個人的ニュース 

2000年3月2日〜3月31日分

 

2000.3.2.(木)

 2月後半から4月上旬にかけては、夏休みと並んで毎年来客が多い。今日はアメリカ・ヴァージニア州から、Mel Madsen 氏が到着。彼はエティエンヌがアメリカでホームスティをしていたときのホストファーザーで、今年60歳になるとか。奥さんを病気で先年なくされたあと、子供さんも独立し、仕事も引退して、今は悠々自適の身らしい。エティエンヌは大のアメリカ好きで、毎年必ず一回はアメリカへ行くことにしているが、行くたびにメルと会っているらしい。メルも同様にしょっちゅうパリにやってきて、エティエンヌやその家族に歓迎されている。今日から三日間、我が家に泊まり、その後ホテルで過ごし、また週末になったら我が家に泊まるということになっているらしい。迷惑というわけではないが、年々南野の英会話力は落ちているし、法律家でも神父さんでもない普通の60歳のおじさんととくに共通の話題があるわけでもない。また、自分の友人なのだから自分でしっかり面倒みてくれるのなら不満もないのだけれど、エティエンヌは平日は仕事で家にいない。南野はというと、木曜日は Cayla 教授のゼミがあるため、図書館へ行かずに一日自宅にいるから、エティエンヌは、メルが着いたらよろしくね、の一言でとっとと出勤。よろしくね、と言われてもなあ。10時半ごろ、メルがひょっこり現れた。午後に着くものとばかり思っていたので驚く。昨年、メルは都合がつかずにパリに来られなかったから、二年ぶりの再会ということになる。そして南野が英語を話したのは、昨年夏のロッテルダムの国際憲法学会以来。決して嫌みで言うのではないが、英語を話しているつもりなのに、ついフランス語の単語が出てきたりして、南野の両親以上にフランス語のできないメルに変な顔をされてしまう。つらい。着いたばかりで疲れているからちょっと昼寝をするとか言うので、南野も出かけることにした。

 シャンゼリゼ大通りから歩いて5分ほどのところにある、在フランス日本大使館・領事館へ行った。実はここが南野の隠れた息抜きの場所だ、などと言えるほどのコネがあるわけではなくて、在外投票の事務手続きに行ったのである。一昨年公職選挙法が改正されて、海外で生活する日本人も、要件を満たせば国政選挙の比例代表選挙区の選挙権を与えられることになった。ちなみに、選挙権・被選挙権は国民にではなく住民に与えられるべきだと考えている南野は、在外投票制度に必ずしも賛成というわけではないのだけれど、まあ、まずは国民から選挙権者の範囲を拡大しましょう、ということなのだからと言い聞かせて、機会があればこの比例区だけという不完全な選挙権を行使しようと思っている。先日武田君と会った際に、彼がもう手続を済ませたと言っていたのを聞いて思い出したのだが、パリへ来る前の最終住所地である豊島区の選挙管理委員会に書類が送られて、その後同委員会から手続完了の通知が来るまでに約二ヶ月ほどかかるとのこと。衆議院の解散が5月に行われたら、もしかしたら間に合わないかもしれないし、解散がサミット以降にのびれば、もう南野はパリにいないかもしれない。

 領事館での手続はパスポートを見せて書類に記入するだけという簡単なもので、あっという間に終わる。シャンゼリゼのサンドイッチ屋さんで昼食をとり、近くの日本人会へ行く。シャンゼリゼの一等地、巨大なアパートの5階にある日本人会は、語学講座やシャンソン講座などをやっていて、駐在員の奥様方のたまり場みたいなところがある。南野が建物に入ったときも、ちょうどなにかの会合が終わったあとらしく、20人くらいのおばさんがエレベーターの前にどっと溢れていた。かしましい、とはこのことだ。さて、今日南野が日本人会へ来たのは、シャンソンを習うためではなく、同会の図書室でちょっと時間をつぶすため。図書室といっても、たいしたものではなく、3人も集まればもう一杯になってしまうような小さなテーブルの置かれた5畳ほどの部屋に、おそらくパリを離れる日本人が寄付していったのであろう、文庫本などがぎっしりと置かれている。南野にとってのメリットは、朝日・毎日・読売各紙の国際衛星版がおいてあること。以前は週刊誌もあったのだが、今日はなかった。一週間分の三紙にざっと目を通したあと、ゼミまでにはまだだいぶん時間があるので、いったん帰宅することにした。

 一体ゼミは何時から始まるのかとお思いかもしれないが、午後6時である。Cayla 教授は完全な夜型人間らしく、いつも学生に夜中の3時までなら電話してもよい、そのかわり、午前中はなるべく避けてくれ、と言っている。それでかどうかは知らないが、彼のゼミは南野が通っているここ3年、毎回午後6時スタートで8時終了。フランス人は朝が早いという印象を南野は持っているけれど、この点だけは、Cayla 教授、「典型的なフランス人」ではないようだ。ロイ君のあいかわらずのすばらしい報告は、書けばまた憂鬱になるから、もう書かない。ゼミの後、エティエンヌとメルと一緒に、アレジア近くのフランス・イタリア料理のチェーン店、ビストロ・ロマン(Bistro Romain)で夕食。

 

2000.3.3.(金)

 メルと一緒にアレジア駅まで行き、そこで別れて南野はバスに乗り、パンテオンへ。パリ第二大学で行われている研究会に参加するためだ。有名な法哲学者 Michel Villey の名を冠した研究所(Institut Villey)があり、よく法哲学関係の研究会が開かれているのだが、今日の研究会もその一つ。報告者の一人、Christophe Grzegorczyk という、どう読んでいいのかわからないような名前の教授から連絡を貰って知った。ポーランド出身の同教授は、ナンテールでも授業を担当しており、トロペール教授のDEAでは「法論理学」担当で、二年前、南野の試験答案に見事落第点を付けてくれた人である。とてもなまりのきついフランス語を話す人で、再試験は口述試験だったので、大変苦労したのを覚えている。ポーランド人と日本人がけったいなフランス語で法論理学の問答をするというのも珍妙で、あきらめたのか、教授はこの再試験ではちゃんと及第点をくれた。ところで、フランス人は泥酔状態を、「ポーランド人のように酔っぱらっている(etre soul comme un Polonais)」と表現するが、学年末にクラスメートのアパートで打ち上げパーティーを行ったとき、この Grzegorczyk 教授も来られ、この言い回しが当を得ていることを実感したのを覚えている。南野が帰ったあとも、彼の飲酒は止まるところをしらず、若い女性教授に、自分の車で家まで送ると、しつこくしつこく言い寄っていたそうである。自転車で来ているから、と丁寧にこの女性教授が断ると、いやなに、心配はご無用、自転車は僕の車のトランクに入れればいいから、と言っていたそうだ。

 さて、研究会場に少し遅れて入った南野は、ただ一つ開いていた席に周囲を確かめずに座った。ふと気がついたら左に座っているのはこの研究所の所長も務める、パリ第二大学の Stephane Rials 教授。超がつくほどの権威主義者と噂されている人で、南野も面識はない。彼を知る学生や先生などで、これまで彼のことをいい人だよと言った人に南野は出会ったことがない。フランス語は相手との上下関係や心理的な距離関係で、英語の you にあたる二人称を vous (あなた)と tu (きみ・おまえ)という風に使い分けるが、この教授は、奥さんや子供、そして飼っている犬にまで敬称の vous を使って話していると聞いたことがある(普通はもちろん、親子・夫婦では tu を使う)。さらに真夏でもなぜか手袋をしており、一つのトレードマークとなっているくらいである。ようするに、昔の貴族を演じている節がある、そういう人である。

 日本での研究会では、相手の話をききながらメモをとらない人が多いが、フランスでは多くの人がきちんとノートをとりながら人の話を聞く。そして日本では隣の人のノートをのぞき込むということはあまりしないが、フランス人は結構のぞく。くだらないメモをとったり、スペルミスをしたりして、この恐ろしい Rials 教授にアホな奴と思われては嫌だな、などと思うと、全くメモが取れなくなってしまった。仕方がないので、こういう場合の必殺兵器である日本語でノートを取ることにした。こうすれば、相手は南野が何を書いても内容がわからないだろう。今日のテーマは ordre juridique という概念について。普通、「法秩序」という風に訳されるが、ordre には命令・指令という意味もあって、そうだとすると、「法的な命令」ということになる。法秩序と法的命令では、日本語の意味するものがまるで違うものになりそうだが、フランス語では同じ言葉。内容が極端に難しかったのと、左側の席からのプレッシャーとで、南野はもうなにがなんだかわからなくなってしまい、日本語でメモを取ることもできなくなってしまった。仕方なく、会場に来ている有名教授たちの名前を漢字に直して書いたりしながら、メモを取っている風を装う。

 フランスに来てもう3年目になるというのに、ほんとうに情けない限りである。外国語でのコミュニケーション能力には、日々の着実な進歩というのが果たしてあるのだろうか。今日は自分のフランス語、なかなか上手かったな、と思える日もあれば、反対にまるでだめだった、という辛い日もある。そしてこの辛い日が徐々に少なくなっていっているのであれば、おそらく自分のフランス語も進歩しているのだろう、ということが言えるかもしれないが、どうも必ずしもそんな気がしない。今日のように、まったくだめだという日がいまだにしょっちゅうあるのだから。Grzegorczyk 教授の名前はさすがに漢字にならないなあ、片仮名という便利な道具を持たない中国人は苦労するに違いない、などと思いながら、一体自分は二年半もフランスに留学して、今なにをやっているのだろう、と心底情けなくなってしまった。気力もなくなり、完全に意気消沈してしまったので、午後の部には参加しないことにした。

 一人での昼食もなおさら辛いと思い、武田君、岩月君の携帯に電話をしてみる。岩月君が近くのキュジャス図書館にいたので、昼ご飯に付き合って貰うことにした。大学院の先輩の誘いは断れない、と律儀に考えてくれたのかは知らないが、勉強を中断して出てきてくれたので、リュクサンブール公園近くのカフェへ行く。溜息ばかりの南野との昼食では、岩月君も面白くなかったに違いない。申し訳ないことをしたと思う。その後、パンテオン近くの法律専門書店で、日本から頼まれていた本を探したりして帰宅。夜、ヴァージニアのメル宅にホームスティしていたもう一人のフランス人、Arnaud 君がやってきて、エティエンヌ、メルと一緒にアレジア近くのレストランで夕食。Arnaud は、明日から一週間、アルプスにスキーバカンスに行くとのこと。今、フランスはそういう季節である。

 

2000.3.4.(土)

 夕食を、メル、エティエンヌと3人でレ・アールのにぎやかなレストランで。その後近くのバーで、エティエンヌのエコール・ポリテクニーク以来の友人たちと合流し飲んでいたのだが、突然メルが先に帰ってしまった。バーにあふれるタバコの煙が耐えられなかったそうだ。さすがアメリカ人だ。我々のグループでの喫煙者は南野ただ一人だったのだが。さて、ポリテクニークの友人は憲兵隊に勤めている役人で、インターネット犯罪への対応を協議するG8の会合に参加するため、この一年間にすでに二度も日本へ行ったそうだ。今月ももう一度日本へ行く、と言っていた。福沢諭吉の一万円札を見せてもらったのがなつかしかった。日本のインターネット犯罪対策はG8各国のなかでも遅れているとかで、いろいろと興味深い話を聞かせてもらう。睡魔に勝てないと言って午前一時頃エティエンヌが帰ったあとも、南野はこの友人たちとバーの閉店(午前二時)まで居残る。そして深夜バスに乗って帰宅。そういえば、先日武田君とカフェで語り合っていたときも、閉店は午前二時だった。フランス人に聞くと、午前二時で閉店しなければならないという法律があるそうだ。もちろん例外的に遅くまでやっているバーもたくさんあるけれど。

 

2000.3.5.(日)

 樋口陽一先生に昼食をご馳走になる。先生は、パリ第二大学の「比較法センター」での日本法集中講義を主たる目的として、今朝パリに到着なさったばかり。同センターでは、毎年日本法の集中講義を行っており、二年前にも樋口先生が担当され、当時パリにおられた北川・長谷川・村田各先生にご一緒させていただいて、「パリで・日本法について・樋口先生が・フランス語で」、という恵まれた講義を聞かせていただいたのを思い出す。昨年度は、公法と私法に分割し、公法を辻村みよ子教授が、私法を北村一郎教授が担当された。そして今回は、公法を樋口先生、私法を北村先生が講義なさるとのこと。

 元老院(Senat)フランス学士院とのちょうど間あたりにある樋口先生のアパートは、実は南野が探しておいたもの。三週間ほど滞在なさるため、ホテルではなくアパート形式のものを、ということで、ちょっとした紆余曲折のあとこの物件にめぐりあった。これは絶対、先生に気に入って貰えるという自信があったのだけれど、果たしてその通りだったようで、一安心。しかしまだ部屋をご覧になっただけで、実際に生活されてはいないから、この先どういうことになるか、やや不明ではある。実際、昼食のあとこのアパートにお邪魔し、部屋の掃除をつづけているお姉さんを後目に、電気のスイッチはどこだとか、部屋においてあるラジオは使えるかなどとあれこれチェックしてみると、どうもある一方の壁際にあるコンセントが全部壊れているらしいことがわかったりと、すでに不安な要素は現れ始めているのである。

 これ以上、不都合を発見するときまずくなるかもしれないので(?)、お姉さんの掃除が終わったあと、南野も失礼することにする。今日のパリは久しぶりにきれいに晴れ、大の散歩日和だった。ここ二、三日降り続いた雨のため、水位が高くなったセーヌ河岸などを歩く。帰りに乗ったバスのなかで、偶然エティエンヌに会ったのは可笑しかった。メルをホテルまで連れていったあと、映画を見に行っていたらしい。ようやくメルのいなくなったアパートで、のんびりする。

 

2000.3.7.(火)

 ススムが東京から到着。二年前、彼がパリに語学研修に来ていたとき、友人の友人ということで知り合った人だ。上智大学の卒業も決まり、就職も決まったので二週間ほどヨーロッパにやってきたらしい。我が家に2,3日滞在したあと、モロッコへ砂漠を見に行くとか。南野も一緒に行きたくなるが、時間もお金もないから、今回は残念ながら無理だ。メルがいなくなったと思ったら、こんどはススム。ここんところの我が家はどうなっているのだろうか。しかし、日本人の24歳の男性は、アメリカ人の60歳の男性よりも大いに楽しい、ということで、南野は満足。

 ところで、南野のHPに近頃掲載した、「南野的手品」、なかなかの反響がある。フランス語ページにも掲載したのだが、多くの人がトリックを解いたぞというメールをくれた。京都の聖ヴィアトール修道会のラバディ神父(実はこの神父さん、手品が大好きで、卒業式の余興で大変上手な手品を披露して下さったのを覚えている)や、トゥルーズ大学のルエダ助教授などがわざわざメールを下さったのには驚いた。またなぜか、全く知らないカナダ在住の女性(だと思う)からもメールがあり、不思議だった。

 

2000.3.8.(水)

 久しぶりにナンテールへ行く。Riccardo Guastini 教授の集中講義に出席するため。彼はイタリアのジェノヴァ大学法学部の教授で、イタリアに精通しているトロペール教授と大変仲の良い人である。それが縁で、よくナンテールでセミナーや講義を担当されている。もちろん、フランス語はぺらぺらである。一昨年にも教授の集中講義がナンテールで行われており南野も出席したから、今回が南野にとっては二回目になる。南野がイタリア人に対して抱いているイメージからはおよそかけ離れた、大変物静かな風貌の痩せた紳士であるが、話してみるとやはりイタリア人だからなのか、大変陽気で、非常に感じの良い人である。二年前に参加した南野のこともよく覚えていて下さり、あんたは一生パリに住むつもりか、などとからかわれてしまった。いえいえ、この夏には帰ります。さて、今回の集中講義のテーマは「法源」。法源というのは、「法の淵源」の略だろうが、要するに、ふつう法と考えられているものが、いったい何から発生するのか、ということを議論するのが「法源論」である(日本では国会の制定した「法律」が法源の一つであることは疑いないが、裁判所の「判決」は法源といえるか、「慣習」はどうか、といった形で議論されている)。法源を論ずるためには、そもそも法とはなにかを論じなければならないのは当然で、それゆえ、法哲学の分野では、日本でも、イタリアでも、法源論は重要なトピックの一つである(フランスでは最近はあまり議論されていないのだけれども)。講義の内容も非常に面白いし、これまた南野がイタリア人に対して抱いているイメージからほど遠いのだが、彼のフランス語は非常にきれいな発音で聞き取りやすいので、さらに、トロペール教授のゼミが終わって以来会うことのなかった今年度の学生たちにも会えるから、あと3回、ナンテールに通おうと思っている。

 ところで、今日はカトリックの暦で「灰の水曜日(Mercredi des Cendres)」にあたる。この日から、「四旬節(Careme)」が始まるのだ。四旬節(しじゅんせつ)は、「復活祭(Paques)」(今年は4月23日)までの40日間を指し、この期間、キリストの受難を偲び、信者は食事や酒・タバコを減らしたり、いろいろなやり方で犠牲を行うべし、と教会法で定められている。ちなみに、日本でも有名なリオのカーニバルヴェネツィアの仮面舞踏会というのは、四旬節に入ると犠牲の生活が始まるから、その前に大いに飲み食いして踊りまくりましょう、というのがそもそもの発端のはずである。しかしリオのカーニバルをテレビなどで見ると、あんなに破廉恥騒ぎをするのであれば、むしろ四旬節などない方が犯される罪の数も減るのではないだろうか、などと南野は思ってしまうが。さて、灰の水曜日の儀式は、独特である。「人間は塵(=灰)でつくられ、死んだら灰に戻る」という、肉体的生命のむなしさを思い起こすため、一人一人の額に灰が塗られるのである。塗る、といっても、神父さんが灰の入った壺に指をいれ、その指で信者の額に十字架のサインをつけるという簡単なもので、教会を出る頃にはすっかり風に吹き飛ばされ(?)跡形もなくなっているが。

 南野のアパートの斜め向かいに、聖フランシスコ修道会のフランス管区本部修道院がある。ここで行われた灰の水曜日のミサに、南野も参加してきた。午後7時からのミサで、平日だとふだんは10人も参加者がいないのだが、今日はさすがに100人近く人が集まっていた。やはりこの点は、まだまだフランスもカトリック国なのだな、と思わされる。さて、灰の水曜日には、一日に十分な食事は一回しか摂ってはいけない、しかも動物の肉はだめ、という規則もあるのだが、カーニバルで前日に腹一杯肉料理を食べた人ならともかく、普通の人にとっては、なかなか守るのが難しい戒律かも知れない(だからこそ犠牲の意味があるのだが)。南野は今日、昼ご飯をススムと一緒に近くの中華料理屋でとった。すでに十分な量だったと思う。そして酢豚にはあきらかに動物の肉が入っていた・・・。晩ご飯は、メルがやってきて、料理を作ってくれた。エティエンヌの友人で、憲兵隊に勤めているエリックも招待されており、ススムと揃って合計5人。テキサス出身のメルの手料理はメキシコ風で、ソースにふんだんに肉のすり身が使われていたような・・・。メキシコ料理にはこれが一番と言われてビールもたくさん飲んだような気がする。ああ、また教会法を犯してしまった・・・。明日、代わりに食事を減らそう。それで赦されるかな? そういえば、エティエンヌもエリックもカトリックだったはずだが・・・。

 

2000.3.9.(木)

 Cayla 教授のゼミ。ようやくイスラエルが終わった。次回からイタリア人アンドレア担当の南アフリカが始まる予定だったが、教授が少し喋りたくなったらしく、1回か2回、繰り下げられることになった。延期は歓迎だ。南野担当の日本はまだ準備ができていないから。ゼミ後、我が家の近くのイタリア料理屋でススムと夕食。肉は食べないようにしたつもりだが、あっ! ハムって肉に入るのだろうか。

 

2000.3.13.(月)

 Mel Madsen 氏、ついにアメリカへ帰国。ススム、モロッコへ出発。そして早坂禧子先生、パリに到着。「南野旅行代理店」(?)は大忙し。まずススムをパリの南、オルリー空港まで送ったあと、パリの北、シャルル・ド・ゴール空港まで早坂先生をお出迎え。早坂先生は現在横浜桐蔭大学の教授だが、ながらく東大にいらっしゃったうえ、樋口先生の東北大学時代のおそらく最初の「教え子」の一人という縁もあり、樋口ゼミ生だった南野は学部時代から親しく指導していただいていた。例の「パン粉」のお土産も下さったし(とんかつソースも!)、ちょっと恥ずかしいとためらっておられたのだけれど、飛行機内で配られるスポーツ新聞などもちゃんと持ってきて下さった。お願いしておいた本、雑誌なども。ああ、感無量だ。嬉しくて仕方がない。パリは初めてという早坂先生を、夕方、少し案内しながらシテ島オデオンを散歩する。夕食は、同じ行政法専門だからかどうかはわからないが、以前、小早川教授にご馳走していただいたことのある、オデオンのイタリア料理屋でご馳走になる。時差ボケでお疲れに違いないところを、とにかく2年半ぶりということもあり、なつかしくて仕方がない南野に忍耐づよく付き合っていただき、あっという間に数時間が過ぎてしまう。実に楽しかった。帰宅したら、ススムから、モロッコのマラケシュという街に無事到着し、ホテルも見つけたと留守電が入っていた。

 

2000.3.14.(火)

 お昼前、早坂先生とパンテオン近くの交差点で待ち合わせをし、樋口先生のアパートへお邪魔する約束になっていた。南野のアパートからパンテオンまでは、サン・ミッシェル大通りをまっすぐ北へ北へと走るバス38番線で10分くらいの距離なのだが、デモ行進があったらしく、道路が封鎖されておりバスが走っていない。タクシーに乗りぐるっと遠回りして行くが、約束の時間に遅れてしまう。交差点の反対側でタクシーを降り、走って大通りを渡ると、なんと樋口先生の奥様もご一緒だった。パンテオン近くの本屋さんで偶然会われたらしく、一緒に待っていて下さったのだ。恐縮してしまう。午前中少し降った雨も上がり、リュクサンブール公園の近くを歩いて「樋口邸」へ。おそれていた不具合の発見も、キッチンの電灯が一つつかないというだけにとどまったようで、奥様も樋口先生も「豪邸」に満足しておられるようだった。一安心。近くのお店でフランス料理の総菜を奥様に買っていただき、昼食は樋口邸で。

 昼食後、早坂先生を旧オペラ座に案内する。外は相変わらず工事中ですっぽりビニールシートにおおわれているが、ご丁寧に日本語でも「オペラ座は工事中も上演・見学ともにおこなっています」と書いてある。南野は、すでに何度も入ったことがあるから、入場券売場の近くで早坂先生を一人待つことにした。なんとうかつにもそのまま寝てしまう。実は南野、昨夜帰宅してから、先生にお土産でいただいた日本語の新聞などをずっと明け方まで読んでいたのである。それで、くたくただった。その後いったん先生とお別れし、南野はアパートに戻って少し昼寝。夜、素敵なレストランで、樋口先生ご夫妻やご友人の方々と夕食。

 

2000.3.16.(木)

 朝一番に、アレジア駅近くの皮膚・性病科へ行く。ちょっとここでは書けないような病気にかかってしまった、というわけではなく、両頬にできたニキビがなかなか治らないから。さて、パリのお医者さんは、日本のように通りに大きな看板を出しているわけではなく、普通のアパートの一室でつつましく(?)開業している。アパートの入り口に、そこで営業している弁護士・公証人などとならんで小さな長方形のネームプレートが張り付けてあるだけである。そういえば、南野のアパートにも、歯医者さん、それから整体士のネームプレートが出ている。そういうわけで、どこにどういうお医者さんがいるかは、ふだん街を歩きながらチェックするか、あるいは電話帳・ミニテルで調べるしかない。評判がいいか悪いかなどは、近所づきあいのない外国では知りようがないから、とりあえず自宅に近いところ、というだけの理由で14区の皮膚科を探してみた。日本の内科にあたる一般医(medecin generaliste)だと、予約せずに直接行ってもいいところが多いようだが、皮膚科だとか歯科だとか、そういった専門医(medecin specialiste)の場合は、ネームプレートに書いてある番号に電話をし、予約を取るのがふつうである。実は南野のニキビ、かれこれ数ヶ月ほど前から出たり治ったりを繰り返しており、市販のニキビ薬でも一向に完治しないので、2月下旬、ついに皮膚科へ行ってみようと決心したのだが、その時点で電話をかけた何軒かの皮膚科のうち、一番早い予約がとれたのが今日のアレジアのお医者さん。二週間以上待たされたわけである。そんなに患者さんが多いとも思えないから、きっとこっちの開業医は毎日開業していないに違いない。

 住所をたよりに行ってみると、たくさんのお医者さんが入っているアパートに着いた。歯科や小児科・眼科・精神科などの他に、「足科」とでもいうのだろうか、足専門のお医者さんなども入っているようだ。受付のおばさんに名前を告げると、待合室に通される。雑誌などが置いてあるが、どうも皮膚・性病科に来て待合室の雑誌に手を触れる気にはならない。おとなしく待っていると背広姿の紳士が現れ、握手を求められる。彼がお医者さんだ。前に眼科へメガネの処方箋を貰いに行ったときもそうだったが、このお医者さんも白衣は着ていない。どうぞどうぞと廊下の突き当たりにある診察室に通される(こういう風に、医者自らが患者を待合室まで迎えにきてくれるというのは、日本と違って、ちょっと大げさだけれど感じのよいものだ)。ベッドとイス、お医者さんの机とパソコン、それから小さな洗面台があるだけで、壁に上品な絵が掛けてあったりして、日本の診察室とはだいぶん雰囲気が違う。まず住所や名前を聞かれ、それを彼が黙々とパソコンに打ち込んでいく。いつもそうなのだが、名前をフルネームで聞かれるのが一番つらい。姓はミナミノだから、これは非常に簡単である。M、I、N、A・・・と順番に綴りを言っていけば、まず間違って伝わることはない。問題は名の方で、シゲルというのは非常に通りが悪い。最初のS、H、Iはいいのだけれど、その続き、G、E、R、Uはまずわかって貰えない。南野はいまだにフランス語の「E」の発音と「U」の発音がうまく区別できないのである。これまでもエティエンヌになんども特訓をしてもらったことがあるけれど、やはりできない。今日も、あとでプリントアウトされた処方箋を見ると、見事に、SHIGURU と表記されていた。いやはや情けない。

 で、どうしました、とお医者さんが聞くので、頬のこのデキモノがなかなか治らないし、いつも同じ箇所に出てくるんです、と説明する。14、5歳のころ、吹き出物はよくありましたか、と質問される。中・高生時代はそんなにたくさん出なかったような気がします、と答える。どうも二年半前にフランスにやってきてからぶつぶつと出るようになったように思います、とも付け加えた。背中や胸にはどうですかと聞かれたので、全くありませんと答えると、ではベッドに横になって下さい、と言われる。顔のニキビを見てもらうのに、なんでベッドに横になるの? と思いながらも指示にしたがう。たぶんフランスだから靴は脱がなくていいんだろうな、などと思いながら。お医者さんはベッドに備え付けてある強烈なライト付き拡大鏡のようなものを南野の顔に近づけ、指でニキビを押したりつねったり。そして一言、「これはニキビですね」。医学的にはニキビとそうでない吹き出物の区別がいろいろあるのかもしれないが、南野にとってはそんなこと当たり前だろ、という感じの結論だ。しかし30歳近くになってニキビがでるとはなんたることか。大気汚染とか食事とかストレスとかが原因だとのこと。どれも思い当たるものばかりで、結局はっきりしたことはわからずじまい。ああ、日本に帰りたい。

 飲み薬と塗り薬を処方してもらい、二ヶ月後にもう一度来るように言われて終わり。これだけで280フラン。一般医は診察料も安く、ふつう全額が社会保障で返還されるが、専門医だと金額もまちまちで、たしか一定額までしか返還されないはず。貰った処方箋をもっていき、近くの薬局で薬を購入。これも200フランほどかかった。ただおそらく薬代は全額戻ってくるはずだ。それにしても、単なるニキビで一万円近くもかかってしまった。今後はバランスのとれた食事を摂るように心がけよう。しかし大気汚染とストレスは、なかなかどうしようもない気がする。

 夜、Cayla 教授ゼミに出席。今回は教授が話しをするはずだったのに、ロイ君もまだ話し足りないことがあったようで、イスラエルの「5回目」となった。それで次回こそは教授がまるまる一回話しをすることになりそうだ。こうして南野が担当する日本シリーズは、どんどん延期されていく。ありがたいことだ。いっそのこと、中止になってほしいくらいだ。ゼミ後、久しぶりに武田君と夕食。今回は二人とも疲れていたので、早めに切り上げ、メトロで帰宅。

 

2000.3.18.(土)

 エティエンヌ、スキーへ出発。一週間ほど、友人たちとアルプスへ行くそうだ。一応誘ってはくれたけれども、日本の山でも怖くてうまく滑れないのに、ましてや本物のアルプスでは滑れるはずがない。というわけで(それに授業もあることだし)、南野は一人お留守番。9時前、スイスへ向かうTGVが出発するリヨン駅までエティエンヌを車で送る。ちょうどそのあと、午前10時からソルボンヌで研究会があったから、そのままパンテオンまで行き、駐車スペースを探していたとき、なんとロラン・ファビウス元首相にでくわした。パンテオンの周囲の一角は、パンテオン広場(Place du Pantheon)という住所になっており、その15番地にファビウス元首相が住んでいるのは以前から知っていた。現在下院(国民議会)議長を務める彼の顔は、テレビでもしょっちゅう見ていたし、しかも15番地のアパートから出てきたから間違いない。土曜日なのに出勤するのだろうか。護衛もなしにたった一人で鞄をもってうろうろしていた。しばらくすると、曇りガラスで内側の見えないようになった車がすっと彼の前に停まり、助手席から大柄な男性がさっと降りて後部座席のドアを開け、ファビウス氏が素早く乗り込んだあと、どこかへ消えていった。さすがに下院議長がメトロで出勤するわけはないよな、と思う。ミーハーな南野はつい話しかけたくなるが、話すこともないし、しかも相手はフランス人なので、少し離れて見ていただけ。有名な政治家といえば、南野はかつて東大前の古本屋さんで不破哲三共産党委員長を見かけたことがあるが、このときは、握手してもらった。ファビウスにも、せめて握手だけでもしてもらえばよかったかな。しかし、してもらってどうするんだ。情けない。

 予定より少し遅れて10時半ごろから始まった研究会は、「ケルゼン・法秩序と主観的意思」というタイトルでトマス・ホッブズ研究センターが主催したもの。Otto Pfersmann 教授が話すというのでやってきたのだが、あいかわらず彼の報告は難解だった。実は南野、昨日から再び禁煙に挑戦しており、ニコチン切れのせいか、どうも集中力がなくなり、イライラしてしまい、午前中は調子がよくなかった。ナンテールから知り合いの学生たちも何人か来ており、一緒に昼食をとったのだが、ぶすっとしてしまい、あまり人と話す気にもならない。禁煙を始めるタイミングが悪かったようだ。みんなスパスパ煙草をすっているので、禁煙はまた来週から始めることにしようと、煙草を貰って吸ってしまう。そして再起を決して午後の研究会に出たのだが、法学者ではなく社会学者(?)の報告で、ちんぷんかんぷん。どうやらニコチン切れが原因ではなく、たんに南野のフランス語ないし社会科学系の理解能力に問題があるだけかもしれない。先日のいやな研究会と同様、今回も途中で帰ることにした。またしても憂鬱になる。

 前回憂鬱になったときは、岩月君を呼びだして救われたのだが、今回は、岩月君の方から電話をくれ救ってくれた。彼のかつての指導教授でもある、国際法の藤田久一教授がパリに来ておられるとかで、夕食に誘ってくれたのだ。藤田先生は東大を定年退官なさったあと、現在神戸大学で教えておられるが、南野も学部時代、先生の教科書で勉強し、先生の試験を受けて国際法の単位を貰っている。大学院に入ってからも、一部では伝説となっている(?)「藤田・大沼ゼミ」という超ハードなゼミに参加させて貰い、いろいろとご指導をいただいた。ある日、ゼミの途中で大沼先生の厳しいご指導が南野に入ったとき、すかさず、まあ彼は憲法専攻だから、といって南野をかばって下さったのが未だに忘れられない。ほんとうに優しい先生だったという思い出が残る、南野の大好きな先生の一人である。先生は南野と同じ京都出身で、いつも京都弁で話されるというのも、密かに南野が親近感を覚えている理由のもう一つである。南野も今夜は久しぶりに京都弁に戻った。

 岩月君はあまりお酒を飲まないので、彼と二人だけではワインのボトルが一本あけられない、という理由で南野を呼んで下さったのかもしれないが、とにかく南野にとっては、3、4年ぶりになつかしい先生にお目にかかれ、昼間の憂鬱もいっきょに吹き飛ぶほど、幸福な時間を過ごすことができた。先生と岩月君の国際法談義も興味深く聞かせてもらえ、いろいろと勉強になった。

 

2000.3.20.(月)

 パリの周囲はかつてぐるっと城壁に囲まれており、そこから放射線状にフランス各地へ続く街道が広がっていたそうだ。街道の出発点には巨大な門があり、たとえば南野の家の近くには、オルレアンへの出発点であるオルレアン門(Porte d'Orleans)というのがあったようで、現在でも界隈の名前としてそれが残っている。さて、今日の午後、パリの南西、ベルサイユ門(Porte de Versailles)へ行く。この地区には巨大な倉庫のような展示会場がいくつもあって、年中いろいろな催しが行われている(幕張メッセの「東京モーターショー」や「Apple Expo」のような)。現在、第二十回書籍見本市(Salon du livre)というのが開かれており、フランス中の出版社が大小さまざまなブースを出しており、著者サイン会なども行われている。この招待券をインターネット書店 Bol が送ってきてくれたので、行ってみたのである。法律の本もよく出しているフランス大学出版会(Presses universitaires de France)のブースも、もちろんある。とにかく巨大なので歩き疲れたが、いわばそれだけ巨大な書店をうろうろしているようなもので、とても楽しかった。イスラエルの書店のブースで、偶然ロイ君に会ったのには驚いた。残念ながら今年は日本のブースはなし。

 夜、樋口先生のアパートで「樋口ゼミ同窓会」。パリ在住の樋口ゼミOB・OGは、現在7、8人というところだが、そのうち都合のついた4人が集まった。午後7時半の食前酒から始まったのだけれど、南野を含む最後の三人が樋口邸を失礼したのはなんと午前3時! たまたま明日は夕方まで予定がないからゆっくりしていって良いという樋口先生のお言葉に甘えて、ちょっと飲み過ぎてしまった。そういえば、一昨年、同じように樋口先生のアパートにパリ在住の研究者や学生などが大勢集まり、遅くまで先生を囲んで飲み食いさせてもらったことがあるが、そのときもすごい数のワインの空き瓶が出たのを覚えている。一昨年は、樋口邸を失礼したあと、南野は不覚にも vomir してしまい(あえて日本語訳はつけません!)、それ以降、一部の先生方に「ヴォミール君」と呼ばれていたことがあった。今回も、先生を入れて合計5人だけだったのに、10本以上のボトルが空いたのではないだろうか。歴史は繰り返す、で、南野、またしてもヴォミールしてしまう。今回は、リュクサンブール公園前の大きな交差点で。パリ大学比較法センターでの集中講義を終えられたばかりでお疲れに違いない樋口先生には、遅くまでお付き合いいただき、たいへん申し訳ないことをしたと思う。しかし貴重な思い出になった。よく覚えていないのだけれども、武田君、高村君が我が家に泊まったようだ。

 

2000.3.22.(水)

 中学・高校の同級生だった健太郎、パリに到着。シンガポール航空でパリに着くのは早朝5時ということだったので、朝の苦手な南野のため、せめて9時以降までなんとか時間を潰してくれるように頼んでおいたのだが、建築家の健太郎、一昨年だったかに新築なった、シャルル・ド・ゴール空港第二ターミナルのホールFをじっくり観察してきてくれたそうで、10時頃、我が家に到着。4、5年ぶりの再会で大変なつかしい。新聞・雑誌・即席味噌汁など、たくさんのお土産にも感激。

 

2000.3.23.(木)

 朝、樋口先生にお別れの挨拶。次にお目にかかれるのは、パリではなく日本になるかもしれない。昼、ちょっと時間があったので、玲子と昼食。パンテオン近くの韓国料理屋「韓林」で焼き肉。ここは本格的な韓国料理を出す有名なところで、日本のガイドブックなどにも紹介されているらしく、行くと必ず日本人に会う。今日もフランス在住らしい日本人が何人かいた。夕方、Cayla 教授のゼミ。行ってみたら、休講掲示が張り出されていた。夜、ススムがモロッコより無事帰ってくる。日焼けして鼻の皮がむけている。砂漠で遊牧民のテントに寝泊まりしていたそうだ。面白い土産話をいろいろと聞かせてもらった。南野も、体力・気力のあるうちに一度行ってみたくなる。その後、健太郎・ススムと3人で、近所の Chez Zhou で中華料理の夕食。

 

2000.3.25.(土)

 朝、ススムがアンジェ(Angers)に出発。アンジェはフランス西部、「耐久レース」で有名なル・マン(Le Mans)と1598年のアンリ4世の勅令で有名なナント(Nantes)の中間にある、ロワール河沿いの小都市で、パリからTGVで一時間半くらいのところだろうか。南野は行ったことがない。ススムは今夜の飛行機でパリから日本に戻ることになっているのに、友人を訪ねるため、日帰りで行ってくるそうだ。すごい行動力。その後、健太郎が出発。北駅に着く友人と合流し、ユーロスターに乗ってロンドンへ行くそうだ。ススムが帰ってくるまでの間、洗濯をしたり、部屋を片づけたりして過ごす。夕方、アンジェから帰ってきたススムは大急ぎで荷造りを始めるが、どうも荷物に余裕があるようなので、南野の冬物のコートやいらない本などを詰めて貰う。日本から南野の実家に宅急便で送ってもらうのだ。そのお返しというわけで、空港までススムを送る。そのあと、スキーから戻ってきたエティエンヌをリヨン駅に出迎え。スキー焼けしたようだが、黒くはならず、赤くなっていた。やっぱり白人だ。一緒に帰ってきたエティエンヌの友人を順番に送り、12時頃帰宅。これでしばらく我が家も普通の状態に戻るはずだ。

 

2000.3.27.(月)

 近所のスーパーで買い物をしていたら、リンゴの隣に茶褐色の梨「長十郎」が売っていた。産地は韓国と書いてあったが、不思議なのはその名前が NASHI となっていたこと。韓国でもナシというのだろうか。この時期に梨というのも驚きだが、さらに驚いたのはその値段。他のリンゴはどれも1キロ14フランなのに、このナシだけ1キロ36フランもする。4個を選んではかりで量ったら、75フランにもなってしまった。これを最初で最後の買い物にしよう。さて、今夜はついにトンカツに挑戦。先日お土産にいただいた日本製のパン粉が活躍してくれたのか、大変な出来映えで、エティエンヌもおいしいおいしいと言ってくれた。日本風にキャベツの千切りを添えてみたが、どうもこういう食べ方はフランスではしないらしく、きれいにキャベツだけ残されてしまった。もっとも、「千切り」というにはほど遠い下手くそな切り方だったので、南野自身もなんだか大きな生キャベツをかじるウサギになった気分であったが。ともあれ、ご飯と味噌汁も添え、完全な日本の食卓になったため、南野は大満足。もちろん、デザートは長十郎。ああ、極楽極楽。

 

2000.3.28.(火)

 午後、ソルボンヌ前の書店PUF(フランス大学出版会)を覗く。カルチエ・ラタンの一等地にあるこの書店は、ついこの間、経営不振のために閉店・引越するという噂がながれ、学者たちの存続要望の署名運動などがあったと聞く。久しぶりに行ってみたのだけれど、えらく模様替えされており驚いた。以前はところ狭しと本棚が置いてあり、実際本を見るのにも少々窮屈を感じるほどだったのが、すっかり整理され、広いスペースが各階に確保されていた。当然本の数は少なくなったような気がするし、各階に大勢いた、詳しい知識を持った店員も若干減ったように見受けられた。学術書を出す専門書店の経営が厳しいのは洋の東西を問わず、といったところだろうか。

 夜、知り合いの日本人宅でベビーシッターのアルバイト。ベビーシッターというのは名ばかりで、お子さんはしっかりした小学生で、本当はなにもすることがないのだけれど、ご夫婦揃っておでかけの際に、一応念のためのお留守番ということでこれまでも何回かお邪魔したことがある。貧乏学生を援助するために声をかけてくださっているようなところもあり、実際、パリの普通のベビーシッターの相場からすると桁外れの礼金をいただいている。そのうえ奥さんのおいしい手料理も用意されており、お子さんが寝た後は静かに勉強していればよいという、すばらしい条件のアルバイト。いつも感謝してくださるが、感謝しているのはむしろ南野の方である。もっと頻繁に声がかかればなあ、などと思ってしまったりする。零時半ごろ帰宅すると、エティエンヌはすでに寝ていたようだ。本当に早く寝る人だとつくづく思う。朝3時までは電話して良いと言う Cayla 教授もフランス人、午前零時前には寝てしまうエティエンヌもフランス人である。

 

2000.3.30.(木)

 朝8時半、パリの東、バニョレー(Bagnolet)という街のホテルに、菊地さん、森田さんを迎えに行く。菊地さんは高校以来の南野の親友、敦雄のお母さんで、森田さんはその友人。京都から、格安パックツアーで「フランス一週間の旅」に来ておられた。今日からそのオプションツアーでニースへ行かれるのだが、このオプションを申し込んだのが40名の参加者のうち彼女たち二人だけで、しかも添乗員もつかないため、頼みに頼まれてしまい、南野も一緒にニースへ行くことになったのである。たったの一泊二日だし、まあいいか。久しぶりに会う敦雄のお母さんは相変わらずパワフル。やはり関西のおばちゃんは強い。のっけから、南野は二人のパワーに圧倒されてしまう。

 ホテルで順調に会えたのだけれど、シャルル・ド・ゴール空港へ向かう高速道路でひどい渋滞にはまってしまう。これまでもラッシュアワーなどの渋滞には何度も遭ったことがあるが、今回の渋滞はとくにひどかった。大きな事故があったらしい。このままだと飛行機に乗り遅れますなあ、などとおばちゃんを心配させようとからかっていたら、本当に乗り遅れてしまった。空港に着いたら、同じように渋滞で飛行機に乗り遅れた人がたくさんいて、チケットオフィスは長蛇の列。南野たちの後ろにいたおじさんは、タクシーでパリから2時間半もかかってしまい、ジュネーブ行きの飛行機に乗り遅れたと携帯電話で話していた。

 南野のチケットは正規料金で買ってあるため、問題なく次のニース行きに振り替えてくれるはずだが、おばさんたちのチケットはパック旅行の格安料金のため、本来はそれができないはず。そう説明したら、おばさんたちは次々に、はじめてフランス来たんやし、ニースは昔から憧れていたから絶対行きたい、長年の夢が叶うと思って来た、もう二度とフランスに来るチャンスはないだろう、空港でフランス人に親切にされたら私たちのフランス人に対する印象は一生良くなったままよ、とかカウンターのお姉さんに言えばなんとかしてくれるんと違う? などと言う。言えば、って誰が言うねん? そんな変なこと、とてもフランス語で言えません。だいいち、そんなこびへつらいは通用しないでしょう、きっと。困ったなあ、と思いながら順番を待っていたのだが、結局、我々を担当したお姉さんはチケットを持って奥の部屋へ入っていったまま、なかなか出て来ない。10分以上待たされたあと、ようやく彼女が出てきて、やはりおばさん二人のチケットは、本来は別便に振り替えられないけれど、特別に、次の便のウェイティング・リストに載せてあげる、と言ってくれた。つまり、次の便に空席があれば乗せて貰えるというわけだ。それが満員ならばまた次の便の空席を待つ、ということになる。このまま空港で夜まで時を過ごすのだろうか・・・。

 そういうわけでまだ喜ぶのは早いけれど、とにかく可能性が貰えただけで大喜びし、三人はチェックイン・カウンターへ行く。まだ全員のチェックインが終了していないからなんとも言えないけれど、今のところこの便は満員です、と言われてしまう。おばさんたち二人が揃って乗れない場合は、南野も乗りませんと言って、チェックインの終了時間を待つ。ようやくチェックインが締め切られ、ウェイティング・リストの方どうぞと言われる。我々三人は一番最初に扱って貰え、南野の席は問題ないのだが、おばさん二人の席はやはりエコノミークラスが満員で無理と言われる。えぇーと大げさにショックを表現すると、ちょっと待って、と言われ、ビジネスクラスが空いているから、そちらにどうぞと言ってくれた。え? ビジネスクラス? 格安パック旅行のおばさん二人は、なんとビジネスクラスに乗せて貰えることになったのだ。正規料金でチケットを購入している南野はエコノミークラスのままなのに! おばさん二人はその場で日本語でありがとうを連発する。連発されたカウンターのお兄さんも苦笑。いやはや、それにしてもよかった。

 こうして無事に次の飛行機に乗れることになったのだけれど、行き先が、ニースのようにほぼ一時間に一本飛行機があるところでよかったとつくづく思った。以前ロンドン発成田行きの飛行機に乗り遅れ、非常に苦労した経験のある南野は、本当にほっとした。それにしても出だしからなかなかきついハプニングである。南野、どっと疲れる。ところが搭乗手続の段になって、またどんでん返し。南野の搭乗券がなぜか機械を通らず、飛行機の20メートル手前でまたしても問題発生。お姉さんはあらら、ではこちらをご利用下さい、と別な搭乗券をくれた。なんとビジネスクラスの搭乗券! こうして南野も、最後の最後でビジネスクラスにアップグレードして貰ったのだ。

 生まれて初めて乗るビジネスクラスは快適そのもの。中型機なので、エコノミークラスと座席の大きさそのものは変わらないのだが、片側三列ずつの座席のうち、まんなかの席にちょっとしたテーブルのようなものが置いてあり、つまり隣の人とは一人分の距離が空けられているため、非常にゆったりした感じがする。離陸を待っているあいだ、エコノミー席とのあいだを仕切るカーテンが閉められ、シャンペンが配られた。おいおい、いきなりシャンペンかあ。豪華だなあ。しかもグラスは紙コップではなく、本当のガラス製。スチュワーデスはちゃんと、誰がアップグレードしてビジネスに乗っている「にせものビジネス客」で、誰が正規のビジネス料金を払って乗っている「ほんものビジネス客」かをリストで知っているという話だが、それでも南野、いつもビジネスに乗っているような顔をして、ガラス製のコップに驚いた表情は見せないようにする。たった一時間半の行程なのに、機内食も豪華だった。エコノミークラスはビスケットと飲み物だけだというのに、ビジネスクラスはフォアグラのテリーヌ、サーモン、ケーキなど、ちゃんとしたもの。おまけにまたしてもシャンペンが貰える。おばさんたちとは席が離れたので、一人でキザにル・モンドを読みながら、シャンペンを飲む。快適快適。

 あっという間にニース=コート・ダジュール空港に到着。飛行機が降下を始めると、窓からは真っ青な海、きれいに湾曲した海岸線、海に突き出すような断崖、その断崖に鷹巣のように張り付いている家々、そしてニースの大きく開けた街並みがはっきり見える。南野がニースに来るのはこれが二回目だが、前回は、ちょうど一年前、両親と一緒にイタリアから列車で海岸線を走って入ってきたから、この景色は新鮮だった。それにしても、パリは小雨も降る曇り空だったというのに、こちらはまったくの快晴で、驚かされる。ジャンパーを着ていると暑いくらいだ。まるで初夏。

 おばさん二人のホテルは、日本でも有名な、ニースの最高級ホテルネグレスコの並びにある、ホテルウェストミンスター。一泊1万5千円ほどする高級ホテルだが、なんとパックツアーでは、往復の飛行機料金も込みでたったの二万円の追加だけで済んだという。パックツアーの価格破壊には恐るべきものがある。南野はもう少し安いホテルを探そうと思っていたのだが、おばさん二人が全額出してくれるというので、同じホテルに泊まることにした。洒落た制服のボーイさんが荷物を部屋まで運んでくれるなんて、そんなホテルに泊まったことはこれまでないぞ。ビジネスクラスといい、このホテルといい、南野、しばし金持ち気分を味わう。このホテルが面する、緩やかなカーブを描くニースの海岸線沿いには、広い遊歩道があって、「イギリス人の散歩道(Promenade des Anglais)」という名前が付いている。きっと太陽に飢えたイギリス人が昔から大挙して訪れていたのだろう。夏になるとイスを並べてトップレスで日光浴、というのが有名なあの場所でもある。幸か不幸か、さすがにまだトップレスの人はいなかった。「幸か」というのは、それに刺激されてパワフル関西人おばさん二人もトップレスになるとか言い出されると困るところだったから。

 南野の部屋も、海に面した小ぎれいなもので、いかにもニースに来ているという感じがする。両親と列車で来たときには、ニース駅の近く、海の見えない安いホテルにしたから、だいぶん違う。ロビーでおばさん二人と合流し、まずはシャガール美術館へ。小高い丘の上にあるこの有名な美術館へはタクシーで行く。シャガールには「青の時代」「赤の時代」というのがあるそうだが、その美しい色使いを見ていると、やはりこういうからっと晴れるニースならではのことなのだと思わされる。気がついたら菊地さんはソファーに座って外人の赤ん坊とにらめっこをしていた。赤ん坊の母親、苦笑する。その後、美術館から地図もなしにただ海の方を目指して坂を下りていく。暑いのでカフェに入って生ビールを飲んだりする。

 ちょうどニースの東のはずれに、海に突き出した断崖があり、その上には古い城址がある。公園になっているので登ってみる。頂上からの眺めはまさしく絶景かな。おばさん二人は俳句を詠みましょうとか言っていた。お二人でどうぞ。ちょうど18時を過ぎたころだったが、まだまだ日は高い。そういえば、登り口のところに18時で門が閉まると書いてあったが、こうして中へ入れるのだから、フランスはやはりいい加減だ。天気のいい日には門を閉めないのかも知れない。初夏なみの天気とはいえ、まだまだ3月はシーズンオフだからなのか、人影もまばらで、我々の他にはほとんど人もおらず、散歩は快適そのものだった。海岸の方へ降りる階段があったので、海辺を散歩しようと降りていくと、ようやく人に出会う。下からあがってきたのはイギリス人らしい中年夫婦で、下の門は閉まっていると教えてくれた。階段の下の門を閉めるなら、階段の上にも下の門は閉まっていますとか一言書いておいてくれればいいのに、と思いながら引き返す。我々の後から降りてきたイタリア人らしい夫婦にも教えてあげ、みんなで引き返す。結局我々が最初に登ってきた、旧市街側からの登り口に引き返さなければならないようだ。

 旧市街側からの階段を登り切ったところにつくと、そこにも何人か人がいた。なんと、こちら側の登り口も下の門が閉まっているとのこと。え? つまり我々はこの城址公園の中に閉じこめられてしまったというわけ。18時に門が閉まると書いてあったけれど、ほんとうに18時に門は閉まったようだ。フランス人がいい加減だったのではなく、その看板を無視して登ってきた我々観光客がいい加減だったということか。しかし公園の中に人が残っているかどうかを確認しないで門を閉めるというのだから、やっぱりフランス人の方がいい加減だと思う。もうたいがいのことでは驚かなくなったわよ、などとおばさんは呑気にげらげら笑っている。取り残された人の中にはフランス人もいて、彼が警察に電話をしてくれ、しばらくパトカーを待つことに。そして到着したお巡りさんだか市役所職員だかよくわからないお兄さんに先導され、10人ばかりの一行はぞろぞろと旧市街方面の階段を下り、大きな鉄の扉を開けてもらって無事脱出。本当にハプニング続きだ。

 その後ニースの旧市街をぶらぶら歩きながらレストランを適当に物色する。前菜とメインをとったら、おばさん二人には量が多すぎたようで、メインの方はほとんど食べきれず。すっかり日も落ちた海岸線を、ぶらぶら散歩してホテルまで戻る。ホテルに無事おばさんを送り届けたら、南野は一人で夜の街に繰り出そうと思っていたのだが、さすがにくたびれていたのか、23時頃、風呂にも入らず寝てしまう。

 

2000.3.31.(金)

 ニース二日目。ホテルでの朝食は100フランもする。アホらしいので南野は摂らず。菊地さん、森田さんと9時半にロビーで待ち合わせ、いざ出発。今日は昨日とうってかわって曇り空。やや肌寒いくらいだ。ニースの北西にサン・ポール(Saint Paul de Vence)という街がある。小高い山の上に、中世さながらの城壁に囲まれた古い街並みが残っているところで、数年前に行かれたことがあるという、森田さんのご主人お勧めの街。もちろん、我々三人はだれも行ったことがない。ニースのバスターミナルから、ヴァンス(Vence)行きのバスに乗ること約50分。南仏トゥルーズの近くにコルド(Cordes-sur-Ciel)という街があり、ここも同じように山の上に中世の城壁都市が残っているのだが、サン・ポールはこことうり二つだった。驚くほどに雰囲気が似ている。以前、ヴェズレー(Vezelay)に行ったときにも、雰囲気がコルドと似ていると思ったのだが、サン・ポールはそれ以上にそっくりだった。同じ時代の同じ民族が、同じような地理的条件のところに街をつくると、どうしても同じような雰囲気になるということだろうか。

 「サンポール」なんて、日本だとトイレの洗剤よねえ、などとおばさんたちはげらげら笑っている。もう! 聖パウロという意味ですぅ! なぜこういう名前が付いているのかは知らないが。くねくねと入り組んだ石畳の細い路地を上ったり下りたり適当に歩き、ふと気がつくと小さな広場に行き当たる。そこには昔のフランス映画で必ずでてくるような、女たちがぺちゃくちゃ喋りながら洗濯をする噴水や小さなため池のようなものがあったりする。周りを囲む城壁に上って見渡すと、眼下にはなだらかな丘陵とそこに点在する石造りの古い家が広がり、そしてその遠く向こうにはニースの海が見えるという、歩いても立ち止まっても、とにかく気分を爽快にさせてくれる、そんな街だった(写真をアップしました)。

 民芸品などの土産物を売るお店の前でちょっと一服していると、お店のなかからおばさん二人が大きな手振りで南野を呼んでいる。何事かと急いで煙草を消して中に入ると、菊地さんが小さな置物を買ったところ、レジに表示された金額がなんと12000フラン(約24万円!)になっていると言って驚いておられる。違う違う、ちゃんとピリオドがあるでしょう、120.00フラン、つまり、120フランと0サンティーム(つまり2400円)です。コーラス仲間の友人に買った置物が24万円もするはずないやろ。

 昼ご飯は簡単にクレープの立ち食いで済まし、14世紀の教会などにも入ってみる。ニースへ戻るバスを待つ少しの間、小雨が降ってきたのでカフェに入ったら、壁にいろいろと有名人の写真が貼ってあった。ジャン・アレジ、イヴ・モンタン、ション・コネリーなどなど。やはり有名人もやってくる街らしい。そしてバスで再び50分ほど揺られ、ニースに戻る。パリ行きの飛行機の時間までまだ少し時間があったので、マティス美術館へ。晩年マティスが住んでいたというお屋敷をそのまま美術館に改造したもので、巨大で複雑に入り組んだ建物だ。マティスのモダンな絵は、なかなか南野には理解できないものが多かったが、森田さんが言っていたように、すでに1950年代にああいう現代風の絵を描いていたというのは、やはり才能のある人だったということなのだろう。

 今度はもう遅れないようにしましょう、と言いながら飛行場へ向かい、ちゃんと予定通りの飛行機に乗り、ビスケットとコーラだけのエコノミークラスでパリに戻る。たった一時間ちょっとの空の旅ではあるが、一度ビジネスクラスを経験してしまうと、エコノミーの座席は窮屈でしかたなく感じられた。両横をおばさん二人に挟まれたせいかも知れないが。パリに着いた後、レ・アールでエティエンヌと待ち合わせ、4人でととやで夕食。いつもはトンカツだけの南野も、おばさん二人が好きなものをと言ってくださったので、寿司・刺身・焼き鳥セットという、かつて武田君が注文した豪華なメニューをとる。エティエンヌは敦雄のこともよく知っているから、敦雄のお母さんに会えて興味深かったようだ。おしゃべりな三人の関西人に圧倒されてはいたが、「そぞろ歩き」「どんでん返し」「話を脚色する」という日本語をおばさんたちに教えられ、満足の様子だった。その後、おばさんたちをバニョレーのホテルまでお送りし、帰宅。

 いやはや、とんだ珍道中であったが、一泊二日のニースの旅、大変楽しかった。しかしおばさん二人との旅行を楽しめてしまうなんて、一体南野は何者なんだろう? 自分でも恐ろしくなってしまう。こうして「南野旅行代理店」、3月の営業を大過なく終える。4月からはフランス中がバカンスになるが、それと相反して南野は学問に精を出すつもり。なので、この日記を読んで、お前フランスに留学して何やってんねん、などとどうか言わないでいただきたい。

 パリに着いてみると樋口教授からお便りが届いていた。「あとの5ヶ月、大いにたのしんで下さい。勉強は日本に帰ってからで充分・・・」と書いてあった。ほらね。いえいえ、残りの5ヶ月、勉強も大いにしますので。

 (後日談)その後、菊地さんから今回のフランス旅行のエッセイが届きました。南野のことが「M君」として紹介されています。ご覧になりたい方はここをクリックしてください。

 

 

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主な内容
旧・個人的ニュース

学士院研究会報告顛末記、ブルターニュ週末旅行、オリヴィエ誕生日パーティーなど)

(ステファン誕生日パーティー、ストラスブール日仏公法セミナー、ブルジュ・ヌヴェール週末旅行、大晦日仮装パーティーなど)

(元旦、武田・岩月君、EHESSセミナー、大村先生宅、伊藤先生、Cayla 先生宅など)

(スト、岡田先生、ベルギー週末旅行、クリストフ、武田君、瑞香来訪、美帆・由希子帰国など)

2000年3月2日〜31日分

(Mel Madsen 氏来訪、辛い研究会、樋口先生、ススム来訪、灰の水曜日、早坂先生、皮膚・性病科、健太郎来訪、ニース珍道中記など)

(カレーパーティー、大村先生宅大嶽先生宅、復活徹夜祭、アントニー来泊、緑の桜の謎、花沢夫妻来訪など)

アムステルダム週末旅行日本シリーズ参議院調査団通訳、多恵子一行来訪など)

南野邸お茶会、ルカ洗礼式、ローラン・ギャロス、子どもモーツァルト、イタリア旅行、樋口先生、音楽祭り、研究会「違憲審査制の起源」など)

(日本人の集い、フランソワ・フランソワーズ夫妻宅、フレデリック誕生日パーティー、モニックさん・彩子ちゃん来訪、北欧旅行など)

北欧旅行続き、ゲオルギ来訪、玲子兄・藤田君来訪、オリヴィエ4号来訪、色川君来訪、ピアノ片付けなど)

姉・奥様来訪、日本へ帰国、東京でアパート探し、再びパリ行など)

(誕生日パーティ、Troper 教授主催研究会、Cayla 教授と夕食、日本へ帰国など)

(花垣・糸ちゃん邸、スマップコンサート、フランス憲法研究会、憲法理論研究会など)

(洛星東京の集い、東大17組クラス会、パリ、ウィーン、ブラティスラヴァなど。)

(エティエンヌ来日、広島・山口旅行ボー教授来日、法学部学習相談室のセミナーなど)

長野旅行、パリで国際憲法学会など)

新・個人的ニュース

リール大学で集中講義のため渡仏、興津君・西島さん・石上さん・ダヴィッド・リュック・ニコラと再会など)

(リール大学での講義スタート、武田君・タッドと再会、ヒレルと対面、芥川・安倍・荒木・柿原来仏、モンサンミッシェル、トロペール教授と昼食、浜尾君来仏、ヤニック・エティエンヌ・エレーヌと再会、復活祭パーティなど)

パリ行政控訴院で講演コンセイユ・デタ評定官と面談リール大学最終講義、日本へ帰国)

 

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