個人的ニュース 

2000年2月1日〜2月29日分

 

2000.2.1.(火)

 またストである。先日のメトロ4番線だけのストとは違って、パリおよび近郊のバス・メトロ全体のスト。本日から従業員数20人以上の中小企業も労働時間を週35時間に減らさなければならない.という、ジョスパン政権の失業対策の目玉法律の第二弾が施行されることに合わせてのものらしい。就業時間が減るから余暇が増えて労働者は満足か、というとそうでもないらしく、仕事が増えるだけ、賃金が減るだけ、という不満がいっぱいで、それのみならず、新規採用および育成のための企業負担が増える、と経営者側も大いに不満のようで、第一弾立法の審議過程から、この二年間というもの、さまざまな職種でのストが繰り広げられてきた。今回のRATP(パリ交通営団)のストは数日前から報道されていたし、また昨年夏にはRATP検札官への暴行に反発して、突然一斉にメトロ・バスがストップし、パリが大変な機能麻痺に陥ったという苦い思い出があったためか、パリ人は比較的冷静に、事前に対応を考えていたようである。RATPはストのたびに各列車・バスの運行状況を案内するフリーダイヤルを設置するのだが、それを聞いたエティエンヌによると、メトロはほぼ3本に1本は走る予定だという。これならまあ大丈夫だと言って、エティエンヌはふだんより一時間ほど早く家を出ることにしたようだ。お昼のテレビニュースでも、駅のホームやバス停には人が溢れてはいるものの、大混雑を予想したためか案外に車での移動も少なく、街はさほど混乱していないと伝えていた。

 南野のアパートから、パリ13区セーヌ河岸の新開発地区に一昨年オープンしたフランソワ・ミッテラン新国立図書館へ行くには、ふつう、アレジア通り(rue d'Alesia)を東へ東へと走るバス62番線を使う。62番線のバス停には、最新式(?)の「待ち時間表示盤」というものがある。衛星だかなんだか、どういうシステムを使っているのかは知らないが、正確に、次のバスとその次のバスが来るまであと何分かを表示してくれる(やはりフランスのことだから、しょっちゅう故障してはいるが)。さて、アパートの近くのバス停からこのバスに乗ろうとして唖然。なんと待ち時間48分。南野より先にバス停にいた少年は、親指をたててヒッチハイク。うまい具合に信号で停まったおばさんの車にかけあって、乗せてもらえたようだ。一瞬、南野も真似をしようかと思ったが、考えてみると、図書館からの帰りにもまた同じことをする羽目になると大変なので、アパートまで戻り、エティエンヌの車を使うことにした。彼は、道路も大渋滞だろうと見込んで、ふだん使う車をおいて仕事へ行っていたのだ。道路はふだんに比べて非常に空いており、あっという間に図書館に到着。

 ところが、図書館について再び唖然。RATPがストをしているので、本日は18時半で閉館します、との張り紙がある。RATPのストとどういう関係があるのかと考えてみたけれど、結局のところ、図書館職員が無事に自宅に戻れるよう、早めに仕事を切り上げる、という理由しか考えられない。もはや呆れるしか仕方がない。そういうわけで、ほんの数時間しか図書館にはいられず、いつもより早く帰宅する。

 

2000.2.2.(水)

 日付の全て(西暦年・月・日)が偶数で揃うのは、なんと西暦888年8月28日以来のことらしい。まあ、どうでもよいことだが。さて、今日は北海道大学の岡田信弘教授に夕食をご馳走になる。岡田先生にお目にかかるのは、実は今回が初めて。かつて南野が、修士論文の抜刷りをお送りしたところ、先生はご丁寧に札幌のきれいな絵はがきでコメントを送って下さった。今から3年以上も前の話しである。つたない初めての論文を、おそるおそる何人かの先生にお送りしたのだけれど、そのなかからほんの何人かの先生方がお返事を下さった。心から感激したのをよく覚えている。だから、今回岡田先生が、パリに寄るから会わないかというお誘いのメールを送って下さったときには、ほんとうに嬉しかった。南野のHPをなにかのきっかけで見つけられたらしく、そこからメールを送って下さったと知り、こうやってHPを作ったことの思わぬ効用に驚かされもした。

 ポワチエ大学で提出された博士論文の審査委員を勤めるため、札幌からフランスに二年ぶりでやって来られた岡田先生は、ポワチエの銘酒ピノー(Pineau)をお土産に下さる。重たいものなのに、恐縮だ。さて、普通、日本から短期の予定でパリに来られた方との食事というと、当然のことながらフランス料理ということになるのだけれど、岡田先生はすでにポワチエで「接待漬け」にあわれたらしく、フランス料理は食傷気味だとのこと。日本料理はどう?などと言われ、これまた嬉しくて仕方がなくなる。カフェで一時間ほど食前酒(?)を頂いたあと、近くの焼肉レストランへ連れていっていただくことになる。モンパルナスのこの焼肉屋は、甘口のタレなので、南野、大好きなのである。

 初対面でもあるから、ほんとうは大いに緊張していたのだけれど、余りお酒を飲まれない先生にかわって、せっせとワインを消費したためもあって、南野は喋りまくり、聞きまくり、とにかくあっという間に午後11時が過ぎてしまった。今から10年ほど前、先生がパリ第二大学で在外研究されていた頃のお話や、戦後日本のフランス憲法研究のパイオニアでもある、北大の深瀬忠一名誉教授のお話などの日仏憲法学界の今昔、ポワチエ大学での博士論文審査会の様子など、実に盛りだくさんのお話を、興味津々と聞かせていただいた。南野の話した、ナンテールの授業や研究会の様子、自分の研究関心などについての四方山は、果たして興味を持って聞いていただけただろうか。南野、やや調子に乗りすぎたのではないかと、今頃になって心配しているが。

 今日は図書館にいた時間よりも岡田先生と一緒にいた時間のほうが長いという、(南野にとっては)実に充実した、思い出深い一日となった。

 

2000.2.11.(金)

 由希子・美帆・エティエンヌとベルギーへ出発。由希子は名古屋出身で、プロの菓子職人を目指して二年ほど前に渡仏してきた人。「ル・コルドン・ブルー(Le Cordon Bleu)」という、日本でも有名なフランス料理・菓子の専門学校を優秀な成績で卒業し、エッフェル塔のレストランやコンコルド広場に面した超高級ホテル「クリヨン(Crillon)」などでも研修を積んだ、南野に言わせれば、もう立派な職人さんだ。南野はパリに来てまもなく彼女と知り合ったのだが、以来、ことあるごとにフランス料理を作ってもらったりして、大変世話になった。美帆はその友人で、彼女も愛知県出身。由希子より一年ほど後にフランス語を学ぶためにパリにやって来たのだが、この人にもまた、これまで大変世話になってきた。二人がそろってこの2月末に日本に帰国してしまうというので、週末を利用して、ちょっとした旅行にでかけよう、ということになったのである。エティエンヌは仕事を早めに切り上げてくれ、午後4時半ごろ、彼の愛車ルノーのクリオで出発。高速道路を北へ北へと走り、3時間ほどで古都ブルージュ(Brugge)に到着。小さなホテルをみつけチェックインしたあと、レストランを探しがてら、市内を散策する。石畳の道路、小さな運河、ギルドの家をはじめとする古い建物など、歴史的な街並みが上手に保存されていて、大変雰囲気のいい街である。パリとは違ってレストランが割合早く店じまいをするらしいので、レストラン選びには時間をかけず、さっさと中心部のマルクト広場に面したところに入る。海に近いブルージュの名物は、ムール貝。バケツいっぱいに入ったムール貝を、フライドポテトを添え物に延々と食べるものだが、最初はいいけど、こうたくさん出されるとだんだん飽きてくるよねえ、などと言いながら食べる。食後、再び散策をしながら適当なバーを探し、一杯ひっかけたあと、午前零時頃にホテルに戻る。

 

2000.2.12.(土)

 ホテルで朝食をとったあと、3人と待ち合わせの時間・場所を決め、南野は一人で街にでかける。実は南野、ここブルージュにはちょうど10年前、1990年の2月に来たことがある。大学生になって初めての春休み、高校以来の友人である堺本君と二人で欧州一周旅行に出かけたのだが、イギリスのあと、ドーバー海峡をフェリーで渡り、ヨーロッパ大陸で最初に泊まったのがブルージュだったのである。インフォメーションでもらった地図をみると、「カルメル会修道院」というのが載っていた。カトリックの修道会には、トラピスト会のように、その修道士たちはいったん修道生活を始めたら、院内で祈りと労働の毎日をおくり、修道院の外には一歩も出ないという「観想修道会」と呼ばれるものと、イエズス会などのように、学校や病院などを経営したり、海外に布教に出かけたりして、社会と直接に交わるタイプの「活動修道会」と呼ばれるものとがある。カルメル会は前者、つまり「観想修道会」の一つで、日本には現在、女子カルメル会の修道院が北海道、東京、京都、西宮、山口、福岡、そして大分にあるはずである(男子カルメル会もだいたい同じ都市にある)。南野の中学・高校は、ヴィアトール会という、これまたカトリックの活動修道会が経営する学校で、毎週木曜日の夕方には「宗教研究」と称して、いくつかのグループに分かれて聖書研究だとかボランティア活動などを行う時間があった。南野のグループが今は亡きアラール神父に連れられて、学校の近くにあった女子カルメル会の修道院を訪問したのが、南野がカルメル会というものを知った最初であったと思う。今から15年以上前の話しである。ヴィアトール会の神父さんたちは、お酒も飲むし、煙草も吸うし、ケーキでもラーメンでもなんでも食べていた。それに比べてカルメル会のシスターたちは、とにかく質素な生活で、こんな人たちもいるのか、と幼心に驚愕したのを覚えている。それから高校を卒業するころまで、時々カルメル会を訪問しては、いろいろな話しを聞かせてもらっていた。

 そういうわけで、カルメル会には非常な愛着を覚えていたため、ブルージュの地図に「カルメル会修道院」を発見し、是非行ってみよう、という気になったのである。地図を頼りに行った修道院は、男子修道院であった。その頃はフランス語なんて全くできないし、おそらく下手な英語で話したのだろうと思う。英語の話せる神父さんだか修道士さんだかが対応してくれたのを覚えている。そして、すぐこの近くに女子修道院があって、そこにはなんと日本人のシスターが3人いる、と言われたのだ。さっそく行ってみたら、福岡のカルメル会からやってきた、という日本人のシスター3人が迎えて下さった。ちょうどその頃は、京都の修道院の初代院長だったベルギー人のメール・ガブリエルが、京都の修道院で亡くなられて一年もたっていない頃であったが、偶然この方がこのブルージュの修道院の出身だった、というようなこともあり、いろいろな話しを聞かせていただいた。とはいえさすがに10年前のこと、いまとなっては何を話したのか、全てを思い出すことはできない。ただ、これからヨーロッパを一周するつもりだ、という南野に、列車の中で食べなさい、と、袋一杯にベルギーのお菓子や修道院で作っているクッキーなどを下さったのを覚えている。そして、このお礼に、日本に帰ったら何か送りますから何がいいですか、と南野が聞いたところ、シスターたちは、そうねえ、日本のお茶が飲みたいわねえ、と遠慮がちにおっしゃったのも覚えている。その後ブルージュを離れ、2ヶ月におよぶヨーロッパ旅行をした南野は、日本帰国後、さすがにお礼の手紙は書いたと思うのだが、どうもお茶の葉を送った記憶がない。10年がたつうちに、いつのまにか手紙のやりとりはすっかりなくなってしまい、茶葉の約束もついに果たさずにきてしまった。今回、ちょうど10年後というのは全くの偶然であるが、ブルージュへ行こうということになったときから、密かに南野は、絶対カルメル会を再訪してみようと心に決めていたのである。

 パリの日本食料品店「京子」で手に入れた、ようかんなどの和菓子、お茶っ葉などの入った袋を片手に、地図を頼りにカルメル会まで歩く。さすがに10年前のこと、記憶も不確かだ。しかし道路の向こうに男子修道院が見えたときは、あ、あれだと鮮明に思い出すことができた。そしていよいよ女子修道院へ。なんの看板も表札もでていない。が、間違いなくここである。呼び鈴をならす。ブザーの音が響くだけで、反応はない。ただ、修道院からシスターが一歩も外に出ないカルメル会で、「留守」ということは普通ありえないから、辛抱強く待つ。5分ほど待っただろうか、ようやく、重い鉄の扉があいて、杖をもった老齢のシスターが現れた。日本人のシスターに会わせて欲しいと言うと、すぐに中に入れてくれた。そのあと、面談室のようなところに通され、ひたすら待つこと15分。その間、修道院は物音一つしない。忘れられてしまったのだろうかと不安になり始めた頃、ようやくドアがノックされ、日本人のシスターが一人、入ってこられた。

 10年前のことは全く思い出せないようであった。ちょっと残念。南野は往時、はじめての記念すべきヨーロッパ旅行ということもあり、ノートを一冊持ち歩き、それに道中で知り合った人に住所などを書いてもらっていたのだが、それを昨年日本に帰った際に探し出し、今回ブルージュに持って来ていた。「欧州旅行/1990年春」と書かれたそのノートには、ちゃんとブルージュのカルメル会で3人のシスターに書いてもらった名前が残っている。シスターはそのノートをみながら、ほんとだわ、と不思議そう。シスター米沢は東京の世田谷出身で、1950年に福岡にできたばかりのカルメル会に入会したそうだ。福岡のカルメル会は、京都同様、ベルギーのカルメル会からやってきた修道女が創設したもので、その後、日本人会員も続々と誕生し、その中から何人かがベルギーの母院へ「里帰り」を命じられたということである。それ以来、実に45年間、彼女はずっとこのブルージュの修道院で生活をしている。すごい人生だ。

 ちょうど10年前に来たときには改築中で見られなかった聖堂を見せてもらったりもして、あっという間に1時間が過ぎる。前もっての連絡もしないでの突然の訪問は、祈り・黙想・労働に集中しようとしている修道女にとっては文字通りの迷惑であるから、エティエンヌたちとの待ち合わせにはまだ少し時間があったけれども、日本食のお土産を渡して失礼する。シスターは、やはり前回と同じように、修道院お手製のクッキーや新築なった聖堂の写真などを下さった。

 小雨が降っている。パリよりも緯度はだいぶん高いし、実に寒い。待ち合わせのマルクト広場には、まだ3人とも来ていない。寒さをしのぐために土産物屋をのぞいたりする。ホテルの朝食で一緒になった日本人の新婚さんに会ったりする。12時の待ち合わせ時間ぴったりに3人がやってきた。ブルージュはレース製品でも有名で、いたるところにお店がある。それからチョコレートをはじめとするお菓子屋さんが多いのも特徴的だ。多数決に従って、午前中はずっとこれらのお店めぐりをしていたらしい。気の毒なエティエンヌ。さて、まず広場に面した一番の観光ポイント、鐘楼に登ることにする。古いもので、将来の観光客をまったく予定せずに建てられたのであろう366段もある螺旋階段は、とにかく狭い。降りて来る人とすれ違うのが大変難しい。こういうところに登るのは、ご自身の健康にとってだけではなく、周りの人にとっても大変危険ですよ、と言いたくなるほどのすごく太った女性などとすれ違うたびに、ああ、ヨーロッパにいるんだなあ、という気にさせられる。苦労して登った鐘楼のてっぺんから見るブルージュの街は、最高のながめ。赤茶色の三角屋根がならぶ小さな街全体が一望できる。

 その後「救世主大聖堂」という名のカテドラル近くで昼食。ベルギー人は卵をよく食べる、とガイドブックに書いてあったので、我々もオムレツ。雨は大降りになってきて、非常に寒い。走るようにしてカテドラルに入り、静かに見学。その後、雨が降ったり止んだりするなかを、市庁舎、運河をせき止めて造られた「愛の湖公園」などを散策して、夕方4時頃、ブリュッセルへ向けて出発。

 高速道路からブリュッセル市内へ入っていくと、近代的な超高層ビルが建ち並び、ふと東京の西新宿を思わせる。ブルージュとは全く違う大都会だ。由希子が持ってきたガイドブック「地球の歩き方」に、各部屋にシャワーのついたすばらしいユースホステル、というのが載っていて、まずはそこを目指すことにする。人気があるので早めに電話で予約すること、などと書いてあったうえ、いざ到着してみると、4人部屋が一つ残っているだけだ、と言われたので、大急ぎで部屋も見ずにチェックインする。部屋が残っていてラッキーだったね、などと言いながらいざ部屋へ行ってみると、なんとシャワーはない。ふつうユースホステルはシャワー・トイレ共同で、それが嫌だから南野は最近はできるだけユースホステルを利用してこなかったのだが、ここでは「地球の歩き方」を軽く信用しすぎてしまった。このシリーズを「地球の迷い方」などと揶揄する人がいるが、またしてもやられた、という思い。ただ、安上がりにすむから、助かりはするが。午前一時には門を閉めてしまい、その後は中に入れなくなる、ということだったので、さっさと街中へ出かけることにする。

 ビクトル・ユゴーが「世界で一番美しい広場」と言ったという「グラン・プラス(大広場)」は、夜のライトアップがすでに始まっており、見事な美しさ。ここから少し北へ入った細い路地が、観光客向けのレストランが集まっているところである。右にも左にも魚介類を店頭に並べたレストランが並んでいて、客引きがすごい。客引きに「ハロー、ニーハオ、コンニチハ」などと声をかけられるといい気がしないのは、自分はフランス語しゃべれるんだぞという思い上がりがあるせいだろうか? とりあえず何語であれ、客引きを無視して一往復したあと、客引きのいない、そのため店頭に置いてあるメニューを落ち着いて吟味できる店に入る。昨夜ブルージュでムール貝を食べたとき、前菜にエビコロッケを取って以来、その日本的な食感のとりこになった南野は、ここでもエビコロッケをまず取ることにする。由希子は料理法を変えたムール貝。エティエンヌはベルギー名物のチキンのクリームシチューのようなもの。南野と美帆はメインとして魚介類のパエリアを分け合うことにする。父親がギター、息子がバイオリンという組み合わせの流しの音楽家(?)が入ってきて、この7,8歳の「息子バイオリニスト」はたしかに可愛いものの、肝心のバイオリンが下手で、下手なバイオリンというのは、数ある楽器のうちでも、もっとも不愉快なものの一つではないかと思わせられるほどだった。食後、街を散歩しながら何軒かのバーをはしごして、門限に間に合うようにユースホステルに戻る。

 

2000.2.13.(日)

 ブリュッセルのユースホステルの朝食は午前9時まで。4人とも起床したのが午前9時だった。チェックアウトしたあと、グラン・プラスの近くにある「マヌケン(Manneken)」というワッフルなどの軽食を出すレストランで朝食。我が女性陣によると、このお店、日本(神戸?)にも出店していて有名らしい。ワッフルにもいろいろな食べ方があるようで、美帆はバターを載せたもの、由希子はシャンティイーという生クリームとアイスクリームを載せたもの、エティエンヌは砂糖の粉だけという一番シンプルなものを注文する。南野はまたしてもオムレツ。その後、まず「小便小僧」(写真をアップしました)を目指す。有名なブリュッセルのマスコット的人形だが、なぜか、10年前ブリュッセルにもやってきた南野は、これを見た記憶がない。というわけで、今回が初めてということになる。この「小便小僧」の前で、由希子は偶然、パリの語学学校の知り合いという、ブラジル人の一行に遭遇していた。彼らはこのあと、ちょうど我々とは逆に、ブルージュを目指すらしい。さて、この小便小僧は古いもので、裸ではかわいそう、と世界中から民族衣装が送られるなど、多くの人から愛されているようだが、1987年に少し離れたところに造られた「小便少女」は、物議をかもしたらしい。我々も見に行ったが、日本の和式便所で用を足すようなポジションで女の子がこちらを向いて座っているのである。小便小僧とは違って、かわいいねえ、と言ってみんなで笑える代物ではないような気がした。

 その後「聖ミッシェル大聖堂」という名のカテドラルを見学する。日曜日なのでミサが行われており、奥の内陣の方は見ることができず。さてこれからどうしようか、ということになり、ブリュッセル見学を続けるか、他の街へ行ってみるか、という二案で意見が分かれる。歴史的建造物や見所が、それと全く関係のない近代的高層建築物と混じり合っていて、おまけに「地上げ」にあって解体を待っているかのような無住の廃墟や工事現場などが散在しているブリュッセルは、前回来たときにもそう感じたのだが、どうも好きになれない。歩いているだけで楽しい、という街にはどうも思えないのである。歩き疲れてもいたし、車に戻ってゲント(Gent)へ戻ることにする。戻る、というのは、ゲントはブルージュとブリュッセルの間に位置しているから。

 午後2時頃に到着し、まず昼食を取る。さて、ゲントは南野も初めてである。10年前、ブルージュをヨーロッパ大陸最初の訪問地にした南野と堺本は、その後ゲントを経由してブリュッセルに行く予定だったのだが、ブルージュに来る前のドーバー海峡越えのフェリーで風邪を引いたらしく、南野はブルージュで一日寝込んでしまった。初日はカルメル会訪問などをしていたし、あまり市内観光もできなかったので、ブルージュを離れ、ゲントに向かう日になって、南野は堺本と別れ、ブルージュに残って市内観光を一人ですることにした。南野がブルージュを観光しているあいだ、堺本はゲントを観光し、そしてその後ブリュッセル中央駅で再会する、ということにしたために、南野はゲントを飛ばしてブリュッセルに直行したように記憶している。

 さて、ブリュッセルではフランス語の看板がたくさんあったのに、ここゲントに来ると、まったくなくなってしまう。フラマン語はオランダ語に似ているそうで、少しオランダ語をかじったことのあるエティエンヌが頼りになる。ゲントの中心部はたいへん気に入った。まず中央に鐘楼があり、それを挟むようにカテドラルと大教会がある。こんな近くにどうして二つも教会があるのか、とみな不思議がっていた。市庁舎もたいへんきれいな建物だ。運河沿いには、ブルージュでもみたような、ギルドの館が建ち並んでおり、石畳の橋や道路とあいまって、実に雰囲気がいい。もう足はくたくたになっていたが、運河沿いをゆっくり散歩する。ベルギーはこれで最後になる、と女の子たちは手元に余ったベルギーフランを使い果たすため、またしてもチョコレート屋さんやケーキ屋さんへ。これ全部、彼女たちが食べるのだろうか? だとするとおそろしい。エティエンヌもチョコレートを買って上手にベルギーフランを使い果たしたが、南野は日本円にして2000円ほど余ってしまう。

 日も沈んできたので、そろそろパリへの帰途につくことにした。ゲントからフランスのリール(Lille)までは、高速道路であっという間だった。リールのすぐ南に、アラス(Arras)という街があり、ここにはエティエンヌのおじいさん夫婦が住んでいるそうで、エティエンヌも何度か来たことがあるらしい。きれいな広場があるというので、高速を降りて行ってみる。建物に囲まれた長方形の広場は、ブリュッセルのようだ。そのあとはひたすら高速を南へ南へと南野が運転し、パリには午後10時頃、無事到着。精算してみると、食事代の他には一人あたり400フラン、と非常に安上がりの旅行だった。

 

2000.2.17.(木)

 Cayla 教授のゼミでいよいよイスラエルの憲法状況を扱う部分が始まった。前にも書いた通り、これから4回にわたり、イスラエル人のロイが話すわけである。そのあとは南アフリカ憲法について4回、イタリア人のアンドレアが喋る。そしてその後の4回は南野が日本の憲法制定過程について話すことになっている。準備は・・・、なにもできていない。ロイはこんなにフランス語うまかったかな、と思わせるくらい流暢に、自由に、原稿も見ないで、とうとうと、そして堂々と喋っていた。内容で勝負するさ、などと思っていたのだが、内容もよく、教授のコメントもべた褒め調だった。気が重くなる。

 不安にかられて憂鬱な気分でバスに乗って自宅へ向かっていると、携帯電話が鳴った。Christophe Chabrot 君だった。クリストフは昨年の夏、エクサン・プロバンスで行われたフランス憲法学会総会で知り合った、南野とほぼ同い年の憲法研究者で、当時はモンペリエ大学に博士論文を提出した後で、助教授のポストを探している最中だった。新潟大学の山元教授がパリに留学しておられたとき、クリストフとはクラスメートだったらしく、それ以来、二人は人もうらやむほどの仲の良さである。それが縁で新潟や東京にも何度か行ったことがあるそうで、ほんの片言の日本語ができる。エクサン・プロバンスの学会に参加していた日本人に、きさくに話しかけてきてくれたのがきっかけで、その後もメールのやりとりをしたり、彼がパリに来たときに会ったり、また昨年12月のストラスブールでの日仏公法セミナーでも再会したり、とそれなりに付き合いが続いていた。先頃、彼はようやく「失業状態」(?)を脱して、リヨン第二大学の助教授に採用されたそうだ。地方分権の専門家で、今日は関連する研究会がパリで行われていたため、リヨンからやってきたのだそうだ。早速バスを乗り換え、一緒に夕食を取ることにした。

 インターネットでみつけたというリヨンのアパートが相当気に入っているようだ。60平米で2900フランというから信じられないほどの安さ。南野のアパートは70平米で6000フランもする。パリは特別とはいえ、こんなにも違うものかと驚かされる。部屋の間取り図まで書いて、窓がたくさんあって日が一日中入るだの、フローリングの床が気持ちいいだの、リヨンのど真ん中でどこへ行くにも、なにをするにも大変便利だの、と、とにかくすごく興奮していた。南野もそろそろ引越しをしたくなってしまう。ところで、ストラスブールの日仏公法セミナーで会議の通訳をしてくれた日仏ハーフ(日蘭ハーフだったか?)という大変美人の姉妹がいて、そのお姉さんの方がパリに住んでいる。抜け目のないフランス男性で(も)あるクリストフは、ちゃんと彼女のパリの連絡先を貰っていて、彼女も誘ってみようか、とレストランに着くなり早速電話をかけていた。残念ながら留守電になっており、南野と一緒だから来ないかとメッセージを残していた。結局彼女から電話はかかってこず、クリストフは、自分一人だったらきっと彼女は電話をしてきてくれたに違いない、と悔しそうだった。幸せな人だ。

 クリストフについてこのような記述だけでやめてしまうと、彼の名誉にも、彼を助教授に採用したリヨン大学の名誉にも傷が付きそうなので(彼はこの日本語を読めないけれど、親友の山元教授が「報告」なさらないとも限らないから・・!)、もう少し続ける。彼の博士論文の指導教授は、以前いただいた年賀状が全く読めないというふうに紹介した、Dominique Rousseau 教授。この教授は日本でもよく知られている人で、とくにその憲法裁判制度に関する著書などは日仏両国で広く読まれている(はずである)。フランスの憲法院は、日本やアメリカの最高裁判所のような少数意見制度を採り入れておらず、判決はいつも、無署名で下される。日本などの場合には、裁判官の多数意見はこれこれで、よってこのように判決するが、何々裁判官の反対意見はかくかくしかじか、という風に公表されるけれども、フランスの場合は実際には9名の憲法院判事の間で判断が分かれていたとしても、それが決して表面には出て来ないわけである。さて、このような制度に対しては、数年前に議会で改正提案がなされたものの、結局実現せずに来ているという事情があって、Rousseau 教授は、比較憲法裁判制度の専門家として、最近とくに、フランスでも少数意見制度を導入するべきだと主張している。憲法学界および政治の世界でもまだまだ多数派にはなっていない意見だけれども、我々日本人からすれば、少数意見制度がない、ということの方がむしろ奇異に思われるかも知れない。ところが南野は、今のフランス憲法院には、少数意見制度はうまく適合しないだろうと考えていて、「 Rousseau 説」が採り入れられるためには他にいろいろと憲法院の制度を改革しなければならないと思っている。Rousseau 教授の「お弟子さん」の意見やいかに、ということで、まじめな議論もたくさんした。結局南野もクリストフも、少数意見制度にはいい点も悪い点もあるね、というきわめて平凡な結論では一致するのだけれど、さすがにお弟子さんらしく、Rousseau 教授の主張するとおりに、少数意見制度を採り入れたほうが、判決の形成過程が透明になり、情報公開に資し、それゆえデモクラシーに適合的だというクリストフの考えは、「違憲審査と民主制」というテーマでのトロペール教授の授業に先日出たばかりの南野には、説得的なものとは思えなかった。

 博士論文を提出して法学博士号を取得したあと、彼は「失業中」だったと上に書いたが、実際その頃彼が持ち歩いていた履歴書には、現在の職業として「失業者」とまじめに書いてあった。お金がない、お金がない、と言っていたから、リヨン大学に就職できて、本当に幸せそうだった。数十人の学生を相手に講義をするということの楽しさも熱く語ってくれた。博士論文を書き終えたのとまだ書き始めてもいないのとでは、おそらく天と地ほどの差があるが、お金がなく、失業的状態(?)にあるという点では、今の南野もかつてのクリストフと同じ。引越もしたばかりで、講義も始めたばかりの彼の今の生活が、本当に羨ましくて仕方なかった。南野は今年の秋から東大に復学する予定だけれど、早く博士論文を書いて就職したいー! とつくづく思わされた。ということで、彼が博士論文を書いていたころの体験談も聞かせてもらった。乗りに乗ったある二ヶ月ほどの時期は、一日18時間も部屋にこもって執筆していたとか。締め切りが迫っているという危機意識ではなくて、書かなければだめなんだという危機意識をもつ瞬間が必要だという、彼の生の体験から出たのであろうアドバイスは、すとんと南野の腹に落ちたような気がする。この他にもいろいろな経験を聞かせてくれた。現在の彼の幸せぶりとあいまって、今日のクリストフは、実にたくみに、南野にもっと勉強せい! とハッパをかけてくれた気がする。まことに有意義なひとときだった。通訳の美女が来てくれなかったことを、南野はまったく悔やんでいない(だってクリストフ、最後に彼女の連絡先をくれたもん!)。

 

2000.2.24.(木)

 Cayla 教授のゼミ、イスラエルの二回目。相変わらずロイのフランス語は冴えている。今日は、前回のイスラエル独立宣言から憲法制定議会にいたる話を受けて、しかし憲法制定議会は憲法を制定することを止め、「基本法」というものを順次制定し、1994年に11本目の基本法が制定されて・・・という話。どうも変な法律で、「本法は、本法に・・・の理念を確固たるものとして植え付けることを目的とする」という自己言及(auto-reference)がある、ということを取り上げて、法における自己言及という難しい話を展開していた。なんだかついていけない・・・。先週同様、またしても憂鬱な気分になる。

 しかし今日は、クリストフの電話ではなく、すでに約束済みの待ち合わせがあった。武田君と一ヶ月ぶりの夕食である。武田氏は、南野の法学部時代の同期で、現在通産省から在外研究員という資格で派遣され、パリ第一大学およびパリ政治学院で勉強をしている、大変に頭のきれる、おそらく将来きわめて有望な若手官僚である。昨年の夏からフランスにやってきていて、当初はパリでは日本料理は食べない、と宣言していたのだけれど、最近では改説したらしく、今日は武田君の方から日本食はどうかと誘ってくれた。とっくにフランス料理一筋で生きていくという主義を放棄している南野は、大賛成。Cayla 教授のゼミがモンパルナスに近い、ノートルダム・デ・シャン(Notre-Dame des Champs)という駅の近くで行われていたため、モンパルナスまで歩き、「徳川」という日本料理屋へ。モンパルナス地区は、日本人店員が一人もいない日本料理屋が多くあって、ここもそのうちの一つ。以前、武田君のことをこのページで「大食いかもしれない」と書いたせいかどうかは知らないが、今日は彼は質素に「焼き鳥セットメニュー」だけにしていた。南野は「ちらし寿司セット」(120フラン)をとる。どうもパリの「にせ日本料理屋」でとるちらし寿司は、南野が慣れ親しんできたちらし寿司と違う。南野家では、ちらし寿司というと、寿司飯に卵焼きの千切りやかんぴょうなどが混ざったものを言うのだけれど、パリではご飯の上に刺身が乗っかったもの(日本で言う「鉄火丼」の、マグロのかわりにマグロだけでなく鮭など他の魚も乗っているものを想像していただきたい)が出てくる。刺身を準備する手間とお金を惜しんだ南野家のちらし寿司が偽物なのか、パリのちらし寿司が偽物なのか、未だに南野は真相を知らない。もしかしたら、こうしてHP上で家族の恥をさらしてしまっているのかも知れない。

 さて、通産省の頭脳としてWTO(世界貿易機構)などの場でハードな交渉を繰り返してきた武田君は、実に弁の立つ人である。通産行政については全く無知の南野は、いつも彼の話を興味深く聞かせて貰っている。また、彼は幕末の志士のように日本という国の現状や将来を憂いていて、南野の専攻である憲法学というのも国の根本にかかわる法制度を対象とする学問だから、共通の話題にも事欠かない。そういうわけで彼と話し出すといつも時間があっという間に過ぎてしまう。

 彼は南野と同じく、樋口ゼミのゼミ生であった人であるが、同じゼミ出身でどうしてこうも違ってしまうかな、と思うほどに、南野とは意見があわない。「アンチナショナリスト・ナショナリスト」をもって自任する南野にとっては、彼の見解はいつもながら賛同できない点ばかり。フランスの英雄ド・ゴール将軍は狡猾な卑怯者だ、という点だけは一致したように記憶しているが(ちなみにこの点はいつも南野とエティエンヌが一致できない点)。

 あっという間に食事はなくなり、寿司と焼き鳥の後だけれどもフランス流をきどって(?)カフェを飲み、その後モンパルナスの駅前のバーでビールを飲みながら話しを続ける。午前二時頃になって、バーのお兄さんに閉店ですと言われてしまう。それほどに舌戦は熱く盛り上がっていたというわけ。その後武田君が南野の好きな遠藤周作の小説「留学」(新潮文庫)を手元に持っているというので、歩いてすぐの彼のアパートにお邪魔して貸して貰い、タクシーで帰宅。パリ地区のスキーバカンスも終わっているため、午前3時の街中はひっそり静まりかえっている。タクシーの運ちゃんは「砂漠だ」と言っていた。昨年末の紅白歌合戦で、久しぶりに前川清が歌った「東京砂漠」という歌があるが、ああいうたとえ方をパリでもするのか、と可笑しかった。あっという間に帰宅。料金は29フラン。バーのビールよりも安い。武田君との激論(?)は、いつも通り、大変楽しかった。もうすぐ共通の恩師、樋口教授がパリに来られるから、先生を囲んで第二ラウンドができればいいのにな、と思う。

 

2000.2.25.(金)

 やはり南野家のちらし寿司が、手間と材料をケチった偽物だったようだ。東京のある先生から、ちらし寿司というのは、「すし飯の上に、刺身類と錦糸卵、田麩などをのせた物ではないでしょうか」というメールをいただいた。ただ、広辞苑では「野菜や魚介などの具を酢飯の上に体裁よく並べた鮨。また、具をまぜたものもいう。五目鮨。起し鮨。ばら鮨。」と説明されているそうだ。具をまぜたものも、ちらし寿司と言っていいのだ。よかった。

 夜、モンパルナスの映画館で黒沢清の新作「License to live」を観る(映画情報参照)。

 

2000.2.26.(土)

 ちらし寿司の話を引きずりすぎるのもなんだが、今日もまた、ちらし寿司を食べた。今日のちらし寿司は、南野家風の、具をまぜたものだった。今月末で日本へ帰国してしまう美帆が、最後に何人か友人を呼んでパーティーを開いたのだが、そこでふるまわれた料理がちらし寿司だったのだ。すでにアパートを引き払ってしまい友人宅を転々としているため、場所を貸して欲しいということで、会場は我が家。レミ、アドリアン、エティエンヌ、美帆、瑞香(みずか)、そして南野の6人が参加者で、エティエンヌ以外はみな美帆を通じて南野と知り合った人たち。瑞香は半年以上前に日本に帰国していたのが、今回大学の卒業旅行とかでパリにやってきたらしく、実に久しぶり。レミとアドリアンと再会するのももう何ヶ月ぶりだろうか。「すし太郎」というちらし寿司の素のようなものを利用して美帆が作ったちらし寿司もおいしく、楽しかった。ただ、今日は他にも誘いが重なってしまい、Luc から誘われたパーティーには参加できず、Marc から誘われたアパート引越記念のお披露目パーティーの方は、南野のアパートでのパーティーを一時抜け出して、ほんの少し顔を出すだけしかできなかったのが、少し残念。皆が帰ったあと、瑞香が日本から持って来てくれた、南野の大好きなアメリカ映画「オーメン」のビデオを明け方まで一人で観る。

 

2000.2.27.(日)

 瑞香とレ・アールのにせ日本料理屋「ととや」(レストラン情報参照)で夕食。実は彼女、南野のHPのちょうど900人目の訪問者になった人で、これまでこういうキリの良い数字になった人には、なにがしかの記念品を考えて、しかしいちいちプレゼントする余裕はないから、そう簡単には来られないだろうと見越して、パリに来て下さったらお渡しします、ということにしていたのだが、彼女は運良くか悪くか、大学の卒業旅行で友人たちと一緒に本当にパリに来てしまったのだ。仕方なく(?)「ととや」で鉄火巻(だけ)をご馳走するということにしていたところ、昨夜我が家に来たときに、本当にご馳走してくれるんでしょうね、と念をおされてしまった。南野は、例によって鉄火巻やとんかつを食べる。そういうわけで、南野、ちゃんと記念品を贈呈しております。

 

2000.2.28.(月)

 日本食づいた毎日だ。今日もとんかつを食べた。京都にいた頃はそんなにとんかつが好きだったわけでもないが、大学入試のために上京し、「勝つぞ」という縁起をかついでとんかつを食べてから、好物の一つになった。南野の父親に言わせると、東京のとんかつはおいしいのだそうだ。さて今日は、明日日本へ帰国してしまう由希子が、最後になにか食事を作ってくれるというので、とんかつをリクエストしたというわけ。フランス料理・菓子を勉強していたから、とんかつなんて自信ないわと言いながら作ってくれた彼女のとんかつは、実においしく、しかも日本のトンカツソースも持ってきてくれたため、南野は大満足。作る手順を観察させて貰ったが、以外に簡単そうだったので、今度南野も挑戦することにした。それで近々パリにいらっしゃる予定の早坂禧子先生に、あつかましくもお土産として「パン粉」を頼んでしまった。トンカツソースも頼めばよかったかな。

 

2000.2.29.(火)

 由希子をシャルル・ド・ゴール空港まで送る。いよいよ日本へ帰ってしまう。悲しい。ところで、二年もパリに住んだ後での帰国は大変そうだ。パリにはクロネコヤマトや日通の支店があるが、荷物もたくさんになると、郵便局よりもこういう会社を利用する方が安上がりなのだそうで、彼女はヤマト運輸の国際宅急便を利用したらしい。そんなに荷物持ちだったかなと思ったのだが、なんと30キロの段ボール10箱というコースを選んだという。それでも日通よりは安かったのよ、と言うのだが、5000フラン。しかも、当然船便である。彼女よりも明らかに荷物の多いであろう自分の引越を想像し、南野は不安になる。フランスの引越業者に頼んで、自分で税関手続などをすれば、少しは安くなるのだろうか。横浜港まで自分で荷物を取りに行くことになるのかな。これから検討せねば。空港で、由希子と一緒に帰国する美帆と落ち合い、大韓航空での出発まで、カフェで時間をつぶす。恋人との辛い別れをしてきたせいか、美帆はえらく泣きはらした顔をしている。由希子の方は出発の直前までニコニコしていたのだが、いざ見送り人の入れない場所で別れる段になり、ついに泣いてしまう。それにつられて美帆も。まあ、また会えるさ、日本で、パリで。

 

 

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主な内容
旧・個人的ニュース

学士院研究会報告顛末記、ブルターニュ週末旅行、オリヴィエ誕生日パーティーなど)

(ステファン誕生日パーティー、ストラスブール日仏公法セミナー、ブルジュ・ヌヴェール週末旅行、大晦日仮装パーティーなど)

(元旦、武田・岩月君、EHESSセミナー、大村先生宅、伊藤先生、Cayla 先生宅など)

2000年2月1日〜29日分

(スト、岡田先生、ベルギー週末旅行、クリストフ、武田君、瑞香来訪、美帆・由希子帰国など)

(Mel Madsen 氏来訪、辛い研究会、樋口先生、ススム来訪、灰の水曜日、早坂先生、皮膚・性病科、健太郎来訪、ニース珍道中記など)

(カレーパーティー、大村先生宅大嶽先生宅、復活徹夜祭、アントニー来泊、緑の桜の謎、花沢夫妻来訪など)

アムステルダム週末旅行日本シリーズ参議院調査団通訳、多恵子一行来訪など)

南野邸お茶会、ルカ洗礼式、ローラン・ギャロス、子どもモーツァルト、イタリア旅行、樋口先生、音楽祭り、研究会「違憲審査制の起源」など)

(日本人の集い、フランソワ・フランソワーズ夫妻宅、フレデリック誕生日パーティー、モニックさん・彩子ちゃん来訪、北欧旅行など)

北欧旅行続き、ゲオルギ来訪、玲子兄・藤田君来訪、オリヴィエ4号来訪、色川君来訪、ピアノ片付けなど)

姉・奥様来訪、日本へ帰国、東京でアパート探し、再びパリ行など)

(誕生日パーティ、Troper 教授主催研究会、Cayla 教授と夕食、日本へ帰国など)

(花垣・糸ちゃん邸、スマップコンサート、フランス憲法研究会、憲法理論研究会など)

(洛星東京の集い、東大17組クラス会、パリ、ウィーン、ブラティスラヴァなど。)

(エティエンヌ来日、広島・山口旅行ボー教授来日、法学部学習相談室のセミナーなど)

長野旅行、パリで国際憲法学会など)

新・個人的ニュース

リール大学で集中講義のため渡仏、興津君・西島さん・石上さん・ダヴィッド・リュック・ニコラと再会など)

(リール大学での講義スタート、武田君・タッドと再会、ヒレルと対面、芥川・安倍・荒木・柿原来仏、モンサンミッシェル、トロペール教授と昼食、浜尾君来仏、ヤニック・エティエンヌ・エレーヌと再会、復活祭パーティなど)

パリ行政控訴院で講演コンセイユ・デタ評定官と面談リール大学最終講義、日本へ帰国)

 

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