存在する法律について、判決が「これを日本国憲法に適合するように解釈すると…」ということがあるので、民法90条にも憲法の人権規定は反映されると思います。

 もしかしたら三菱樹脂訴訟を担当した裁判官は、このことがわかっていたため何説とも着かない記述をした(直接効力説を切っただけ)かもしれません。

 10年後の憲法学説がどうなっているか楽しみにしたいと思います。

投稿者6:あま党(法学部3年)

 第4回の講義でリポートを投稿していることになっておりますが、南野先生の講義を拝聴させていただいたのはほぼ1年ぶりでした。

 一年ぶりに講義に出て感じたことは…
 「南野先生すげぇー!!」ということでした。一年間のブランクがあり、かつ憲法ゼミに在籍しながら憲法の勉強をしていない私にとって、90分間の南野憲法の講義は長すぎ、集中力が持たないだろうと考えていました。しかし、講義が始まってみるとみるみるうちに南野先生の言葉に惹きつけられ、あっという間に90分間が過ぎてしまいました。そのような南野先生の人を惹きつける話し方は、今後就職活動や公務員試験において、自分の考えや熱意を伝えていかなければならない私にとって、大変参考になるものでした。

 もう一点感じたことが、ノートがとれなくなっていた(あるいは自分のノートのスタイルが大きく変わっていた)ことです。
 一年前までは、一日4,5頁のきれいなノートをとっていたものですが、今回の講義では14頁のなぐり書きのノートになりました。とても人に見せられるようなノートではありません。一部は自分でも解読不可能です。。。もう一度、きれいなノート作りを法社会学の講義で心掛けたいと思います(笑)。
 講義の内容も、ドイツ民法と日本民法の比較など昨年にはなかった新しい視点が盛り込まれており、より分かりやすい講義になっていたように感じます。
 一年振りの講義でありながらほとんど講義内容には触れないリポートになってしまいましたが、また講義に出る機会があれば、その際はもっとしっかりしたリポートを書きたいと思います。

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第15回(2009年11月18日・水 この日は、法学部では月曜日として授業を行います。11月19日(木)は九大祭のため全日休講です。

投稿者1:Kusunoka(法学部2年)

 本日の講義は「権利の制約」の話でした。日本国憲法下では、権利の内在的制約に加えて、公共の福祉という大日本帝国憲法と同様もしくはそれ以上の制約をうける可能性があると、講義の最初に確認しました。
 次に、その公共の福祉がどのようなものかという学説の紹介で、一元的外在制約説、二元的制約説と続き、通説の一元的内在制約説を紹介して終わりました。

 一元的内在制約説では、公共の福祉は、私人の権利が衝突したときの調整機能ということでしたが。これっていうのは、前回の講義でやった私人間関係の話と重なり合ってくると思います。
 私人間関係は、私人間にも憲法が適用されるかされないかの議論でした。学説上は無適用説・直接適用説・間接適用説に分かれています。
 そうすると、一元的内在制約説は、公共の福祉を通じて私人間にも憲法が影響を及ぼすので、無適用説とは考えにくいです。では、これが直接適用説なのか間接適用なのかという問題になりますが、前回の復習をまだまともにしていないので(汗)、休みの間に考えたいと思います。

投稿者2:カレー(法学部2年)

 前回の講義で、私人間効力の論点をあっさり終え、今回は権利の制約の論点について考えていきました。個人的には、南野先生が私人間効力のどの学説を採るのかが一番気になっていました(笑)。しかし、「人権」を「人が人であるがゆえに当然に持つ権利」と定義し、「人権≠憲法上の権利」という前提のもと、近代立憲主義あるいは憲法上の権利の対国家性を貫徹を目指される先生のスタンスを考えると(おそらく第3回の講義で先生が言及されたの内容だと思います)、そもそも憲法上の権利を私人間に適用するかどうかをはじめから想定していない以上、理論的な説明が思いつかないという意味で「まだ明確な答えが出ていない」というお答えが今の結論としては一番適切であろうと思いました。加えて、10年後には私人間効力論も消滅しているかもしれないという先生のご主張は、適用方法を追求する直接適用説・間接適用説の対立軸とまったく違う次元におられる先生の考え方からすれば、そうあってしかるべきものなのかな、とも思いました。ちなみに、この私人間効力の論点についての私の考えは、昨日の空き時間のくどぅくんとの何気ない会話から生まれました。くどぅくんの考え方も是非この場で聞いてみたいので、リポートを送ってくれることを期待します!笑

 さて、本題の権利の制約についてですが、(講義の終盤で触れたことと重複するかもしれませんが)通説として提示された一元的内在制約説は、最近再検討が行われているようで、公共の福祉を人権間の衝突・対立だとする当該学説が、人権のインフレ化や人権に対する尊重の念の希薄化を生んでおり問題である、と指摘されています(高橋和之『立憲主義と日本国憲法』(有斐閣、2005年)104頁以下)。これは、当該学説が、より理論的な説明が可能な考え方を求めて人権概念に固執しすぎたあまり、実際の衝突すべてを想定しきれていなかったというべきでしょう。いずれにせよ、この論点については講義もまだ途中で、よくわからない部分が多いので、次回以降の講義を聞いてさらに考えていきたいです。

投稿者3:くどぅ(法学部2年)   #125 

 カレーくんに指名されましたので久しぶりに・・・。正直自分の考えを文章ではあまり上手く表現できないのですが、少しばかり書かせていただきます。

 確かに、私達が「人権が侵害された」と感じる場面は、相手が国等という公権力に対してであるよりも、私人、つまり三菱樹脂事件でいうような企業相手もしくは特定の個人などに対してであることのほうが多い気がします。けれども、「人権侵害だ!」と高らかに謳って私人間の関係でも何でも憲法問題、人権問題にするのもどうなのかとは思いました。確かに、社会的に不利におかれたものと有利なものとの不均衡な上下関係は私人間でも対国家と同様に生じ、解決・調整が必要だと思います。だからといって、民法のような法規の一般条項などを用いるなどしてなんとか解決できそうなものを、なんでもさぁ憲法の登場だ、さぁ人権規定の登場だといって憲法上の人権の問題として扱うのは、少しばかり講義の初期の方で先生がおっしゃていた「人権という語のもつパンチ力」を弱めてしまうのではないかという感じがしました。樋口先生の言葉を使わせていただくと、「人権問題の焦点を拡散させるおそれ」(樋口陽一『憲法』(創文社、2007年)198頁)があり、まさにその通りではないかと思いました。私の中で、この人権論の講義を通して、「人権」という語の使い方に慎重になってきている自分がいるなぁとつくづく感じます。この講義を通して、判決の射程についてもそうですが、普通にただ勉強しているだけでは簡単に流してしまいそうな重要なことに気付かされているとおもいます。

 次に今回の講義での権利の制約について少しばかり述べさせていただきます。現在の通説といえる一元的内在制約説の、人権は人権によってのみ制約されるという点についてです。これにもやはり人権の誤った用い方の危険が伴うように思います。例えば、『憲法学の現代的論点』第12章から引用させていただきますと、「人権は、例えば街の美観の維持など、個々の人権には還元しえない利益によっても制約されうるのであり、このことを無視すると、現に人権が制約されている場合、制約理由とされている対抗利益——上記例で言えば、街の美観の維持―を人権としてしまう」(巻美矢紀「個人としての尊重と公共性」安西文雄ほか『憲法学の現代的論点〔第2版〕』(有斐閣、2009年)285頁)とあるように、このような一元的内在制約説のなかにも人権という語の使い方に慎重に私がなってしまう点が含まれていると思います。

 要するに、人権という言葉は深いなぁと感じたということです。
 また次回の講義も楽しみにしています。

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 2009年11月26日(木)は、都合により休講としました。

第16回(2009年11月30日・月)

投稿者1:new(法学部2年)

 今日、先生がおっしゃっていたので、他の方が書いた講義風景レポートを読ませていただいたのですが、内容の高度さに驚きました。「あぁ、見ない方が良かった」と思いました。例えるならば、バレンタインデーの日に、聞かない方がいいとわかっているのに、イケメンの友達に「チョコ何個もらった?」と思わず聞いてしまって、落ち込んでしまうといった感じに近い感覚です。すいません。例え下手ですいません。
 話がそれてしまったのですが、同じ学年の方とは思えないほどのレポートでしたので関心してしまいました。自分も少しでも近づけるようにレベルアップしようと思いました。講義風景レポートにはこのように学生を刺激させる仕組みがあるのだなと、南野先生の策略?戦略?に関心した次第であります。

投稿者2:カレー(法学部2年) 

 今回は、前回に引き続き権利の制約と公共の福祉について学びました。前回の自分の講義風景リポートの内容を振り返ってみて思ったのですが、よくわからないことを書いていますね(>_<)学びたてホヤホヤの頭でいろいろ考えて書いているつもりでも、後で冷静になって見直してみると何を言いたいのかが分からず、何だか恥ずかしいです。そこで、前回の自分のリポートの気になった部分について、少し補足しつつ、今回の講義を受けて考えたことを少し述べたいと思います。前回リポートの拙文の後半の「当該学説が、より理論的な説明が可能な考え方を求めて人権概念に固執しすぎたあまり、実際の衝突すべてを想定しきれていなかったというべきでしょう」という宮沢説を検討した部分ですが、これでは少し不十分で、宮沢説が美濃部説の弱点(公共の福祉が人権の制約の正当化根拠として悪用される虞があるという点)を克服しようとし、あえて「人権と人権との衝突」に公共の福祉の対象を限定したという点では評価できるが、公共的・社会的規制の説明に苦慮する(新しい人権概念の創出を必要とする)といえるでしょう、と言い換えたいと思います。そして、宮沢説のもう一つの弱点といえる、公共の福祉があまりに抽象的すぎる、という点が次回以降の審査基準のお話につながります。審査基準は、興味のあるところなので楽しみです。

 少し講義の内容と離れますが、学説の変遷を見ていて、学説はすごいなと思いました。美濃部説を無条件で支持することなく(一部判決は鵜呑みにしてしまったが)欠点を見抜き鋭く指摘し、かといって『註解日本国憲法』を甘受することなく、そして現在は宮沢説を「はい、そうですか」と受け入れることなく、常によりよい説を求めて議論を続けています。言い換えれば、学説の対立のおかげで、これまでより無難なところを歩んでこれたのかな、と言えるでしょう(よりよい結論へと私たちを自然と導く「神の見えざる手」のようなものでしょうか)。私自身は、既存のものを批判的に見るという意識が低いほうかもしれないなと思ったので、今後は、本当にこれでいいのか、もっとよい答えはないか、考えていこうと思いました。

投稿者3:イチカワ(法学部2年) 

  「時間を大切」にしようと思い、珍しく早めに講義風景レポートを書きます(笑)。

 と、この文章を月曜日の夜に書いていたはずなのに・・・すっかり水曜日です(苦笑)。
 時の流れの早さをなめてかかるものではないと痛感しました。
 さて気を取り直して、今回の講義は「公共の福祉」の学説の一つである一元的内在説(宮沢説)の検討が中心でした。(ついでに言いますと授業の冒頭は、みんなが楽しみ?にしている来年度のゼミとゼミシラバス(←熟読必須)についてでした。)
 私人間効力の問題になりそうな宮沢説の検討ですが、この説の最大のメリット(なぜ、宮沢説が通説になりえたのか)を理論的に、きちんと納得できるようにするためにも必要と感じました。

 他の投稿者のように高度な感想・考察が一切書けていませんが、ご容赦を。

 余談(ただのグチ)です。「公務員の政治的行為」の講義の中で先生が取り上げた葛飾事件ですが、先生がおっしゃっていたように11月30日の最高裁判決は有罪でした。
 正直残念です。「チラシ・パンフレットなど広告の投かんを固く禁じます」という掲示が形骸化しているマンションに住んでいる身としては、(言い方は悪いですが)「政党ビラよりもタチの悪いものにこの判決が下るべきなのでは?」と思いました。

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第17回(2009年12月3日・木)

投稿者1:たくたか(法学部2年)

 今回はじめてリポートを書かせていただきます。

 講義には出席しておりますが、そんな深い勉強を自分でしているわけではないので、内容がお粗末なことはご勘弁を。
 今日の講義では、公共の福祉や二重の基準論等に触れましたが、講義中に、基準を細かく作っていくと、憲法判断がベンダーマシンのようになってしまうとおっしゃったのを覚えています。
 ああ、そうだなって思ったんですが、それも究極の形ではありますが、紛争の解決ということに還元して、その反対の究極の形は未開の村で行われているような村長による主観的、独善的な判断でしょう。
 それはまずいということで憲法やその他の法律があるわけですが、でもそこには個人の考えが入ってこないわけではないです。最終的に判決を下すのは裁判官個人ですし、法の解釈によりかなり判決は変わります。じゃあ、どこまで裁判官個人で判断するべきなのか、というわけです。
 もちろん判例に拘束されるということはありますが、真に拘束されるという意味では憲法76条が示すとおりですが、後は好きにしてもいいよってなったら、人によっては公共の福祉でどんな法律も合憲になってしまいます。
 二重の基準論もそこに関連してきます。
 いったいどこまで裁判官という個人が判決を下すのにあてにすることができるものを用意すべきなのか?
 と考えたわけです。
 せっかくなので少しは自分でも調べてみようかなっと思います。

 ここで内容終わりです。
 載せるのに不適切であれば躊躇なくおっしゃって下さい。当たり前のことを確認しただけのようにも思えますので。

 あと、12月24日に補講というのは今の僕ではナイス判断としか言いようがないです。
 僕も4限の刑法の講義の終わりにこのメールが来て、えーっと言った人のようになりたいものですがね。

投稿者2:カレー(法学部2年)   #130

  今回は、公共の福祉が権利の制約の基準としてはあまりに抽象的すぎる、というところを出発点に、審査基準について学びました。
 まず初めに審査基準として登場したのが比較衡量論でしたが、問題となっている権利の制約によって得られる利益と失われる利益とを比較衡量するという点と、裁判所が個別具体的に審査するという点を提示しただけで、いくら公共の福祉という抽象的な基準を具体化したといっても、講義でも触れたとおり裁判所の判断の安定性という観点からすれば、不十分な議論だと感じました。そこで登場したのが、より具体的な審査基準としての二重の基準論でした。二重の基準論は、権利の制約を、精神的自由に対する規制と経済的自由に対する規制とに分け、それぞれ厳格な審査と、緩やかな審査を行うとしています。
 私は、このように明確な基準を打ち出したことには賛成ですが、その論拠に少し疑問を感じました。日本の二重の基準論の論拠には、@価値論、A裁判所能力論、B民主的政治過程論があり、Aは、社会経済政策一般についての判断を行う能力の劣る裁判所は、経済的自由の規制について厳格な審査を行う資格がないとし、Bは、「精神的自由や平等の確保のためには、選挙によらない司法権が決定的な役割を果たすことを回避すべきでない」(樋口陽一『憲法〔第3版〕』(創文社、2007年)205頁)としています。しかし、逆に考えると、裁判所が精神的自由や平等について完璧な結論を導けるかも疑問ですし、経済的自由の規制の審査について、選挙によらないからといって司法権が決定的な役割を果たすべきでないかといえばそうではありません。どのような性質の権利の制約であれ、制度上選挙によらない司法権が判断するほかないのですし、裁判所が完璧でそれ以外ないという答えを出せる保証があるかと問われれば、そうは言い切れないでしょう。こう考えていけば、究極的には、根拠づけに困らない比較衡量論が、安定性を失うことにはなりますが、個別具体的に適切な結論を導けるという点では、よいのではないかと思いました。ですが、この論点はさらなる議論の余地がありそうですね。これからの講義で、具体的な人権規定とともにそれに関する判例も見ていくこととなると思いますので、その過程で再度考えていこうと思います。

 余談ですが、24日の補講については、賛否両論ありそうですね。意見のある方は、リポートとして送ってみたほうがいいかもしれません(笑)リポートの数次第では、変更もあり得る(はず)!

投稿者3:豆乳鍋(法学部2年)

 24日補講との知らせに1リットルの涙を流し、抗議するついでにリポートを書こうと思った次第ですが、他の方の書いたものがあまりにハイレベルで少々気まずく思っています。

 今日は、比較衡量する際のより客観的な枠組みとしての審査基準論と、二重の基準論についてでした。二重の基準論の論拠は価値論(精神的自由と経済的自由では価値が違う)、裁判所能力論(裁判所は経済分野の立法については判断する能力を持たない)、民主的政治過程論(民主的プロセスで法令を変更できない場合に限って違憲審査することができる)の3つでしたが、それぞれに反論があり、結局現状を前提とすると二重の基準論の論拠として成り立つのは裁判所能力論だけということでした。次回はそれに関する先生のご意見から授業を始めるとのことで、とても楽しみです。

 さて、24日の補講にについてですが、1月にまわすことはできないものでしょうか?
 気持ちが浮つきがちなクリスマスイブよりは、テスト前の1月にみっちり授業していただいた方がありがたいです。ぜひご一考ください。

投稿者4:Kusunoka(法学部2年)  

 今回の授業は、初めに宮沢説に対する3つ目の批判について述べ、公共の福祉の事はわからないという話で第一節を終えました。
 第二節「審査の方法」では、比較衡量の考え方、審査基準論、二重の基準論という順番で、議論が発展していく流れが紹介されました。しかし最後は、二重の基準論にも批判があるのだということで、授業が終わりました。

 ここからは、第五章を通じた感想を書きます。学説はおおまかにですけど、@国家の恣意的な権利制限を阻止する。A権利制限は必要。B権利は「公共の福祉」や「比較衡量」を使って制限する。という三つの話を同時にしているように見え、混乱します。
 公共の福祉や比較衡量を使って権利を制限するのは、国家が行うしかないということは前提とします。では、公共の福祉が一元的内在制約説であれば、もしくは比較衡量が具体的に整備されれば、国家は恣意的な権利制限が出来なくなるのでしょうか。現行では無理だと思います。何故なら、公共の福祉の解釈や審査基準に関するどの議論も、一定の恣意性を含むからです。公共の福祉はその抽象度の高さが恣意的な運用を引き起こしますし、比較衡量は何を基準にすえるかが既に恣意的です。要するに、恣意的なやり方で、恣意的な権利制限をしないようにしようと言っているわけで、論理の範囲では無理でしょう。もっとも、ある程度、国家を牽制することはできるでしょうが、逆に言えばある程度で我慢しろということなのかと思います。
 だからといって、公共の福祉や比較衡量の考え方を捨てよと言っているわけでは有りません。個人の権利と他の利益・権利は衝突しますし(衝突しないと考える憲法観もありますが、時代錯誤な気もします。)、調整する方法や調整の理念が必要であることは疑いようもありません。むしろ、問題とされるべきは別の目標なのです。
 僕としては、国家の恣意的な権利制限を阻止するという考えは、非常に大事ではあると思います。しかしながら、強調しすぎることは議論を停止させると思います。じゃあどうするのかというと、公共の福祉や比較衡量を裁判所が用いる以上、司法の良心(これこそ恣意的なのでしょうが)に任せるしかないのだと思います。裁判所は国家の一部でありながら、国家と対立することも躊躇してはならないわけで、まさに権力分立が大事ということですね。ただまぁ、あんまり期待は出来ないですけど。彼らの判断が適切であるかどうかをチェックする機能は皆無か脆弱だからです。
 権利を制限する必要があるという事実が、どうしても国家に付け入られる隙を作る。もどかしいですね。

 ・・・・・・どんなに書いても乱文になるので、この辺で終わらせようと思います。

 ちなみに話は変わりますが、12月24日の補講は別に問題ありません。主の愛は万人に平等だそうですが、主を信じない私には孤独しか与えられないようです(笑)
 しかし、人間の認識とは不思議なもので、異国の宗教祭日が、いつから「孤独を味わう日」や「幸せを味わう日」(「欲求を満たす日」?)になったんでしょうね?

投稿者5:ドナルド(法学部2年) 

 今回は第5章[権利の制約]のうちの第2節[審査の方法]について学びました。

 (1)比較衡量論では個別具体的な判断を行うため、一貫した判例の態度をだすことが難しく、また予測不可能であり、最終的に比較衡量を行うにしてもその際の基準が必要とのことから米の審査基準が取り入れられるようになった。法令違憲かを審査する際の基準としては@制約の目的が何なのか、A目的達成のための手段は適切か、といった2点で、それぞれ厳格なものから合理性の基準といわれるゆるいものまであるが、その細かい規定をそのまま適用し機械的な判断が出来るわけではない。

 (2)二重の基準論とは、精神的自由の制約は経済的自由の制約よりも厳しく審査すべきだという考え方であり、その根拠は3つあるそうです。これについては他の方のリポートにあるようなので省略したいと思います。
 精神的自由と経済的自由、やはり精神の自由の方が大事なのかな?と考えていたときに高校の時の担任の先生が言っていた「自由とはfreedomではなくlibertyだ」という言葉を思い出しました。「自由」の概念が抑圧も制限もない状態を表すものでなく、拘束や抑圧からの解放の結果得られるものというのであれば、そもそも自由という権利自体が制約を乗り越えたものであるのだろうか...なんてことを思ったのですが、これは人権と憲法上の権利が違うこととも関わってくるのでしょうか…
 考えているうちに何が何だか頭がこんがらがってきました(゜U。)?精神的自由や経済的自由という言葉がどのように生まれたのか(訳されたのか?)などまったくもって勉強不足なものですから、色々と見当違いなことを言っているかもしれませんがお許しを...そして結局は両者とも優劣つけ難く、やっぱり相互依存の関係だよな…と感じました。

 先生が二重の基準論は必要なのか等、たまには憲法の授業を土日をまたいで月曜日の次の授業まで引き摺ってはどうかなどとおっしゃっていたので、久しぶりにリポート送らせてもらいました。他の方のように高度な内容のリポートは無理ですが、私なりに授業の復習のような感じで書いてみました。

投稿者6:やす(法学部2年) 

 今回の講義で取り上げられた二重の基準論には、その根拠として価値論・裁判所能力論・民主的過程論がありました。しかしその中でも価値論は法哲学者の井上達夫先生による批判により支持を失っているということでした。実際芦部先生の『憲法〔第四版〕』でも二重の基準論の重要な根拠として価値論は挙げられていませんでした。このことが示すのは、異なる学問分野からの意見だという理由で相手にしないほど憲法学界は狭量ではないということだと思います。言い換えると、例え学生であっても法政論集なりゼミ論なりで説得力のあることを書けば、数年後には学界でも力を持った説になる可能性があるということです。ぜひそのような次元に達してみたいものです。
 ところで先日参加した飲み会の席でのこと。授業中、先生が思いのほか私たち学生のことを観察していらっしゃることが分かりました。基礎ゼミ出身であるか否かを問わず気づかないうちに見られているものなので、もっと気を引き締めて講義を受けようと思います。

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第18回(2009年12月7日・月)

投稿者1:マルブランシェ(法学部2年)   #135

 ご無沙汰でした!マルブランシェです。
 14条は限定列挙か例示か判断するのは難しいですね。
 確か、知的財産権の特許法は限定列挙をしている条文がいくつかあったと思います。
 そう考えると憲法は頭が良くないとできない学問かもしれませんね(笑)
 知財をしたい者としては難しい所ですが、せっかくなので深く考えたいです。

投稿者2:Kusunoka(法学部2年) 

 リポートに書くことでもないのですが、軽い報告をします。
 村西先生は天皇についての講義をなさりませんでした。「話すと長くなるから」ということでした(笑)。国会の解散権の話でちらりと天皇のことが出てきたぐらいです。

 ということで、まぁなんとなく平成20年という節目の年のようですし(何故、奉祝にエグザイルが選ばれたのか、私は不思議でなりません)、天皇については(良くも悪くも)学んでおいて損はないと思いますので、教科書で自習しておこうと思います。

 以下リポートです。

 本日は第二部「人権各論」に入りました。今日の講義は「平等」で、14条を細かく分けて、解釈上の論点が紹介されました。全体的に、あまり激しい論争にはなっていないという印象を受けました。具体的な内容については省略します。

 今日の感想はネット右翼を中心にします。何度かネトウヨの話が出てきまして、せっかくなので外見的ネトウヨ(?)からの意見も参考程度に述べます。というのも、私をネット右翼と批難する友人もいるものですから。憲法に関する感想や考察は他の皆さんにお任せします。
 まずネトウヨをどう見るかですが、ネット右翼はインターネット上の「保守右派・自称愛国者」であり、通常の右翼とは異なります。まずネトウヨは組織化されていません。何かに物理的圧力を掛けることもありません。そのため、ネトウヨは良くも悪くも外部で行動を起こさない「日和見主義者」です。仮に外でも行動しているなら、「ネットもする右翼」であって「ネット上の右翼」ではありません。
 ネトウヨの主張には正当な主張も少なくないと思います。しかし、先生のご感想通り、気持ち悪い主張をする感情的なネトウヨが多く存在することもまた揺ぎ無い事実です。以下では、その「感情的なネトウヨ」がどのような心理なのか、私の考えを述べます。
 ネット上での彼らの主張は、大半が批判であり差別です。多くは在日外国人への嫌悪が含まれます。その嫌悪の多くは在日外国人について無知なことから生じる、潜在的な恐怖感の表れだと私は思います。「知らないモノは怖いモノかもしれない」という至極通常の感覚です。それがネットと言う匿名性に押されて噴出しているのです。
 ですから先生が主張される「長きにわたって日本に居住した外国人に権利を拡大しようという主張」も、ネトウヨに言わせれば「自分たちの敵かもしれない人間に権利を与える愚かな主張」となります。「敵かもしれない」というのがまさに恐怖の表れです。のりピーの話を垂れ流し続けるテレビは在日外国人に不利な情報を隠している、という言い掛かり(かもしれない)激しく感情的な批判には、臆病なネトウヨの心理は表れています。もっとも在日外国人を信頼性の低い掲示板の情報のみで批判するネトウヨはフェアでないのと同様に、ネトウヨの主張は全て偏見にまみれていて理解に値しないという非ネトウヨもアンフェアです。
 ただ、この主張に疑問が湧くかと思います。それは、「見知らぬ日本人なら怖くないのか」という問題です。実は、ネトウヨは日本人も怖がっていると私は思います。彼らの書き込み内容は、参政権拡大に動く民主党を支持する日本人、先生のようにネトウヨをネタにする日本人、自分たちの主張を理解しようとしない日本人への嫌悪にも満ちています。そこで彼らは、選挙民を愚民と呼ぶことも、先生のような方は売国学者と呼ぶことも、知ろうとしない日本人を見て「日本は終わった」と嘆ずることもはばかりません。しかし、これらの主張にも在日外国人に対するものと同じ感情的な恐怖が内在しているように思えます(違ってたらごめんなさい)。
 私の言いたい結論はお分かりと思います。ネトウヨは人が怖いのです。もちろん、全てのネトウヨがそうだと断言できませんが、総体的にそのような気がします。ある意味、彼らは孤独です。在日外国人が民族的マイノリティであり、ネトウヨは精神的マイノリティなのかもしれません。だからネトウヨに激しい批難で返すのは逆効果です。むしろ温かい気持ちで受け入れた方がコミュニケーションになるだろうと思います。孤独をこじらせたネトウヨが、真性の右翼になる方がよっぽど怖いですし、社会的安定のためにも、今のうちに仲良くしておいても損はないかもしれません(笑)。

投稿者3:まゆこのつくだに(法学部2年) 

 今回は憲法各論のことはじめに、14条「平等」に関する議論でした。
 90分講義を受けて僕が関心をもったのは「平等は大事な原則だが、履き違えると面倒なことになる原則でもある」ということです。
 まずは「平等を徹底すると自由が犠牲になる」というのは、僕は「社会主義が失敗に終わった過程」を思い浮かべたのですが、もしかしたらもっと身近な例があるでしょうか。
 自由も憲法の重要な原則ですし、うまく折り合いをつけなければならないと思いました。
 それより個人的に気になったのは「平等は、人が個人として尊重されるための平等であるべき」ということです。世界に発信されるHPという場なので詳しくはいえませんが、夏休みに被差別部落の「逆差別」問題の現場?にたまたま遭遇したことがありました。差別をなくそうと努力することは素晴らしいことですが、ことこの問題に関しては、どうもやり方を間違ってしまったのではないのでしょうか。差別に苦しんでいる人に特権意識を植え付けてしまっては元も子もないと思います。
 「平等とはどうあるべきか」社会全体で考え直したほうがいいのではと思います。
それと違う話になりますが、今日の刑法の講義中、内田教授が共犯の特殊形態として内乱罪(刑法77条)を例にあげられてましたので,六法で条文を見たところ、首謀者に対する刑は「死刑または無期禁錮」と定められているんですね。
 刑の重さは禁錮<懲役だから、罪の重さは内乱首謀<尊属殺人、ということになるのでしょうか。さすがにこれは尊属に対する自然的情愛や普遍的倫理の維持尊重などで説明がつかないだろうと思いました、刑法の講義中に(笑)。
 木曜日では尊属殺判決の検討をするということなので、今から楽しみにしています。

投稿者4:new(法学部2年)  

 今回は、24日の補講の件について考察していきたいと思います。選択肢としては、@休む A裁判所に訴える B先生と交渉する という3つが僕の中ではありました。まず、試験のことを考えると@の選択肢は消去するほかありません。Bですが、先生のご意思は確固たるものに思われ、私程度の者では説得できそうにないので暫定却下しました。一番有力な選択肢が、Aの「訴える」だったのですが、それについての疑問点を考えてみたいと思います。  

 《疑問点@》、24日の補講は誰の権利を侵しているのだろうか。「カップルが幸せな時間をすごす権利」でしょうか? しかし、この点については、僕には関係ないので省略させていただきます。

 《疑問点A》、このような場合、裁判所は部分社会論を用いるのだろうか。

 《疑問点B》、24日に何の予定もない僕が、裁判を起こすといった、ハイリスク・ノーリターンなことをする必要があるのか。

 以上の3つの点について考えた結果、Bの「訴える」という選択肢も消去せざるを得ませんでした。

 というわけで、とりあえず僕は24日の補講に出席させていただきたいと思います。
 南野先生を説得できる強者がいましたら、どうぞ、よろしくお願いします。

投稿者5:(法学部3年) 

 先日、たまたま時間があり、どう時間を有効利用しようか思案していたところ、「そうだ!南野先生の講義を久々に聞いて、刺激を受けよう!」そう思って1人、大講義室の椅子に腰掛けました。
 約1年ぶりに拝聴する先生の講義は相変わらずキレがありテンポよく、みるみるうちに講義の中へと惹きつけられていきました。また同時に1年前、週2回欠かさず、この同じ講義室で先生の講義を受けていたのだと思うと、大変感慨深く、懐かしく感じました。
 講義内容はというと、今回は昨年安西先生が講義をされた、14条の「平等」のところでした。14条1項の「法の下に平等」という文言から引き出される法適用平等説と法内容平等説、「平等」という文言からの絶対的平等と相対的平等、「後段列挙事由」からの限定列挙説と例示列挙説と項目に分けて説明がされたため、大変分かりやすかったです。
 また、14条1項後段列挙事由について、(日本の裁判例上)「特段の決定的意味はないという点で確かに例示列挙ではある」が、(特に英米法論者の学説において)「それに限定しない点では例示的であるが、わざわざ列挙した点では意味がある」という投げかけから、人種、信条、性別、社会的身分、門地と項目を5つに分け説明をされたのには、さすがだと思いました。すっきりしていて、分かりやすい!去年はこの辺でアメリカの審査基準の話が出てきて、睡魔との闘いが始まったのを覚えていますから(笑)。
 それにしても、やはり「平等」というのは南野先生も仰ったように「自由」との関係で非常に難しいものだと思います。これは憲法問題に限ったことではなく、広い視野で捉えた時にも同じことがいえそうです。まだまだ勉強が必要だと感じました。
 とにかく、今回久々に1度講義を受けただけで、やはり南野先生は偉大な方だと痛感し、これまで1年間の自分の圧倒的勉強不足を悔いました。去年1度も講義風景リポートを投稿したことのない、成績も「良」という微妙な結果に終わった私ですが、やはり憲法に興味がなくても、この講義を通して予習、復習を行うことは大変意義のあることであり、この講義を受けることを今は大切にしてほしいということを後輩達に伝えたく、投稿させていただきました。
 また機会があれば、ぜひ拝聴したいと思います。

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第19回(2009年12月10日・木)

投稿者1:カレー(法学部2年)   #140

 今回は、前回に引き続き、憲法14条の平等原則について学び、関連する判例のうち、尊属殺人重罰規定違憲判決を検討し、また議員定数不均衡訴訟に関連する憲法15条と公職選挙法を吟味しました。完全に私事ですが、昨日阪神の赤星選手が引退を表明し、阪神ファンの私としては、本当は赤星選手について入団時から引退までをここで振り返りたい気持ちで山々なのですが、今日は涙をこらえリポートを書きます。
 まず、尊属殺人重罰規定違憲判決については、二重の基準論の弱点がそれこそ「露呈した」のではないかな、と感じました。というのは、本判決は、当時の刑法200条(以下当該法令といいます)の立法目的は合憲だが、その手段が目的達成のため必要な限度を超えると判示しました。二重の基準での審査では、当時の立法目的と、問題となっている法令施行後から現在に至るまで用いられてきた手段を審査するわけで、当然本判決もこの2点を審査しています。しかし、当該法令のように、はるか昔に制定された法令が司法審査の対象となった場合、立法案が国会に提出された時点の立法目的の裏にある時代背景と、司法審査の時点での時代背景とでは乖離があって当然でしょう。この場合、二重の基準論に時代背景の乖離までも是正する役割を負わせることは、事実上不可能です。つまり、時代に合わなくなった法令を違憲であるとするためには、二重の基準論では不十分なのではないか、と私は感じました。そう考えれば、少数意見は、当時の立法目的を審査すべきはずが、いつの間にか審査時点の時代背景を加味した目的にすり替えられていることに気付きますし、それがいかに無理のある議論かが分かると思います。数十年前のファッションを、現在のファッションセンスをもとにファッションチェックすれば、それは「そんな格好をする目的がわからない」「その組み合わせの意図が不明である」と、みな口をそろえて言うでしょう。本判決は、多数意見が二重の基準を用いた審査を厳格に行い、少数意見がそれに対峙したことによって、二重の基準論が時代の流れにそぐわない法令を違憲とする可能性が極めて低いという弱点を持っていることを浮き彫りにしたと言えるのではないでしょうか。
 次に、議員定数不均衡訴訟についてですが、次回以降もお話が続くようですので、さらに学んだのち、再度考えたいと思います。ただ、先生の「全国をひとつの比例区に」という発言は、12月24日補講論と同等に、賛否両論ありそうな過激な発言だと思いました。そして補講日の変更は、最高裁に、判例の変更や違憲判決を期待するのと同等に難しいものなのか、とも思いました。

投稿者2:今日のわんこ(法学部2年) 

 今回の講義では尊属殺重罰規定違憲判決を検討しましたが、今回最も考えさせられたのはやはり岡原昌男裁判官の補足意見についての部分です。南野先生によれば、岡原裁判官の補足意見を注意深く読むと、多数意見が必ずしも学説のいうような手段違憲説を採っているとはいえないのではないかと思えてくるということでした。
 岡原裁判官は補足意見において、刑法200条がいわゆる「家」制度の維持を図るような性格を有することを「認めるにやぶさかでない」と述べており、さらにその後で「多数意見が、尊属殺の法定刑は『尊属に対する敬愛や報恩という自然的情愛ないし普遍的倫理の維持尊重の観点のみをもつてしてはこれにつき十分納得すべき説明がつきかねる』としているのもまた同様の見地に立つて言外にこの理を示すものにほかならないと解する。」と述べています。
 確かにこの部分から多数意見は刑法200条を手段違憲ではなく、目的・手段全体として違憲としたのではないかという考察ができますが、ここで私が気になったのは、最高裁の多数意見が何かを「言外に」示すとはどういうことなのか、何か理由があるべきではないのかということです。
 長くなりすぎてしまうのでここでは結論のみ書くこととしますが、私は、多数意見は本事案で問題となっていない尊属傷害致死及び尊属逮捕監禁罪について法令違憲との判断が及ぶのを避けるために、目的違憲でも、刑法200条全体を違憲とする方法でもなく、敢えて手段違憲という方法を採ったのではないかと考えます。そうすると、岡原裁判官の補足意見が示しているのは、「多数意見は手段違憲という手法を採ってはいるがそれは200条のみを法令違憲とするための便宜上のことであって、少数意見の言うように200条が『家』制度の維持を図るような性格を持つことくらいもちろん頭に置いているよ。ただ論拠として使わなかっただけ。」というアピールなのではないでしょうか。
 私がこのように考えるのは、この尊属殺重罰規定違憲判決が、当時「違憲」という判断を下すことについて大変慎重かつ消極的だった最高裁によって初めて出された法令違憲判決であったからです。
 大変長々とリポートの枠を使ってしまい申し訳ありませんが、本日は急に1コマ休講となったので、その分ゆっくりと時間をかけて考察をした次第であります。
 今回の講義でもまた、判例をきちんと読むことの深さと大切さを感じました。

投稿者3:羊の夢(法学部2年) 

 どうも、鳥取県民です(・∀・)ノ←
 今回の講義は鳥取県がボロクソ言われた記憶が強すぎました。
 先生は鳥取の選挙区を減らしたいのか…と思いながら聞いたのですが、田舎の人間として、実情を考慮すれば、私は選挙区を減らすことを必ずしも良いこととは感じません。
 というか、私的には一票の格差がそこまで重要視されるべきものなのだろうか、と感じます。
 以下の意見は田舎出身者としての私の意見と捉えてください。
 まず、実情としては、鳥取県を一つの選挙区とすると、田舎では特に、市民の投票が形式だけのものになる虞があると考えます。東京の選挙区は地域的に狭い上に、人が密集する場所もあり、選挙活動が容易、また選挙権者がどの候補者がなにを言っているのかを知る機会が多くなります。
  一方、鳥取県の横断には車で3時間掛かるというくらい交通が未発達な部分がありますし、県内全てを回る時間、手間などは遥かに都会を上回ります。その結果、市民が手にする情報は偏ったもの、あるいは微々たるものになるでしょう。
各地域の状況が極端に違うのを考慮せず、単に有権者数÷選挙区と言う形で一票の価値が云々と言うのはナンセンスであり、私は一票の価値問題はあまり重要視すべきところではないと考えます。
 次に、やはりたとえ一票の格差があったとしても、それでも田舎に選挙区を複数もうけることには意義があると思われます。
 都会の人間が投票する選挙区>田舎の人間が投票する選挙区となれば、議会にいる議員の割合も自ずとそうなります。多数決を議会が採用している以上、それは田舎の不利になるのではないでしょうか。
 田舎は選挙区を減らせばいいという単純な主張は、あくまで都会本意なのではないかと思います。
 憲法に関係ないかもしれなくてすみません。

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第20回(2009年12月14日・月)

投稿者1:new(法学部2年)

 天神にクリスマスソングという名の『滅びの歌』が響き渡る今日この頃ですが、講義室には南野先生の高らかな声が響き渡っていました。

 今回は前回に引き続き『平等』につていの学習でした。講義の中で、能力があまり無い人が偉いポジションにつくのはどうかと思う、とのことを先生がおっしゃっていたのですが、それについて少し授業中に考えたことを送らせていただきたいと思います。
 僕も先生のご意見におおむね賛成なのですが、知識や能力に欠ける人が偉いポジションにつくことで良い点もあるのではないかと私的に思います。僕の勝手なイメージですが、博識な議員に限って、頭が固く、「自分の意見は正しいのだ」と思っている人が多いような気がします。難しい言葉を並べ、いかに自分の意見が妥当なものなのかということを証明することに一生懸命で、国民にもわかりやすく説明しようという姿勢があまり感じられません。これは政治離れの一つの要因と言えないこともないと思います。
 知識が無い人が偉いポジションについた場合、知識が無きゆえに、様々な人から様々な意見を聞くことになると思います。そうすることで、一つの考え方に縛られることなく、柔軟性のある政策を打ち出せはしないでしょうか。また、専門的な知識が無いということは、プラスに考えれば国民の視点に近いということになると思います。国民が疑問に思うこと等を官僚たちにぶつけ、解答させることができる。これは無知な人が偉いポジションにつくことの一つのメリットであると思います。 
 と、強引な論を展開してみたのですが、実際は知識が無ければ官僚の操り人形的な存在になってしまうのだろうな、と思いました。月9の『CHANGE』というドラマに出てた某総理大臣のように、無知ゆえの一生懸命さを持つ議員さんが現れてほしいなと感じました。

投稿者2:スカイ(法学部3年) 

 久しぶりに先生の講義をお聞きしたので、今回レポートを送らせていただきます。
 レジュメなし・板書なしの講義を受けるのは久しぶりでしたが、幸か不幸か、個人的に先日勉強したばかりの議員定数不均衡や参議院の特殊性の話であったので、割と聞きやすかったです。
 また、先日のお話しにあった2009年9月30日に出た二つの最高裁判決に関しても触れられており、改めて読み直してみたいと思います。
 余談になりますが、先生が講義中に「宮崎3区のために頑張ります」というようなことを例としておっしゃっておられましたが、偶然にも我が故郷である小林市が正に宮崎3区に含まれているため、妙にリアリティーのある例となりました(笑)。

投稿者3:まゆこのつくだに(法学部2年)   #145

 あっというまに20回到達です。今回は議員定数不均衡と嫡出子差別に関する講義でした。

 議員定数不均衡については、かなり統治機構論に踏み込んで話されてましたね。そもそも学問の区分け自体人為的にやってることなのでクロスオーバー領域が存在すること自体は何の不思議でもないのですが。
 事情判決の法理の問題については、「ただし国政選挙での定数不均衡に関する訴訟の場合はこの限りではない」と行訴法の該当法文に付け加えれば対応できると思うのですが(なんでそれをしないんでしょうか…?)、投票価値を均衡にするのはかなりの難題があるのではないでしょうか。
 先生は「都道府県代表にこだわるのをやめれば…」と仰っていましたが、はたして島根と鳥取を纏めて1選挙区とするようなことがどこまで実行可能か疑問があります。
 なにせ日本では政治の世界のみならず、都道府県中心の考え方がかなり広まっています。夏の甲子園も春高バレーも高校ラグビーも「都道府県対抗」です。春の選抜高校野球は地方代表ですが、地方メディアは同じ地区の他県の高校の応援をしませんし、結局は都道府県代表の枠を抜け出せていません。また先生は京都府のご出身ということですが、ひとたび九州に来てしまえば京都市出身でも福知山市出身でも宇治市出身でも関係なく「京都の人」として認識されるのではないでしょうか。
 そんなわけで日本人の「帰属意識」は都道府県基準であるわけで、都道府県より広いカテゴリで、自分たちにとってしっくりするものがあるとすれば、それは「日本国」という枠組みしかではないでしょうか?
 …話を戻すと、参院選での格差是正のために都道府県を選挙区とする方式を捨てるのであれば、全国を一選挙区とした選挙制度とする以外ないのではないかということです。しかし、全国区で個人名投票にすると選挙活動が面倒になりますし、前回分で羊の夢さんが指摘されたような意義をもつ「地方の政治家」が当選しにくくなります。かといって全国区比例制にすると,職能代表の政治家が大量当選する結果になりますし…(ちなみに先生が某女性議員の話をされていましたが、それについて僕は彼女自身より、彼女をわざわざ畑違いの役職に任命したほうに問題があると思います)。
 参議院抜本的改革が必要といっても、現行憲法の範囲ではこれが限界でしょうか…。

 嫡出子にも触れておくと、尾崎裁判官の補足意見「本件規定が補充規定であること自体、法律婚や婚姻家族の尊重・保護の目的と相続分の定めとは直接的な関係がないことを物語っている」を読んでおっ、と思いました。
 強行規定と補充規定の違いは法学部生なら知っていることだとは思いますが、それをこのように使うとは、なんというか、頭いいなあと(笑)。
 こういう思考ができるようになりたいです…。

投稿者4:雨林(法学部2年) 

 第20回講義では、議員定数不均衡の話がどんどん広がっていって政治的代表の話になりました。
 その話を聴いていると、突然他大の友人某が歌っていた「治安の夢に耽りたる 栄華の巷低くみて」のフレーズが想起されました。
 人の上に立つということは、決して生温い気分で行っていいものではなく、世界に対する責任意識と気概が必要とされるものです。
 そういったことを考えると、何も政治家に限らず、人の運命を左右する立場の人間にとっては、無知であることそれ自体が罪であるように思われるのです。
 九大生も社会に出れば、好むと好まざるにかかわらず、知的観点から問題に対処できる人材として見られるはずです。そこの部分を意識すれば、大学生活ですら勉強していないことは途方もない罪悪のように思われます。
 九大の「誇らかに自由を守る」というのも、「誇らかに」という部分が如何なる意味を持つのかを考えてみることが大事なのですね。
 …というのが、今回の講義の後もずっと考えていたことです。

 随分偉そうなことを書いてすみません。しかしミニマムとして、大学での勉強は権利であると同時に義務であるという感覚は常に持っておきたいのです。
 自分の成績は別として(泣)。

投稿者5:なのは(法学部2年) 

 初めて講義風景リポートを送らせていただきます。毎回、送ろう送ろうと思ってはいたのですが、他の方の講義風景リポートを見ていると文章のレベルの違いに圧倒されてしまい、送れませんでした。しかし、最近講義風景リポートがすくなくなっていること、また、授業風景を書くだけでもいいとのことを先生がおっしゃっていたことをうけ、送らせていただきました。

 まず、授業風景について述べたいと思います。いつものことながら南野先生の授業ではほかの授業と比べて圧倒的に、学生の出席率が高いです。また、出席している人のほとんどに、先生の話している言葉を一生懸命に理解して、ノートにまとめようとする気迫のようなものを後ろから見ていて感じることができます。大講義室全体が授業に集中する緊迫した空気と先生の実に(学問的にも)楽しい話が合わさることで、大学生活の中でも充実した時を過ごしていると実感している人も多いと思います。
 次に、講義の内容についてですが、今回は議員定数不均衡と非嫡出子についてのお話でした。その中の、非嫡出子について考えたことを少し書きたいと思います。非嫡出子は本人の意志や能力によって変えることのできない社会的身分であり、子供には責任がないので、相続が半分になるというのは不平等であるということでしたが、子供に責任がないとしたら、誰に責任があるのだろうかということを疑問に思いました。法律婚をしていない両親の責任なのか、それとも相続が半分になるからといってその人自身の価値を嫡出子の半分しかないと考えてしまう社会が悪いのかという二つの考えがすくなくともあります。一般的には、差別をするような社会が悪いという意見が多数のような気がしますが、私は親にも少なからず責任があるように考えています。なぜなら、遺伝的な病気といった差別の理由になるものが、子供の努力や能力次第だけでなく親の努力や能力でもどうしようもないものばかりの中、この嫡出子、非嫡出子においては親の努力次第で改善できるような気がするからです。また、事実婚をする利益よりも、法律婚をする利益のほうが大きいようにも思います。
 最後に、自分に知識がなく、そして文章力がないため、全体的に論理とかそのたもろもろがなりたっていないことをお詫びしたいです。次の授業も楽しみにしています!!

投稿者6:カレー(法学部2年) 

 今回は、議員定数不均衡訴訟について詳しく検討し、さらに非嫡出子の相続分の不平等についての訴訟も見ました。
 まず、今回の講義中、南野先生が「ぶっちゃけ」ということばを用いられたことが、私の中ではツボでした。普段の講義では、スーツを着て、難しい日本語を用いられる先生ですが、たまにはぶっちゃけてしまうことも十分合理性が認められるかもしれないなと感じました。また、講義の途中、カメラマンの方が先生の講義される様子を連写していたのもツボでした。まるで記者会見のようなシャッター音でした。そして、その方が丸刈りだったことも気になりました。

 さて、本題に入りますが、前回の講義に引き続き、鳥取県をたたき台にあげ講義をなさっているのが印象的でした。そして今回は、隣接するというだけで、島根県もその被害にあっていました。おそらく、両県出身者から激しい反発が予想されるでしょう。
 そして、私が勝手に悩んでいることについての話で大変恐縮ですが、前回のリポートで「二重の基準論は、時代の流れにそぐわない法令を違憲とする可能性が極めて低いという弱点を持っている」のではないかと提案してみたのですが、それについて今回の講義中「これだ!」と思ったので少し書かせていただきます。
 前回の講義で触れた尊属殺罪重罰規定のように、制定当時は必要だった法令でも、時代の流れと社会システムの変化に伴って、だんだん合憲性が薄れていき、最終的に違憲となってしまうことは少なくないと思います。そのようないわば「色褪せた法」を、破棄するか(あるいは塗りなおしを行うか)どうかを判断する役割を司法が担うのであれば、二重の基準論では不十分だという趣旨だったのですが、今回登場した合理的期間論は、この場合にちょうど使えるかなと思いました。しかし、使えるかも!と直感で感じただけで、一体どのように論理構成すればいいのかは、まだよくわかりません。加えて、百選162事件を読んでみると、合理的期間論の登場は、法令の改正が一旦は行われた後の話であって、なおかつ議員定数不均衡訴訟に用いるべきもので、そもそもその使い道が違うようですし、その事件の解説では合理的期間論がボロクソに批判されています(>_<)。 ただ、尊属殺重罰規定は、違憲判決後20年近くたっても改正されなかったようだったので、立法府に対して問題となっている法令の改正(あるいは削除)のプレッシャーを与えるにはどうすればいいのか、ずっと気になっていた次第です。また機会を見て考えていこうと思います。

 「色褪せた」といえば、講義棟に続いて大講義室も近々塗りなおされるようですね。今回の工事のように、誰も望んでいないのに色褪せた法令が立法府によってどんどん塗りなおされていけば、私の悩みの種は無くなるのですが(笑)。

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第21回(2009年12月17日・木)

投稿者1:new(法学部2年)

 先日、「知識や能力に欠ける人が偉いポジションにつくことで良い点もあるのではないか」という論を展開したのですが、今、思えば本当とんでもない論ですね(笑)。思いついたことをそのまま文章にしてしまい、すいませんでした。先日のレポートで言いたかったのは以下のようなことです。

 @上に立つ者は、知識が十分に備わっていたとしても、自分の考えに固執せず、幅広い意見を聞いたうえで判断を下してほしい。

 Aまた、初心を忘れず、学び続ける姿勢をとってほしい。

 B国民の目線に立って、国民が疑問に思っていることや国民が抱えている問題に目を向けてほしい。

 雨林さんがおっしゃっていたように、人の上に立つ以上は、優れた知識・能力を有していなければいけないと思います。それが、自己の能力の過信や傲慢へと繋がってほしくないな、と思い『能力の無い人が偉いポジションについてもいいのではないか』という突飛な発想を展開してしまいました。誤解を与えてしまって、本当にすいません。
 『チャングムの誓い』という韓国ドラマで、「医者は高度な知識よりも謙虚さが大事だ。能力の過信は人を殺めてしまう」的なセリフがあり、それに影響されてしまったのも原因の一つだと思います。優れた『知識』・『能力』・『仁徳』この3点セットを兼ね揃えた人が偉いポジションについてくれることが一番望ましいと思います。

投稿者2:シグリ・ロウ(法学部2年)   #150 

 初めて講義風景レポートを送らせていただきます。今回は現在もっとも注目されるカード、小沢氏vs羽毛田氏についての問いかけがなされました。いわゆるネトウヨたちの意見に日々さらされる生活を送る身としては食いつかずにいられない話題でしたので、この件に関して意見を述べさせていただきたいと思います。

 まず私の立場ですが、天皇好き、小沢さん嫌い、宮内庁はほとんど触れたことがない、です。天皇に対しては、子供時代に触れた神話に基づく天皇像に対する憧れと、祖母が皇居周辺の清掃活動の折にいただいたという落雁がおいしかったという理由で、ある種親戚に対する漠然とした好意に似たものを抱いています。小沢さんは、問題のある発言になるかもしれませんが、あの他人を馬鹿にしたような物言いが好きになれず、また毎日のようにネトウヨ集団の言動に触れるうちに自然と嫌悪感を抱いてしまったというところです。
 さて、本件において問題にされる点は、1か月ルール、天皇の政治利用、両者の発言の正当性など多岐に及びます。しかし憲法上の問題といえるのはこの一点、本件が天皇の政治利用に当たるか否かではないでしょうか。そうであるならば憲法的な視点からは小沢氏に軍配が上がるものと考えます。高橋先生の説で親善外交は憲法7条10号の「儀式を行うこと」に相当するとありますし、また芦部先生の提示する「政治とは関係しない形式的・儀礼的行為」でなくてはならないという条件も、内閣の助言と承認を得て、純粋に形式的かつ儀礼的な行いだけをすることで克服されます。つまり、会見そのものは憲法上何ら問題ないと言えます。日中関係のためという政治目的のために組まれた会見であることを政治利用ととらえる場合もあるかもしれませんが、ともすれば結局天皇の行為はすべて内閣の助言と承認を受けたものであるため、政治的目的のために組まれる会見しか存在しないことになります。ただ今までが法的根拠を持たない宮内庁のルールに黙って従っていたから問題とされなかっただけであり、実情はこれまでの会見と今回の会見の意義は大差ないものといえましょう。要するに、憲法が予期する政治的という文言は、その会見等が組まれる経緯についてではなく、会見の中身についてであるととらえるのが妥当でしょう。
 蛇足になるかもしれませんが他の点についても言及を。1か月ルールについては法的根拠を持たないものであり、まさに日本の官僚制度の生み出した弊害そのものといえる気がします。また両者の発言についてですが、民意に選ばれた内閣と、民意にさらされないただの官僚かつ内閣下部組織の長という地位との関係から考えれば、羽毛田氏の発言は許されがたいものであると言わざるを得ません。しかし、小沢氏の粗暴で挑発的な言動にも非があったと言えます。特に、体調がすぐれないのであれば他の公務を休めという発言は、本件がこれまでとは意味合いの特別に異なる、政治的意図が深く組み込まれた会見であるとの誤解を招き、問題を複雑なものにしてしまいました。
 宮内庁も、小沢さんも、天皇の健康を気遣うつもりがあるのであれば、せめて御心労を少しでも減らせるよう言動に気を払っていただきたかったと思わされる事案でした。

 長文かつ授業本編に関係なく、面白味もない文章で申し訳ありません。書き出すと止まらなくなってしまいました。

 私は本日になってようやくメーリス登録をさせていただいたものです。たしか登録申請時に「昨日の授業で我にかえりました。改心いたします」とのメッセージを添えていたものと記憶しております。お返事をいただいた際にこの件について説明を求めていらしたので、不遜ながら書かせていただきます。
 さっそく無礼極まりないことを書いてしまうことになりますが、私はこれまで授業にあまり熱心に参加しておりませんでした。
 といいますのも、憲法という学問について嫌悪感を抱いていたためであります。答えの出ない抽象論、哲学などであれば楽しめたのでしょうが、法学の場合、偉い先生方の個人的な意見(という考え方がそもそも「やらず嫌い」のいいわけですが)が世の中を決定づける重要な考えとして存在し、それでいて、それ以外の様々な古今東西の学説も覚えなくてはならず、さらにはそれぞれの学説間および学者間の細かな関係まで把握し、最終的に自分の立場を求められる・・・しかしやはりそこで建てた自分の考えなど一般庶民の幻想となんら変わらず、世の中に影響を与えることはまずありません。そもそも今まで憲法問題を日常で考える場面に出くわしたことがあったでしょうか。
 完全な逃げの考えであるとは頭のどこかで理解しつつ、釈然としない気持ちに任せて逃げを許していたのです。
 ただ、人生とは不思議なもので、いろいろな偶然がポンポンと重なっていくことがしばしばあります。
 ネットにおぼれる生活の中でゆがんだ政治観を植えつけられていたのですが、先日たまたま弁護士と会食をし、その際に私の政治観の間違いを正されただけでなく、法学的な観点からみたマスコミでも取り上げられない現在の政治の本質的な姿を学ばされたのです。これにより法学を通して社会を見ることを面白いと思うようになり、その流れで久しぶりにまじめに参加しようと決心して受けた昨日の授業の中で、今最も気になっていた小沢氏と宮内庁の騒動が取り上げられ、うまく言葉にできませんが、「これだ」と思わされたわけです。
 実に些細なきっかけですが、九大法学部に名を置く者としていわゆる「ネトウヨ」と同程度の議論をしてはならないという思いを今更抱き、心を改め丁寧に学習していこうと決意したという次第です。

 昨夜23時頃に伊都から帰宅後、夕食も食べずに眠たい目をこすりながらこの講義風景レポートを作成したということもあり、無礼な点、稚拙な点、そもそも法学部生としてなっていない点など数多くあるかと思いますが、決心を固いものにするためにも今の気持ちのままこの講義風景レポートに挑みたいという思いの下送信させていただきました。ご指導いただけますと幸いです。

投稿者3:Kusunoka(法学部2年) 

 天皇陛下に関する騒動が政治問題に発展した事を、皇室を敬愛する一国民として非常に残念に思います。私にとって、天皇及び天皇制について意見を言うのは、右翼が怖いし、左翼も怖いし、天皇に興味の無い一般人に引かれるのも怖いし、萎縮せざるを得ない問題です。ただ、今回シグリ・ロウさんが果敢にも発言しているので、以前ネトウヨへの愛を求めた私も、講義風景リポートを書きたいと思います。
 今回の問題は、ただいたずらに政治利用という言葉が飛び交い、どういった意味で政治利用なのか、それの何が問題なのかは誰も明確に述べてくれません。今回の授業では南野先生にもその辺りをご説明いただいた気がしますが、何を述べたいのか理解できませんでした。自らの浅学菲才ぶりを恨む一方で、他方、なら自分なりに何が問題か考えてみるかと思い、そのとりあえずの結論を書きます。そしてその後に、小沢の発言を中心に、これはやっぱり憲法の趣旨にあっていないということを書きたいと思います。間違いや不備があればどなたかご指摘いただきたいと思います。
 今回の騒動の簡単な概略は朝日新聞(以下新聞)の12月12日の2面にあります。ちなみに同日の3面に長谷部教授や横田耕一教授が憲法学の視点から「識者の声」を書かれています。

 さて、天皇は憲法上で「国政に関する権能を有しない」とされます。長谷部本によると、『天皇の行いうる「国事行為」とは、国政に関する実質的決定権を含まない、形式的、儀礼的行為にとどまる』(p.78)そうです。また、同本によると、『国事行為と区別された象徴としての行為(Kusunoka注 国事行為に列挙されていない行為)を――(中略)――憲法に限定列挙された国事行為に準じて考えるべき実質的な根拠のある行為のみが認められるとの立場もある』(p.85)そうです。そうすると、今回の習近平国家副主席と陛下が会見されること自体は、まさか天皇がガス田問題で中国と議論されるわけではないでしょうし、憲法第7条の9号から見ても、許容範囲だと思います。つまり、国事行為の観点から見れば、会見に問題はないのです。(脱線しますが、共産党のエースですら、天皇陛下にわざわざ会見を申込むという事実は、陛下の威光をより知らしめることになって、右翼にとっては良いのではないかと思いますが、どうなんでしょう?)

 しかしながら、小沢に軍配を上げるわけにはいきません。喋り方が気にくわないとか、態度が大きすぎるとか、色々ありますが、それは事の「おまけ」にすぎません。以下の小沢の発言は12月15日の新聞の4面から抜粋したものです。
  『内閣の一部局の一役人が内閣の決定に(異論を)言うのは、憲法や民主主義を理解していない人間の発言』と小沢は言いました。憲法には、一役人であろうと「異論」を言ってはならないとは書かれていません。まさに「お前が憲法を読め」です。しかも最終的に内閣の判断に従っている羽毛田長官を責める意味がわかりません。
  『陛下の体調がすぐれないなら、優位性の低い行事をお休みになればいい』と小沢は言いました。逆に問いたくなりますが、今回の会見が優位性の高い行事であるとする根拠はなんでしょう。もちろん、憲法上の国事行為に優先順位はつけられていません。それに『宮内庁の役人が作ったものが絶対だという馬鹿な話があるか』とも小沢は言いました。制定直後ならそういう言い分も通ったかもしれませんが、いわゆる一ヶ月ルールが始動して14年、厳格に適用され始めたのは5年目で、「馬鹿な話」というのもどうかと思います。宮内庁のHPには、2004年以降の国賓・公賓など外国賓客一覧表がありますが、まさに国の大小を問わない平等で厳格な規定だったことがわかります。あまり良いことではないですが、このような既成事実を作ってしまった以上、もはや中国だけを特別扱いするには相当な理由を提示しないと、今まで適用してきた国々に日本は大変失礼なことをしていることになると思います。憲法の前文には、『他国と対等関係に立たうとする各国』という文言がありますが、これは国の軽重を定めないことが前提ではないでしょうか?
 これは、余談になりますが、そもそも陛下の体調がすぐれないのならば、優位性が低かろうと高かろうとご養生していただくのが当然です。まず第一条で、日本の最終決定権を有す国民が総意を持って天皇を天皇たらしめているとあります。そして第九十九条で、国会議員は憲法を尊重し擁護する義務を課されています。すなわち、国会議員は国民の総意たる天皇制を擁護しなくてはならないのです。(これは憲法上の話であって、「天皇制を支持しない人もいる」なんてことは関係ありません。支持しない人は改憲運動でも起こして下さい。)天皇制を擁護するには、天皇個人の存在が不可欠であり、陛下の健康問題は憲法にとっても重大な問題なのです。

 最後に、憲法には関係ありませんが、一番言いたいことを書きます。それは小沢だけが問題とされるのも問題だということです。意図したかどうかに関わらず、陛下を政争に巻き込んでしまったことは事実です。その責任は民主党にも自民党にも総理大臣にもあります。良いことであれ、悪いことであれ、陛下の影響力と言うのはまだまだ強いと私は感じています。その影響力によって生じる対立や混迷は、陛下ご自身が象徴天皇として政治の表舞台に出てこられないが故に、封じられていた側面があると思います。このような現状にあって、日本政治に携わる者は、陛下に関する事柄の一つ一つに、もっと慎重であるべきだったと私は思うのです。
 私としては、御即位20年という栄えある年に、このような天皇制がらみの問題が生じたことは不幸としか良いようがありません。しかし、他方では天皇のあり方、ひいては天皇制の意義も含めて、目を向ける非常に良い機会になったと思います。

 以上、乱文ご容赦のほど。

投稿者4:今日のわんこ(法学部2年)

 2009年も残り半月を切ってまさに忘年会シーズン真っ只中ですね。
 我々九大法学部生ももちろん「1年間お疲れさま!今年の嫌なことは今年のうちに全部忘れちゃおう!」ということで、日々あちらこちらで「年忘れの会」を行っているのであります。。。。。。。が!
 なんとつい先日、某有志で忘年会を行っていたところ我らが南野先生が参加してくださいました。
 …とはいってもこれは全くの偶然からのことで、今でもまだ驚いています。
 そういうわけで、以下異例の「飲み」風景リポートを送ります。

 その日我々は市内某所で学生のみ約20名で忘年会の2次会を行っていたのですが、2次会開始直後、半個室になっている我々の部屋を覗く人影が…!その横顔は南野先生に似ているのですが、「まさかこんなところに南野先生がいらっしゃるはずはない、お酒も飲んでいるし、勉強もせずに飲んでばっかりの自分の罪悪感から見えた幻覚だろう」と思っていました。
 しかし、実はそのまさかで、その人影は同じ店の奥の奥で学部ゼミの忘年会2次会に参加されていた本物の南野先生でした!!

 南野先生は我々2年生の忘年会現場を発見されてから、ゼミの飲み会を行いつつたまにこちらにも顔を出してくださり、午前3時頃にゼミの方の飲み会を締められたあとは、ゼミ生の先輩方数名を引き連れてこちらのテーブルに完全に移籍されました。20歳そこそこの我々でもその時間帯にはだいぶ疲れが出て目も半分瞑ったような状態だったのですが、南野先生は宵が深まるほどにお元気になられて(笑)、若いはずの我々はついていくのが精一杯なくらいでした。

 その日は忘年会ということでいろいろなことが話題に上りましたが、南野先生は2年生が初めて迎えるゼミ決めの相談にも真剣に乗ってくださいました。結局、先生のお話を伺うと、話に出てきたどのゼミもそれぞれ異なる面に魅力を持つように思えて、あとは自分がゼミに何を求めるかによる部分が大きいなぁという気がしました。
 私は先生のお話を聞いてから、ゼミ決めで迷子になっている人はただどのゼミがいいかの噂を探し求めるだけでなく、まずは自分がゼミに何を求めるのかをもう一度じっくり考えた上でシラバスを読み直すなり、誰かの話を聞くなりすると方向性が見えてくるのではないかと思いました。

 そんなこんなで南野先生を交えた忘年会は無事に(?)朝5時過ぎに終了し、各々帰宅の途についた訳であります。
 ちなみに先生は私たちの集まりを見て「クリスマスを念頭においた集まり」、とまるで私たちがクリスマス前に焦って学部内で合コンをしているような印象を受けられていたようですが、そのようなことは一切ありません。笑

 それでは年内の講義は残すところあと2回となりましたので、もう一息がんばりましょう!

投稿者5:まゆこのつくだに(法学部2年) 

 今回の講義では思想良心の事由における総論部分を扱いました。
 一番記憶に残っているのは「日本国憲法には19条(思想良心の自由)と21条(表現の自由)という二つの条文があるが、実際には表現の自由だけでよいのではないか」ということでしょうか。
 実際に人の内心はそれを対外的に表現しなければわからないわけですから、それは確かにその通りで、ではなぜ19条があるのかといえば、先生の仰るように戦時体制の反省として「念には念を入れて」この規定をおいたのだと思います。

 ここからは僕の見解ですが、もしそうであれば、たとえ固有の意味を持ちうる場面が少ないとしても、19条は上記の意味で非常に大事な条文なんだということを、社会全体として強調したほうがいいのではと思います。
 そしてこれはたった今思いついたのですが、12月7日(まちがっていたらごめんなさい)の講義で先生が仰っていた「日本国憲法には刑事訴訟手続にまつわる人権の規定が多い」というのも、実はこの点と結びつくのではないかと思いました。
 小林多喜二が特高警察から拷問を受けて死亡したというのはあまりに有名な話ですが、戦時期では日本でもドイツでも、刑事訴訟手続きなど無視した激しい思想取締りが行なわれていました。日本国憲法にわざわざ刑事手続上の人権をやたらめったらと規定したのは、戦争の反省という意味が込められているのではないかと思います。
 …そういえば、かつて小林多喜二と恋仲にあった女性が今年の夏に死去したという記事が http://www.sakigake.jpにでています。思想良心の自由の抑圧があった時代は思っているほど遠くない過去の話だというのを実感しました。

 …書いている間に色々なことを思いつく性格ゆえ、ここまで書くのにかなり時間がかかってますが、最後に先生が講義終了5分前にふれられた「非嫡出子法定相続分差別事件」判決の「補充規定」について見解を書こうと思います。
 判例を読んでいる最中はついうっかりしていましたが、「強行規定」の反対は「任意規定」であって、「補充規定」は「任意規定」のうち、当事者がその事柄について定めていない件について適用される規定のことであり、つまり強行規定と補充規定は必ずしも対義概念ではないとのことです。ですが、この尾崎裁判官の反対意見では「もし民法が必要と考えれば、当然これに関する強行規定を設けたであろう」のあとに「要するに、本件規定が補充規定であること自体、法律婚や婚姻家族の尊重・保護の目的と相続分の定めとは直接的な関係がないことを物語っている。」と続いているのをみると、尾崎裁判官は強行規定と対比させるつもりで補充規定という言葉を使っているのではないかと思います。「要するに〜」の文は「補充規定であること」を「強行規定でないこと」といいかえても意味が変わらないことを考えても、そのようにいえる…
 …と思うのですが、どうでしょうか?僕の理解が足りないのかもしれません。

 今回はそのことを考えていたので書くのが遅れました。
 明日の講義も楽しみにしています。

投稿者6:くどぅ(法学部2年) 

 今回の講義では、精神的自由権を学びました。その中で、君が代・日の丸問題も扱われました。なぜ君が代・日の丸問題に触れるのかというと、私が右翼・左翼的な発言をしたいのでは全くなく…、単純に君が代・日の丸訴訟は前期の基礎ゼミで報告担当として扱ったからです。このように前期君が代訴訟報告担当など書いたら私が誰なのか簡単に特定できますが、このミスったペンネームのおかげでそのようなこともなく特定されていますね…笑。その報告の時のことですが、予防訴訟(東京地判2006.9.21)と君が代ピアノ伴奏拒否事件(最小三判2007.2.27)を事案の違いを意識せず、同じ土俵の上にのせて扱ってしまい、始まった直後に先生からご指摘いただき、焦りで一瞬背筋が凍ったのを覚えています。今回の講義でも先生がおっしゃっていた言葉をお借りして言うと、「distinguish」をしっかり意識して読む必要がありますね。私自身は、このようなこともありましたので、授業中に「判決の射程」の話などが出てきた時、すごく意識して聞くようになりました。

 そして、あまり講義の内容に深く言及するのは得意ではないので、今回は、今日のわんこさんに続く「飲み」風景リポートをお送りしたいと思います。笑 
 その日の経緯は今日のわんこさんのリポートに書かれている内容に任せることにしますが、偶然でもまさかその日南野先生にお会いすることになるとは思っておりませんでした。世界は狭いものだなぁとつくづく思いました。ゼミ決めの相談にも乗っておられて、参考になった人もいるでしょう。実際私も、南野ゼミはもちろんのこと、様々なゼミに魅力を感じました。この一カ月はほんと自分と向き会うことになりそうです。相談をしに研究室を訪れたり、飲み会で一緒に飲ませていただいて話に乗っていただくのも良いかもしれません。
 先生も本ゼミ生方と忘年会、我々も忘年会とやはり忘年会シーズンですね。ほんとは忘年ということで、いろんなことをぱぁーっと忘れたいとこですが、憲法の授業内容は逆にしっかり頭に残して、今年を終えましょう!!笑

投稿者7:トミタケ(法学部2年)   #155 

 先週授業の精神的自由のところで少し気になったのでお聞きしたいです。
 この回では「思想及び良心の自由」がとりあげられたのですが、思想良心の自由が表現の自由と内外部的な関係にあり密接な関係にあることはわかりました。しかし、気になったのが、思想良心の自由と14条後段信条による差別の禁止との関係です。
 思想良心の意味は狭義説である信条説にたてば、思想良心=信仰に準ずる世界観・主義・思想を全人格的にもつこととなりそうですが(断定はできませんが・・・)、これはその信条説という名のとおり14条の信条と同じと解してよいのではないでしょうか?ちなみに14条の信条は「歴史的には宗教や信仰、今日ではひろく思想・世界観を含む」とされています。
 少し14条の信条のほうが範囲が広いように見えますが・・・この二つの規定の憲法上の保障の意味はどのような違いがあるのでしょうか?自分はほとんど同じで「自由を保障」、「差別を禁ずる」という言葉の違いしかないように思えます。踏み絵を例にとっても、思想の告白を強制しているともとれれば、思想の告白をさせたりということは、なんらかの思想による差別・区別的意図がうかがえないでしょうか。
 ひとつひとつの判例について考察していきたいですが、明日も朝から授業なのでこれで終わりたいと思います。
 憲法に関してまだまだ知識も少なく若輩者ですが素直に疑問を書いてみただけなので解釈上、文言上至らない部分が多々あると思いますがご指導お願いします。

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第22回(2009年12月21日・月)

投稿者1:カレー(法学部2年)

 今回の講義では、信教の自由と政教分離について考えていきました。そして前回の講義では、思想・良心の自由について考えた後、講義の終盤で、貴重な時間であるにもかかわらず、南野先生から拙文についてご指摘をいただきました。そこで、今回のリポートでは、今回の講義についてと、ご指摘への応答という形の補足意見を書いて見ようと思います。判決によく見られるパターンですね。笑
 まず、今回の講義についてですが、信教の自由をメインに考えていきました。アメリカでは、「エホバの証人が憲法判例をつくる」とまで言われているというのには驚きました。ここで司法に求められているのは、純粋な宗教観から自己の信教の自由を訴える人々と、少しゆがんだ宗教観(この表現では語弊があるので、言い換えれば、反社会的で、宗教活動そのものが刑法や民法に抵触するものというべきでしょうか。講義中もいくつか言及されていたように、枚挙に暇がありませんが、明言は避けます)から信教の自由を訴える人々とを、厳格に区別することでしょう。信仰の自由が保障されている以上、内心は保障されているのですから、それを外部に表現する宗教活動が法秩序に反するのであれば、日本に暮らす人間として、日本の刑罰や民事的な責任を負ってしかるべきです。宗教を隠れ蓑に悪さをたくらむ集団も当然想定されますから、そのようなことがまかり通る世の中ではいけません。同時に、体育教員に限らず、こういった憲法問題にまで発展しかねない事柄について理解ある教員の養成を目指してゆくことが、日本の教育システムに求められていると感じました。やはり、教員免許を取得する場合は、南野先生の憲法の講義を必修にすべきでしょう。笑
 次に、先生からご指摘いただいた点について、考えたことを書かせていただきます。二重の基準論が「精神的自由制約の立法については、経済的自由制約の立法よりも厳しく審査すべきであるとする考え方」であることには、第17回の拙文を参照されればお分かりのとおり、異論はありません。そして、問題とされたのが、第19回の拙文において、二重の基準論への批判として、「二重の基準での審査では、当時の立法目的と、問題となっている法令施行後から現在に至るまで用いられてきた手段を審査するわけで、当然本判決もこの2点を審査しています」と定義したうえで、「二重の基準論に時代背景の乖離までも是正する役割を負わせることは、事実上不可能です。つまり、時代に合わなくなった法令を違憲であるとするためには、二重の基準論では不十分なのではないか、と私は感じました」と述べている部分です。南野先生のご指摘によれば、「目的・手段の順に審査するという方法(仮にこれを二段階審査論と名付ける)は、二重の基準論とは別のものであり、二段階審査論と二重の基準論を混同しているのではないか」ということでしたが、これは拙文がそう捉えられてもおかしくないので、ごもっともなご指摘でありました。
 ただし、念のため、私の主張の真意は次の点にあるということを述べておきます。端的に言えば、二重の基準論の考え方には賛同できますが、どの審査基準を用いるにしても、立法目的とその手段の審査だけで、果たして十分なのか、現状と乖離した法の違憲性を見落とすのではないか、ということです。尊属殺重罰規定違憲判決のように、目的、手段の順に審査し、目的合憲・手段違憲という判決が出た場合、立法府に対してパンチ力のある判決になるとは言い難く、実際、問題となった法令は20年以上削除されずに放置され続けました。このように、司法による違憲判決が「部分的にはOKだけど、結果的にはNGだからね」という内容となってしまうと、立法府もそれほど危機感を覚えることはなく、司法に期待される違憲審査の役割は大きく薄れてしまうではないでしょうか。「政府や議会といった政策決定者の決断を、最大限度の「謙譲と敬意」をもって、扱おうとする姿勢のことを「司法消極主義」、政府や議会の政策に司法が積極的に介入して違憲判決を下すことも辞さない姿勢、あるいは、政府や議会に政策形成を促す姿勢のことを「司法積極主義」」とすると(中林暁生「人権保障の実質化・二重の基準論——
どうすれば人権保障を確実にできるのか」法セミ641号(2008年5月号)22〜23頁)、私の考えは後者を強調する立場といえます。二重の基準論が、アメリカの歴史的背景を反映したものであることは、講義でも触れられたとおりですが、アメリカの二重の基準論も、芦部信喜先生の考えた二重の基準論も、原則司法消極主義ではあるが、司法積極主義の場面を確保しようとしたもののようです。国民と政府および議会は基本的に民選ですが、司法は民選ではありません。この観点から見れば、司法が、民が民のために考えた政策の結果のひとつである法律に意見を言うというのは、よっぽどのことがない限り避けるべきというのがまっとうな議論のように思えます。しかし、司法は読んで字のごとく法を司るための機関であり、最後の最後で人権を守ることができるのも司法であるということは忘れてはなりません。現行法のほころびによって苦しむ国民がいたとして、それを助けることができるのは、司法だけなのではないでしょうか。二重の基準論に限らず、目的・手段の順に審査するだけで、果たして訴訟提起時の現状を踏まえることができるのか、どうせやるなら目的・手段の現在の状況との適合性まで審査すべきではないのか、と考えるのです。
 最後に、最近講義風景リポートがだいぶにぎやかになってきていますが、すばらしいことだと感じております。先生が講義中に、学生が考えることができる「余白」を残した形で問題提起をされ、それについてさまざまな方が意見を述べることのできる場があるというのは、なんと贅沢なことではありませんか。私も、この場があって、自分の至らぬ部分が発見できました。まだまだ自分の意見には一貫性がなく、裏付けも弱いのですが、出来る限りで考えたことを書いていこうと思います!

投稿者2:雨林(法学部2年) 

 天皇陛下の誕生日を挟んでの「信教の自由」「政教分離」の講義でした。左翼の牙城であった九大にも、右傾化の波(笑)は押し寄せているようで、戦前回帰を憂う学生は少なくなってきたように思います。まあ、そりゃそうです。

 さて、宗教的実践の自由についてです。伝道に関する使命感がものすごく強い某宗教があるとして、それらの勧誘に対して注意喚起程度しかできない現状は、まどろっこしくも思えます。なお、上例はフィクションです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。
 ただ、なんとか実効的に対処できないものでしょうか。

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第23回(2009年12月24日・木)2009年11月26日(木)分の補講です。2限ではなく、3限に行います。

投稿者1:まゆこのつくだに(法学部2年)

 クリスマスイブの補講は、よくできた偶然というべきか政教分離についてでした。
 補講に出てきた学生のために、フィンランド政府公認・赤い服を着て白髭を生やしたスペシャルゲストが来ないかな、という淡い期待を抱いていましたが、さすがに大学生は成長しすぎだというのと、講義が夜間ではく昼間だったせいで、いらっしゃらなかったみたいです(笑) 。

 さてさて。
 講義中、はたして目的効果基準が客観的足りえているのか、という議論が出されましたが、これに関して一言書きたいと思います。
 10月から色々な判例を読んでぼちぼち気がついていたのですが、裁判官は、持ち込まれた事案の解決を考える際に「審査をして結論を出す」形と、「先に結論ありきで、あとから論拠を作り出す」という2つの場合があるのではないかと思います。
 そして、後から論拠を作り出すに当たっては、むりやりな合憲限定解釈をするとか、審査基準を恣意的に運用するといったことは避けられないのではないかと思います。
 たとえば先生が11月2日の講義で,いわゆる「グレーゾーン金利」にまつわる判決(詳しい情報記録してません、ごめんなさい)」において裁判所が「○○できない」を「○○できる」と解釈した事例を紹介されていました。僕はその回のレポートに「基礎基本となる文理解釈の枠から逸脱しすぎではないか」という意見を送りましたが、あれは(おそらく誰が見ても)妥当な判決を導き出すためにあとから苦心して論拠の部分を作り上げたから、そういう一見無茶苦茶な事態が起こるのだと今では理解しています。
 そして、この判決がそうであるように、結論を先に出す場合の結論は、社会正義などといった観点から好ましい場合があり、それ自体は悪いことではないのだと考えています。ちなみに僕自身は津地鎮祭訴訟と愛媛玉ぐし料訴訟の判決の結論部分に関して特に異論はありません(殉職自衛官合祀事件についてはありますが)。
 …まとめると、裁判所は社会正義という観点から、先に結論を出した上で後から論拠を作り上げる場合が(おそらく)あり、そのためには審査基準が客観的でなくなることも、無理やりな法解釈をすることも、一定程度眼を瞑らなければならないのではないか、ということです。
 もちろん、11月2日のレポートにも書いたとおり「いざ訴訟になった時に法律がどう解釈されるかわからない」というのでは、国民の自由が保障されなくなるので、「一定程度」がどこまでかという点については議論があると思えますが…。

P.S.@1週遅れになりますが、イランの最高指導者はハメネイ師ではないでしょうか。
  A関口教授は金曜の講義で、マキャベリではなくトクヴィルを扱っておられます(今年変えられたようです)。外書購読ではミルの著書を扱っておられるようですが。

投稿者2:えっちゃん(法学部2年)

 先日は忘年会の二次会で偶然にも先生とお会いしたのですが、終電の関係ですぐに帰らざるをえず、先生のお話を聞けなかったことを残念に思っています。その後同窓会の準備等で非常に忙しく、リポートを書くといった割に全然書けていなくてすみません。
 今回新聞を読んでいて衝撃を受けたので少し書きたいと思います。

 12月28日付の読売新聞の夕刊の一面に先に行われた衆議院選挙(8月30日)の1票の格差に関する大阪高裁の違憲判断が出ていました。
 今回の格差は2.30倍であり、比較的格差が小さいと思われる事案であるにも関わらず違憲判断が出ていたことに驚きました。現在の衆議院選挙の方式になってから15年が経過し、5回の総選挙が行われたにも関わらず、公選法等を見直す努力をしてこなかった国会に対して裁判所が喝を入れた感じでしょうか。まだ今回は高裁の判断であるので最高裁の判断がどうなるのか気になるところです。
 最近は小沢幹事長の天皇に関する発言や、亀井大臣が天皇と会談したときの内容を公にさらすなど、憲法的観点からするといいのか!?と思える出来事が増えているように感じます。
 こうした論点があった方が勉強もしやすいと思うので休みの間にこのあたりも深めてみたいと思います。

 講義風景リポートとはほど遠いですがお許し願います。
 では、よいお年を。

投稿者3:カレー(法学部2年)   #160 

 クリスマス・イヴ補講を無事終え、先ほど実家に帰省したのですが、憲法の教材がノートと現代的論点くらいしかなく、いろいろなことを考えてからリポートを書くことができない状況なので、本当にどうでもいいことかもしれませんが、みなさんにお伝えしたいことがあるので書きます。
 というのも、昨日(12月28日)、私は実家に帰り着くやいなやコタツに入って、何となくテレビを観ていました。すると、えっちゃんさんもリポートに書かれていましたが、NHKのニュース7のトップニュースで、大阪高裁が今年8月末に行われた衆議院選挙のいわゆる「一票の格差」について、原則として2倍が違憲と推定できると判示した(選挙無効については訴えを退けた)と報じられていました(ニュースの内容はうろ覚えなので,正確な情報は今日(12月29日)朝刊をご確認下さい)。そして何と!以前に一票の格差についての判決で少数意見を書いた元裁判官に話を伺うと…というVTRで出てきたのが、かの有名な「徳さん」でした。徳さんは「やっと変わるときがきたんだ」的なことをおっしゃっていました(こちらも内容がうろ覚えなので正確な情報をご確認ください)。
 まず言いたいのは、久しぶりにテレビに釘づけになりました。自分が講義で学んだところが、ニュースに出ていたからか食いいるように観てしまいました。徳さんにはかなり親近感がわきました。また、NHKのディレクターか誰かに憲法に詳しいいるのかな、と感じました。注目に値する判決が出たとき、普通であれば(私の勝手な考えですが)有名大学の法学部の教授に話を聞くのが普通でしょう。ところが今回は、同じ一票の格差が問われて合憲とされた判決において少数意見(つまり違憲という主張)を書いた元裁判官である泉徳治さんが選ばれました。これは、相当通な人しかなしえない技でしょう。最後に、NHKが敢えて徳さんに意見を聞いたとすれば、そこから読み取るべきはやはり、少なくともリベラルな意見を判決で書こうとする裁判官にとっては追い風が吹き始めたということではないでしょうか。つまり、大阪高裁の判断を擁護するために徳さんの談話が必要だったのです。大阪高裁がおかしな判決を出した、というのであれば批判を吐く学者を呼べばそれでいいはずですから、判例変更の後押しや法改正を促すための作戦ととらえてもよいのではないでしょうか。
 一票の格差の論点は、判例が最大較差約3倍以上を違憲とするのに対し、学説は最大較差約2倍以上が違憲であるとし(いずれも衆議院について)、対立のあるところです。判例が、今回の事案(原告の住む大阪9区と高知3区との較差約2倍、最大格差約2.3倍)で違憲としたということは、判例が学説に歩み寄ることになると同時に、違憲状態の選挙区が増えることにもなります。今後の情報に注目しましょう!
 ちなみに、私の地元の地方紙である南日本新聞でも、朝刊トップ記事は大阪高裁の違憲判決でしたし、識者談話もやはり徳さんでした。笑
 ということで、講義風景リポートとは名ばかりの内容となってしまいましたが、お許しください。それでは、みなさん良いお年をお迎えください!

投稿者4:茶子(法学部2年)  

 講義風景リポートに混ざって飲み会風景リポートを送らせていただきます。(びっくりされた方、これは南野先生のご希望です)。
 来るべき聖夜(25日)に先生と基礎ゼミの2年生4人、そしてその中の一人に呼ばれた先生とは初対面の私と、6人で天神の某レストランでお食事をしました。私が到着したのは深夜0時を回っていたのですが、みなさんまだまだこれから、といった感じでした。
 ちなみに、大講義室のone of themではなく、まともに認識して頂いてお話しして思ったことは、

 ・先生の辞書に「初対面」という文字はなさそう
 ・赤ワインがお好きのよう
 ・ウワサはあくまで「ウワサ」のよう
 ・自由気ままでお若い
 ・時としてゼミ生の方が大人びて見えたり・・・
 ・店員さんに絡むのがお好きのよう
 ・でも、真面目な話もして下さるし、
 ・相談にもきちんとのって下さる

 レストランの雰囲気も上品な感じでとても良く、お酒もお料理もおいしくて、全体的にとても楽しめました。
 みなさんも、ぜひお時間が合いましたら先生との飲み会に一度参加されるといいと思いますよ(^^*)

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第24回(2010年1月14日・木)

投稿者1:new(法学部2年)

 時が経つのは早いもので、テスト・ノイローゼが蔓延し始める時期になりました。少しでも病状を和らげるために見直しを始めたのですが、信教の自由と政教分離」の範囲で気になる点が出てきたので、そのことについて講義風景レポートを書きたいと思います。愛媛玉串事件の判決において以下のようなことが述べられていました。

 『地方公共団体が特定の宗教団体に対して本件のような形で特別のかかわり合いを持つことは、一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすものと言わざるを得ない。』

 この点については同感なのですが、この考え方を正しいとすると、「宗教法人の認可制」はなぜ許されるのでしょうか。国が認可することの方が、慰霊祭にお金を出すよりも、その宗教団体が特別なものであるとの印象を与えるような気がします。今さらですが、憲法学は本当に難しいなと思いました。難しい難しいと嘆いていても単位は降ってこないので、最後の最後まで頑張って勉強したいと思います!!

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第25回(2010年1月18日・月)

投稿者1:まゆこのつくだに法学部2年)

 今日は高年次ゼミへの懸想文、もとい演習参加申込書の提出締切でしたが、今日の午後に法学部サロンあたりで書いている人が結構いたのでびっくりです。自分は推敲の時間をとるため日曜日に下書きしてしまったのですが、提出期限ギリギリまで悩んだ人が多いということでしょうか。

 さて、講義では名誉毀損表現、プライバシー侵害と表現の自由の関係について学びました。民主制との関連からやはり一番問題にしたいのは、公人の名誉毀損/プライバシー侵害です。
 たしかにそれらへの規制を濫用すると、萎縮効果が生じて民主制の根幹が崩壊するという問題があります。しかし、例えば昨夏の衆院選で当選したある女性議員について、政治家になる前に風俗ライターなどの仕事をしていた、などとワイドショーの話題を掻っ攫ったことがありました。先生が講義中「公人ってのはホントにかわいそうなんですよ」とおっしゃった時、僕はその女性代議士が変に謝罪してしまっている時の映像を思い出したのですが、あの報道を見ていて思ったのは、現実に日本において行なわれている公人への名誉毀損/プライバシー侵害は、だいたいにおいて低俗ではないか?ということです。先生の仰るとおり、日本の一部メディアは政治家のプライバシーをそれが政治家の資質とかにどう影響するのかなどあまり考えず、やたらめったら暴きすぎであると思います。それが「高尚だ」と思えるような内容ならともかく、このような類のものであれば、アメリカのような厳格審査を導入してまで保護する問題ではないように思われます。
 しかし、もちろん政治家のプライバシーを高尚な言論によって暴かざるを得ない場合というのはいくらでも考えられますから、「現実の悪意理論」などの前段階として、「その言論が公益に資するようなものかどうか」といった基準ででスパッと分けてしまうことはできないでしょうか?
 もちろん、これはナチス支配下のドイツのような「政治と司法の癒着」が起こらないことが前提なので、もし日本で両者が癒着すれば言論の自由が大いに制約されます。
 ただ、そこまでしないと日本のひどい一部報道は収まらないと思いますが、はたしてどうでしょうか。
 憲法から離れてますが、これは情報の送り手のみならず、受け手の問題としても考えるべきだと思いました。

 P.S. 先生のHPを見て気がついたのですが、4月からの法学入門Tは南野先生が担当されるんですね!
      3ヶ月も先の話ではありますが、どのようなことをなさる予定でしょうか?
      内容と、時間割次第では覗くのもありかなと(笑)

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第26回(2010年1月21日・木)最終回のため、「学生による授業評価アンケート」を行います。必ず出席し、回答するようにしてください。

投稿者1:Kusunoka(法学部2年)

 今回は最後の講義風景リポートということで何とも寂しい限りです。授業では、集会・結社の自由と、表現の自由をめぐる新しい問題に関して、講義がなされました。雰囲気としては、最後の授業というのを感じさせぬほど普通でしたが、講義の終りになって先生の総括、訓示があり、一期が過ぎた感慨を覚えた次第です。

 最後の講義風景リポートということで、憲法に関して私がもっとも印象深かった内容をまとめてみたいと思います。それは「自由を守るのは誰か」という問題です。誰もが考えることですし、実際、ロックあたりが述べてることと類似していると思うのですが、日本人の自由を守るのは日本国民しかいないのだ、ということを述べていきます。
 自由を必要とするのは言うまでもなく個人です。そこで、やり尽くされた思考実験ですが、全員に自由を与えてみたいと思います。当然、自由は衝突します。妥協が生まれにくい衝突(宗教的自由など)は戦争をも起こすでしょう。ここに、「自由を守れる限界」が自ずと生じます。その限界は個々人が設定できるものではありません。そこに国家の正当性があるとされます。すなわち調整と決定の国家が正当性を有するわけです。
 私は、日本国憲法に公共の福祉という形で、この正当性が表れていると思います。すなわち、国家には公共の福祉に反する場合のみ、自由を制約してもよいとしているのです。逆に、国民にも公共の福祉に反する自由の濫用を認めないとしています。国家と国民のそれぞれに、憲法が命じているわけです。
 しかし、当然のことながら、国家は自由を制約するために、公共の福祉を恣意的に解釈できます。そこで必要なのが、権力分立であり、司法権の独立です。公共の福祉を解釈し、調整する機能を司法権に与えることで警察や軍隊などの物理的権力機関を押さえにかかるわけです。これもまた、憲法が国家に命じているわけです。
 ところが国家には国家の主張したい自由があって、彼らはそれを押し通すために、その物理的権力を行使できます。行使しないまでも、司法権が政府と結びつくだけで、権力分立も公共の福祉も無効化できます。要するに言葉というのは、最終的に覆せる無力なものなのです。国家の正当性というものは、実は国家ができてしまえば大して必要のない言葉なのです。この意味では、憲法は国家と国民の上にはなく、むしろ国家と国民の狭間で偉ぶる道化と言わざるを得ません。
 ただ、現実を見たとき、国家はそこまで極端なことを大々的にやっているようには見えません。国家を制約しているものが、究極的に憲法のなせる技でないことは先述しました。私は、それが「究極的に」自由を守るのは、人々の持つ力、それも自由を虐げられた人々の抵抗以外にはないと考えています。日本国憲法にはそのことは書かれてありません。しかし、日本国憲法を作ったのが国家である以上、書かなかったことにも政治的な意味があるはずです。その意味は色々ありましょうが、一つは国家が自らを滅ぼすような抵抗――革命と言ってもいい――を容認するわけがないのです。しかし、その抵抗する力、革命の恐怖こそが、国家に自由を保障させる、自由を自由たらしめる究極の要因なのだと、私は考えています。もっとも、その個人の自由すらも暴走してしまえば、本末転倒の結果になりますから、やはりそれらを調整する新しい国家が生み出されるでしょう。
 およそ、法学的な答えは導き出されませんでした。むしろ、これは政治的な問題です。憲法の「法」の面を見るだけでは解決しようのない問題です。

 最後に、再度まとめます。自由を保障する憲法は、国民が自らのためにそれを守らなければ、ただの紙くずです。憲法が紙くずになれば、頂点を失った法体系は崩れ去ります。その状況下で、個人の自由が保障されるかは疑問です。そこで、日本国憲法に思いを馳せたとき、第12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。(後略)」という条文が思い起こされます。私は、憲法で最も重要な条文は、この第12条だと思います。憲法の存在、自由な個人の存立に関わるからです。
 確かに、憲法には拘束力はありませんが、国民は自らの自由を守るために、自発的に「不断の努力」をするでしょう。この努力を怠ったときに与えられるペナルティは、国民に還ってくるからです。また、憲法は国家を名宛人として制定された条文を多く持っています。しかし、国家が自己拘束的に憲法に従い続けることを信じてはいけません。まさに、人々が自由を望むならば、憲法でも国家でもなく、人々こそが守らなければならないのです。

投稿者2:new(法学部2年)   #165

 これが最後の講義風景レポートになります!今思えば本当にあっと言う間だった気がします。先ほど自分が今までに送った講義風景レポートを見直してみたんですが、本当、ほとんど内容にふれてませんでしたね(笑)しかも、クリスマスあたりの講義風景レポートはすさんでましたね!
 しかし、思いかえしてみると良い思い出だと思います。

 板書をしないと聞いた時は、正直、「こんちくしょう」と思ったりしましたが、、、、、、本当は思ったりしてませんが、そのおかげで授業中1回も寝ることなく集中し続けることができました。ノートの方も先生がおっしゃっていた通り、最小の方はノート1ページ行く行くか行かない程度のメモしかとれなかったのですが、最後の方はノートの2枚目に行くくらいまでメモをとれるようになっていました。ほんの少しですが、この授業を通して成長できた気がします。最後まで気を抜かず、テストという名の荒波にもまれないように頑張りたいと思います。半年という短い期間でしたが、ありがとうございました!

投稿者3:マルブランシェ(法学部2年)

 とうとう終わってしまいました。
 最後の方は精神活動についてだったので難しく感じました。
 両者の均衡を保つのはやはり大変だなぁと痛感してます。ただ、無下にケースバイケースで済ませていたら、それはそれで大変な問題だと思います。常に考えること、これに尽きると思うそんな講義でした。ありがとうございます!

投稿者4:今日のわんこ(法学部2年)  

 とうとう授業が全て終わってしまいましたね!
 全部で26回もあったはずなのに、一瞬で終わってしまったようです。…というのは少し言い過ぎかもしれませんが、少なくとも他教科の26回分よりも感覚的にかなりあっという間に終わってしまったような気がします。これは南野先生の授業が毎回楽しかった証拠であり、同時に自分が毎回授業に集中していた証拠でもあるんじゃないかなと思います。全く何の自慢にもならないどころかかえって恥ずかしいのですが、私が九大に入ってから全13回もしくは全26回の講義を通して一秒もウトウトしなかったのは、南野先生の授業が初めてです。内容的にはもちろんですが、先生の授業スタイルも手伝って、この講義はそれだけ絶対に聞き逃したくないと思った講義でした。
 さて授業スタイルといえば、先生は人権各論に入ってからたまに今月辞任したとある大臣のものまねをしながら講義をされていたようですが、どなたか気付いたでしょうか?…気付きませんよね(笑)
 また今年の講義はそのものまねの影響か、例年よりも進度がゆっくりだったようです。南野先生による人権論の続きが非常に聞きたいのですが、私としては南野先生の「人権総論」が聴けただけでも自分の勉強にとって大変有意義でした。今までなんとなくぼんやりやり過ごしてきた人権総論の部分をしっかりと理解することが出来て、統治機構を含む憲法全体の理解が進んだような気がします。
 最後に、先生の授業は自分が今まで受けてきた全ての授業の中で1番の授業でした。半年間ありがとうございました!

投稿者5:カレー(法学部2年) 

 今回は、最終回ということで、気合いを入れて講義を受けようと考えていたので すが、諸事情により欠席してしまいました(涙)。 Kusunokaさんが今回のリポー トで書かれていた、講義の終盤での「先生の総括、訓示」を賜ることができなかったことが、ただただ悔やまれます。「終わりよければ全てよし」というこの世の中で、終わりが最悪だった場合どうすればよいのか途方にくれたのは言うまでもありません。最終回講義を欠席するような人間は、レポートを書く資格はないだろと言われればそれまでですが、今回はこの講義の総まとめとして、レポー トを送らせて頂きます。

 まず、この講義の感想を一言で言えば、南野先生の人権論の授業で、憲法学の世界がぐんと広がりました。それまでの私の憲法に対するイメージは、正直、「何だかわかりにくいもの」でした。高校の公民の授業にまで遡れば、「違憲判決が指折り数えるくらいしかないなんて、とりあえずほぼ合憲なんだな」というイ メージしかありませんでした。しかし、その分かりにくさが面白さでもあるのだ と、次第に考え方が変わっていきました。勝手な思い込みかもしれませんが、分かりにくく漠然としている分、解釈の可能性の幅が比較的大きいことも起因して いると思います。また、各分野の判例や学説を見ていく過程で、憲法学者や裁判官の熱い議論を垣間見ることができました。それだけ白熱した議論を展開した末の結論が、「指折り数えるくらいの違憲判決」であるならば、納得できるな、とも感じました。しかし、納得のいかない結論の部分も多々あります。私たちの感覚からすれば当然違憲であると思われる事案も、さらりと合憲というものや、解釈的な問題で、私たちの感覚からすれば到底思いつかないような理論や法理をひっぱり出してきて解釈したものなど、枚挙に暇がありません。ただ、ここでも言えるのは、やはりこれが憲法学なんだろうな、ということです。(民法的な保護法益が軽く見られてしかるべきものであるというつもりはさらさらありませんし、民法などの学説・判例が簡単な論理で大丈夫ということではありませんが) 「人権」や「国家の仕組み」などという重すぎるものを背負った憲法だからこそ、また、判決次第では後の日本を大きく動かしかねない憲法判例であるからこそ、しっかりとしていて簡単には崩されないくらい検討に検討を重ねた理論で裏付けられた学説あるいは判例理論を構築する必要があるのだと思いました。

 最後になりますが、個人的には、時間の関係上省略された経済的自由の部分のお話も聞いてみたかったです。もし、来年度のこの講義で扱われるようでしたら、 潜入してみたいと思います。それでは、半年間あっという間でしたが、本当にありがとうございました。試験が数日後に迫ってきましたが、気合いで乗り切りましょう!

投稿者6:お茶(法学部2年) 

 初めてリポートを書かせていただきます。授業中に先生がお願いしていた他にも、何度か南野先生にばったり会った際にもリポートを催促されたことがありましたが、今まで無視(笑)していたことをお許しください。

 さて今回は最後ということで、この講義全体の感想を書きたいと思います。最初、先生が講義の際に板書をしないというスタイルを取っていると聞いたときは、どうしようかと思いました。最初の方は確かに慣れず大変でしたが、今思うと板書が無い分、重要なところを聞き逃さまいとしてより講義に集中できた気がします。僕の中ではダントツでこの講義が一番寝なかった講義でした(とは言っても今日のわんこさんとは違い何度も寝てしまっていましたが…)。
 人権論は前期にもゼミで若干勉強していたこともあって他の人よりも興味が深かったかと思いますが、今回の講義でさらにその面白さを知ることができました。憲法は基本的に解釈論の問題ばかりで、どこにでも学者間や学説・判例とで争いがあることが普通です。僕としては、合憲限定解釈などで「なんだそりゃ、無理やりだなぁ…」と思う判例学説もいくつかありました。しかしそのような法理の裏には、他の機関との権力関係や他の権利との衝突などによって、文言通りに意味を取るだけでは決してうまくいかない事情があり、そのような中から一番安定した収束点を見つけ出そうとすることに、学問としての憲法の意義があるのだと思います。今回の講義では、単に知識を教えるだけでなく、諸所の学説判例について先生自身の意見も交えて話してくださったおかげで、こういった学問としての憲法の面白さを知ることができたと思います。半年間ありがとうございました。

 最後に、先生がおっしゃっていたように今回の講義で省略された部分が多くあるようですが、いつか機会があればその部分についてもご教授いただきたいものです…

 それから、ペンネームが「茶子」さんとかぶってしまってすいません(笑)。名産なので…

投稿者7:やす(法学部2年)   #170 

 長いようで短かった人権論の講義が全て終わりました。これほど短く感じたのは毎回の講義が物語を聞いているかのように流麗で、面白かったからです。知識の伝授ではなく、いかに聴衆を引きつけながら話をするかに工夫がなされていてプレゼンの技術としても参考になりました。先日の空知太判決のように新しい判例が積み重なり、学説の盛衰や新学説の登場によってこの先も物語は徐々に変わっていくことでしょう。10年後に先生がどのような物語を紡いでいらっしゃるのか、また通して聴きたい思いです。

 「講義風景リポートで3回以上登場した人を書け」という過去問の話が本当であるならば、「やす」と書くことで数点もらえることを期待しつつ、ひとまずリポートを終えることにします。半年間ありがとうございました。

投稿者8:ポッキー(法学部2年)  

 最終回にして、初投稿です。
 マックで憲法Uの定期考査勉強中に先生とまさかの遭遇をしてしまい、先生から熱く勧められたので投稿に至りました。あまりに突拍子な出来事でしたので、スルーしてしまったこととこっそり友達を呼んだことをお許しください。
 さて、講義にはすべて出席しましたが、憲法Uの試験は過去の例を見るに壮絶なレベルであることが想定されるので、まったくもって安心できません。最高裁判例や著名な論文を漁りながら勉強しておりますが、最も期待していた『憲法学の現代的論点』が、九大中央図書館も、福岡県立図書館も市立図書館も、ことごとく「貸出中」であることにやる気を削がれております。唯一「在庫」を発見した、九大伊都図書館に今から行こうかと迷いながら、試験勉強に勤しんでいる、そんな私でした。
 講義風景リポートでなく、単なるコメントであることを重ねてお許しください。サブゼミは、検討中です(笑)

投稿者9:世界(法学部2年)

 まさかマックで勉強している友達に呼び出されるとは思ってもいませんでした。
 ちょうど昨日、その友達と空知太神社の違憲判決について話したところだったので、先生に直接お尋ねできる絶好の機会と思い、マックに走りました。
 すごく緊張しましたが、先生は真剣にお話を聞いて下さり、感無量でした。
 ありがとうございました。
 非常に残念なことに講義風景を忘れてしまったので、さっき起きた出来事について書かせていただきました。
 勉強頑張ります。

投稿者10:オスカル(法学部5年) 

 いよいよ試験前日となりました。
 今年度の人権論を振り返ると、まず、自分の受けた2006年度(!)との比較ですが講義3、4回分ぐらい講義項目が短縮されました。ですが、範囲が狭まった分、あの当時より密度の濃い講義をしていただけたように思います。(もちろん脱線もそれに資する一要素です。)
 また、この半年の間で重要な最高裁の判決がぞろぞろ出てきました。昨年9月の議員定数不均衡訴訟、同日の非嫡出子の相続をめぐる訴訟、そして空知太神社の違憲判決、いずれも今回の講義で触れた内容に関係するものです。こうした生きた題材を元に難解な憲法問題を考える、、、しかもご教授いただけるのが南野先生。至れり尽くせりだったと思い、今更ながら感謝しております。ありがとうございました。
 もしかするとこれが今年度最後の講義風景レポートになるのかな?
 南野先生をはじめ、みなさん本当におつかれさまでした。明日はがんばりましょう。

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定期試験(2010年2月1日・月)  試験問題・成績等はこちら

投稿者1:今日のわんこ(法学部2年)

 今日はテストの日でしたので、最後の講義風景リポートを送ろうと思いましたが、急遽「抗議」風景リポートに変更します!
 さて今回のテストの内容は先生がHPにアップされると思いますが・・・
 過去問を見る限りでは今までのなかで1番難しかったのではないでしょうか。テストが終わるとみんな口々に「あれはひどい!」とか「やられた!」とか言っていました。今までのテストでは割と出題意図が明確だったので、今回もそれを期待していましたが、ご覧の通りです。前から薄々気付いていましたが、そんなに私たちの学年が嫌いですか!?笑
 今日のテストが今期の試験の始まりだった人もたくさんいるのに、私たちを気落ちさせようとしていたとしか思えません。。。笑
 そして、時間が全然足りません!ただでさえ寒くて手がかじかんでいる上に、ちょっとドキドキしてそんなに早く手が動かないのに、あの問題では考えるのにも時間がかかって書くのが全然追いつきませんでした。
 今流れ星が流れてきたら、絶対「先生が甘めに採点してくれますように!!!」と願います。流れ星流れてこい!…じゃなくて、先生お願いします!笑

投稿者2:Leon(法学部3年)   #175

 去年同様、まさに、「さすが!」と思わされる定期試験問題でした。
 個人的には、出題者の意図を読む能力の乏しさを痛感し、早速意気消沈していますが、やはり、単位が取得できるかどうかは別として(笑)、解いていて楽しい問題でした。
 特に大問3に関しては、全問正解してみたかったですが、まだまだ広く深く勉強する必要があったようです。
 メインの論述2つに関しては、最近出された判決の補足意見ということで、読むことに時間を要し、さらに、出題意図を考えて論点を絞ることに時間を要し、論点を出来うる限り正しく思い出すことに時間を要し、書くのに時間を要し・・・・・・つまり、時間が足りなかったのが心残りですが、それも、また時間配分の問題ですよね。
 とりあえず、解答が掲示されたら、答えあわせをしてみようと思います。それで、また落ち込む可能性大ですが・・・・・
 それから、注目される判決の全文には目を通しておくべきとの教訓を改めて教えられたような気がするので、今後はもっと自主的に読むようにします。
 それでは、採点は今からが大変だとは思いますが、憲法2の授業ありがとうございました。

投稿者3:new(法学部2年)

【絶望】
 (名詞)  すっかり望みをなくすこと。希望を失うこと。

 辞書には以上の様に書いてありました。今日まで、僕は、この言葉に書かれている本当の意味を知りませんでした。
 いえ、正確に言えば、「既に経験したことがある」と驕っていたのかもしれません。

 試験開始10分後、「あっ、これが絶望っていうんだ☆」と20歳にして初めて真なる「絶望」を経験しました。
 足が震え、手が震え、文字が書けず、解答用紙にはミミズのような字が散乱し、目の前は真っ暗なのに、解答用紙は真っ白という恐ろしいコントラストが今でも鮮明に蘇ります。
 混乱する頭で、必死に答えを導こうとしました。
 

 第一問目の非嫡出子の条文について、、、、

 『大丈夫だ!これは朝勉強した問題だ!自信を持って答えを書くんだ』と強く自分に言い聞かせ、震える手を抑え、書いた答えが

 

 

 A、90条

 

 

 『公序良俗wwwwwwww』

 

 

 ノートにでかでかと900条って書いてるがな!!!!!!!

 試験が終わり、友達と答え合わせをした時 『あぁ、俺、終わってる』 と心の底から思いました。

 今回の敗因は、憲法は他の教科より勉強していると驕っていたことです。
 授業を理解できることに安心するのではなく、さらに知識を身につけるべきでした。
 単純なる勉強不足です。

 長々とすいませんでした!
 最悪、来年もお世話になることになるかもしれませんが、また温かい目で見守ってください(笑)
 半年間ありがとうございました。失礼いたします。

投稿者4:バームクーヘン(法学部2年)

 正真正銘の最初で最後のリポート投稿をさせてもらいます。

 受けた感想としてはこんな出題形式もありやねんな〜と思ってしまいました。判例の本文だけでなく裁判官個人の意見もしっかりみなあかんでという先生の発言が脳裏に浮かんできました。
 大問2に関しては南野サンタからの遅いクリスマスプレゼントだとテストの最中に思っちゃいました。
 これ12月24日の補講でやったとこですよね?
 あの時ほど憲法の私人間への直接適用を認め、カップルから独身の自由を守ってほしいと思ったことはありません。
 ぎりぎりにくるとか、ほんま慌てんぼうのサンタクロースですね
 テストの出来はともかく憲法は楽しく学ぶことができました。
 のんびりリポートを書き続けたいのが本心ですが、不可遡が「人」の性であり、このまま立ち止まり続けるわけにはいきません。
 明日の英語のテストという現実が…(笑)

 長くなりましたが、半年間ありがとうごさいました。また何かかかわる機会がある時はよろしくお願いします。

投稿者5:茶子(法学部2年) 

 今日は本当に最終となるレポートですので、久しぶりに送らせて頂きたいと思います!

 今日は期末試験でした。
 問題を開いた瞬間「あ!穴埋めだ!やった!(私は穴埋めが好きなのです)」と思ったのもつかの間、ページをめくるにつれ

 「問題量、多っ(°Д°)!!!!記述量、多っ!!!(°Д°)」

 。。。次第に事の危うさを自覚していきました。笑
 間違いなく、

 問題文の通読+解答の論理構成+解答の記述>90分

 だと思います!!

 数人友達と試験について話をしましたが、99.99%の人は上の公式が当てはまると思います(´Д)わー

 そこらへんをお察しの上、採点の方よろしくお願いします↑↑↑☆←これ、思わず笑ってしまいました☆笑

 さて、試験の話はそれくらいにして、
 この2年後期、先生に憲法の授業を担当していただいて、本当によかったです!
 面白い授業スタイルのおかげで、私も意欲も持って臨むことができました。
 授業で寝なかったのはもちろん、ノートが先生の授業の分は、ずば抜けてキレイなことがそれを物語ってます。笑

 本当にお世話になりました。
 いつまでもそのスタイルで学生を魅了してください!

投稿者6:豆乳鍋(法学部2年) 

 試験前から緊張してずっと足が震えていた私ですが、いざ始まると震えている余裕がないくらい問題のボリュームがありました。
 南野先生の試験は難しいということは知っていたので、十分に過去問研究(笑)などをしてみたのですが、力及ばず…
 友達と「政教分離は絶対に出る!!」と話していたので問2は多少なりとも解けたのですが、問1は撃沈でした。
 あの未熟な解答が南野先生の目に触れるのが恥ずかしいぐらいです。
 やっぱり小手先の勉強ではだめですね。
 過去問研究する暇があるなら判例百選でも読みこむべきでした。
 何かと悔いの残った定期試験でしたが、来年またこの試験を受けることになると思うので、悔しさはその時にぶつけたいと思います。
 半年間ありがとうございました。

投稿者7:まゆこのつくだに(法学部2年)   #180 

 人権論の試験が終わりましたね。

 問題全体の感想としては、いい意味で難しい問題だったと思います。
 穴埋め問題でも難しいものから易しいものまでバランスが取れていたし(民法900条の「900」を問う問題ですが、正直あそこは完全に抜け落ちていました。別の教授の試験であれば、1045以上の整数を解答用紙に書いたのですが…)、論述問題はよい思考の鍛錬になりました。

 1番考えたのは問1の小問4でしょうか。「出題者の意図を問題から汲み取れ」と、受験生してた頃に耳にたこができるほど聞かされましたが、この問題は全くそれができませんでした。南野先生は一体何を答えさせたいのかと。
 たまたま民事訴訟法の知識を思い出したので、司法判断の基準時の問題について長々と書いてしまいましたが、憲法論とのあまりの関係なさに、あれでよかったのか正直不安です。
 ためしに試験終了後、友達を3人ほど捕まえて話を聞き出してみたところ、それぞれ別の内容を書いていたので、民訴以外に思いつくことなかったのかよ…という気分になりました。
 出題意図について、HP上での解説お願いいたします。

 あと、空知太神社の判決が出題されましたね。実は、試験前に泉佐野市民会館事件や北方ジャーナル事件の判決と纏めて読むつもりで裁判所のHPからダウンロードしていたのですが、開けてみてビックリ、なんと49ページもあるではありませんか。「さすがにこれは試験終わってからにしよう…」と思っていたので、問2を見てささやかな後悔を憶えました。さすがは南野先生。
 まあ問題を解く上で支障はなかったかので別によいのですが。
 2月10日の債権各論試験が終了次第、目を通してみようと思います。

 最後になりましたが、4ヶ月間の講義ありがとうございました。
 ノートに関しては、高校の頃から板書きの丸写しをせず自分なりに書くようにしていたため、別段苦ではありませんでしたが、結論の見えない問題に敢えて立ち向かうことの難しさといったものは、講義やレポート書きを通じて十分に感じました。
 これから採点でお忙しいと思いますがよろしくお願いします(←どんな意味でだ)。

投稿者8:カレー(法学部2年) 

 定期試験がやっと終わりましたね。自分にとって「終わる」というのは二つの意味があります。
 まず、形式的な意味の「終わる」とは、定期試験が終了するという意味です。これは時間的な問題なので、学説・判例とも争いはありません。そしてもうひとつが、実質的意味の「終わる」です。この「終わる」の解釈には大きく二つの学説に対立があり、思うような試験問題が出ずに途方に暮れる「終わる」、いわゆるオワタ説(orzと表現することもあるかもしれません)と、予想通りの出題で問題なく淡々と解答を書くことができ、無事憲法Uの試験というヤマを「終わる」ことができたという、いわゆる自信あり説とがあります。
 今回の定期試験では、前者が支配的であるという印象が強いです。改めて言うまでもなく、私も前者の一人であることは間違いありません。なお、今回の判例(試験問題)は、学説(受験者の私たち)から大きな非難が予想されており、政府は保守的な裁判官を送り込み事態の収拾を図ることも辞さないでしょう。

 憲法学的に今の心境を書いてみました。前置きはそれくらいにして(笑)、試験中に感じたことは、論じるべきことを限られた時間内に考え、自分の持つ知識を再構成し、答案を作成してゆくことの、予想外の難しさでした。期間を決めて、短時間で講義風景リポートを書くようにしなさいという南野先生のご指摘は、ここで生きてくるのかもしれませんね。
 私としては、問題文を読めば出題者の意図がすぐに分かる問題を予想していましたが、その作業に相当苦労する問題でした。これは、まだまだ勉強不足であるという証なのかもしれません。春休みから気合いを入れ直して、鍛え直すことにします。

 余談ですが、試験前からかなり気になっていたのですが、憲法学者の方々は、法学部時代憲法の定期試験の問題にどのように答えていたのでしょうね。例えば、高橋和之先生であれば、法学部時代の定期試験で私人間効力が出題されたら、そのころから新無適用説をためらいもなく淡々と書かれていたのでしょうか。ほかの憲法学者の方も同じで、現在主張する学説は、法学部生時代から頭の中にあったのでしょうか、それとも、やはり学者になってから構築された考え方なのでしょうか。もし前者であるならば、(自分の解答が学説にまで発展するというつもりは毛頭ありませんが)解答の幅が広がりますね。ただその場合、裏付けを考えるだけで90分が終わってしまいそうですが。あぁ、現在の学説の状況を書く型にはまった解答ではなく、カレー説を淡々と展開すればよかったかな(笑)

 最後に、問3のIの問題ですが、私は最終回を欠席したとをこの場で公表した身、あれはかなりの悪意があるなと感じましたよ。出題意図は明らかではありませんが、ピンポイントに攻めないでください(笑)

 とりあえず、みなさんおつかれさまでした。先生にとっては、今日が終わりではなく採点までが定期試験ですが、今日の定期試験風景リポートが幾許かの解放感とともに送信されていることをお許しください(笑)。

 改めて、半年間ありがとうございました。

 P.S.
 この講義では、ノートの取り方も鍛えられたと感じています。その点も、先生にお礼を言わなければなりません。
 この講義が始まって間もないころ、先生の法学部時代のノートを見せていただいたことがあったと思いますが、そのおかげで、いままでで一番の出来のノート(改善の余地はまだまだありますが)を完成させることができました。その節は本当にありがとうございました。文章ではうまく表現できないので、みなさんにも、一度ご覧になることをお勧めします!

投稿者9:マルブランシェ(法学部2年)

 南野先生、法学部のみなさん試験お疲れ様です!

 思ったより時間がなくて焦りまくりました(汗)
 結果はどうであれ試験に自信もつか否かは内心の自由ですよね?(レポート送っている時点で表現の自由を行使してるわけですが・・・)

 宗教問題は基礎ゼミでも盛り上がった記憶(基礎ゼミで玉串訴訟をした時に提灯代を初めて知りました(笑))があり、懐かしさが込み上げてきました。

 半年でしたが南野先生、授業ありがとうございました!!!!!!!!!

投稿者10:クスマニノフ(法学部4年)

 二年目にして初投稿です。

 テスト中、長い!絶対時間足らん!!よくもまぁ補足意見の穴埋めを!と心の中でおもってました(笑)。ただ、政教分離判例の方は勉強してたので、なんとかなりました。私見では、新聞等に書かれてたのと違い、必ずしも目的効果基準を変更していないと考えます。そこら辺はこれからの判例の集積でもっと明らかになるんだろうなぁ、と思って出ないと信じてたのに。判例評釈に頼らず自分で考えろ!っていうメッセージだったのかもしれないです。

 問1はサッパリ、解説待ちですね。あの問題意図を見抜けた方を尊敬します。

 僕は去年不可で今回リベンジです。今になってわかるのですが、そのときは、問題にそった答案ではなく、自分の知ってる知識をひけらかすような答案を書いていました。だから、どんなにたくさん書いても評価されないんですね(笑)。なので、出題者の意図を考えるのはとても大事です! それが前よりできてると信じています。

 前期に統治機構、今回人権のテストを受けましたが、なんだか憲法のテストだけ異常にレベル高い気がします。LRAではなく、目的の正当性、目的と手段の合理的関連性、テストを難しくすることによって得られる利益と失われる利益の均衡、を審査する緩やかな基準によっても多数説(学生)は違憲と判断するとおもいます(笑)。

投稿者11:雨林(法学部2年) 

 最初に穴埋め問題があったのを見て、僕は「う…」と思いました。第○条、というのが大の苦手でして、どうも条文を覚えられないのです。
 試験終了後にまゆこのつくだにさんに捕縛され、問題評釈を聞かされました。
 1の4は不安で、何点頂けるかガクガクブルブルしています。
 今期は26回でしたが、来期は30コマになるのですよね。
 村西先生の統治機構論も、遂に天皇を論ずるようですが。
 人権論で今回あまり語られることのなかった学問の自由の回は、是非聴講しに伺いたいです。
 半年間、ありがとうございました。

投稿者12:Linder(法学部2年)

 今年度の最初で最後のリポートです。

 自分としては、@昨夏の議員定数の不均衡にからんで議員定数配分A過去問に記述で出てない猿払B同じく未採用の津・愛媛、の三つに山をはっていましたが若干当たりました。その若干のおかげで思考が停滞しました。配られた問題用紙を手に取った瞬間、「あつっっ!」

 ボリュームありすぎです。時間の不足を予測した人々は、見当外れなことを論じだすか、暗号のような速記を始めることでしょう。大問1の小2でものすごく悩みました。15点もかけるんだから何か裏があるはず。。大問3がいやらしかった。ラテン語が一個もなかったし。。ケルゼンって政治学原論だろ?七戸式に、おもろいのかいたら点くれるかな、、、理性が働いたからやめたけど(笑

 解答見るまでは自信があったけど、、、、やっぱ見るもんじゃないですね。
 センター試験の初日が終わって誰かに言われた気がする「今日が終わりじゃないのよ。」

 憲法の解答見ちゃった「明日は刑法よ。」

 最後に、憲法の講義について。
 現在は@人権論A統治機構論の二分割ですが、人権論はおもしろかったから、人権論をさらに二分して@人権論前A人権論後B統治機構論の三分割にしてもらいたいですね。

投稿者13:仮死状態(法学部2年)

 2回目の投稿となります、どうも仮死状態です。

 遅ればせながら、期末試験リポートを送らせていただきます。
 もう済んだことなので、正直に申し上げます!

 僕は今回の試験、ある程度当たり障りなく勉強した後に「ヤマ」を張って臨みました! 「ヤマ」を張るというと聞こえは悪いかもしれませんが、今回は過去問および授業中に先生が強調したところ(タイムリーな話題)を考慮し、先生がどこを出したがるだろうかと考えました。
 具体的には、政教分離(超がつくほどタイムリー、授業で強調)、非嫡出子(タイムリー、授業で強調)、議員定数不均衡(タイムリー)、公共の福祉(過去問に未出)に絞っていました。
 結果的には「ヤマ」は当たってくれたわけですが、すごく悔しかったのは、当たったくせに何も書けなかったということです…。。
 問題を見て、「竹内裁判官の補足意見だ、先生が違憲判決の法理がどうのこうの言ってたやつだ!」と「覚えて」いても、その問題について「考えて」いなかったからです。藤田裁判官の補足意見についても同様です。やはり考えることは大事なことだと改めて痛感しました。

 「可もなく不可もなく」という言葉がありますが、先生がUPしてくださるであろう「可(D)もなく不可(F)もな」(本来の意味とは違いますが笑)かった方々の解答例も参考にして、試験が全て終わった後にでもゆっくり考えてみようと思います。

 最後に、授業の総括として一言。

 僕が授業中に仮死状態にならなかったのは、先生の授業が始めてです笑

投稿者14:Kusunoka(法学部2年)

 初めての「試験」風景リポートを書きます。

 ほぼリアルタイムで更新し続ける南野先生の採点にかける情熱は、学生にとって心地よい温もりでは無さそうです。ある者はあとに続く試験の戦意を失い、またある者は「半分は確実に・・・いっているはず」と根拠も無い希望にすがる。
 私の周りの「風景」はそんなところです(笑)

 南野先生の試験に限りませんが、「何を書かなければならないのか」を読み取ることの何と難しいことか。一応、先生の助言の通り、通算20分間は何を書くかを考える時間に当てましたが、その代償は1−(4)を途中放棄という失態でした。挙句に、論点も掴めていないとすれば、それは大敗北なのでしょう。昔の先輩方はどうやってこの障壁を乗り越えていったのでしょうか……。
 ともあれ戦後処理をじっくり考える必要がありそうです。

 ところで、本当に今期も終りなのですが、この半年間は貴重な経験ができたと思っています。
 くだらないリポートなのに載せていただいたことも感謝しています。
 ありがとうございました。

投稿者15:(法学部2年)

 こんばんは!!
 ずっと講義風景リポートを送ろう送ろうと思っていたのですが書いてる人たちが賢すぎてなかなか送れずにいました。
 半年間南野先生の人権論の授業をうけることができてよかったです。今まで憲法は苦手なイメージが強く、勉強もおもしろくないと感じていましたが、授業をうけて憲法の魅力に気づかされました。特に信教の自由と表現の自由の部分がすごく好きになりました。
 定期試験こそぼろぼろでしたが、憲法にすごく興味がもてたのでこれからも勉強を続けたいと思います。
 あと先生の統治機構論もうけてみたいので授業をぜひ開講してください!

投稿者16:黒すけ(法学部2年)

 おそらく最初で最後であろうレポートを送ります!
 今回自分は憲法に勉強時間の大半を費やし、おそらく大学に入って一番勉強した科目なんじゃないかと思います。過去問も一通り見ていけそうな感じだったのでかなり自信を持って試験に臨んだんですが…
 絶望。バキバキに心折られました(┳◇┳)問題文の長さに焦って問題文を読んでも頭に入ってこず、挙句の果てに1の小問2、4は何を書けばいいのか全く分からず空欄…あの答案を先生に見られると思うと恥ずかしくて仕方ありませんでした(^_^;)もうホントに泣くんじゃないかってくらい落ち込みました。。。次の試験が出水先生のレポートを貼るだけの試験でほんと助かりました(笑)。その日の夜は勉強する気も起きず、食堂で同じく絶望した友達と色々話して傷をなめあいました(笑)。
 今回自分は授業で直接扱った部分はやりこんだんですが、先生が授業で言ってた最近の判決結果とかをほとんど見てませんでした。もっと広く色んなものに触れないといけないことを身を持って知ることができました!
 まあ何はともあれ、とても有意義な時間が過ごせました!「大学らしい」授業を初めて受けられた気分です!先生のおかげで憲法の勉強はとても楽しかったので、大変だったけど苦じゃありませんでした!半年間ありがとうございました!

投稿者17:くどぅ(法学部2年)

 試験系の科目がすべておわったということなので、今頃書かせていただきます。正直言って、問題見た瞬間に終わったと思いました。勉強は人並みにはしたつもりでしたが、問題にでた二つの判決をほとんど見ていなかったのであせりました。
 解答のほうは散々な解答になってしましましたが、今回のような問題を解かせて頂いたことで、高校時代など受験期に多くの先生に幾度となくいわれた「時間の使い方をしっかり考えて解け」ということの重大さを思い出しました。大問@の穴埋めのような、時間を使うべきでないようなものに時間をかけるなどの愚行にでたことを本当に今となって後悔しています。でも、そのようなことを思い出させていただいた先生の試験は非常に大きなものだったのではないかと思います。今後に役に立ったと思います。しかし、問題を見た時の絶望感、終わったときの絶望感はほんとに異常でしたね。次こそは必ずそんなことないよう頑張っていきたいと心に決めました。
 授業の方はとても興味がもて、先生のおかげで憲法が一番好きな科目になりました。(試験においては一番手応えはなかったですが…)26回の講義本当にありがとうございました。

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