個人的ニュース 

2000年7月1日〜7月31日分

 

2000.7.1.(土)

 南野邸で「日本人の集い」第二回。前回から一年近くたっている。南野の同世代の友人を適当に集め、だらだらお喋りをするという、ただそれだけの企画。ろくにもてなすことができないので、前回同様、14時スタートで、飲み物を用意するだけにした。招待したのは、武田・岩月・大中・折田・田中・高桑・東・原君などの男性諸君、鈴木・長野・玲子・恵藤・もと子・君子・水野・大杉さんなどの女性諸君。このうち予定のついた人が7人、さらに南野、今回が初対面の助川氏・佐々木氏が来てくださり、南野もいれてちょうど10人の集まりとなった。今月7日に日本に帰国する恵藤さんを除けば、みんなこの後何ヶ月も何年もパリに滞在する予定の人ばかり。二ヶ月後には日本に帰る予定の南野、うらやましくなる。南野は、また最近になって、やはり日本に帰りたくなくなってきたのである。しかしもう飛行機も予約してあるし・・・。

 専門もバックグラウンドも全然違う人たちの集まりで、硬軟いろいろな話題で盛り上がり、あっという間に時間が過ぎていった。20時頃、会場(?)をご近所の中華レストラン chez Zhou に移し、夕食。鈴木さんを除く9名ものお客さんで、きっとマダム Zhou も喜んでくれたに違いない。土曜日だというのに、我々の他にはお客さんが二組入っていただけという、いつもながらに閑散とした chez Zhou だった。南野この席上で風邪らしい症状が出てくる。それで夕食後は自宅前でみなさんとお別れ。部屋を片づけたあと、早々に就寝。

 

2000.7.2.(日)

 サッカーヨーロッパ選手権(Euro 2000)の決勝戦(於ロッテルダム)。フランス対イタリア。二年前のワールドカップ決勝戦のときと同様、エティエンヌが友人を招き、揃ってテレビ観戦。今回は急に思いついた企画だったらしく、またワールドカップほどの盛り上がりでもないため、結局集まったのは男性ばかり3人だけ、という寂しいものだった。南野、鼻水と咳がとまらない無様な格好で観戦。20年来、フランスには勝ったことがないというイタリアチーム、今回はついに一点先制。勝負はついたかに見えた最後の最後、残り1分たらずというところでフランスがゴールを決め、延長戦にもつれ込んだ。ちょっと出来すぎている、あまりに感動的な展開だった。南野邸も、ご近所も、大歓声で一瞬騒然とする。そして延長戦の結果、フランスの優勝とあいなった。表通りは早速車のクラクションがなり響く。二年前のワールドカップに優勝したときと同じだ。エティエンヌがシャンペンをだしてきて、乾杯。これも二年前と同じ。ロッテルダムから中継していたテレビはシャンゼリゼの様子を映し出す。すでに歩行者天国になっている大通りには多くの人が詰めかけている。これも二年前と同じ。テレビがロッテルダムに切り替わると、今度は興奮さめやらぬシラク大統領、ジョスパン首相のインタビュー。二人ともスタジアムまで行って観戦していたのだ。これも二年前と同じ。

 フランスチームは、イタリアチームとは違って、黒人やアラブ人選手なども混ざっている。国内でやや深刻になりつつある移民問題をかかえながら、こういう国際大会でその移民の存在を反映したナショナルチームが好成績を収めるために、国全体が大喜びして、移民問題を乗り越えてフランスとしての一体感、アイデンティティーを再認識して安心させられるというサッカーの効果に感動したというテレビやエティエンヌのコメントも二年前と同じ。そんなもんかなあ。

 二年前は、さすがに国全体と言っても過言ではないような盛り上がりようだったこともあり、テレビ観戦のあと、みんなでシャンゼリゼに繰り出したのを思い出す。すごい人だった。翌日のフランスチームの凱旋には、第二次大戦後のフランス解放を祝うド・ゴール将軍のパレード以来の人出があったと報道されていた。今回はたかがヨーロッパ選手権だし、それほどの盛り上がりではないだろう。テレビで見る限り、すでにシャンゼリゼには相当な人出があるようだったけれど。南野が風邪を引いていることもあって、シャンゼリゼへ行こうと言い出す人はおらず、選手インタビューなどが続くうちに、3人とも帰って行く。相変わらず外で鳴り続く車のクラクションの音を聞きながら、早めに就寝。

 

2000.7.5.(水)

 フランソワ・フランソワーズ夫妻宅にディナーに招かれていた。風邪によると思われる頭痛と鼻づまりのため、欠席の連絡をエティエンヌに頼んだところ、折り返しフランソワーズおばさんより電話があり、風邪であっても来なさいと言われてしまう。フランソワおじさんが腕を振るったフランス料理が待っているし、なにより今回は夫妻のお隣さん夫婦を招待していて、この夫婦の義理の姉が日本人で、夫婦自身も日本通で、日本の話をしたがっているから、日本人の南野が来ないわけにはいかないとのこと。仕方なく、アスピリンを飲んで出かける。

 不思議なことだが、鼻づまりだとフランス語がうまく発音できなくなる。フランス語の発音は鼻をよく使うからだろうか、などと思っていたが、考えてみると日本語だって鼻がつまっていると発音しづらくなる。何語でも普通のことか。くだらないことを考えてしまった。さて、フランソワーズ宅にはエティエンヌのお兄さんピエールも来ていた。お隣さんの若夫婦は一人寝ている3歳の娘の部屋においたトランシーバーのようなものをフランソワーズ宅へ持ち込み、急に娘が泣いたりしたらすぐに駆けつけられるようにしていた。まるで盗聴器。非常に感じのよい夫婦で、風邪だから南野には話を振らないようにと予めエティエンヌを通じてお願いしていたにもかかわらず、ばしばし質問されてしまう。なんで自民党は長期政権なのだ、フランスの大統領の任期(現在は七年)を五年にするという現在進行中の憲法改正案についてはどう思うか、EC規模で「欧州憲法」を作ろうなどという提案がでているが、これはどうか、また、日本から帰ってきたばかりのフランソワおじさんからは、住所を頼りに知人の家へ行こうと思ってもパリのようにわかりやすい住所表示ではなかったため、何度も迷った、なんで日本はああいうわかりにくい住所表示になってるんだ、とか、日本の若者はみんな髪を赤や金色にしていた、なぜか、などなど、質問の嵐。

 フランソワおじさんが腕を振るったフランス料理は、いまいちの出来。まわりのフランス人はみな絶賛していたから、南野の味覚がフランス料理には向いていない、ということだろうか。それとも単に鼻づまりのせいかな。12時頃、帰宅。

 

2000.7.8.(土)

 フレデリックの誕生日パーティー。南野の友人にはフレデリックが3人いて、エティエンヌの友人には2人いる。この2人は南野の友人でもある。で、今日の誕生日パーティーは、てっきりフレデリック1号のものだと勘違いしていた。フレデリック2号にだいぶん前に貸したビデオを返して貰うため、今日のフレデリック1号の誕生日パーティに持って来るようにエティエンヌがフレデリック2号に電話をしたところ、誕生日だったのはフレデリック2号ということが分かる。フレデリック1号はバカンスでベルギーに滞在中とか。いやはや、くだらない用事で電話をかけてよかった。誰もいない閑散としたフレデリック1号のアパートへ出かけるところだった。

 誕生日パーティーに招かれたら、やはり誕生日プレゼントを持って行かねばならない。最近フランスでは「禅(Zen)」という単語がはやっている。別に禅宗とは関係があるわけではなく、ただ単に東洋的なものをさして禅といい、また、禅であることはなんとなく静かで落ち着いていてクール、などと考えられている。禅という漢字やローマ字を書いたわけのわからないグッズもたくさん売っている。南野からのフレデリックへのプレゼントは、マレ地区にある禅ショップで買ったお皿。まあ、たしかに日本っぽいものではある。以前、ジャック・カトリーヌ夫妻が南野邸のカレーパーティーにやってきたときプレゼントしてくれたものだ。その後、同じものをアムステルダムのフィリップにもプレゼントした。そういわけで、重宝しているプレゼント用のもの。

 我々がフレデリック2号のアパートに着いたのは午後9時ごろ。すでに10人ほどの人が集まっていた。大晦日の仮装パーティ(これはフレデリック1号のアパートで行われた)以来の人などもいる。こちらは初対面だと思っていた人に、ああ、君は修道女だった人だね、などと言われ驚いたりする。結局20人ほどの人が集まり、適当にわいわいがやがや踊ったり喋ったり。そして12時半ごろ、シャンペンとケーキで「ハッピーバースディートゥーユー」の合唱。もちろんフランス語バージョンだ。その後フレデリックが全員の前で貰ったプレゼントを開封。「地球」というタイトルの、砂漠や大河の航空写真などが入った大きな写真集は南野も欲しくなった。巨大なくちびるの形をした悪趣味なランプには一同大笑い。

 南野も誕生日パーティーをしたいものだが、10月上旬というのは、新学期の始まりでもあり、どうもタイミングが悪い。しかも今年は南野は誕生日を東京で迎えることになるだろう。残念だ。でもまあ、帰国前にプレゼントを貰っても困るかも知れないし。エティエンヌと一緒に午前二時頃帰宅。

 

2000.7.11.(火)

 モニックさんと彩子ちゃん、パリに到着。モニックさんは南野が中学生の頃からいろいろとお世話になっているご婦人で、純粋の日本人だが、昔からモニックさんと呼び慣れているため、いまでもそう呼んでいる。今年で72歳とはまるで信じられないほどの元気な人で、実はある有名なフランスの「古典」を系統的に日本語に訳してこられた、大変な知識人でもあられる。彩子ちゃんはパイプオルガン奏者で、南野より年下。今年の9月からリヨンの国立音楽学院でパイプオルガンを専攻する予定で、その下見と、教授から個人レッスンを受けるため、今回の渡仏とあいなった。残念ながら彩子ちゃんはまだフランス語が充分でないため、家族ぐるみの付き合いというモニックさんがその付き添いとして一緒にやって来られたというわけ。

 二人のために、南野のアパートの近くにある安ホテルを予約しようとしたのだけれど、ちょうど7月14日の革命記念日の前後で、しかも今年は西暦二千年ということでいろいろと企画があるためか、普段はほとんど人気もないようなホテルが満室。結局、お二人には仕方なくダブルベッドの一部屋で我慢していただくことになってしまった。もっと早めに予約をしておくべきだったと、南野、反省。

 モニックさんの昔からの友人である、サビンおばさん(こちらは純粋のフランス人)が二人を空港から我が家まで運んでくださった。一年ぶりに再会するモニックさん、サビンさん、そして初対面の彩子ちゃんを迎え、しばし南野邸でだんらん。オルガンの先生に電話をかけたり、そのオルガンの先生がレッスンをしてくれるル・マン行きの列車、また二人が下見に行くリヨンへの列車の予約などを南野のミニテルを使って行う。ミニテルは本当に便利。電話機に画面とキーボードがついていて、いろいろなことができる。これのおかげでフランスではインターネットの普及が遅れたといわれているほど、簡単便利で、大変普及している。

 サビンさんが帰ったあと、二人と一緒に近くのモンパルナス駅まで切符を買いに行く。ミニテルでも購入できるのだけれど、いろいろ調べて見ると、モニックさんは60歳以上、彩子ちゃんは25歳以下なので、それぞれフランス国鉄の割引カードを購入する資格があって、これを買うと、一年間フランス国鉄の列車が半額割引になるということがわかった。南野は残念ながら25歳以下でも60歳以上でもないため、この恩恵に与ったことはない。このカードは写真持参のうえ駅の窓口でしか買えないらしいので、雨の降るなか、モンパルナス駅まで行ったというわけ。雨と言えば、今年の夏は異常な天気が続いている。7月になってから、肌寒いような、また小雨の降り続く日ばかりだ。

 夜、エティエンヌが帰ってきて、モニックさんと感動の(?)再会。昨年の冬にエティエンヌが京都へ行った際、モニックさんと南野の姉がエティエンヌを奈良へ案内したりしてくれた。「漢字おたく」のエティエンヌは、モニックさんがいろいろと漢字を教えてくれるので、いつも彼女との対面を楽しみにしているようだ。残念ながら今日は、エティエンヌ、風邪気味のため、「漢字ゲーム」をしなかったようだけれど。夕食は、以前岩月君に教えて貰って以来、南野お気に入りのお寿司屋さんとなった、パリ右岸にある「明日香」で。我々4人のほか、サビンさんとその息子ベルトラン君。ベルトラン君とも一年ぶりくらいの再会。彼は今年20歳、現在、エティエンヌと同じグランド・ゼコール専門の予備学校へ通っているため、エティエンヌとはなにかと話があうようだ。しかし1980年に生まれたと彼が言うのを聞いて、南野、しばし唖然とする。1980年なんて、はっきり南野の記憶に残っている年だぞ。フランスは、平気で留年したり、就職してから学校に入り直したりするので、友人といっても年齢はばらばらのことが多い。それでお互い相手の年齢などあまり気にしないで友人になることができる。で、こうしてふとした時に、え、そんなに若かったの、とか、え、そんなに年いってたの、ということになる。それにしても、1980年生まれだなんて・・・。南野、ショックを受ける。年はとりたくないものだ。明日香での食事は好評だった。いろいろ小鉢を取ったこともあり、サビンおばさんは、今まで食べたことのある日本食レストランのなかで最高だ、と興奮していた。よかったよかった。モニックさん、彩ちゃんをホテルまで送って午後11時半ごろ帰宅。

 

2000.7.14.(金)

 革命記念日。今年は金曜日に重なったため、金・土・日の三連休。バカンスに出かける人で、パリ発の高速道路は大渋滞と報道されていた。2000年ということもあり、各地で様々な催しがあるらしい。午前中はシャンゼリゼで恒例の大統領率いる軍隊パレード。南野、これまで見に行ったことはない。今年はモニックさんの希望もあって、テレビでやる生中継をビデオ録画。夕方、モニックさんと彩子ちゃんがこのビデオを見にやってくる。彩子ちゃんにはせっかくだから街を散歩してきたらと薦める。ビデオを鑑賞するモニックさんを一人サロンに残し、南野は自室で勉強。実は急に仕事が舞い込んできて、夏休みの楽しい予定がどうなることやら、と不安が入り混じった頭をかかえる毎日なのだ。フランス語で50頁、果たして仕上がるかどうか。一人で街の散策に出かけていたエティエンヌが彩子ちゃんと同じ頃に戻ってきたので、4人で食事にでかけることに。そして食事後、恒例の花火大会の鑑賞にでかけるつもりだった。

 毎年革命記念日の前夜には、フランス各地で花火大会が行われる。そしてパリでは革命記念日の夜。エッフェル塔近くで上がるらしい。一昨年、アメリカからパリに遊びに来ていた美保子と見に行った覚えがある。そのときはエッフェル塔近くまで行ったのだけれど、とにかくすごい人出で、身動きができない。南野、突然襲ってきた腹痛をこらえながら、トイレを探しまくって花火どころではなかったのを覚えている。しかもこの日は、なぜか中国の旧正月のような爆竹の嵐となる。鬱憤のたまっている若者だろうが、とにかく人混みに向けて爆竹をどんどん投げ込んでくる。慣れている人はあまり動じないものの、どうも臆病な南野は怖くて仕方がなかったのを覚えている。美保子もびびっていた。

 それで今年はエッフェル塔近くへは立ち寄らないことにする。70歳を超えたモニックさんの身になにかあっては大変でもあるし。それで食後に選んだ場所は、モンマルトルの丘。ここからだと、パリが一望できるし、花火も小さくしか見えないから、人も少ないだろう。と思ったのだが、3年前、パリに語学留学をしていた夏、語学学校の友人と見にいったことがあることを思い出した。このときは、木に登って花火を見ようとしている人たちがいた。考えてみると、ここもすごい人出だったのかもしれない。

 我々がモンマルトルに着いたころには、どうやら花火は終わっていたらしい。モンマルトル寺院の正面、パリが一望できる階段には人がわんさかといたものの、木に登らなければパリが見えない、というほどの込み具合ではなかった。しかし、あいかわらず、爆竹不良少年たちはわんさかといる。大きな爆竹で、まるで爆弾のような音がする。モンマルトル寺院の裏側から、寺院横をまわるようにして広場へ行こうとしていた我々4人はびびってしまい、爆竹の音がとぎれたり、不良少年がマッチを擦っている間を狙ってなんとか広場まで行こうとするが、不良少年がたくさんいすぎるため、なかなかとぎれない。モニックさんは、いずれ手持ちの「爆弾」も底をつきるでしょうから、しばらく待ってればいいんじゃない、とおっしゃる。そう思ったのだが、爆竹の束を売り歩いている不良おっさん軍団を発見。これではだめだ。

 不良ではないが強そうな若者軍団が通りかかったので、その一行に紛れ込むようにして広場までなんとかたどりつく。夜景はきれいなものの、階段に腰をおろしてゆっくり眺める、という雰囲気ではない。階段に座ってなどいようものなら、上からどんどん爆竹が落ちてくる。不良少年たちは、そういうカモを狙っているのだ。それで彩子ちゃんが一枚だけ写真をとったあと、そそくさと退散することにする。帰りも同じで、しばらく様子をうかがってから、観光客の軍団に紛れて「危険地帯」を突破。そしてエティエンヌの車まで無事にたどりついたあと、パリの夜景ツアー。モンマルトル寺院をパリ中心部の方に降りた界隈は、ピガールという名で呼ばれている、いわば歓楽街。日本でも有名なムーランルージュなど、ショーを見せる劇場や、たんなるストリップ小屋などが集まっているところ。見るからにそれとわかる娼婦などが立っていて、彩子ちゃんにそっと教えてあげる。耳ざとく聞き分けたモニックさんは、見逃したわと悔しそうだった。

 エッフェル塔まで行こうとするが、セーヌ河岸の道路が大渋滞のため、諦める。翌日、モニックさんと彩子ちゃんは早朝のTGVに乗って、リヨンまで音楽院の下見に行く予定でもあったから、深夜1時頃にホテルまで二人を送ってお別れ。

 

2000.7.17.(月)

 フランソワ・フランソワーズ夫妻宅にディナーに招待される。フランソワは先日、道元生誕800年記念の巡礼(?)で永平寺へ行ったあと、京都に一週間滞在。その間、南野の仲介で、モニックさんにいろいろと京都案内をしてもらっている。そのお礼、ということで、自宅にモニックさん、彩子ちゃん、そしてエティエンヌと南野を招待してくれた。一緒に日本へ行ったという、もう少し若いフランス人のお坊さんも来ていた。しかし、お坊さんの名前がフランソワとかステファンというのは笑える。

 そういえば、フランスでは最近、新興宗教が社会問題化していて、洗脳などという言葉も新聞をにぎわしている。どこも同じで、洗脳された若者が家をでたまま行方が分からなくなり、親が騒いだりしている。こういった新興宗教は、セクトとよばれ、宗教(ルリジオン)とは別のものとして扱われているようだ。議会ではセクトに関する調査チームがつくられ、少し前にその報告書がでたばかり。クリスチャン・サイエントロジーとか、エホバの証人などがセクトと認定されている。エホバの証人がセクトというのは、日本人の南野にはなんとなくひっかかるけれど。ところで、今日フランソワおじさんに聞いてびっくり。なんとフランスに進出している曹洞宗もセクトとされてしまったそうだ。これは気の毒としかいいようがない。南野、報告書は読んでいないし、セクトと認定されるとどういう法的効果が生じることになっているかもよく知らない。しかし禅宗がセクトとされるのはどうにも理解できない。現在、フランス仏教連盟のようなところで対応を協議中だとか。そういえば、このフランス仏教連盟には、創価学会インターナショナルも加盟しようとしているらしいけれど、連盟の理事(?)でもあるフランソワおじさんは、創価学会の加盟が認められることになったら、自分は辞任する、と言っていた。非常に興味深い話だった。創価学会はセクトとされなかったのだろうか。時間があればフランスの宗教法制、しっかり勉強してみたいものだ。

 さて、いつもと全く同じように、時間はあっという間にすぎ、気がついたら零時すぎ。もう一人のお坊さんステファンは、パリ郊外のソーというところに住んでいるとかで、終電に乗れないかもしれないと焦りだす。エティエンヌの車でRER(郊外列車)の駅であるダンフェール・ロシュローまで送ってあげる。その後モニックさんと彩子ちゃんをホテルまで送り、帰宅。

 

2000.7.18.(火)

 朝、エティエンヌの車を借り、彩子ちゃんとモニックさんをホテルへ出迎え。その後彩子ちゃんをダンフェール・ロシュロー駅まで送る。彼女はこのままRERに乗ってシャルル・ド・ゴール空港へ。そして日本へ帰国。ほんの一週間の滞在だったけれど、リヨン音楽院の下見と、パイプオルガンの個人レッスンを受けるという目標をちゃんと果たしての、大満足での帰国となったようだ。リヨン音楽院で師事したいと考えている教授に推薦された別のもう少し若い女性教授が、彩子ちゃんの個人レッスンを引き受けてくれた。ル・マンとパリの教会で、合計3回のレッスンを受けたが、通訳のために付き添ったモニックさんともども、大変な衝撃を受けていた。まず、パイプオルガンそのものが日本にあるものとは違うらしい。彩子ちゃんによると、日本のものは、ドイツ製が多く、フランス製とは音質が違う。さらにオルガンの収まっている建物が違う。石造りの重厚な教会の中で演奏すると、まるで響きが違うのだそうだ。そしてレッスンの仕方が違う。とにかくこの女性教授はよく喋るそうで、細かく、そして深く指導をしてくれたそう。オルガンを弾こうと思うな、オルガンに自然に歌わせるようにしなさい、といった風な、哲学的(?)な指導で、通訳をしたモニックさんも、レッスンのあとはくたくただった。そしてモニックさんが、素人の私でもはっきり違いがわかりました、とおっしゃるほどに、彩子ちゃんと教授の演奏は音質が異なるものだったそうだ。まあそのようなわけで、彩子ちゃん、大変なショックを受けて、帰国。南野が日本へ戻ったあと、再びフランスへ戻ってきて、リヨン音楽院の入学試験。幸運を祈る。

 さて、彩子ちゃんと別れたあと、今度はモニックさんをサン・ラザール駅まで送る。サン・ラザール駅は、ノルマンディー地方へ向かう列車などが発着するパリ北西部の駅。ここからモニックさんは列車に乗り、リジュー(Lisieux)という街へ出発。リジューにはカルメル会の大きな修道院がある。ここはカトリックでは有名な、幼きイエズスの聖テレジアという聖人が死ぬまで修道生活を送ったところ。聖女テレジアは、一昨年没後100周年を迎えたばかりの比較的新しい聖人で、フランスでは非常に人気があり、ほとんどどこの教会にも彼女の写真や像が飾られている。モニックさんは、リジューのカルメル会に30年来の友人が入っておられ、彼女を訪ねるため、フランスに来られるたび、必ずリジューに滞在されている。南野も二年前、モニックさんと一緒にリジューへ行ったことがある。兵庫県西宮のカルメル会修道院に20年ほど住んでいたという、シスター・ベルナデッダがその人で、きれいな日本語を話される。30分ばかり彼女と話をさせて貰ったが、いやはや、聖女とはこういう人のことを言うのだろう、という気にさせられたのを覚えている。南野、自堕落な自分の生活を恥じた。

 昨年、モニックさんがリジューを訪問されたとき、なにかベルナデッダさんにお土産を、と思ったのだが、適当なものがなく、とっさに、かつて南野の実家からたくさん送って貰っていて、少し余っていた「トイレクイックル」をことづけた。修道院にトイレ掃除のグッズをプレゼントするというのも変で、若干とまどったものの、パリに戻ってきたモニックさんによると、シスター・ベルナデッダはたいそう喜んでくださったそうで、丁寧なお礼状と、手作りの、聖女テレジアの写真付きしおりなどをいただいたのを覚えている。それで今回も、やはりまだ余っていたトイレクイックルを差し上げることにした。我が家にはあと二袋残っているから、9月までの掃除には充分だろう。

 モニックさんの乗った列車が出た後、いったん自宅に戻り、夕方、家庭教師のためにでかける。一年ほど前にパリの日本語新聞に広告を出しておいたのが、今頃になって効を奏した。お母さんが日本人、お父さんがペルー人という中学生の女の子で、日本語とフランス語とスペイン語がぺらぺら。フランス語で書かれた教科書を使って数学と英語を教えることに。「分数」とか「少数」、「指数」といったフランス語は、南野、恥ずかしながらこれまで全く知らずに生きてきた。というわけで、教えながら南野も教えられることがある、という恵まれたアルバイト。9月になって南野が帰国した後は、岩月君に交代してもらうつもり。それで顔見せも兼ねて、今日は残り30分ほどのところで岩月君にも来てもらった。塾講師のアルバイトは経験があるけれど、家庭教師はしたことがない、という岩月君は緊張していた。

 夜、久しぶりに君子と夕食。先日岩月君に教えてもらったばかりの、15区にある韓国料理屋おどりにて。地球の歩き方フランス編には、「島田伸助にそっくりのおじさんが迎えてくれる」と書いてあるそうだ。島田伸助にも、この韓国人のおじさんにも、気の毒なたとえかたに思われる。しかし、そっくりではある。安くて本格的な韓国料理なので、先日岩月君と行ったときも、また今日も、韓国人と日本人のお客さんで満員だった。 

 

2000.7.21.(金)

 夜、モニックさんがリジューより戻って来られた。シスター・ベルナデッダトイレクイックルをたいそう喜んでくださったようで、お礼状といろいろのプレゼントをいただいた。幸福。その後、モニックさんとご近所の中華料理屋 chez Zhou で夕食。マダム Zhou に、9月に日本へ帰ります、といったところ、あらまあ、いいお客さんが一人なくなるわ、と言われる。せっかくいいご近所さんだと喜んでいたのに・・・、とかそういった気の利いたことは言えないのだろうか。複雑な気持ちでモニックさんをホテルまでお送りしたあと、帰宅。

 

2000.7.22.(土)

 モニックさんを北駅まで送る。今日からモニックさんは、パリの北東、エーヌ県リエス(Liesse)という小さな街へいらっしゃる。ここにも女子カルメル会修道院があり、リジューのシスター・ベルナデッダのお姉さん、89歳のシスター・アニエスがおられる。今日初めて知ったのだが、実はモニックさん、何十年か前に、このリエスのカルメル会で一年間ほど生活しておられたことがあるそうだ。それで毎回フランスに来られるたびに、モニックさんはリエスを訪問し、旧知を温めておられる、というわけ。

 夕方、もと子、玲子、君子来訪。実は来週の木曜日から、この3人にエティエンヌも加え、北欧三カ国(ノルウェー、スウェーデン、フィンランド)の旅に出かける。その最後の打ち合わせをした。南野、北欧へはこれまで行ったことがない。日本から行くとなると大変だし、パリにいるという地の利を活かし、なんとか日本へ帰るまでに行ってみようとかねがね考えていた。5人の予定がうまく合う日程、ということでこの時期になったのだけれど、飛行機の予約などをしたあとに、いろいろと事情が変わってきた。帰国までに仕上げなければならない大きな原稿が舞い込んできた。それによく考えると、北欧から帰ってきたら、もはやパリを離れるまでに一ヶ月しかない。引越の準備が大変そうだ。そしてその頃南野の姉がパリにやってくるかもしれない。そしてなによりも金欠。これまでの生活を切りつめたお金で行く訳だけれど、かなり不安。5人でなにもかも割るから、安上がりにはなるだろうとはいえ、北欧はとても物価が高いらしい。エティエンヌへの借金が増えるかもしれないな。

 さて、フランス語、英語、そして日本語のガイドブックをそれぞれ読み合わせ、いろいろと調べると、北欧のホテルはかなり高いらしいことがわかる。その反面、ユースホステルが設備もよく、一人2000円前後で泊まれるらしい(それでも他国のユースホステルに比べるとかなり高い)。それで人気があるため、夏は予約必須とのこと。メールをたくさん送るが、いずれも満員との返事。こまった。まだ返事待ちのユースホステルが何軒かあるので、望みを捨ててはいないけれど・・・。そういうわけで、どうなるかまだまだわからないことだらけの北欧旅行。8月にアップする予定の旅行日記に乞うご期待。

 夜、中華が食べたいという人と寿司を食べたいという人に意見が分かれたので、マレ地区にある、両方やっている変ちくりんなレストランへ行く。ここは以前、長谷川先生がちらし寿司を食べ、これはどう考えてもすし飯とは言えないな、とおっしゃったところ。で、南野は中華の安いセットメニューを食べる。これで満足。

 

2000.7.27.(木)

 北欧旅行へ出発。午前7時半シャルル・ド・ゴール空港発のエール・フランス機。エティエンヌと早起きする。空港での待ち合わせに玲子・君子はいきなり遅刻。空港行きの電車に一本乗り遅れたうえ、ターミナルを間違えたらしく、荷物をかかえた女子二人が息を切らせてカウンターにやってきたのはチェックイン締切の直後。二人遅れてくるから、と我々が頼んでおいたおかげで、なんとか無事にチェックインを済ませたあと、すぐに搭乗開始。君子が突然、あれ、蘭々じゃない? という。そう、鈴木蘭々がいたのだ。彼女のお母さんとスタッフ3人の小さな一行。カメラマンがデジタルカメラを回し、蘭々の搭乗風景を撮影している。やはりタレントはすごい。なんとも言えない風変わりなズボン、きれいに染められた金髪、そして何よりも、その顔の小ささに一同驚く。ちなみに南野、鈴木蘭々は大好きなので、本当はいろいろと話をしたかった。しかし近寄れない雰囲気なので、諦める。

 もちろん蘭々とそのお母さんはファーストクラス。そして我々はエコノミー。蘭々のスタッフ3人も気の毒なことにエコノミーだった。早朝の便で、昨夜もいろいろと大変だったのだろう、スタッフ3人は座席に着くやいなや、爆睡。予定より30分ほど遅れて、午前8時頃、我々の飛行機は離陸。予定では10時にストックホルムに到着のはずだった。パリとストックホルムは二時間の距離だ。ところが30分ほどの飛行のあと、南野もそろそろ眠り掛けていたところに、突然機長のアナウンス。技術的問題が発生したため、シャルル・ド・ゴール空港に戻ります、とのこと。飛び上がった飛行機が空港に戻るなんて、これまで南野は体験したことがない。やや不安になる。コンコルドの惨事は一昨日のことだ。機内もざわつきはじめ、客室乗務員がお客さんに説明をしてまわっている。相当ナーバスになってしまった乗客もおり、そういう人には乗務員がぴったりそばに寄り添って、全く大丈夫ですよー、などといいながら慰めている。そういう風景を見せられると余計心配になる。

 蘭々のスタッフはそんなことも知らずに熟睡しているから、そろそろ空港が見え始めてきたころ、起こして教えてあげる。え、それはやばい、と早速ファーストクラスの蘭々親子に伝えに行っていた。結局、無事にシャルル・ド・ゴール空港に戻ったあと、飛行機の点検・修理が始まる。その間、乗客は飛行機の中に閉じこめられたまま。せめて外に出して欲しかったが、とくに文句を言う乗客もなし。一時間ほど待たされたあと、機長の判断で飛行機を替えることになった。隣に待機していた飛行機に移動し、改めてシャルル・ド・ゴールを離陸したのが10時半。こんどは順調にストックホルムアーランダ空港までたどり着けた。いやはや、ほっとする。蘭々一行に挨拶をして別れる。

 北欧はとにかく物価が高いらしい。ホテルなどは、いわゆる日本のホテル並みのものばかり。しかも、冬は暗くて寒い毎日が続くから、観光客が夏に集中する。ガイドブックによると、夏は絶対にユースホステルを予約して行くのが良い、とのこと。ユースホステルの設備はどこもすばらしく、価格も他国のユースホステルに比べれば高いものの、それでもホテルに比べれば安上がりらしい。それで「ユース」でない人もユースホステルに泊まりたがるので、特に夏は予約が必要だ、というわけだ。我々も、出発前から手分けして、各国政府の観光局パリ出張所のようなところへ出かけ、ユースホステルのリストなどを入手し、電話を掛けたり、メールを送ったりして予約に挑戦していた。しかし準備を始めるのが遅すぎたらしく、ストックホルムのユースはいずれも満員で断られっぱなしだった。ぎりぎりになってようやく4人部屋が一つだけ、しかも一泊分だけ空いているというユースを見つけることができたのだけれど、それ以降のストックホルム滞在分の部屋は、ついに確保できないままの出発になっていた。仕方がないから、現地で観光をしながら、二日目以降の宿を探そう、ということにしていた。

 空港に着いた我々は、まず市内行きの空港バスに乗り、ストックホルム中央駅まで行く。実にきれいな街だ。空港でもそう思ったのだけれど、パリのように、あちこちにゴミが落ちている、ということがない。車の数も少ないし、歩行者も、大体が赤信号でちゃんと止まっているようだ。パリのように、至る所から歩行者が横断してくる、ということはないようだ。その反面、建物はなんとなくばらばらの建築で、パリのような趣はない。中央駅から、地下鉄に乗り換え、予約しておいたユースホステルまで向かう。地下鉄は大変きれいだ。ホームには、次の電車がどこ行きで、あと何分でやってくるか、という電光表示板があったりする。先進国だ。

 予約しておいたユースホステル、Ostra Reals は、夏の観光シーズン以外は、中学校か高校として使われているようだ。我々にあてがわれた部屋は、まさに教室。生徒用の机と椅子が後ろの方にまとめて片づけてある。教室の電気は蛍光灯。前には黒板と天井からぶら下がったテレビがある。そして真ん中の空間に、簡素なパイプベッドが4つ、ぶっきらぼうに置かれているだけ。こんなところに泊まるなんて、なんともおかしな気分。南野は、ベッドはとくに気にしないのだが、シャワーがどうなっているかには、非常に気をもむたちだ。それで早速シャワーを見に行く。学校でクラブ活動かなんだかしらないが、なにかのときに使うためのシャワールームなのだろう、映画などで見ることのある、刑務所の共同シャワー室とか、スポーツ選手の共同シャワー室といった感じの、要するにドアを開けるとロッカー付きの脱衣場があって、その向こうにタイル張りの20畳ほどのスペースがあり、その壁にいくつかのシャワーがついている、というただそれだけのものが地下にある。シャワーとシャワーの間には、なんの仕切りもない。なんとなく戸惑う。これは快適とは言えなさそうだ。

 シャワーとトイレを見学してきた女子二人も南野と同様の意見。恥ずかしくてシャワーに行けない、という。エティエンヌは、全く気にならないという。本当に鈍感な人だ。しかし考えてみると、日本の温泉やお風呂屋さんだって、隣に並ぶ人との間にはなんの仕切りもない。何が違うのだろうかと考えてみて、結局、日本人3人の意見は、座って体や髪を洗ったりできるかどうかの違いが重要なんだ、ということに落ち着く。

 そうこうしているうちに、午後3時をまわったので、そろそろ街へ出かけることにする。ストックホルムにはあと二泊する予定なので、その宿泊先を確保しなければならない。それで街を散歩しながら適当なホテルを片っ端から当たってみることにした。パリなどのヨーロッパの大都市では、だいたいこの方法でいつもなんとかなるものだ。

 旧市街の方まで、ユースホステルから歩いて行く。やはりきれいな街だ。ゴミがない。犬の糞も落ちていない。我々歩行者が信号のない横断歩道の手前にいると、どんな車も必ず停まって我々を先に通してくれる。これはパリでも、東京でもあり得ないマナーだと、一同感動する。バカンスの時期で、現地人がいなくなっているせいもあるのかもしれないけれど、そもそも道を行く車の数が圧倒的に少なく、人の数も少ない気がする。車が少ない上に、海に面した街でもあるので、空気が非常にきれいなのが実感できる。これで首都なのだろうか、と思う。海に面したオペラ座の近くに、大きな王立公園がある。お祭りの準備をしているような雰囲気で、たくさんの出店がテントを張る準備をしている。韓国料理の出店などはもう営業を始めており、焼き肉定食など、実においしそう。なんのお祭りがあるのだろうとか言いながら、オペラ座を越え、海に出る。しかしここへ来るまで、安そうなホテルは一軒もなかった。ちょっとパリなんかとは勝手が違う。

 海には大小さまざまな船やヨットが停泊している。遠くに、巨大な Viking Line 号が見える。ストックホルムとヘルシンキを結ぶ、豪華客船だ。我々も旅の最後にヘルシンキから乗船することになっている。あんな立派なフェリーに乗るのか、と今から楽しみになる。さて、ストックホルムの旧市街は、ここから橋を渡った先にある、ガムラスタンという小さな島の中にある。そしてここに王宮もある。国王一家は、10何年か前にストックホルム郊外へ引っ越したそうだが、国王だけは、平日はいつも、この王宮で執務をしているとか。国王が執務をしているのだけれど、王宮はツーリストに開放されていて、見学することができる。王宮内部の見学は明日以降にすることにして、まずは旧市街を散歩しながらのホテル探し。さすがにこの辺りにやってくると、たくさんの観光客が繰り出している。王宮前に突然パレードがやってくる。メキシコの水兵さんのグループとか、ドイツ人の若者のグループとか、土地の名前の入った旗をもって、行進している。まじめな行進は水平さんだけで、あとはだらだら、ビールを飲みながら踊りながら行進したりしている。なんなのだろう、このパレードは。しばし見学したあと、旧市街でもっとも観光客でにぎわう、両側に土産物屋の並ぶ古い石畳の通りを歩く。セブン・イレブンがある。日本と同じような雰囲気だ。便利そう。しかしホテルはない。だんだん不安になってくる。

 旧市街で一軒みつけたホテルでは、ストックホルムのホテルの高さを思い知らされてしまう。シングルルームしか空いておらず、一人一泊2万円近くもする。いやはや困った。とにかく街を歩いていれば、安ホテルに自然と出くわす、という具合の街ではないということがよくわかったので、中央駅のホテル予約センターへ行くことにする。完璧な英語を操るお姉さんが根気よく順番にホテルに電話をかけてくれる。ようやく、中央駅から旧市街のあるガムラスタン島を越え、さらに南にある大きなセーデルマルム島にあるホテルに4人一部屋二泊分を確保できた。本当にほっとする。いったんユースホステルに戻り、しばし休憩のあと、夕食に出かける。

 地球の歩き方に載っていたレストランで、一軒良さそうなものがあったので、そこへ行ってみる。地下鉄がとても便利。ところが実際に行ってみると、値段も高く、なんとなく観光客向きで気に入らなかったため、その近辺をぶらぶらする。すぐ近くに、いかにも現地人しか入っていない、大衆食堂のようなところがあったので、入ることにする。英語のメニューは全くない。しかしウェイトレスがこれまた実に上手な英語で順番にメニューを説明してくれる。となりの席には酔っぱらったおじさんが二人。酔っぱらいのおじさんでさえ、英語を上手に話す。スウェーデンとはすごいところだ。ビールが高い(生ビールが一杯800円くらい)のには驚くものの、食事の方は抜群においしく、このレストランは大ヒットだね、と一同喜びあう。満腹になったあと、ぶらぶらと街を散歩し、ちょっとしたカフェで一杯飲んだあと、ユースホステルへと戻る。

 

2000.7.28.(金)

 ストックホルム二日目。ユースホステルをチェックアウトしたあと、近くのパン屋さんのようなところで朝食。パン屋のおばさんでさえ、英語が上手。その後、荷物を持って、昨夜中央駅のホテル予約センターで予約してもらった Pensionat Oden へ向かう。地下鉄駅からすぐなので、便利。まわりは割合にぎやかなところで、買い物などにも便利そう。アパートの二階がまるまるホテルになっている。玄関でインターフォンを押し、受付にドアを開けて貰う。部屋は素晴らしい、の一言。大きなダブルベッドに、簡易ベッドが二つおいてあり、二人用の部屋を急遽4人用にしたものだ。しかしちゃんとしたホテルで、シャワーとトイレは共同なものの、廊下にいくつかあって、どれも大変きれいにしてある。共同キッチンもある。これで昨日のユースホステルとあまり変わらない金額なので、一同大満足。

 ホテルの向かいに、なかなかおしゃれな洋服屋があり、南野、女性陣のお見立てに従って、オレンジ色のシャツを一着購入。サマーバーゲンで半額になっていた。約3000円。その後、王宮へ向かう。王宮のあるガムラスタン島までは歩いて行けそうだ。途中、断崖の上から海を見下ろす散歩道を通る。本当に空気がきれい。きれいに晴れ渡り、眼下には海と旧市街、そしてストックホルム中心部が広がる。この散歩道から、まずはもと子に電話。もと子は明後日、ストックホルムに到着し、我々に合流する。用事があって、我々より3日遅れての出発となった。待ち合わせの場所などの打ち合わせのため、ストックホルムから電話をかけることになっていた。南野の携帯は、ここでも活躍する。その後、マルタンに電話。マルタン君は、もと子や玲子のパリでの語学学校の同級生だったスウェーデン人で、現在ストックホルムに住んでいるとか。南野はもちろん、会ったことがない人だけれど、せっかくもと子や玲子が来るのだから、一緒に遊ぼう、ということになっていた。初めて話すマルタンは、感じの良さそうな青年で、早速今夜、夕食を一緒にすることになった。フランス語も上手だ。

 王宮は、昨日も思ったとおり、あまり派手な建物ではなく、王宮としてはむしろ不細工な建物の部類に入る気がした。中にはいろいろと博物館が入っており、その中の一つ、王家武儀博物館(『地球の歩き方』訳:Livrustkammaren)を見学。王族の衣服や武器、馬車などが展示されているが、どうも興味を惹かれない。エティエンヌと君子は興味津々だったようだけれど。その後ぶらぶらしながら、シェップスホルメン島、さらにカステルホルメン島へ足を伸ばす。夏になると、ようやく昇った太陽を求めて現地人が日光浴に訪れる、と書いてある地球の歩き方の記述通りに、現地人らしき人たちがとくに何をするでもなく、海辺の芝生の上にごろごろしている。そういうのんびりした雰囲気のなか、我々一同もぶらぶらと散歩。繰り返すが本当に空気がきれいだ。

 対岸に見える別な島や、海を行き交うヨットや船を横目に見ながらの散歩は快適そのもの。夕方、いったんホテルに戻ったあと、マルタンとの待ち合わせ場所へ向かう。出来たばかりでマルタンも行ったことがないという、ユールゴーデン島の森のなかにあるレストラン・バーへ案内される。待ち合わせ場所から半時間ほど歩いただろうか。こんなところにバーがあるのか、と思われるほど、ずんずんと森の中を進んでいくと、ちょっと小高くなったところに、人家の灯りのようなものがおぼろげに見える。そこが目的地。海に漂うヨットを見下ろしながら、ビールが冷えていないからと言われて注文した梨のシードルで乾杯。上手なフランス語を操るマルタンは、22歳で、ストックホルム大学の法学部生。ヨーロッパ法を専攻しようと考えているとか。来年あたり、フランス留学も考えているらしい。

 海に面した森のなか、しかも小高い丘の上にあるオープンカフェは、さすがに夏とはいえ、じっと座っていると寒い。面白いことに、椅子には毛布が置いてあり、寒いと感じるお客さんはそれにくるまって飲み食いできるようになっている。君子と玲子は早速毛布にすっぽり包まれて冷えたシードルを飲んでいた。あまりおいしそうな食事がなかったのと、そんなにお腹が空いていたわけでもなかったため、食事は他の場所でとることにする。これまで歩いてきた距離を再び歩いて戻るのは嫌なので、バスに乗ることにする。マルタンによれば、この先さらに森を行ったところにバスの停留所があるという。ほんとかよー、と思わせるような道なき道を進むこと30分、だんだんマルタンも不安になってきて、これならもときた道を戻った方が早かったかもね、などと言い始める始末。まあ、男が三人もいるし、そのうち一人は現地人だし、滅多なことはないだろう、などと思いながらも、やや不安になり始めていたころ、ようやく舗装された道に突き当たり、無事バス停を発見。こんなところのバス停にもちゃんと時刻表が貼ってあり、安心して15分ほどバスを待つ。ようやく午後11時頃、運転手しか乗っていないバスがやってきて、我々を無事にストックホルム中心部まで送り届けてくれた。

 食事もできるおしゃれなディスコがあるから、というマルタンに従って、tip top とかいう名前のディスコへ入る。18歳未満は入場禁止のこのディスコの入り口で、君子嬢、ガードマンに身分証明書の提示を求められる。どうやら18歳未満に見られたらしい。東洋人が実年齢より若く見えるというのは、ここスウェーデンでもそうらしい。一同大笑い。君子は若く見られたと大満足。結局このディスコでは、ディナーの時間はもうとっくに過ぎている、ということで食べられず。午前一時頃、ディスコのそばにあるセブン・イレブンでホットドッグやパスタなどの軽食。まるで日本だ。その後疲れたから、とタクシーでホテルまで帰ることにする。メーター制のちゃんとしたこのタクシー、ほんの10分くらいの距離なのに、約2000円。タクシーの高さもまるで日本だ。マルタンは深夜バスで帰るとか言っていた。

 

2000.7.29.(土)

 ストックホルム三日目。昨夜遅かったこともあり、一同、朝寝坊。昼前になってホテルを出発する。本日のメイン観光目的は、ユールゴーデン島にあるヴァーサ号博物館。戦艦ヴァーサ号は、1628年、処女航海のその日に、突風に襲われ沈没したとか。その後記録が消失したりして、どこに沈没したのか分からないままになっていたのが、1956年、考古学者によってストックホルム港内でついに発見され、1961年、沈没してからちょうど333年後、船体が引き上げられたという。なんでも、現存する最古の完全船として有名だそうだ(『地球の歩き方』談)。引き上げられたヴァーサ号を巨大な建物に納め、関連する様々な遺物や、造船当初の様子の説明などを展示しているのが、このヴァーサ号博物館。巨大な帆船を納めるために設計されたこの博物館の建築そのものも大変ユニークで面白い。地上6階に及ぶ吹き抜けにどーんと置かれたヴァーサ号をぐるりとまわるように様々な展示があり、順番に見ていくと、当時の宗教戦争の様子、ストックホルムにおける造船業の展開過程、またヴァーサ号そのものがどのようにして作られたか、さらにどうして処女航海で沈没してしまったかの分析などなど、実に興味深い知識を順番に得られるようになっている。大変よくできた博物館だ。ちなみに沈没の原因は、当初は敵対するポーランドの陰謀説、船員の泥酔説などもあったようだけれど、実際のところ、船の横幅に比べて高さがありすぎ、しかも重さが足りなかったため、横揺れに耐えきれなかった、という単純な設計ミスらしい。

 博物館のあるユールゴーデン島は、昨夜マルタンたちと毛布をかぶってシードルを飲んだ森の中のバーがあるところ。大きな島なので、昨夜通ったあたりはまったく見ることもなく、博物館を出たあとは、真新しい景色を散歩する。遊園地があった。日本のそれと同じようなジェットコースターなどがいろいろあって、大変なにぎわいよう。焼きそばの出店でもあればいいのになあ、などと言いながらちょっと覗いて見ようかと思ったところ、さすがに日本並みの物価のスウェーデン、遊園地に入るためにも入場料を取られることがわかり、あきらめる。近くのハンバーガーショップで簡単な軽食を取る。その後、マルタンにおいしい日本料理をご馳走してやろう、ということになり、地球の歩き方を頼りに、ストックホルムに何軒かある日本料理レストランを下見。結局、旧市街のあるガムラスタン島にある、将軍というレストランが、女将さんも日本人で雰囲気もよさそうだったので、予約をいれておく。しかし高い。一人5000円はかかりそう。パリの安い日本料理屋に慣れた我々には、ちょっと異常な高さに思われる。君子と玲子はほんの少し、エティエンヌは大いに、その高さに渋っていたものの、この後都会を離れてスカンジナビア半島の北へ北へと行ったら、とても日本料理なんて食べられないだろうし、物価もさすがに少しは安くなるだろうから、最初で最後の贅沢ということでいいんじゃないの、という南野の強引な説得を受け入れてくれる。そしてマルタンに待ち合わせ場所を知らせる電話。

 待ち合わせまでしばらく時間があったので、エティエンヌはホテルにいったん戻り、シャワーをするという。日本人三人は、旧市街を散歩。もともと頭痛持ちの君子がアスピリンを買いたいというので薬局を探したりする。パリは本当に薬局の多い街だが、このあたりには全くない。土産物屋で聞いてみると、ストックホルム中心部に土曜日も空いているものが一軒あるだけ、とのこと。君子の頭痛はひどくなるばかり。泣きそうな顔でハンドバッグを念のため探していた君子は、偶然バファリンを一錠見つけ、ほっとする。はじめからちゃんと探していれば薬局探しの旅をしなくてもよかったのに。

 待ち合わせ場所のカフェに入り、南野はあやしげな日本茶(砂糖が一緒に出てきた!)、玲子はカフェオレ、そして君子は水でバファリンを飲む。カフェの前の広場には特設舞台が作られており、なにやら前衛演劇のようなものが始まった。ホテルから戻ってきたエティエンヌは、寒空のなかカフェに入りもせず熱心に舞台を鑑賞しているようだ。ちょうど舞台が終わったころ、約束の待ち合わせ時間になり、マルタン登場。5人そろって、いざ将軍へ。女将さんが日本人というのはそうだったのだけれど、他の店員さんはみな国籍不明のアジア系。もちろん日本語は通じない。マルタンによるとスウェーデン語もひどいなまりがある、とのこと。ただメニューは完璧な日本語でわかりやすい。女子はすき焼きセットメニュー、男子は焼き肉セットメニュー。小鉢などがついて豪華。味の方はまあ、悪くもなく良くもなく、というところか。ビールも飲んで、5人で締めて約3万円。いやはやすごい値段だ。しかしマルタンは大満足してくれていた。その後ホテルの近くまで歩き、バーに入って珍しいビールを飲んだあと、パリに戻る前に我々はもう一度ストックホルムに戻ってくるため、その日の再会を期してマルタンとお別れ。マルタンは地下鉄で、我々は徒歩で帰宅。明日はいよいよストックホルムを離れる。

 

2000.7.30.(日)

 ストックホルムを離れ、スウェーデン最北部の小都市、キールナ(Kiruna)へ向かう。人口約26,000人、ラップランド地方に属するこの街は、ここからさらに北、ノルウェーの最北端を目指す旅人の中継地のような役割を果たしている。実は我々も、このあとスカンジナビア半島最北端に位置する北岬(ノールカップ)を目指すためにここへ立ち寄ることにしていた。

 ホテルをチェックアウトしたあと、メトロでストックホルム中央駅まで行き、そこからさらに空港バスに乗り、ストックホルム・アーランダ空港へ。SASスカンジナビア航空のチェックインカウンターで列を作っていたところ、もと子が走ってやってきた。一人遅れてこの旅に参加したもと子は、今朝10時着のエールフランス機でストックホルムに着くことになっていた。我々のキールナ行きの飛行機の出発が11時だから、乗り換えには一時間しかない。しかもパリ・ストックホルム間とストックホルム・キールナ間の飛行機会社は別なものになっていたため、気の毒なもと子はストックホルムに着いた後、スウェーデンの入国手続を済ませ、いったん外に出た後、別なターミナルにあるチェックインカウンターへ走ってこなければならないことになっていたのである。かなり危険な時間配分だったものの、これを逃すと次のキールナ行きの便は夜になってしまうため、こういう予定を組んでいた。万一もと子が間に合わなかった場合は、だれか一人がストックホルムで彼女を待ち、キールナで合流しよう、ということにもしていた。

 そういうわけでハラハラしていたため、もと子が走って現れたときには、一同大喜び。間に合ってよかったよかった。さて、キールナ行きの飛行機は、想像していたとおり大変小さなもので、しかも驚いたのはその搭乗手続の簡単なこと。手荷物チェックが全くないのである。なんでも持ち込み放題だ。テロに無縁の国家なのだろうけれど、やや心配になる。キールナまでは一時間半の空の旅。パリ・ニース間が一時間の距離だから、スウェーデンという国の南北の長さが知れよう。

 キールナ空港も、これが空港かという感じの簡素なもの。国内便しか利用しないためか、なんの手続もせずに空港ロビーに到着。ロビーといっても高校などのちょっとした教室程度の大きさしかない。その中にカウンターがあって、Avis などのレンタカー会社がテーブルを共有している。こういうところでは企業間競争もないのかもしれない。Avis のカウンターに名前を告げると、お待ちしてました、という感じで書類がさっと出てくる。インターネットで前もって予約しておいたレンタカーは、5人で乗るため、やや大きめの車。実に簡単な書類にサインをし、鍵を貰う。車は外の駐車場に停めてあるから探してくれ、とのこと。返却は5日後だが、もしもカウンターに誰もいなければ、鍵だけをこのボックスに放り込んでおいてくれ、と言われる。そんなレンタカー会社ってあるか。傷の有無のチェックとか、何にもしないというわけだ。

 我々にあてがわれた車はトヨタの新車。非常に快適そうだ。早速南野の運転でキールナ中心街へ向かう。運転マナーの良さには、すでにストックホルムで充分感動させられていた南野、郷に入っては郷に従えで、紳士的運転に努める。北欧では日中でもライトをつけて走らなければならないとか、制限速度はきちっと守る、歩行者がいたら必ず停まる、といったことがフランスの運転との大きな違い(制限速度遵守と歩行者優先は、フランスでも規則上はそうなっているはずだけれど)。あとは交通標識など、フランスと大きな差はない。標識の違いと言えば、フランスでは牛に注意の標識があるところ、このあたり、ラップランドではトナカイに注意の標識があることだろうか。

 空港から中心街へはほんの10分ほどの距離。中心部(Center)という標識に従っていくと、簡単にインフォメーションセンターのある広場へ出た。町の中心の広場といっても、車百台分くらいの駐車場が中央にあって、そのまわりを取り囲むように背の低い建物が建っているだけの簡素なもの。その建物の一つがインフォメーションセンターだ。あとはハンバーガーショップ、コンビニエンスストアーのようなもの、ちょっとしたお土産屋さん、それに銀行くらいか。まずはインフォメーションセンターで、キールナ鉱山のガイドツアーの時刻を調べる。地球の歩き方によると、キールナの町は1900年に鉄鉱石が産出されてから、鉱山の町として大きく生まれ変わったとか。「高品質の鉄鉱石は、スウェーデンの重要な資源となり、鉄鋼産業をもたらしたのである。キールナからナルヴィクに抜ける鉄道を、鉄鉱石を満載した貨物列車が日に何回も走っていく」そうだ。こういう類のことに非常に興味があるエティエンヌの提案で、もしも11時発の飛行機に乗れた場合は、キールナで鉱山見学をしていこう、ということになっていた。ガイドさんに従っての見学しかできない鉱山なので、そのツアーの時刻をインフォメーションで調べると、スウェーデン語、ノルウェー語、ドイツ語の他には英語のツアーしかない。英語のツアーまでは2時間ほど余裕があったので、その間に、この地方のもう一つの観光名所である、全て氷でできているというアイス・ホテルを見に行くことにした。

 アイス・ホテルは当然のことながら、夏になると解けてしまうはずで、この時期には見られないものだとばかり思っていたのだが、インフォメーションセンターには現在もオープンしている、と書いてある。車で30分ほどの距離なので、そんなはずはない、と言い張るエティエンヌを説き伏せ、行ってみることにした。道路沿いのアイス・ホテルという矢印に従って進むこと約30分、それらしきところに到着する。しかしやはり何もない。あるのは巨大な倉庫のような、まわりの大自然に不釣り合いな建物だけ。そしてその建物には、アイス・ホテルという看板が出ている。どうやら夏の間は巨大な冷凍庫のなかで、別な建物を造り美術館のような活動をしているらしい。冬にはちゃんとその隣に氷でホテルを作るらしいけれど。高い入場料を払うと、分厚い防寒服を着せてくれ、展示品を見学できるらしい。ホテルじゃないのなら、別に見なくてもいいよねえ、ということで入らないことに。すぐ近くに巨大な湖が広がっており、初めて見る、いかにも北欧、といった感じの風景を少々散歩する。そして売店でホットドッグなどの軽食を取ったあと、再びキールナのインフォメーションセンターへ。

 英語のツアーに参加した人は、我々5人を含めて全部で20人ほどか。インフォメーションセンターの前から、鉱山会社の運営するバスに乗せられて、遠くに見える巨大な鉱山へと向かう。我々の近くに座っていたお父さんと小さな娘さんの二人組は、フランス語を話している。すぐ分かったので、我々は一切フランス語を話さず、日本語だけでしらを切ることにした。もちろんエティエンヌも日本語を話しながらまるでフランス人ではありません、という顔をしている。そうすると、我々に感心を示したお嬢ちゃんが、お父さんに我々の話している言葉は一体何語なのか、と聞き始めた。お父さんは得意げな顔で、スウェーデン語だと思う、と言っている。我々一同、吹き出しそうになるのをこらえながら、二人の会話に聞き入る。お嬢ちゃんは、今度はどうしてスウェーデン人ぽくない4人(つまり我々日本人のこと)がスウェーデンにいるの、と質問。お父さん、きっと彼らの親はベトナムか中国にいるんだよ、と言っていた。ついに我々が、パリ在住の日本人であるということは知られることのないままに、バスは鉱山の入り口へと到着。

 現在も国営企業が掘削しているこのキールナ鉱山は、地下鉱山としては世界最大のもので、約2000人が現在でも働いているという。キールナの人口26,000人のうち、2,000人が鉱山関係者、というわけだ。我々を乗せたバスは、急な下り坂のトンネルをずんずんと進んでいく。本当に真っ暗だ。突然、核シェルターのような大きな金属製の扉の前で降ろされ、バスが走り去っていくと、おもむろにその巨大扉が開き、ガイドさんが中へと案内してくれる。地下500メートル、大変寒い。間抜けな南野は、これまで鉱山見学などしたことがないものだから、すっかり地上の服装のまま、バスに乗り込んでいた。Tシャツ一枚では、地上にいても北極圏だからやや肌寒く感じていたというのに、この地底におりたつと、まるで冷蔵庫のなかにいるかのようだ。寒い。玲子はバスで一緒だったポーランド人の親切なおばさんに、羽織るものを借りていた。いつも抜かりのないエティエンヌはちゃんとセーターをリュックから取り出している。もと子と君子は地上でも厚着だったから、あまり問題はなさそうだ。全員にヘルメットが配られ、ガイドさんの説明で鉱山の歴史などを聞かされる。簡単な企業宣伝の映画のようなものも見せられる。そしてその後は掘削機のデモンストレーション。鉄鉱石が磁石にぴたっと張り付くところなどのデモンストレーションもあった。ガイドさんが何か質問がありますか、と聞くたびに、熱心なエティエンヌはいろいろと質問をしている。寒いのと退屈なのとで早く地上に戻りたくて仕方のない南野は、うきうきしているエティエンヌを恨めしく思う。

 一時間以上に及ぶ説明が終わったあと、ちょっとした休憩小屋のようなところでコーヒーやクッキーの無料サービス。体が温まる思い。そこにアンケート用紙があって、エティエンヌがなにか熱心に記入している。何を書いたかと聞くと、先ほど見せられた鉱山の歴史、というよりは企業宣伝の映画、スクリーンの中央部分がどうもピントがあっていない、それを直した方がいいと書いた、と言う。ああ、なんて一生懸命な人なんだ。鉄鋼ツアーのバージョンアップのために貢献しようとしている。映画の途中から、あまりの退屈さに爆睡していた南野とは大違い。

 何かの映画で見たような、鉄格子に囲まれたエレベータに、ランプのついたヘルメットをかぶって乗り、ずんずんと垂直に地底深くまで降りていく鉱山ツアーを想像していた南野は、バスを降りた後、ほんの一部分だけの空間に2時間も閉じこめられて、なにやら企業宣伝ばかりを聞かされた思いがして大いに不満の鉱山ツアーであったが、エティエンヌは大喜び、女子一同もまんざらでもない様子だった。待望の帰りのバスが出発する段になり、ようやく南野、元気を取り戻すという始末。

 キールナ中心部のインフォメーションセンター前で、もと子が買った巨大なソフトクリームをみんなでぱくついた後、いよいよ本日の宿泊地である、ノルウェーの港町、ナルヴィク(Narvik)へ出発。キールナからは約200キロの距離だ。いくつもの峠を越えたり、時には地平線が見えるかのような広大な平原の間を通ったり、また時には険しい山道や、湖畔のきれいに舗装された道を通るなど、全く飽きの来ないドライブを3時間近く続けたあと、ついにナルヴィクに到着。途中のスウェーデン・ノルウェー国境は、ただ看板が岩肌に突き刺してあるだけ。記念写真をとる。パスポートにスタンプを押して貰おう、という我々の野望(?)は見事に砕かれた。そもそも国境に人がいないのだから仕方がない。さて、今夜の宿泊先は、前もって電話で予約をしておいたユースホステルだ。フロントでは完璧に英語が通じる。ノルウェーもスウェーデンなみだ。我々5人にあてがわれたのは、一軒だけ独立した山小屋のようなもの。ベッドが5つ、キッチンやトイレ、シャワーなどがついている。鍵を貰って中に入った我々は、その快適さに感動。これで一人一泊2000円ほど。ただしレンタル・シーツ代が別に600円ほどかかる。こんなに大きなキッチンがあるなら、明日の昼食はここでサンドイッチなどを作っていき、どこかドライブ途中で食べよう、ということになる。こういうとき、女性がいると大変便利だ(おっと性差別的発言かな)。

 そろそろ夕食の時間になっていたので、再び車に乗って町の中心部へ出かけることに。ユースホステルのお姉さんお勧めのレストランを探しがてら、明日の朝食と昼食の材料を売っていそうなスーパーを探す。夏は午後10時、冬は午後6時、といういかにも北極圏らしい閉店時刻をでかでかと掲げたスーパーを発見する。女子3人が手際よくパン、チーズ、サラミ、レタスなどを買い物かごに詰めていく。ノルウェー海に面したナルヴィクだから、シーフードがおいしいに違いないということで、小エビがマヨネーズソースに漬けられたようなものも買ったりする。明日のピクニックが楽しみだ。

 ユースホステルのお姉さんお勧めのレストランは、最悪だった。まず、べらぼうに高い。これはノルウェーでは普通の料金なのだろうか。たしかにスーパーでも、一同物価の高さに驚いてはいたし、スウェーデンでもレストランは高かった。南野など、注文したシーフードピザが2000円以上もするのに驚愕してしまう。フランスの二倍以上の価格だ。そういえば、スーパーで売っていたタバコ、マルボロ・ライトは1箱1000円近くもしていた。いやはやノルウェーの物価、ただものではないようだ。値段が高いのは、ノルウェー全体の物価がそうなのだとしたら仕方がないとして、このレストラン、実にまずかった。特に南野のシーフードピザ、どうも冷凍食品を温めなおしたような冷蔵庫臭さが気になって食べられたものではなかった。そういうわけで、ウェイトレスが大変美人で感じの良い人であったということにも関わらず、不満で一杯の夕食とあいなった。そそくさとユースホステルへ戻る。

 さて、北極圏での夜は今夜が初めてだ。午後11時をまわっても、外はまるで夕方のよう。なのに部屋の中には薄っぺらいカーテンが一枚あるだけ。カーテンを閉めても室内は何となく薄明るいし、しかもカーテンと窓の間に微妙な隙間があって、そこから外の光が入ってくる。人一倍神経質なエティエンヌが寝られないのではないかと心配していたが、さすがに旅の疲れもあってか、ぐっすり寝られたようだ。鈍感な日本人4人が全く何の問題もなく熟睡できたのは言うまでもない。明日はノルウェーをさらに北上する。

 

2000.7.31.(月)

 ナルヴィクのユースホステル・山小屋を午前9時半ごろ出発。一つしかないシャワーを順番に使ったあと、女子は丹念にお化粧、そして道中で食べるサンドイッチづくり。化粧なんてしなくていいのに、と言っているのに、化粧がうまくいかないと、一日気分が悪いのだそうだ。そういえば南野も、髪型がうまくきまらないと一日気分が悪いかも知れない。朝、準備が一番早いのは、そういうわけでエティエンヌである。

 さて、我々の今回の北欧旅行のメインは、スカンジナビア半島の最北端、ノルウェーに属するノールカップ岬へ行き、夏の間は24時間沈まないという太陽を見る、ということ。当初はストックホルムで車を借りて、北まで進もうという計画だったのだけれど、道路地図で距離の概算などをしてみると、とてもとても回りきれない遠さであることが分かったため、キールナまで飛行機で飛び、そこからレンタカーで北部を回ることにした。予め観光ポイントなども綿密に(?)調査し、走行距離なども計算して、毎日の宿泊先だけは決めておいた。北部は人口も少なく、町も小規模だから、ガイドブックの情報も少ない。それで手分けして各国の政府観光局パリ出張所などへ出向き、ホテルのリストなどを入手し、電話やメールを駆使して予約する、という入念な準備をしての旅行とあいなった。普段はそんなに予定をきっちり組まないタイプの旅行をしてきた我々五人も、何もないナルヴィクについて、やはり予め宿泊先を決めておいてよかったと思わずにはいられなかった。

 今夜の宿泊先は、ナルヴィクとノールカップ岬のちょうど中間あたりに位置する、アルタ(Alta)という町。ナルヴィクからは約500キロのドライブだ。さすがはスウェーデンよりもさらに豊かな国ノルウェーだけあって、こんな北極圏でも道路は実にきれいに整備されている。おまけに車が少ないから、ドライブは快適そのもの。時々すれ違う車はノルウェーやスウェーデン、あるいはドイツなどのキャンピングカー。こういう大がかりな車に乗って、家族揃って、あるいは友人たちとの気ままなキャンプ旅行は、さぞ素晴らしいものだろうと思う。ヨーロッパは至る所にキャンピングカー専用の駐車場があり、そこにはキャンプ用の諸設備が揃っているという。人々がバカンスの計画をたてるのに夢中になるのもうなづけよう。いい生活だ。

 ドライブ途中には、なにもない。もちろん、大自然が前後左右に広がってはいるのだけれど、とにかく人の気配がないのである。人家がなければ、当然町もない。どこまで見ても建物一つない。あるのは山、海、川、湖、そして平原くらい。そして所々に万年雪。ところが時々、実に不思議なことに、平原の真ん中、あるいは山の中腹などにぽつんと一軒家があったりする。いったいあれは何なのだろう。まさか常に人が住んでいるとも思えない。バカンス用の別荘だろうか。しかしこんなに何もないところにバカンスにやって来るかどうかも怪しいし、そのために家をぽつんと建てておいておく、というのももっと不思議だ。いまだにああいった一軒家はなんだったのか、まるでわからない。幸い我々は天気に恵まれ、今日もきれいに晴れ渡っている。空が広く、雲が低く感じられる。太陽が昇らない冬はこのあたりはどういう景色になっているのだろうね、などといいながら、快晴の北極圏ドライブを満喫する。

 道路沿いには、ところどころ、景色の素晴らしいところなどに駐車スペースが設けてあり、我々も時々車を停めては新鮮な空気を吸ったり(南野はタバコを吸うのだけれど)、写真を撮ったりする。大きな駐車スペースになると、トイレなどもある。驚くのはこういうところのトイレであっても、実にきれいにしてあること。ちゃんとトイレットペーパーがおいてあるし、手を拭くためのペーパータオルまで設置されていたりする。大した国だ、ノルウェーは。このあたりはノルウェーのラップランド地方なので、トナカイ注意の看板も至る所にあるものの、残念ながらまだ一度も本物のトナカイに対面していない。対面できたのは、奇妙な鳥と、時々駐車場にキャンピングカーで乗り付けて売店を出している現地人が売る、トナカイのぬいぐるみや毛皮のみ。お金持ちの家の玄関とか客間の床においてありそうな、トナカイの大きな毛皮は、ほんの2〜3000円くらい。これも各国の首都で買うとすごい値段になるのだろう。

 いくつかのトイレ休憩のあと、割合広い駐車場があったのでそこで昼食を取ることにする。駐車場といっても、停まっている車は我々の他にはイタリアナンバーのキャンピングカーが一台、それに土産物を売っている現地人のキャンピングカーくらい。ちょっとした東屋のようなものがいくつか建ててあり、その中の一つに女性陣が腕を振るって作ってくれたサンドイッチや果物、飲み物などを詰めた袋を持って陣取る。中央にたき火用のスペースがあり、まだくすぶっている残り木がある。ベンチの下には自由に燃やして良いらしい薪があったので、君子ががんばって火をおこす。真夏の、しかも快晴の真昼なのだけれど、たき火で暖まりたくなるような、そういう寒さなのである。

 名も知らない巨大な湖が眼下に広がる東屋で、たき火を囲みながらのお昼ご飯、大変印象深い、すばらしいものであった。日本のハイキングコースなどによくある、「来たときよりも美しく」の標語通りにきれいに片づけ、トナカイの毛皮などをちょっと冷やかしに覗いてみたあと、再び車に戻り、アルタを目指す。こういうピクニックで足りないものは、フランス風の生活になれた我々5人にとっては、食後のコーヒーだ。こんなことになるのなら、パリから魔法瓶でも持ってくればよかったと後悔する。どこかでカフェを見つけたらすぐ入ろう、ということでいざ出発。

 日本だったら、「ドライブイン 焼き肉定食800円!」とかいう看板がどっかにあるんだけれどね、などといいながらカフェを探すものの、やはりしばらくはなさそうだ。アルタの手前でようやくほんの少し開けた町らしきものを発見する。町らしきものといっても、単にガソリンスタンドとなにかの工場のような建物、それからお店らしきものがぽつぽつとあるだけのもの。外からは全く中が窺いしれない建物の入り口に、カフェ・オープンという意味らしきノルウェー語が書いてあったので、思い切って南野、ドアを開けてみる。中はなぜか毛糸屋さんで、おばさん3人が編み物をしている。毛糸の他に、毛糸で作った手袋や帽子なども販売しているようだ。真ん中に一つテーブルがおいてあり、どうやらそこでコーヒーを飲ませてくれるらしい。「ファイヴ、コーヒー、OK?」と聞くと、うなずかれたので安心する。それで他の四人を呼び寄せ、着席。ついに英語が話せないノルウェー人を発見したぞ。

 我々のコーヒーは、魔法瓶から紙コップに注がれて出てきた。これはもしかしたら、旅人に無料で振る舞っているのではないか、などと思ってしまう。しかしちゃんと、キッチンと我々のテーブルを仕切るカウンターのようなところに、コーヒー一杯10クローネと書いてある。約8フラン、120円ほどだ。もと子はおばさんの身振り手振りの薦めにしたがって、ワッフルを焼いて貰う。なかなかの美味だった。15クローネ。しばしの休憩の後、おばさんたちにお別れをして、車へ戻る。アルタまではもう2〜3時間の距離だ。

 アルタのユースホステルに到着したのは午後8時ごろだっただろうか。外が明るいのでそういう実感は全くない。アルタのユースホステルは、いかにもユースホステルらしい感じの建物だった。受付を通って進む廊下の一番奥、右側の5人部屋が我々の部屋。二段ベッドが二つ、それに一つ簡易ベッドが置かれている。バス・トイレは共同だ。受付でレストラン情報を聞いた後、まずはスーパーへ買い出しに。明日の昼食もまた、女性陣の手作りとなる。地球の歩き方によると、町の西を流れる「アルタ川では体重20キロを超える良質の鮭がとれる」らしい。ついにサーモンの本場へやって来たぞ。というわけで、明日のサンドイッチはサーモンサンドイッチと決まる。夜遅くまで空いているスーパーでは、パック詰めになったサーモンがたくさん売っている。女性陣によると、パリよりも断然安いようだ。初めてパリよりも安いものを見つけた。ユースのお姉さんが教えてくれたレストランは、この辺鄙な町には不釣り合いの、と言っては失礼かもしれないが、大変おしゃれなバー・レストラン。英語のメニューがお店にただ一枚だけあって、それを順番に見ながら品定め。残念ながらトナカイ肉の料理は品切れだったのだけれど、魚介類のスープなどは、フランスのそれのような魚臭さがなく、大変な美味。ナルヴィクのひどいレストランと大違いだと一同満足する。

 ところで、ここアルタは、古代の岩絵があることでも有名。地球の歩き方には、「氷河に削られた岩に、無数に散らばる岩絵。ユネスコの世界文化遺産に指定されたアルタの岩絵は、紀元前9000〜1800年の間に描かれたとされ、約2000点もの絵が刻まれている。(中略)不思議なことにトナカイ、船、人などがそれぞれ集中して描かれ、全部で6つのエリアに分かれている」とある。これらの岩絵は、アルタ博物館とその裏の海岸との間に点在しており、博物館で入場料を払ってから、博物館裏の遊歩道を歩きながら生の岩絵を見るようになっている。この博物館、夏は午後11時まで開いている。如何に日没が遅いのか、お分かりいただけるだろう。受付で聞くと、博物館の建物は午後11時で閉めるものの、裏の遊歩道の方はいつまでも自由に散歩していて良い、出口は別にあるから、ということなので、夕食後、すでに10時過ぎだったのだけれど、この岩絵を見に行くことにした。

 受付のアドバイスに従い、午後11時に閉まる前に、博物館の内部、岩絵に関する展示や、古代人の生活についての展示をまず見学する。こんな北のはずれに、そんな昔に人間がいた、というのは不思議で仕方がない。どうしてもっと南へ降りて行かなかったのだろうか。いや、何千年もかけて、南の穏やかな地方へと移住を続けた結果が、現在のノルウェーやスウェーデンの人口分布となっているのかもしれない。外に出て、岩絵を見学。これまた信じられない気がして仕方がない。たしかに古代人の絵のようには見えるけれど、明治時代くらいのアルタの悪ガキが、ちょっといたずら気分で古代風の落書きをしたなどと思えなくもない。あるいはまた、ひょっとしたら、アルタの市役所が町の活性化のために大がかりな詐欺をしているだけかも知れない。まあしかし、ユネスコが世界文化遺産に指定しているのだから、信じることにしよう。博物館の説明をちゃんと読めば、こういうバカな疑いは吹っ飛ぶのかもしれないけれど。

 遊歩道から手を伸ばせば簡単に触れてしまえそうな距離にある岩絵を一通り見た後、車でユースへ戻る。まだまだ夕方のような明るさだけれど、すでに日は替わっている。明日はいよいよノールカップ岬。

 

 

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