フランス留学のちょっとしたレジュメ

32期生  南野 森   

ヴィアトール学園洛星同窓会会報『とぅりおんふ』第18号、2000年6月発行)

 

 みなさんお元気でしょうか。僕はいまパリのアパートでこの原稿を書いています。東大法学部の大学院を休学して、1997年9月より、パリ第十大学に留学しているためです。東京では憲法学を専攻していたのですが、パリでは、法哲学専攻のコースに登録しています。

 日本の憲法学は、研究の対象である憲法が、明治の旧憲法も現在の憲法もそうなのですが、諸外国、とりわけ英米仏独の憲法思想を採り入れたうえで成立したものであるため、明治時代から、常に欧米の憲法学の動向に重大な関心を払ってきました。いまも多くの憲法学者は、日本語の他になにか少なくとも一つの外国語を使って、外国憲法思想の研究にも精を出している、というのが現状です。僕はといえば、修道院のみなさんがフランス語を話していたから親近感があった、というのが理由かどうかはわかりませんが、大学に入学した際に、第二外国語にとくに迷うことなくフランス語を選び、その後大学院に進学して憲法学を専攻するようになってからも、主としてフランス憲法学を関心の対象においてきました。

 ところで、明らかに日本よりも進んでいる最先端の研究に接する必要がある理系の人や、あるいは日本では入手不可能な貴重な文献を必要とする歴史や文学専攻の人などとは違って、法学研究者の場合、古い時代の研究をするというのでもない限り、実際に外国に行って研究をしなければならない必要性は、実は余りないのかもしれません。東大法学部の図書室には、フランス語の文献が比較的揃っていることを考えれば、僕の場合にはなおさらそうかもしれません。また、より専門的な研究対象、あるいは自分の研究スタイルといったものが確立してから留学する方が効果的だ、ということも言えるのかも知れません。

 それはそうなのですが、僕の場合、修士課程を終えて博士課程に進学したころから、漠然と海外に留学してみたいと考え始めるようになりました。そして実際、博士課程の二年目の前期を終えたあと東大を休学し、ここパリにやってきて、すでに当初の予定であった二年が終わり、現在三年目の半ばを過ぎたところです。今年の十月には東大に復学し、その後できるだけ早く博士論文を提出する、ということになりますが、これまでの留学生活を振り返ってみて、あまり意義がないかも知れないと思いつつ行動に移した院生段階での留学ではあったのですが、それなりに、充実したものであったと言えるのではないかと自負しています。そのあたりの思いを、この場をお借りして、おおざっぱにお話ししてみたいと考えています。

 パリに来るのは、この留学が六回目でした。初めてヨーロッパにやってきたのは、今から十年前、大学に入って初めての春休みを利用して、32期の堺本君と敢行(?)したヨーロッパ一周大旅行でした。その後何度か来る機会があったわけですが、長期のフランス滞在となると、留学の一年前、博士課程の一年生の夏休みを利用しての語学留学が最初になります。アメリカのサマースクールもそうでしたが、数ヶ月の語学留学ほど楽しいものはありません。要は、語学の上達が唯一の目標なわけですから、外人と遊びに行っても、映画を見に行っても、買い物にでかけても、とにかくその国の言葉に接してさえいれば、目的に違わず、と自分を納得させることができます。おまけに、机に向かっての文法の勉強は日本でもできるよ、などという悪魔のささやきが聞こえてくれば、なおさら、遊ぼうというインセンティブが大きくなり、堂々と、毎日バカンス気分で過ごすことができるからです。この語学留学では、パリとリヨンに一ヶ月ずつ滞在したのですが、授業もそっちのけで(?)街を散策したり、あるいはフランス各地やスペインにまで旅行をしたり、と楽しい思い出が一杯です。

 もともとが自信過剰なたちなのかも知れませんが、このフランスでの二ヶ月の生活は、今から思い返すとよくもまああの程度の語学力で思い上がっていたものだ、とつくづく赤面させられるのですが、それでもなんとかフランスでやっていけるだろうという自信を僕に与えてくれました。1996年の9月、東京に戻ったわけですが、ちょうどそのころ、武蔵野市にあるNTTの研究所に研修で来ていたフランス人グループと知り合い、それが大きく僕の留学への準備を加速することになります。彼らはパリの国立電気通信高等専門学校(ENST)というところから六ヶ月の予定で日本に派遣されており、その中の一人、エティエンヌ君と仲良くなっていったのです。彼はグランド・ゼコールの一つ、エコール・ポリテクニーク(理工科学校)という、フランスでは猫も頭を下げるほどの(?)超エリート校を卒業したあとENSTに入学し、NTTでは音声認識技術の研究をしていました。ポリテクニーク時代に日本語を始め、以来漢字の魅力に取り憑かれたとかで、所沢のNTT寮でも、毎晩漢字を書いて時間を過ごしていたという、いわば「漢字オタク」でした。寺井先生や、すでに退職された木村先生、久保先生の授業のおかげで、僕はおそらく平均的日本人よりは漢字や日本語に詳しかったような気がするのですが、それで、エティエンヌ君の飽くことなき漢字探求にもそれなりに付き合ってあげることができ、だんだんと意気投合していったというわけです。

 彼らがその後フランスに戻ってからも、エティエンヌ君とはメールでのやりとりを続け、いろいろなアドバイスを貰ったりして、僕の留学計画がだんだん現実化していくことになりました。東大の先生方に相談したところ、フランスに行きたいなら、ミシェル・トロペール教授のところが良いだろう、と口を揃えて言われました。トロペール教授は、日本や欧米の憲法学者や法哲学者にもよく知られている、おそらく現在のフランスでもっとも重要な憲法学者・法哲学者の一人です。学部時代のゼミ指導教授でもあった樋口陽一教授に早速紹介の労をとってもらったところ、いきなり電子メールで歓迎するという返事をいただき、すでに還暦の大教授のはずなのに、しかもフランスではそんなにインターネットも発達していないはずなのに、と驚かされたのを覚えています。日本での身分が院生ですので、「客員研究員」「自由聴講者」という立場ではなく、正式に大学の博士課程に登録しなければならない、ということになり、さまざまな書類をそろえ、それをフランス語に直したりするのが大変でした。メールを通して、エティエンヌ君には実に世話になったという次第です。

 東大の博士課程を二年目の前期で休学し、1997年9月、羽田空港から台北、さらにバンコクで乗り換えて、しかも(パリではなく)アムステルダムに到着するという、安さだけで選んでしまった中華航空で、ほぼ一年ぶりのヨーロッパに、しかし今回はまじめな留学を目的としてきたのだぞと自分に言い聞かせながら、降り立ちました。アムステルダムからは列車に乗ってパリに着いたのですが、そこからまずは、当座のホテルとアパート探しが始まりました。パリでアパートを探すというのは、おそらく外人が東京でアパートを探すのと同じくらい難しく、フランスで給料を貰っている人に保証人になってもらわなければ契約はできません。そういう保証人を見つけることのできない僕のような学生の場合には、割高を覚悟で日本人経営の不動産屋にあたるか、あるいは当地の日本語新聞に広告が出ている日本人大家さんの物件を個別に交渉するか、あるいは大学寮に入るか、ということになります。僕の場合は、ちょうどエティエンヌ君がENSTを卒業し、学生寮を出て一人暮らしを始めるというタイミングに重なっていたこともあって、とまどう彼を説得し、彼とアパートをシェアすることに決めていました。フランスでは、アメリカほどではないにせよ、若者同士のアパートシェアはそれなりに普通のことで、よく大学などにはルームメイト募集の張り紙があったりします。ただ、身元がしっかりしているというだけで、性格もなにもよくは知らない人と一緒に住むのはどうかと、僕の両親などは心配していましたし、そのうえ、当のエティエンヌ君自身がこれまで個室の学生寮暮らしだったせいもあって、大いに心配していました。それを僕は、とくに根拠もない楽観主義で強引に(?)説き伏せていたのです。

 パリに着いたときにはすでに立派なアパートが用意されているものだとばかり思っていたのですが、列車の到着したパリ北駅に出迎えてくれたエティエンヌ君は、これから三つほど物件を見に行こう、といきなり言ってきました。中華航空の二十時間以上の空の旅、そして五時間近い列車の旅でへとへとになっている僕に、明日は日曜日なので不動産屋は全部お休みだから今日しかないぞ、と彼は言うのです。しかたなく荷物を彼の車のトランクにいれ、そのまま不動産屋へ行ったのを覚えています。そして結局、パリの14区、アレジアという地下鉄駅の近くにある物件がいちばん住み易そうだったので、その日のうちにそこに決めました。といってもまったく家具のないアパートで、しかもエティエンヌ君の学生寮には他人を泊めるスペースがないため、僕は一人でこのアパートの近くの安ホテルにしばらく滞在することにしました。

 最初の二週間くらいだったでしょうか、必要な家具を買ったり、電話を引いたり、銀行口座を開いたり、と実に忙しい毎日でした。しかし、日本国内にいるときもそうですが、引越というのは大変な反面、いろいろと新しい生活環境を自分流に整えていく楽しみがあります。僕もこの時期は毎日ほんとうに興奮して楽しかったのを覚えています。ただ、これと並行して、パリ第十大学の入学試験の準備をしなければならなかったため、全くストレスがなかったというわけではありません。東大の教職員や友人たちに立派な歓送会を開いて貰い、空港にも何人かの友人に見送りに来て貰い、意気揚々とパリへ出発してきたのですが、実はまだ、パリ大学に入学できると正式に決まったわけではなかったのです。この点もまた、楽観主義のなせるわざだったわけですが、根拠がなかったというわけでは必ずしもなく、すでにトロペール教授から個人的に歓迎するというメールを貰っていたわけですから、まさか東洋の果てからそれを信じてやってきた学生を残酷にはねつけることはしないだろう、と思っていたのです。

 入学試験はそれゆえ形ばかりの簡単なものなのだろうと思っていたのですが、果たして大違いで、実際には大教室で三時間(!)の筆記試験、そして問題はただ一問、ドイツの憲法第二十条三項(「立法は憲法的秩序に、執行権および裁判は法律および法に拘束される」)についてコメントせよ、という、東大法学部の試験問題のようなまじめなものでした。まさかフランスに来てドイツ憲法の問題を出されるとは想像もしていなかったため、面食らってしまい、いやこれはほんとうに来月には日本に帰国することになるかもしれない、と焦ったものでした。その後、合否通知がちゃんと試験後にパリの住所を届けてきたにもかかわらず東京の旧住所に送付され、それが京都の実家に転送されるという面倒なことになったり、大丈夫と保証されて買ったパソコン用のモデムが全く使えなかったり、滞在許可証の手続にいったらさんざん並んで待たされた挙げ句に一言、大学の登録が済んでから出直しなさいと言われたり、合否通知が来ないと大学に問い合わせたらとっくに送りましたの一言で電話をがちゃんと切られてしまい、そのひどい対応に憤慨したりと、とにかくフランス(人)のいい加減さを一挙に見せつけられるような数日間を過ごしたあと、ようやく合格したということがわかり、無事に学生証も滞在許可証ももらえた時には、やや大げさに言って、感無量でした。

 フランスの高等教育制度はやや複雑ですが、法学部の場合、日本と同じように通常は四年間の法学教育が予定されています。ただ、二年目、三年目、四年目でそれぞれディプロムがもらえるため、職業選択や将来設計の違いによって、たとえば三年目のディプロムだけで満足して大学を辞める、という学生もかなりの数存在するようです。研究者を目指したり、より高度なディプロムが要求される職業を目指す学生は、学部四年間の後も勉強を続けることになるわけですが、日本のような修士課程、博士課程といった区別はありません。学部から数えて五年目にあたる一年間を修了すると貰えるディプロムの一つにDEA(デー・ウー・アー)というのがあり、この学位を持っていることが、博士論文を書かせてもらえる条件になり、言いかえればこのDEAを取得すれば、六年目から博士課程ということになるわけです。博士課程とはいえ、日本のように授業やゼミがあるわけではなく、基本的には六年目以降、毎年度当初に博士論文のテーマやタイトルを国家(フランスには若干の例外を除いて国立大学しかありません)に登録するだけで、学部一年生の補習授業のようなものを担当したりするほかにはとくに大学に顔を出すこともなく、ひたすら博士論文の執筆に集中する、ということになっています。    

 さて、僕はこのDEAに登録することになったのですが、DEAではちゃんと授業・ゼミがあって、僕の登録したコースの場合、選択と必修科目が四つずつ、合計八つの授業に出なければならず、さらに学年末には修了論文を提出しなければなりません。それぞれの授業には発表やレポート提出、おまけに学年末試験などが課されますから、これはフランス人にとってもさることながら、外人にとってはかなりハードです。しかも僕の場合は、トロペール教授が憲法のDEAではなく法哲学のDEAに属しておられたため、あまり日本では馴染んでこなかった哲学関連の授業をいくつかとらなければならず、日本語で聴いても理解できるかどうかわからない内容をフランス語で聴くという、大変な一年間が待ち受けることになったわけです。

 そういうわけで、一年目は本当に苦労の連続でした。トロペール教授の授業は、日本で彼の著作を読んでいたこともあるのと、なによりも彼のフランス語が大変明瞭だったためになんとかついていくことができたのですが、ポーランド出身のなまりのきつい教授の法論理学の授業、話題があっちこっちに飛ぶ女性教授の法思想史の授業、また常に人生に悩んでいるかのような悲哀にみちた表情の女性教授による人文社会哲学の授業などは、とにかくちんぷんかんぷんでした。今ふりかえってみて、救われたなと思うのは、僕のクラスにイタリアからの留学生が一人いたことです。フランス流の個人主義なのかどうかはわかりませんが、二十名前後のフランス人クラスメートは、クラスのなかに一人変な東洋人がいるからといって、わいわいと話しかけてくる、ということはありません。もちろんこちらから話しかければ親切に対応してはくれるのですが、人間三十歳近くになると、わざわざ話しかけて自己紹介をして友人をつくる、などということが億劫になってくるのかも知れません。外国語でそうしなければならないとなると、なおさらそうです。洛星時代おおいに迷惑をかけた先生方からすると信じられないことかも知れませんが、あのお喋りな僕もすっかりパリ大学ではおとなしくなっていたのです。こんな雰囲気のままでは試験前にノートを借りる友人もできないなと思っていたときに、このイタリア人留学生が一ヶ月ほど遅れてクラスに入ってきました。イタリア流の陽気さなのかどうかはわかりませんが、さほど上手くもないフランス語で彼女はあたりかまわずべらべらと話しかけ、僕にもなんやかやと話題をふりまいてくれました。ボローニャ大学の博士課程を休学してやってきた彼女のおかげで、それまで口も利いていなかったフランス人同士が仲良くなるなどということも起こり、僕も食事や映画に誘われたりして、なんとか孤独を脱することができるようになりました。そういうわけで、数ヶ月たったころには、相変わらずトロペール教授の授業以外は憂鬱だったものの、それでもなんとか大学に行ってクラスメートに会えるということが楽しみに思えるようになりました。

 クラスメートの応援があったにも関わらず、ポーランド人教授の法論理学の試験には見事落第してしまい、再試験でなんとか合格点をもらったのですが、その他の授業は無事にすべて合格することができ、あとはメモワールと呼ばれる修了論文を提出すればよいという段階までこぎつけたのが、98年の夏休み前でした。DEAは一年間で学位をとるというのが原則で、たとえば一つの単位を落として学位を取れなかった場合、再登録して、もう一年、一から全てやり直すことになります。前年度に取得した単位をそのまま持ち越せないという厳しいルールがあるのですが、その反面、一年間という期間はゆるやかに運用されています。大学年度は10月に始まり6月に終わるのですが、学位取得の最終期限は、一般年度末、つまり12月末まで待ってくれるのです。6月まではとにかく授業についていくだけで精一杯でしたし、その反動もあってか、夏休みを遊びすぎてしまい、気がついたら、9月にすら修了論文を提出するというのはとても無理という状況になっていました。

 時間もなくなって最悪の場合には、東大に提出した修士論文が、現在進行中の欧州統合と国家主権の概念をめぐるフランス憲法学の議論を検討したものだったので、それをフランス語に翻訳して提出すればよいだろう、などと姑息に考えていて、トロペール教授にそういうテーマで書いてみたいとメールを送ったところ、すぐに電話がかかってきて、このテーマではすでにフランス語での研究業績がたくさんあるから、むしろ我々の全く知らない、日本のことについて書いて欲しい、と言われてしまいました。これ9月の中頃のことだったかと思います。一日三頁ずつ書けば十分間に合いますよなどと教授に言われたのですが、そんな量、日本語だって書けるはずがないと思いながら、うまく断ることもできず、はいわかりましたと言ってしまいました。いやはや、困ったことになりました。

 しかしこのメモワールを提出しなければ、それまでの苦労は水の泡ですから、結局11月末までかかって、第一部で明治維新前後からの日本の憲法(学)史、そして第二部で日本の(憲)法学者が取り組んできた、法の解釈論争、方法論争、また法律学の科学性をめぐる論争など、日本のことをさほど知らなくても、抽象的に議論できるような論争を紹介する170ページの論文をまとめあげました。この論文については、詰まるところ日本の議論をフランス語に翻訳しただけで、僕のオリジナリティーが果たしてそこにあるのかどうか、という批判を受けそうなのですが、最終審査の結果、20点満点中19点という、きわめて高い評価をもらうことができました。約三ヶ月間、文字通り自室に籠もり続けて執筆に集中した結果でしたから、この評価は本当に嬉しかったです。

 さて、こうしてDEAの学位を無事取得したあとは、博士論文の登録をするだけです。パリで博士論文を提出するということは当初から考えていなかったのですが、学生として適法に滞在するためには、この登録をしなければならなかったのです。東大で提出することになる博士論文にいかすため、幅広くフランスの憲法学・法哲学を学ぶというのがこれ以降の第一の目標となるわけで、そうなると、テストやレポートなどに追われることもない、いわば全く自由の身です。1998年12月から、こうして、しばしば、学生はいいよなあと働いている友人たちに軽蔑もこめて羨ましがられるような、しかしその反面、自律的な生活を送らなければ何もしないままにただ無為に時間だけがながれていく、そういう意味ではそれなりに厳しい学生生活が始まったわけです。

 その後月日は、今日に至るまで、本当に早く流れていったように思います。いろいろな出会いもありましたし、恋もしたような気がします。ラトビア共和国のような辺鄙なところも含めた、さまざまなところへ旅行にも行きました。フランス学士院で行われた研究会で錚々たるメンバーに混じって報告をするなど、忘れがたい思い出もたくさんあります。すべてを書き出すと、「とぅりおんふ」一冊でも収まりきらないかもしれません。年が明けて、1999年からの毎日こそ、授業に追われることなく自分流の生活をパリで送ることができるようになったため、書くことはいろいろあるのですが、思い切ってカットして、もうそろそろまとめに入らなければなりません。  

 ふりかえってみて、僕にとってなにより恵まれていたのは、やはりエティエンヌ君という同居人を得たことだったと思います。アメリカのサマースクールのときの同居人は、ややおせっかいな性格で、しかもお互い夏休み気分ということもあって、とにかく毎晩飲みに行こうの連続で、それはそれで語学の勉強にはなりそうなものの、さすがに辟易していたのを思い出します。彼に比べてエティエンヌ君は、漢字オタクになるほどの人ですから、根がまじめなのでしょう、遊びに行くといっても、たまに映画に行ったり、週末友人たちと集まってバーで少し飲む程度のことで、そのうえ個人主義の徹底したフランス人だからなのか、過度に干渉してくることもなく、実に快適な距離を保ちながら友情を深めることができたように思います。

 僕に言わせれば電気通信の技術者にしておくにはもったいないほどの語学の才能のあるエティエンヌ君は、フランス人としては例外的に、英語、ドイツ語にも堪能で、とくに英語はほぼネイティブなみです。日本語も僕との二年あまりの共同生活で、僕の日本人の友人が驚愕するほどに上手くなりました。そういうわけで、朝から晩までフランス語を話さなければならない、というわけでもなく、また、フランス語のできない僕の両親や友人たちがやってきても十分エティエンヌ君と意思疎通ができ、そういう意味で非常にラクな、外人とのアパートシェアだったと思います。もちろん彼は、フランス語は上手にしゃべれるわけですから(!)、たとえば水道が壊れて工事の人を呼んだり、家具を買いに行って配達の手続をしたり、などなど、ややこしい(?)交渉はすべて彼にやってもらえ、そういう点でもラクな外国生活です。もちろん良い面ばかりではなく、生活習慣の違いや、メンタリティーの違いから、ささいなことで口論になることもままありますし、フランス語の口げんかではどうしても勝つのは難しく、それでかえってストレスがたまる、ということもしばしばです。しかし、レポートや論文のフランス語を直してもらったり、彼の友人を紹介してもらったり、あるいはまた愛車を自由に使わせてもらったり、いろいろな相談に乗ってもらったり、やはり冷静に考えて、彼との共同生活では、僕のフランス生活にとってのメリットの方が断然大きかったように思います。

 もうひとつ、パリに留学してつくづく良かったなと思うのは、この三年間近くの間、実に多くの恩師や友人にパリで再会できたことです。これが例えば南アフリカに留学していたのでは、そんなに訪問客がなかったかもしれません。ロンドンはもっと多い、ということですが、それでもパリには年中様々な人が様々な目的でやってきます。外国での再会というのは非常に印象に残るもので、洛星同期の竹口君や片岡君、その他の友人たち、さらに、東大の先生方も大勢来られました。みなさんパリに来ると必ず声をかけてくださり、そしてご馳走してくださいました。その一つ一つがはっきりと記憶に残っています。なかには日本にいたときよりも頻繁に会うことになった先生とか、日本にいたときよりも友情が深まった友人などもいます。これは留学そのもののメリットという訳では必ずしもないかも知れませんが、やはりパリに住んでいたがゆえに味わうことのできた貴重な経験だと思っています。

 さらに洛星関係で言えば、結局これまでパリで会うことはできなかったものの、木村先生、寺井先生、かつて受付におられた中村さんなどは折りにふれてお便りを下さいましたし、ラバディ神父様、高田先生、荻野先生なども電子メールを下さいます。その他にもメールでやりとりをする同期の諸君などもいてくれたおかげで、余りひどいホームシックにかかることもなく、これまでやってくることができました。インターネットの発展は、夏目漱石のロンドン留学時代には想像もできなかったであろうような距離感覚の縮小をもたらし、日本のニュースも、家族や友人知人の動向も瞬時に伝わってきます。外出もしないで部屋に閉じこもっていると、自分がパリにいることをつい忘れてしまうほどです。

 そういうわけで、多くの人に支えられて、僕のパリ生活は幸せなものになりました。外国で三年間も住むというのはおそらく後にも先にもこれが唯一の経験となることでしょう。その経験が、楽しかった思い出でいっぱいだと思えるというのは、ほんとうに恵まれたことだと思います。研究の方はどう進んだか、これをちゃんと書かなければならないところですが、もはやとっくに与えられた紙幅を超えています。またの機会にさせて下さい。ただ一言、研究成果というものが、そもそもすぐに形になって現れるものでないとしたら、法学専攻の院生段階での留学というのはなおさらそういうものなのであって、それよりはむしろ、まだまだ若さの残るうちに、外国で三年間も生活をしてみるというその経験そのものの方が、僕に様々なことを学ばせ吸収させてくれたのではないかと思っています。そしてその生活が楽しいものであったと総括できるのであれば、僕の人生にとってこれほど意義深いものはなかったとさえ言えるのではないかという気がします。

 ところで、1999年11月から、ホームページを開きました。そこで「個人的ニュース」と題して日々のパリ生活を綴っていますので、よろしければご覧下さい。アドレスは、http://perso.wanadoo.fr/minamino/journal.jp.html です。

(2000年4月記)

 

 

 

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