個人的ニュース 

2000年5月5日〜5月30日分

 

2000.5.5.(金)

 アムステルダムへ出発。ほとんどの飛行機会社は、リターン客確保のために、乗るたびに搭乗マイル数を加算し、そのマイル数に応じて無料航空券をくれたりするサービスを行っている。南野、頻繁に利用してきたKLMオランダ航空のマイルエージがかなりたまり、今回パリ・アムステルダム間の往復チケットが無料で貰えた。エティエンヌの幼なじみであるフィリップ99年12月24日の日記欄参照)が現在アムステルダムに住んでいるので、我々の宿泊を引き受けてくれることになった。そういうわけで、南野は運賃・宿泊費ともにただという恵まれた旅行をすることになった。実は南野、去る5月1日から今日の夕方まで、日本からやってきたある調査団の一行の通訳を頼まれていたのだが、なにしろ本格的な通訳をしたのは初めてだったし、法律関係の専門用語が頻出したこともあって、とにかくクタクタになっていた。一人でやる通訳というのは、仏語→日本語、日本語→仏語の両方をやらなければならないわけだから、インタビューの間は、とにかく一瞬たりとも気を緩めるスキがない。一日が終わると異常な疲労感で、こんなにきついものだとは想像していなかった。ただ、みなさんそれぞれに感じの良い調査団の方々に混じって豪華な昼食を頂いたりできたことや、南野にとってもいろいろと興味深いインタビューが多く、いろいろ学ばせてもらったこともあり、有意義な5日間ではあった。途中、応援にかけつけて下さった大村教授に、有名な日仏混合料理の「勝山(Shozan)」というレストランで素敵な昼食をご馳走になることもできたし・・・。勝山の広告はル・モンドなどにも出ていて、名前だけは知っていたが、実際に行ったのはこれが初めてだった。

 さて、そういうわけで出発の直前まで最後の通訳業をしていたため、自宅に飛んで帰ったあと大急ぎで荷物をまとめ、シャルル・ド・ゴール空港へ。パリからアムステルダムは、約50分しかかからない。あっという間だ。この距離だから機内食などひどいもので、チョコレートが一つ、それから飲み物、ただそれだけ。アムステルダム・スキポル空港からアムステルダム中央駅までは、列車で30分ほどの距離。ほんとうに簡単にパリからアムステルダムに着いてしまった。さきほどまでスーツを着て通訳をしていたのが嘘のようだ。

 アムステルダムに来るのは、南野、これが二度目である。5年ほど前に来たときは、敦雄と二人で安ホテルを見つけるのに苦労した覚えがある。今回は中央駅でフィリップと待ち合わせだから、気が楽である。アムステルダムの広告代理店で働き初めて6ヶ月ほどになるというフィリップは、すっかりアムステルダム人になったかのように、颯爽と自転車で登場。彼のアパートまで3人で歩いて行くが、道中どこもきちんと自転車用に確保された道路があり、前後から自転車にのった老若男女がたくさん通り過ぎていく。アムステルダムでは、自転車→歩行者→自動車の順に道路の優先権があるそうで、自転車が来たら歩行者はよけねばならなないらしい。まことに、自転車天国である。

 小さな運河が馬の蹄(ひづめ)のようなカーブを描きながら何重にも走っているため、中央駅からフィリップのアパートまでは、直線距離ではたいしたことがないものの、運河に沿って歩き、橋があれば渡り、また運河に沿って歩き、というのを繰り返さなくてはならず、30分ほどかかってようやく到着。アパートの前に頑丈な鍵で自転車をくくりつけたフィリップに従って彼のアパートへ入る。バスタブの他にシャワーコーナーが別にある浴室、洗濯機と乾燥機の収まった洗濯室、そして寝室や巨大なサロンなど、実に大きなアパートだった。アムステルダムの物価はパリより高いらしく、フィリップは家賃に毎月3000ギルダー(約14万円ほど)払っているという。たしかに、東京なみの家賃に感じられた。

 だいぶん夜も更けていたし、なによりくたくただったのだけれど、フランス人二人がちょっと街に出かけるというので、南野も一緒に行くことにした。そしてフィリップのお気に入りという、バーというかディスコというか、まあ要するにいわゆるクラブのようなところへ案内され、午前2時頃帰宅。爆睡。

 

2000.5.6.(土)

 昼前に起床、3人揃って朝食の後、街を散歩することに。出発前のパリと比べると格段に暑い。夏のようだ。運河には観光客が大勢乗った遊覧船や、あるいは少人数のレンタルボートなどが行ったりきたり。ビールを飲みながら運河をボートでゆっくり行くというのは気持ちよさそうだ。どこかで借りられれば南野もやってみようと思う。フィリップは午後用事があったので、南野とエティエンヌを赤線街(?)まで案内してくれたあと、そこで別れる。前にも来たことがあるが、まあ、アムステルダムの一つの名物であることには違いないから、しっかりと見学しておくことにする。飾り窓には昼間から下着姿の娼婦が並び、客引きをしている。目が合うとすぐ手招きされたり、窓を開けて英語で話しかけられたりしてしまうので、サングラスで目を覆っておく。アムステルダムに初めてやってきたエティエンヌはしきりに感嘆していた。その手の映画館などもたくさんあり、そういうところに、映画の内容を示唆する、いわゆる放送禁止用語が日本語で大きく書かれていたりすると、なんだか情けなくなる。それほどまでに、日本人の「団体さん」が来るということだろうか。

 とにかく暑いので、歩いては休み歩いては休みを繰り返し、市内を散策する。途中、ふとしたことでエティエンヌと大喧嘩になってしまい、別行動をすることに。フィリップとの夕食の待ち合わせ場所もうろ覚えだったし、地図もエティエンヌが持っていたため、一人になってから、はたとくだらない喧嘩をしたことを後悔する。しかし買い物客や散歩をする人、それに観光客でごった返す町中では、もはやエティエンヌの姿を再び見つけるのは不可能だった。うろ覚えの待ち合わせ場所をなんとなく探しながら、途中で入ったカフェで南野、うかつにも寝てしまう。疲れがたまっていたのと、暑さにかまけてビールを飲み過ぎたのが原因かもしれない。お店のおじさんに突然起こされ、あんた3時間も寝ていたぞ、と言われる。実際20分しか寝ていなかったわよ、と隣の席のお客さんがあとで教えてくれたけれど。

 8時の待ち合わせに、ちゃんとエティエンヌとフィリップがやってきたときには、ほっとした。待ち合わせは劇場の前、と思いこんでいて、テアトル、テアトルとつぶやきながら街を散策していたのだが、実際の待ち合わせ場所はお城の前だった。しかし南野が劇場だと思っていた建物が実際にはお城だったため、なんとか無事に再会できたというわけ。フィリップお気に入りで、先日アムステルダムにやって来たフランソワーズたち(99年12月24日の日記欄参照)にも好評だったという、タイ料理のレストランへ。大変な混みようだった。タイ料理もなかなかおいしいものだと南野は認識を新たにした。その後バーを何件かはしごして帰宅。

 

2000.5.7.(日)

 有名な王立博物館へ行く。博物館前のカフェテラスで昼食をとる。今日も快晴だ。フィリップによると、アムステルダムは現在日本食ブームだそうで、市内には回転寿司などもあるそうだ。明日、試してみることにする。このカフェテラスにも、寿司だけでなく、なんと「照り焼きチキン」まであった。さすがに照り焼きチキンはパリではお目にかからない。早速この照り焼きチキンを試してみる。なかなかおいしかった。偶然隣のテーブルに座ったフランス人女性二人組にも薦めてあげる。日本のものだよというと、昨夜日本食だったからねえ、と言っていた(結局一人は照り焼きチキンを注文したようだが)。やはりフランス人もアムステルダムに来て日本食を試すのだろうか。食後、三人ばらばらになる。南野は博物館へは行かず、市内で買い物などをすることに。博物館は市中心部の最南端にあり、そこから運河を何本も横切って北へ歩いていくと、中央駅に出る具合になっている。途中の運河でやはり観光客が小さなボートに乗っている。エンジン付きのものなので、自分で漕ぐわけでもなく、ラクそうだ。絶対試してみようと思う。

 パリだと、日曜日はほとんどのお店が閉まっており買い物ができないのだが、アムステルダムではほとんどのお店が開いている。カトリックがさほど多くはない、ということが背景にあるのかも知れない。これまたフィリップによれば、であるが、オランダはだいたい四分の一がカトリック、四分の一がプロテスタント、四分の一がユダヤ人、そして四分の一が無宗教、という具合になっているそうだ。ところが、面白いことに、そのいずれもがカルヴァン派の影響を受けているらしい。カルヴァン派のメンタリティーについてはよく知らないが、割合自由奔放というか、周囲を気にしないというか、まあそういったことが一つにはあるらしい。そういえば、アムステルダムの街を歩いていて面白いと思うのは、アパートの窓にカーテンがあまりないこと。昼間でも夜中でも、カーテンが(閉まってい)ない部屋が多く、部屋のなかが丸見えなのである。地上階の部屋でも、家族で食事をしていたり、おばあさんがテレビを見ていたりするのが、丸見え。こういのも、カルヴァン派的な、隠し事をしない、というメンタリティーの現れらしい。

 夕方、博物館を見学し終えたエティエンヌと合流し、再び街をぶらぶら。夕食はにぎやかな通りに面したイタリアレストランで。二人ともかなり疲れがたまっていたので、早めに帰宅する。フィリップはまだだったので、なにげなくテレビを見ていたら、いきなり長崎の出島の絵が画面に飛び込んできた。何事かと思い見続けていたところ、どうやら日蘭友好400年の記念番組だったようだ。そういえば、市内のオランダ歴史博物館などでも、日本関係の展覧会をやっていて、おや、と思っていたところだった。今から400年前、つまり1600年というのは、リーフデ号が豊後に漂着した年だ。映画『将軍』にも出てきた三浦按針(イギリス人)やヤン=ヨーステン(オランダ人)が乗っていた船だ。なるほど、オランダと日本の関係は、ヤン=ヨーステンと徳川家康によって始まったのか、と納得がいった。肝心のテレビの方は、もちろんオランダ語だからちんぷんかんぷんなのだけれど、なんとなくドイツ語に似ているのと、日本の固有名詞がでてきたり、絵画や写真なども登場したせいで、今いつ頃の話をしているか、と言う程度のことは理解することができ、それで最後まで飽きることなく見てしまえた。東大の、名前は忘れてしまったが、おそらく歴史学の先生らしき人が登場してシーボルト事件についてコメントしていたが、そこは日本語のまま、オランダ語字幕になっていたから、アムステルダムで思わず歴史の講義を聴いた気分になった。フィリップは12時頃帰宅、オランダ人は大酒飲みだと叫びながら、ばたんきゅうと寝てしまったようだ。彼は明日、仕事のはずだが、大丈夫だろうか。

 

2000.5.8.(月)

 本日フランスは第二次大戦の終戦記念日で祝日だが、アムステルダムは平日。フィリップは仕事に出かけて行った。我々も今日の夜の飛行機でパリに戻ることになっている。昼過ぎに仕事を抜けて来たフィリップと再会し、「Zushi」という名の回転寿司屋へ行く。泊めて貰ったお礼、ということもあり、我々でご馳走することに。内装も感じがよく、南野の大好きな紅生姜も自由に好きなだけとれるようになっている。お茶が無料でないのが日本と違うところ。南野は日本茶(お湯にティーバッグが浸かったものがでてきた)を、エティエンヌはアイスティーを、フィリップはオレンジジュースを注文する。寿司と相性がいい取り合わせとは思えないが、放っておく。さて肝心の寿司の方は、これがなかなかうまかった。職人はアジア系の外人だったけれど、手巻きも握りも上手に作っている。南野、好物の鉄火巻きやウナギ(穴子がないのが残念!)などを腹一杯いただく。トロは残念ながら品切れだった。3人で6000円くらいだったか。まあ、安くはない。しかしそれなりにおいしい寿司にありつけ、南野は満足。パリの回転寿司を試したことのあるエティエンヌは、こちらの方が断然おいしいと言っていた。

 その後、仕事に戻るフィリップにお礼を言って別れ、運河沿いを歩いていると、ついにレンタルボート屋を発見。早速試してみることに。運転は非常に簡単で、前進・バックそれぞれに1〜4までのスイッチがあり、それでスピードを調節し、あとは船の後部についている小さな舵(かじ)を右に左に動かして方向を定めるだけ。どこかで見たグループの真似をして、我々も缶ビールやジュースなどを買って乗り込む。運河では右側通行、曲がり角ではラッパを吹く、大きい船が常に優先するなどの説明を受け、詳しい「運河地図」を貰って、太い黒線で囲まれた地区の外には出ないようにと注意され、いざ出発。まずは南野が「運転」。いきなり曲がり角で大きな遊覧船にぶつかりそうになる。遊覧船の船長があわてて甲板にでてきて、足で我々のボートを蹴り返してくれた。その後はコツを掴み、らくちんらくちん。暑いぐらいの快晴のなか、服も脱ぎ払い、ビールを飲みながらのんびりと運河を右へ左へ。まさに極楽極楽。完全な白人であるエティエンヌは、日に当たりすぎると真っ赤にやけどしてしまうそうで、あたまにすっぽりと南野のTシャツをかけて日よけ。気の毒なものだ。途中、ドイツ人の女の子5人組に声をかけられ(これぞいわゆる逆ナンパ?)、思わず一緒に乗らないかと言いたくなったものの、どう考えても乗せるスペースがなく、諦める。人の歩くスピードより鈍いので、いろいろ遊覧しているとあっという間に3時間が過ぎた。これで約9000円。やはり、安くはない。

 ボートを返したあと、街を散策しながらフィリップのアパートに荷物を取りに帰る。フィリップにお礼の置き手紙を書いて、中央駅から列車に乗り、スキポル空港へ。考えてみると、エティエンヌは初めてのアムステルダムだというのに、アンネ・フランクの家も、ゴッホ美術館も行かずじまい。こんなことでいいのだろうか。しかし我々日本人と違って、いつでもまた来られるから、一挙に駆け足でなにもかも見ようとするよりは、むしろ贅沢な週末ということで、街をのんびりぶらぶらする方がいいのだ、ということかも知れない。パリのアパートには午後11時頃到着。荷物整理もせずに、ばたんきゅう。

 

2000.5.10.(水)

 冷静に考えて、アムステルダムに遊びに行く余裕はなかったはずだ。5月の最初の5日間は、通訳業でまるまる時間がとられてしまったため、やるべきことが全然進んでいなかったからだ。やるべきことはまず、日本へ帰ってからの奨学金の申請のための申請書の作成。これが大変面倒なもので、これまでの研究成果とか、これからの研究計画などを詳しく書かなければならなず、一仕事である。締切が迫っているというのに、まだできあがっていなかった。そしてもちろん、Cayla 教授のセミナーでの「日本シリーズ」。いよいよ15日月曜日から始まるというのに、まだ3分の1くらいしかできあがっていない。

 大急ぎで申請書の方を仕上げ、郵便局から速達で出す。間に合えばよいが。その後、二ヶ月ぶりの皮膚・性病科2000年3月16日の日記欄参照)。だいぶん治ってきましたね、といわれながらも、まだ飲み薬と塗り薬での治療を続けると言われた。そして二ヶ月後にもう一度行くことになる。その後こうしてHPの日記欄を書き上げる。しばらく更新しなかったので、死んだのではないかと心配してくれている人がいた。南野、ちゃんと生きています。そしてこれから「日本シリーズ」の準備。しかし疲れてきたのでそろそろ寝るかもしれない。

 

2000.5.15.(月)

 Cayla 教授のセミナーでの「日本シリーズ」、ついに始まった。はてさて4戦連勝となるか。南野の戦略はだいたい次の通り。全体を大きく歴史を扱う部分と問題提起を扱う部分に分ける。開幕戦では幕末の開国・明治維新から始めて敗戦・日本国憲法の制定に至るまでの100年近い日本の憲法史に登板して貰う。18日木曜日の第二戦では、日本国憲法のおおまかな説明をしながら時間を稼ぎ、いよいよ日本の憲法制定行為についての学説を紹介・分析する。そして22日月曜日、第三戦においては、変化球の得意な本命投手の登場ということで、これまでの既存の学説が果たして日本の憲法制定行為を説明することに成功しているかを考えるつもり。日本の憲法制定行為だけでなく、一般的に憲法制定行為を説明しようとしている国内外の憲法学説の限界みたいなものを明らかにできれば勝てると考えている。そして最終戦、25日木曜日には、南野が構想中の新しい憲法制定行為理論を披露して、全勝をかざる、とまあ、南野監督は実に楽天的な展望を抱いているというわけ。果たしてどうなるか。

 登板の順番を構想するのは比較的簡単だけれど、実際に投球するのは簡単ではない。事実、当初の予定が大きく変わり、一週間に二回のスピードで登板しなければならなくなったため、準備が大変である。間に合わないかも知れない。Cayla 教授には、今日のセミナー後、これから25日まで、準備だけで毎日過ごすようなことはどうかしないように、と暖かい(?)言葉をかけて貰ったが、これまで遊んで来てしまったせいもあり、そういうわけにはいかない。しかも25日には、日本から来られる先日とは別の調査団の通訳を頼まれてもおり、とにかくそれまでのあいだ、準備に専念する毎日を送りそうだ。しかし南野は、どうもこういう風に追い立てられないと思索に専念しないという、研究者を目指す者にとってはおそらく致命的な性格上の欠陥をかかえているため、こういう機会があったほうがいいのかも知れない。しかもこの日本シリーズ全般にわたっての準備は、南野の博士論文の構想にもおおいにかかわるものなので、無駄でないことは言うまでもないし。

 さて、本日の開幕戦だが、圧勝したといえるだろう。二時間近くのあいだ、南野ひたすら喋りっぱなし。南野が喋るだけだから、言いかえれば一回表だけで、裏はない、ということで、まあ圧勝する(というか圧勝した気になる)のは当たり前なのかもしれない。とはいえ、途中南野の話を遮っていろいろ質問が出たりしたのにも、ちゃんと答えられたから、よしとしよう。最後の10分ほど、教授がコメントをしてくれたが、これもまた好意的なものばかりだったし。ただ一点、明治憲法下での立法過程の具体的なあり方についての質問が出たときには少々困った。この点は、明治憲法がモデルにしたプロシア憲法の下での実際の立法過程における君主と議会の権限関係がどうであったのかについてと同様、南野、勉強不足であった。それはさておき、できるだけフランス人の関心を引くような、そしてまた後半戦での問題提起につながるような歴史記述にしたことが効を奏し、みな熱心に聞いてくれた。教授も昨夜はちゃんと寝てきたのであろう、眠たそうではなかったし。

 夜、フランソワおじさんが来訪。いよいよ曹洞宗の一行で京都へ行く予定が決まった、ということで、旅館のリストなどをもって南野のアドバイスを貰いにやって来たのだ。エティエンヌと三人で、近所の chez Zhou で中華料理をテイクアウトし、フランソワおじさんの持って来てくれた地ビールを飲みながら夕食。結局、京都の旅館の予約を頼まれてしまった。また、仕事が増えた。

 

2000.5.18.(木)

 日本シリーズ」第二回目。前回、日本国憲法が制定されたところまで終わったので、その後を受けて、今回は日本国憲法の基本原理や政治制度を簡単に説明するところから始めて、日本国憲法制定の法理をめぐる宮沢俊義尾高朝雄といった当時の高名な学者の学説を紹介し、それを検討する、というところまで進む予定でいた。日本国憲法の仏語訳と明治憲法の仏語訳も作って(全訳ではないけれど実に大変だった!)前回配布しておいたのだが、どうやらこれが災いとなった。日本国憲法の基本原理を紹介したところまではよかったのだが、国会について、内閣について、裁判所について、等々と条文を参照しながら説明をしていたところ、教授がさえぎった。要するに、配布した資料に書いてあるものは読みゃあわかる、ということだった。実はこの部分、南野自身も、準備原稿を書きながら、直接憲法制定行為の理論には関係ないし、仏訳にあることをそのまま読み上げても仕方がないなあ、とは思っていた。とはいえ、日本の憲法が大体どういうものであるか、ということは聴講者の間で共有されていることではないし、問題提起を扱う部分にあまり早く入りすぎても準備が間に合わないし(!)、せっかくの機会だから、天皇制とか、戦争放棄とか、議院内閣制とか、今のフランス人にはあまり馴染みのないことを「教えてやる」のもまあいいだろう、と考え、仏訳した条文をそのまま読み上げるのではなく、それなりに組み立て直して説明すれば許されるだろう、と思っていた。この部分を話しながら、南野、聴講者の反応はそんなに悪くないと思っていたのだが、教授にはつまらなかったとみえる。たしかに、諸制度を記述しながら、ほらね、明治憲法とはこんなに違うでしょ、とたった一言コメントするだけならば、誰でもできる。南野、反省。軽いジャブを喰らったというところか。

 気を取り直して、続きの部分に入る。これもおまけというか、せっかくの機会だから、ということで時間稼ぎに付け足した部分で、戦後から現在に至る、改憲論や「再軍備」の時系列に沿った紹介。これはやぶへびになった。戦後初期に、日本国憲法の基本原理をもっと徹底させるために、という趣旨で東大の学者グループや、東京圏の学者・知識人グループが改憲私案を公表したことがあった。最近の改憲論とは全然違う、非武装平和主義を明確にするために9条2項の「前項の目的を達するため」という、いわゆる芦田修正と呼ばれる部分を削除して「如何なる目的のためにも」と改めるとか、国民主権を徹底するために、憲法第一章が「天皇」となっているのを改める、とか、そういうタイプの改憲論だった。このあたりで教授がまたしてもさえぎった。「マッカーサー三原則」と俗に言われている、マッカーサーがGHQの憲法草案作成部門に指示した、憲法草案作成の指針のようなものがあって、そこには、「国の主権の行使たる戦争は、紛争解決のための手段としても、また自己の安全を保持する手段としても放棄し・・・」という原則がある。実は南野の資料には、このマッカーサー三原則も翻訳して載せてあった。教授の指摘の内容は、次の通り。国家の戦争遂行権限というのは、初めて主権論を明確に展開したとされる中世のボダン以来、主権の重要な一部分であると考えられている。そしてそれはマッカーサー原則が「国の主権の行使たる戦争は」という言い方をしていることにも現れている。しかし日本国憲法は、そのような主権を制限する憲法制定を行った。普通、憲法制定権力は主権と重なるものと考えられている。そうすると、主権を制限するような主権的決定ということになる。しかも日本の場合、マッカーサーによってそのような制限が指示された。そもそも主権制限の主権的決定が可能かという問題と(これは学者グループの改憲私案についても言える)、そのような主権制限を別な主権国家(マッカーサーに代表される連合国)が命じたということの意味はなにか、という問題が出てくるだろう。とまあ、こういったことを、マーストリヒト条約締結のときに、フランスでも展開された主権制限をめぐる議論などもあわせてぼーんと出された。これを聞きながら南野は、これから問題提起の部分で、まさにそういうことを検討していこうとしているのだから、今言われてもなあ、と困っていたところ、教授もふとそう思い至ったらしく、配布された目次を見ると、次回あたりでそういう議論になるのだろうけれど、と矛を収めてくれた。まあ、少々不愉快(?)だったので、教授の長い発言が終わったとき、いや、南野の真の意図は、南野が知っている事実をみなさんにお話しして、そこからみなさんがいろいろと問題点を感じ取って議論して欲しい、ということだけで、いわば、語るのは南野、分析するのはあんたたち、ということだから、その意味ではうまくいったと思う、などとおどけて失笑を買う。ただ、まずぶらぶらと事実関係を述べ、あとでまとめてそれらについての問題点を指摘する、という南野のやり方は、日本ではどうか知らないが、フランスでは悪いメソッドと考えられている、とはセミナー後に教授が教えてくれたこと。いやはや、言葉の壁だけでなく、人前で報告をするときのメソッドまで壁になっている。うう、つらい。少々きついブローが入ったが、それなりによけられた、という感じだろうか。ちょっとかすったかな。

 教授の再三にわたる長い発言で、時間がなくなってきた。さっさと問題提起の部分に入ることにする。しかし問題提起の部分とはいえ、まず日本の学説紹介から始めるわけだから、まだ本当は、少なくとも明示的には問題も何も提起してはいない。そういうわけで、また教授が発言するかとおそれながらの進行だったけれど、今回はおとなしく、そして熱心に、宮沢説と尾高説の紹介部分を聞いてくれた。これで時間切れ。今回は、楽勝とはいかなかったものの、辛勝というほどのこともない感じで、なんというか、「日本シリーズ」、まあ一応二連勝していると言っていいだろう。次回、22日月曜日は、宮沢説と尾高説を検討する部分から始め、「革命」という法的概念をどう考えるかという問題提起の部分まで終えたいと思っている。というわけで今週もまた、週末返上となるだろう。

 

2000.5.22.(月)

 ほんものの日本シリーズなら、半分勝ったらもう日本一ではないか、という励ましのメールをいただいた。嬉しかったけれど、さすがに野球とは違い、そうは残念ながらいかない(だろう)。で、今日は三回目。宮沢俊義の学説の理論的前提をまず明らかにし、そのあとで天皇主権から国民主権への変化をどう捉えるべきか、これを検討するために、宮沢の使った「革命」という概念に引き寄せて、いろいろな学者の議論を検討するところまで入った。カール・シュミットというドイツの学者で、この問題を詳しく扱った人がいるが、彼の議論については時間切れ。そこで次回、シュミットの検討部分から始めることになった。さて、今日は快勝と言えるだろう。大変興味を持って聞いて貰えたし、質問にもちゃんと答えられたし。基本的には、11月にフランス学士院での研究会で報告した内容を詳しく展開しただけのものだったのだけれど(学士院報告顛末記は、日記99年11月の欄を参照)。ラ・ロシェール大学(ボルドーの北、大西洋岸の街に比較的最近できた大学だったはず)の助教授で、福岡に二年ほど住んでいたことがあるという女性の飛び入り参加(?)もあった。Cayla 教授の知り合いらしく、セミナーの後は、二人で tu (おまえ、きみ)を使って話していた。福岡では、植木枝盛の憲法案(1881年)について研究していたとか。明治憲法制定史を扱った前々回に来られなくてよかった・・・。国会の憲法調査会で、日本自由党日本進歩党の憲法案(1946年)を読んだことがあるかという問いに、詳しくは承知していないと答えて大恥をかいた(らしい)某大学教授のような目に遭うところだったかもしれない。さていよいよ、来たる25日の木曜日が最終回。楽日決戦の行方や如何に・・・。終わりよければ全て善し、といきたいものだ。しかしもう、くたくた。

 

2000.5.25.(木)

 いよいよ「日本シリーズ」最終回。フランス語にも、「終わりよければ全てよし」というようなことわざがあって、やはり最後がうまくいくということは、こちらでも実に重要な意味を持つのだろう。しかし南野の報告の最後の部分は、去る月曜日に第三回目が終わってから準備を始めたため、実質二日間しか時間がとれなかった。最後の最後の部分、なんというか、まあ、これまで辛抱強く南野の報告に付き合ってくれてありがとう、みたいな挨拶の部分を書き終えたのが午前3時ごろ。すぐ寝なくてはならない。というのは、これまでの木曜日と違って、今日は朝から大切な予定が入っていたため。

 実は日本の参議院、今年の八月に第二回「子ども国会」というものを企画している。フランスでは7年前から下院(国民議会)で小学生を集めた「子ども国会」が、また、上院(元老院)でも3年前から中学生を集めて「子ども国会」が開催されている。昨年は、国民議会とユネスコの共催で、「世界子ども議会」というものまで開催された。そういうわけで、おそらく、経験豊富なフランスの現状を調査しよう、という目的だと思うが、参議院の法制局と事務局から、現状視察に村上さんと金子さんがやって来られた。南野、お二人の調査に同行して、通訳をする、という約束があったのである。

 お二人の宿泊先ホテルで、大使館の方とも合流し、まずはユネスコ本部へ。前回、5月の初頭に別の調査団の通訳をしたときもそうだったけれど、こういう公式の調査団の通訳をすると、普段入れないようなところへ入ることができ、南野にとっては貴重な体験となる。ユネスコも、中に入るのはこれが初めて。まず、昨年の「世界子ども議会」の準備を担当されていた方のお部屋でインタビューがスタート。「世界子ども議会」については、南野、恥ずかしながらほとんど無知の状態だったから、とにかく知らないことばかりで、通訳も大変だった。村上さんも金子さんも、とにかく非常に仕事熱心な方とみえ、質問もとぎれることがなく次から次へと出て、いやはや、南野、実に苦労した。なんとなく、前回の調査団の方が、人数は多かったものの、質問がもう少し少なくて、比較すればラクだったかな。

 ユネスコの後は、お二人と大使館の久保書記官と一緒に昼食。その後ほんの30分ほど時間が空いたので、セミナーでの報告原稿に最後の手直しをするため、しばし一行と別れて近くのカフェへ一人行く。眠い。で、コーヒーを飲む。あっという間に時間は過ぎ、原稿の半分にも目を通すことができなかった。焦る。そしてホテルで再び合流し、午後のインタビュー先、国民議会へ。子ども国会を担当しておられた方のお知り合いという、大使館の新見書記官も来てくださる。インタビュー相手と仲が良いようで、通訳業も助けてくださったので、ややらくちん。インタビュー相手は大変感じのよい人で、コーラやオレンジジュースを用意しておいて下さった。こういうサービスは、これまでで初めてである。しかし、感じの良い、親切な人であるがために、調査団の質問にも際限なくお付き合い下さり、予定の時間を大幅にオーバーして、午後5時すぎまでかかってしまった。Cayla 教授のセミナーは、午後6時スタート。やばい。

 なんとか5時15分頃に終わったあと、調査団や大使館の方への挨拶もそこそこに、南野はすぐさまバスに飛び乗り、セミナーの行われるEHESS(社会科学高等研究院)へ。20分ほど時間があったので、近くのカフェで、またしても原稿の手直し。最後まで終えられなかった。

 セミナー開始時刻の直前に教室に入る。みんな南野がスーツを着てきたので、驚いていた。朝から通訳してたんだ、だから今日の報告の準備はちゃんとできていない、という言い訳をするきっかけになる。そしていつも通り、教授がやや遅れて、煙草を吸いながら到着。こうして南野の最後の報告が始まった。

 今日は前回の続き、シュミットの憲法制定権力論を検討する部分から。シュミットが終わったあとは、これまでの議論をまとめる部分。日本の憲法制定行為をどういう風に理解することができるのか、というような結論めいたことをいう。そしていよいよメインである、Cayla 教授の憲法制定権力論を検討する部分へ進む。日本の憲法制定行為をめぐる検討から、一般的な憲法制定行為の理論についての検討へ入ったわけ。この移行部分で、教授が一言、「見事な移行だ」と誉めてくれる。ふっふっふ。

 Cayla 教授の憲法制定権力論を検討するための前提として、Troper 教授のそれをまず検討することから始める。そしてそれとの関連で Cayla 理論を紹介し、検討する。そして南野には根本的に思える、Cayla 理論の「問題点」を指摘して、それを乗り越えるために、こうすればいいんじゃないか、という南野理論(?)を披露。といっても、まだ南野自身、とことん考えを尽くしていないし、しかもそれを詳しく展開する原稿を書く余裕がついになかったから、おおまかな「披露」に止まらざるを得なかったのだけれど。あんまり批判しすぎてもやばいから(?)、最後に一応、教授をおだてるようなことも付け加えたあと、ようやく南野の報告、終了とあいなった。

 40分ほど時間が残っている。いよいよ教授のコメントだ。さてさて、どう出るか。大絶賛された。誉めまくられてしまった。南野の提起した疑問点というのは、二つとも、相互に関連しているものだったけれど、これに対して教授は実に丁寧に反論してくれた。実は南野、報告のなかでは、この疑問点を実にばかばかしい例を使いながら説明した。こういう説明はばかげているように思われるかもしれないが、といいながら。ところが教授は、全然ばかげてはいない、実はまったく同様の例を使いながら、Yan Thomas 教授と長時間の議論をしたことがある、Thomas 教授は決してばかげた人ではない、などと冗談を言いながら、南野の疑問点がそれとして充分成り立つことを認めてくれたのは、嬉しかった。肝心の教授の反論は、南野には、説得力があるようにも、また、ないようにも思えた。教授自身、書いたもののなかではこの点に関してまだまだ突き詰めていないから、とも言っていた。今後の教授の論文に期待したい。南野自身も思索を深めなければ、とも思う。

 9月にムッシュー・南野が日本へ帰るのは、実に残念だとかも言ってくれたし、大成功のうちに南野の報告は終わった、と言ってよいだろう。というわけで、南野の「日本シリーズ」、全勝したと言える。いやそれにしても、疲れたー。セミナー後、教授としばらく話す。教授が煙草を買いに行く、というので、南野も一緒に買いに行く。フランスには煙草の自動販売機がない。

 その後、今夜これからナンテール(パリ第十大学)の学生と夕食を食べることになっているから一緒に来ないか、と言われる。教授はナンテールのDEAでも授業を持っているのだ(南野も一昨年度参加していた)。南野、学生の何人かは知っているし、開放感にうちひしがれていたこともあり、とりあえずアペリティフだけ、ということで一緒に行かせて貰うことにする。教授の車に乗せて貰い(前回よりは運転がマシだった!)リュクサンブールのカフェへ。すでに15人ほどの学生が集まっていた。そのうち南野の顔なじみは4、5人ほど。なつかしい。

 夕食は、もうくたくただったからさっさと家に帰って一人で食べようと思っていたのだが、そこへ岩月君から携帯に電話。国際法の学会がパリで行われていたそうで、日本から藤田先生大谷先生が来ておられるから、一緒に夕食でもいかが、と誘ってくれた。電話の途中で大谷先生が岩月君にかわられ、いやあ久しぶり、元気にやってる? などと言ってくださる。それで懐かしい大谷先生にも会いたくなり、ご一緒させていただくことに。 Cayla 教授グループに混じって飲んでいた生ビールを終えたあと、そこで皆と別れ、サン・ルイ島のユニークなレストランへ。大谷先生と会うのは、何年ぶりだろうか。南野、大学院の修士時代に、EC法の授業が大谷先生のご担当だったので、その時以来、ご指導をいただいていた。ほんとうになつかしい。藤田先生とはほんの一、二ヶ月前にパリでお目にかかったばかりだったが、そのときは、では次回は日本で、などと言っていたのに、こんなに早くパリで再会できるとは思わなかった。広島からいらっしゃった川崎先生、一橋の大学院に在籍しておられ、今回は留学先のベルギーからやって来られたという村上さんとも知己を得られて、有意義な、とても楽しい夕食だった。岩月君と途中まで同じバスに乗って帰宅。午前一時前になっていた。いやはや、長い一日だった。ばたんきゅう。

 

2000.5.26.(金)

 通訳の二日目。午前はまずリュクサンブール公園にある上院(元老院)へ。上院でも、1997年から子ども国会が開かれているそうで、その担当者の方へのインタビュー。下院の子ども国会との違いを出すために、いろいろと知恵を絞っておられる様子だった。インタビューが終わったあと、日仏友好議員連盟の担当者の方が上院内部を案内してくださる。上院は、もともと、マリー・ド・メディシスアンリ4世の王妃)がイタリア人だったため、当時の王宮であった現在のルーヴル宮があまり気に入らなかったらしく、もう少しイタリア風の宮殿に住みたいということで、1612年から現在の場所に建造が始まった宮殿(リュクサンブール宮)を利用しているとか。その後ナポレオンが1870年に上院を設立し、リュクサンブール宮に増築を施して現在の姿になったらしい。そういうわけで、内部には古いものがいろいろと残っている。普通は公開されていない部屋などにも通してもらえ、一同で写真をとりまくる。お昼は、大使館主催で、この日仏議連の担当者を交えての昼食。昼食中も話が弾んでしまい、南野、メモを取りながらの通訳ではなく、フランス料理を食べながらの通訳だったために、苦労する。

 午後は国民教育省(文部省)へ。フランスの子ども国会は、議会と国民教育省の共催ということになっていて、実際にはほとんどの準備作業は議会側が行っているらしいが、参加する子どもを選ぶ過程で教育省が協力しているようだ。フランスの子ども国会では、実際に子どもたちが発案した法律案を可決し、それがその後本物の議会で議員提出法案という形で審議され、さらに実際に可決され本物の法律となることもある。教育省は、子どもたちがあげてくる法律案のうち、子ども国会での投票に付される法律案を絞る段階で、二段階の審査機関を作り、その審査に協力しているとのこと。とはいえ、内容に干渉するというよりはむしろ、審査委員会の設置や人員確保の面で協力しているにとどまるということらしいけれど。これまでの議会やユネスコでのインタビューとは異なり、実際に教育省の関与は控えめなものなので、具体的には私たちは知らない、といった答えが多く、やや苦労する。

 教育省のインタビューが終わって、一応今回の調査は山を越えた。明日は、実際に下院で開かれる子ども国会を見学するだけだ。というわけで、近くのカフェでビールで乾杯。いったん別れた後、夜、村上さん、金子さんのポケットマネーで焼き肉をご馳走になる。その際、今回の通訳料をお支払い頂く。期待額を上回る金額だったので、南野、大喜び。しかも前回の調査団の通訳料の方は、まだ振り込まれていないというのに、今回は現地で即金払い、というのにも驚いた。ほくほく気分で帰宅。

 

2000.5.27.(土)

 いよいよ通訳最終日。といっても今日は下院(国民議会)で開催される「第七回子ども国会」の傍聴だけだから、ややラク(だろうと思っていた)。フランスの下院の定員は現在、577名で、同じ数の子ども議員が出席するのだが、傍聴席に限りがあるので、参加する子どもたちの付添人も一人(親とか先生とか)に限定されている。参議院からの調査団の傍聴も、ぎりぎりまで席が確保されず、大使館がかなり苦労されたようだった。結局調査団の二人分しか席が確保できず、通訳なしではさすがに困るから、最後まで交渉してみてそれでももう一人分の席が確保できなかった場合には、金子さんと南野だけが入場しよう、ということになっていた。ところが、ユネスコの担当者が、下院議長からの招待状を持っておられ、しかし都合がつかず出席できないから、ということでその招待状を南野に下さった。そういうわけで、大使館の久保さんは入れないけれど、最終的には無事、3名分の席は確保できた。

 さて、パリに集まってきた子ども議員は、午前中小委員会に別れて法律案を議論・検討する。これはまったくの非公開。そこで3つに絞られた法律案が、午後の本会議で投票に付される。この本会議が招待客に公開されているというわけ。我々が入ったときには、すでに子ども議員は全員着席していた。生意気に蝶ネクタイできめた子どももいれば、普段着となんらかわらない子どももいる。しばらくして、教育大臣ジャック・ラングが入場して着席。その後、大きな声で衛視が「議長閣下!」と叫ぶ。子ども議員全員が起立して、下院議長の入場。傍聴席でも起立した人がいる。議長席に着席した議長が比較的長い挨拶。その後、教育大臣と議長に二つずつ、子どもたちから質問が出された。ハンディキャップのある子どもたちに対する学校設備の遅れをただすものや、議長の仕事について、とくに「行儀の悪い」議員さんをどういう風に「しつける」のか、といった質問など。傍聴席から笑いが漏れたりする。議長も教育大臣も、ペーパーなしで、まじめに、ときどきユーモアを交えながら応答していた。

 その後、午前中の小委員会で選ばれた3つの法律案が提出される。一つ目は学校内における人種差別をどうなくすか、というもの。二つ目は入院中の子どもたちが学校や友達、親から離れて生活せざるを得ない状況を改善すべき、というもの。そして最後が、河川の水質汚染を防止する措置をとるべき、というものだった。各法案の「提案趣旨説明」が子ども議員によって読み上げられたのち、投票へ。日本の参議院と同様、電子ボタン式投票だ。子どもたちは各席にある賛成・反対のボタンから、賛成する法案についてだけ「賛成ボタン」を押すように、と議長から説明を受け、一回「練習」をしたあと、いざ投票。その結果、フランス領ギニアからやってきた黒人の男の子が提案趣旨説明をした河川の水質保全についての法案が可決された。その後はそれぞれの法案についての代表者が記念品を順番に貰って閉会。

 閉会したあと、我々は「意図的に」出口を間違え、下院議長とギニアの男の子が記者団に囲まれインタビューをされているところへ迷い込む。南野、まるで記者のような顔をして、インタビューのうしろに紛れ込み、ばっちりテレビに映った(と思う)。ラング教育大臣がぶらぶらしていたのでちょっとインタビューしたくなったが、迷っているうちに見失ってしまう。教育大臣とのアポなしインタビューがとれればすごい成果だっただろうに。残念。

 いったいこいつら何ものなんだろう、ワッペンもつけてないし、といぶかるような記者団の目を気にせず、その場にしばらく居座ったあと、またしても意図的に迷い、下院の庭園へ。議場を出てきた子ども議員やその付添人でごったがえしている。そこで、適当に親子を見つけ、インタビュー。子ども国会に参加しての感想は? などなど。子どもへのインタビューというのは、なかなか大変だった。親御さんたちは、みな今回のイベントに大満足の様子だった。

 その後、少し時間があったので、金子さん、村上さんの買い物にお付き合いし、午後8時頃帰宅。大役を無事に果たし、ほっとする。

 

2000.5.30.(火)

 多恵子、上野さん、智晴ちゃんの3人組、関西空港よりパリに到着。多恵子は南野の叔母で、上野さんと智晴ちゃんはその「お茶仲間」の友人。南野もこれまでなんどか会ったことがある。ほんの5日間の予定だが、パリとモン・サン・ミッシェルへ行くらしい。できるだけ大きなスーツケースで、荷物を少な目にしてやって来て、帰りに南野の引越荷物を分担して京都まで持って帰ってくれる、とのことで、南野、大助かりである。不要の冬物の服や使わない本などをお願いするつもり。実は3人とも裏千家流の茶道を長年やっている人で、今回もパリでお茶会をしようか、という提案が届いていた。南野、茶道には全く関心ないし、どうしようかと思っていたところ、エティエンヌが興奮してしまい、土曜日に我が家でエティエンヌの両親や、フランソワ・フランソワーズ夫妻などを招いて開催されることになってしまった。そういうわけで、荷物は少な目にというはずだったのだけれど、お茶の道具や着物など、結構な量になってしまったようだ。さて、南野邸でのお茶会、どうなることやら・・・。

 多恵子の一行は今晩パリに一泊したあと、明日早速モン・サン・ミッシェルへ出発の予定。それで、まず我が家にやってきて、モン・サン・ミッシェルに持っていく必要のない着物やお茶の道具などを荷ほどきする。情けない京都人の南野、「京都・餃子の王将」というきわめて安物の大衆レストランチェーンの餃子が大好物で、さすがにこれだけはパリで手に入らないから、なんとか持って来られないかとお願いしておいたのだけれど、冷凍にしたものをちゃんと持ってきてくれた。ここの餃子はニンニクがたくさん入っていて、大変臭い。飛行機の中で、他の乗客に迷惑をかけたのではないだろうか・・・。いやはや、それにしてもありがたい。その他、これまた念願かなっての森永の「アロエヨーグルト」。これはほんとうに貴重だ! ちなみに、パリではあんまりアロエがはやっていない。どなたか、輸出を考えたらいかがだろうか? 儲かるかもしれない。

 近くのモンパルナス駅へ、明日のモン・サン・ミッシェル行きの列車の予約に行ったあと、南野邸のご近所の中華料理屋、Chez Zhou でエティエンヌも交えて夕食。その後、お茶会の際に部屋に掛ける軸がないので、カレンダーの裏側に筆ペンでさらさらと四文字熟語を書いたりする。エティエンヌも書け書けと女性三人にけしかけられ、「青山緑水」と書かされていた。ブルー・マウンテン、グリーン・ウォーター、と説明されて何のことだかわかったのだろうか?

 

日 付
主な内容
旧・個人的ニュース

学士院研究会報告顛末記、ブルターニュ週末旅行、オリヴィエ誕生日パーティーなど)

(ステファン誕生日パーティー、ストラスブール日仏公法セミナー、ブルジュ・ヌヴェール週末旅行、大晦日仮装パーティーなど)

(元旦、武田・岩月君、EHESSセミナー、大村先生宅、伊藤先生、Cayla 先生宅など)

(スト、岡田先生、ベルギー週末旅行、クリストフ、武田君、瑞香来訪、美帆・由希子帰国など)

(Mel Madsen 氏来訪、辛い研究会、樋口先生、ススム来訪、灰の水曜日、早坂先生、皮膚・性病科、健太郎来訪、ニース珍道中記など)

(カレーパーティー、大村先生宅大嶽先生宅、復活徹夜祭、アントニー来泊、緑の桜の謎、花沢夫妻来訪など)

2000年5月5日〜30日分

アムステルダム週末旅行日本シリーズ参議院調査団通訳、多恵子一行来訪など)

南野邸お茶会、ルカ洗礼式、ローラン・ギャロス、子どもモーツァルト、イタリア旅行、樋口先生、音楽祭り、研究会「違憲審査制の起源」など)

(日本人の集い、フランソワ・フランソワーズ夫妻宅、フレデリック誕生日パーティー、モニックさん・彩子ちゃん来訪、北欧旅行など)

北欧旅行続き、ゲオルギ来訪、玲子兄・藤田君来訪、オリヴィエ4号来訪、色川君来訪、ピアノ片付けなど)

姉・奥様来訪、日本へ帰国、東京でアパート探し、再びパリ行など)

(誕生日パーティ、Troper 教授主催研究会、Cayla 教授と夕食、日本へ帰国など)

(花垣・糸ちゃん邸、スマップコンサート、フランス憲法研究会、憲法理論研究会など)

(洛星東京の集い、東大17組クラス会、パリ、ウィーン、ブラティスラヴァなど。)

(エティエンヌ来日、広島・山口旅行ボー教授来日、法学部学習相談室のセミナーなど)

長野旅行、パリで国際憲法学会など)

新・個人的ニュース

リール大学で集中講義のため渡仏、興津君・西島さん・石上さん・ダヴィッド・リュック・ニコラと再会など)

(リール大学での講義スタート、武田君・タッドと再会、ヒレルと対面、芥川・安倍・荒木・柿原来仏、モンサンミッシェル、トロペール教授と昼食、浜尾君来仏、ヤニック・エティエンヌ・エレーヌと再会、復活祭パーティなど)

パリ行政控訴院で講演コンセイユ・デタ評定官と面談リール大学最終講義、日本へ帰国)

 

 

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