個人的ニュース 

2000年8月1日〜8月27日分

 

2000.8.1.(火)

 アルタを出発、いよいよ今回の旅行の最大目的地であるヨーロッパ大陸最北端、北緯71度10分21秒に位置するノールカップ岬を目指す。アルタからは250キロほどの距離。今日は楽なドライブだ。たったいま、ヨーロッパ大陸最北端、と書いたけれど、実はこれは嘘。ノールカップ岬があるのはマーゲロイ島という小島で、ヨーロッパ大陸とは陸続きではない。しかもこの小島の、ノールカップ岬よりも少し西に位置するクニブシェロデン岬の方が緯度がほんの少し、ほんの47秒分だけ、高いのである。とはいえ、1999年6月に、大陸とマーゲロイ島とを結ぶ、全長6.8キロの海底トンネルが開通し、一応陸続きになったと言えなくもない。本当の最北端、クニブシェロデン岬の方へは車道が通じておらず、片道二時間程度のハイキングをしなければならないとか。とまあ、こういう理由で、ノールカップ岬の方が、ヨーロッパ大陸最北端の地としてよく知られている、ということのようだ。ノールカップの方には、夏だけ営業している1988年完成のノールカップホールがあり、レストラン、カフェ、郵便局、土産物屋、博物館などが入っている。クニブシェロデン岬の方には、何もないらしい。まあ、ノルウェー政府の観光政策に、全世界のツーリストがうまく操られている、といったところだろうか。

 さて、我々の今夜の宿泊先は、マーゲロイ島南部にある、ノールカップへの拠点となる町、ホニングスヴォーグ(Honningsvag)。ここから35キロ北上したところにあるノールカップは岬であって町ではないので、どんなルートで行くにせよ、ホニングスヴォーグの町を拠点とする必要がある。ここにもユースホステルがあり、我々は一軒一泊五人で800クローネ(約11000円)のバンガローを予約しておいた。シーツ代が別に一人60クローネ(約800円)。

 アルタからのドライブも、きわめて順調。周囲はいよいよ何もなくなっていく。木もなくなり、あるのは荒涼としたツンドラだけだ。そしてついに本物のトナカイを発見する。道路沿いの海辺に、立派な角を生やしたトナカイの一群が集まっていたのである。こいつら、海水を飲むのだろうか。早速車を停めて、我々も海辺へ降りてみる。大きな角なので襲われたら怖いぞと、遠巻きに近づき写真を撮る。そこでトナカイの立ち小便を目撃。馬のように立ったままでもなく、犬のように片足をあげてでもなく、なんとなく後ろ足を両方折り曲げて、中腰になった感じでのトナカイ君の立ち小便は実にユーモラスだ。玲子は同じようなポーズで写真を撮っていた。その後マーゲロイ島へ通じる海底トンネルの少し手前あたり、まばらに、ほんとうにまばらに人家が散らばる海辺の小高い丘のようなところで昼食を摂ることに。きれいに晴れ渡っているが、外の気温は8〜9度。南野もセーターを着る。北極圏で8度、9度というのは以外に寒くないと思われるかもしれない。このあたりは、イギリスの西海岸同様、メキシコ湾流の影響で緯度の割にはそれほど寒くはないとのこと。

 昼食後、ドライブを続け、延々と続く海底トンネルを抜け、ついにマーゲロイ島に入る。島に入ったらホニングスヴォーグまではそんなに遠くない。トナカイがどんどん現れてくるようになり、だんだん珍しくなくなる。しかし道の真ん中を堂々と歩いていたりするので、運転には充分注意しなければならない。午後3時頃、ユースホステルに到着。だだっ広い原っぱの中に受付の建物、それからたくさんのバンガロー、また安い共同部屋の入った建物などが散在している。クローネの現金がすでになくなっていたので、いったん町の中心部まで戻り、現金自動引き出し機を探す。シティバンクのカードがここでも活躍してくれる。実に便利だ。どこでも現地通貨が引き出せるから、わざわざ両替する手間が省ける。ついでに明日の昼食用サンドイッチの食材を買うため、スーパーへも行く。人口わずか3000人とはいえ、ここホニングスヴォーグはノールカップ観光の拠点であるほかに、北部ノルウェーの重要な漁港でもあるらしく、町には大きな港があった。ノルウェーの北西部沿岸を行き来する大きな沿岸急行船の出発を見送ったりもする。土産物屋などを覗いたあと、いったんユースに戻り、食材を冷蔵庫に詰め直し、いよいよノールカップへと出発。実に荒涼とした壮大な風景が続く。

 夕方5時頃、ノールカップホールに到着。駐車場で高い入場料を人数分とられる。そういえば先ほどの海底トンネルでも高い通行料を、しかもちゃんと人数分、車の中を覗くようにして人数を数える料金所のおじさんに徴収された。さすがにここまでやって来て、高いから帰ると言う人もいないだろうから、まさに人の足下を見た阿漕(あこぎ)な商法である。往復のトンネル代と駐車場代で、一人あたり6000円近くは取られたとだろうか。

 ノールカップホールは大変立派な建物。真夜中の太陽、ミッドナイト・サンを見に来る観光客のため、午前二時までオープンしている。まずはホールを抜けて、とりあえずノールカップ岬まで行ってみる。ドイツ人やイタリア人などの観光客が多い。もちろん北欧人も大勢いる。フランス人や日本人らしき人も数人みかけた。実は正確に真夜中でも沈まない太陽が見られるのは7月31日までらしく、今日、8月1日になると真夜中頃にはほんの数分間、太陽は海面下に沈む。そういうわけでミッドナイト・サン・ツアーと銘打った団体客などは、7月に集中し、8月になるとがくっと減るようだ。そういえば昨日だったか、どこかのガソリンスタンドで、ノールカップから戻ってきたと思われる、観光バスに揃いのバッジをつけて乗り込んでいる日本人の団体さんに遭遇した。我々一行は、ほんの1日2日の違いで真夜中の太陽を見逃してしまったというわけだ。

 ノールカップの眼下に広がるのは北極海。波も大きくなく、穏やかな海だ。遠くに漁船らしき中型船がゆっくりゆっくりと進んでいるのが見える。岬の両側には険しい断崖が続いている。断崖のてっぺん、つまり地上の部分はごろごろと小さな石が転がった台地が続く。木は一本もない。岬には、青森県大間崎にある「ここ本州最北端の地」といったような石碑はない。さすがにノルウェー政府も「ここヨーロッパ大陸最北端の地」と開き直る度胸はなかったとみえる。あるのは、経線と緯線だけを鉄骨でつくった、つまり中がまるまる空洞になっている地球儀のオブジェだけ。一応その前で記念撮影。真夜中にはまだまだ時間があったので、いったんホールにもどり、中の展示を見学。今世紀中頃にタイの先代国王も訪れたそうで、タイ政府寄贈になる小さな記念館のような部屋もある。ホールの最上階には特設スイートルームがあって、新婚旅行のカップルなど、予約すれば宿泊できるらしい。巨大な土産物コーナー、かなりムードに気を配った海を見下ろすバーなどを通り抜けたあと、外に出て、断崖のてっぺん部分を散歩。人もまばらで断崖には柵などなにもない。こんなところで万一落ちたら、誰にも気づかれないかもしれないなどと思う。フランス・ノルマンディー地方の断崖もそうだったけれど、どうもこういう、いくらでも落ちる危険のありそうなところに、ヨーロッパでは柵を作ったり、「この先危険」と書いたりしないようだ。いわばほったらかし。もし事故でもあったら、日本だと国家賠償を求める訴訟が提起されそうな気がするけれど。とはいえ、海や川にはヨーロッパでもときどき「危険!遊泳禁止」の立て札があったりするから、こういう断崖で落ちる人がそもそもヨーロッパにはいないと想定されているだけかも知れない。あるいは、海や川だと危ないかどうかはなかなか分からないが、断崖なら危ないのは誰にだって分かるでしょ、ということだろうか。

 かなり遠くの方まで断崖のてっぺんを歩いたあと、ホールに戻るとすでに午後9時頃。まったく外は夕方のような明るさ。ふとおもったのだけれど、トナカイなど、この辺りに生息する動物は、こういう太陽の下でリズムが狂ったりしないのだろうか。昨年8月、フランス北部で真昼の皆既日食を見たとき、とつぜん暗くなった空を小鳥たちが奇妙に飛び回っていたのを思い出す。我々には腕時計があるから、そろそろ夕食の時間だ。ホール内には、たいそう高級なレストランと、もう少し安いカフェテリア形式の食堂とがある。当然我々は後者を選択。南野はハンバーガーとフライドポテト、それからビールなどにする。食後はぼうっと海をみながら絵はがきを書いたりして真夜中が来るのを待つ。いよいよ12時近くになり、それまでホール内にいた人々がいっせいに岬へと繰り出す。あいにく水平線のあたりには雲が張りつめ、夕焼けのような具合にはなっているのだけれど肝心の太陽は見られず。太陽が沈んでいるのか出ているのかもよくわからない。午前零時を回ると三々五々観光客がいなくなっていく。我々もホール内のカフェに戻る。何も飲まずにぼうっとしていると、突然、オレンジ色に輝く太陽が一瞬雲の晴れ間に姿を見せた。あわてて外に飛び出す。あとでインフォメーションで確認したところ、日没は午前0時30分頃で、我々がみたのは日没直前の太陽の姿だったらしい。そして日の出は午前1時15分頃。ということは、真夜中には太陽は沈んでいなかったわけだ。7月31日まで、というのは、太陽が一日を通して全く水面下に沈まず、真夜中前後に大きな円弧を描くようにだんだん水平線に近づき、そして徐々に水平線から離れていく、という意味での「沈まぬ太陽」が見られる期間のことだったのかも知れない。

 バンガローに戻ったころは、まるで早朝の風景。寝る気にもなれず、5人でゲーム。トランプを持って来ていなかった我々は、エティエンヌの大好きな「漢字ゲーム」。さんずいへんの漢字を一つずつ順番に書いていく、といった単純なもの。「漢字オタク」のエティエンヌ、我々日本人となかなかのいい勝負をする。南野、なんとか「腐っても東大生」の意地で勝利を収めるものの、ワープロ病か、正確に書けない漢字が多いのに情けなくなる。午前3時頃、どんどん明るくなってきた外の景色を横目に就寝。今日でノルウェーともお別れだ。

 

2000.8.2.(水)

 ホニングスヴォーグのユースを昼前に出発。いつも通り、女子が作ってくれた昼食を荷物と一緒にトランクに積む。本日の走行予定距離は約360キロ、宿泊地は、フィンランドの北部、ちょうどロシアからもノルウェーからも同じくらいの直線距離のところにあるイナリ(Inari)という町。なんと人口たったの550人。長さ80キロ、幅41キロに及ぶという、巨大なイナリ湖のほとりに位置するこの町には、ラップランドの歴史や自然に関する展示がある博物館やトナカイ牧場などがある。我々はこのあとヘルシンキを目指す予定で、その途中、ユースホステルがあり、かつホニングスヴォーグから適当な距離にある町、という理由でここを今夜の宿泊先に選んでいた。

 ホニングスヴォーグを出発し、マーゲロイ島から長い海底トンネルを抜け、ノルウェー本土に入ったあと、延々と続く海岸線をドライブしていたとき、ふと道の真ん中にトナカイが倒れているのを発見。我々の一台前を走っていたノルウェー人のキャンピングカーが衝突してしまったらしい。ちょうどキャンピングカーが路肩に停車し、運転手が降りてくる瞬間だった。あわれなトナカイは即死のようだ。見事だったであろう角も複雑に折れてしまっている。運転手がトナカイの死体を道ばたに動かすのをエティエンヌが手伝ってやる。キャンピングカーからは家族も降りてきたが、ショックで奥さんなどは呆然としている。キャンピングカーの正面は血にまみれ大きくへこんでしまっている。トナカイが可哀想なのは言うまでもないけれど、トナカイとぶつかってしまったこの一家も気の毒だった。バカンス気分も一瞬にして吹っ飛んでしまったことだろう。しかしこの家族がノルウェー人でまだよかったかもしれない。運転手は早速携帯電話でどこかに連絡をしていたが、外国人だったらいったいどうしていいか困ったに違いない。

 そういうわけで、我々も運転に一層の注意をしてドライブを続ける。突然物陰から飛び出して来られたら、きっと避けようがないだろう。トナカイのいそうな地区を通るときには、充分警戒しながら走ることにする。昼食後のコーヒーやガソリンスタンドなどで上手にノルウェー・クローネの現金を使い終わったあと、いよいよフィンランド国境に近づく。フィンランドに近づくと、不思議なことに風景が変わってきた。それまでの荒涼とした平原から、ちゃんと木の生えた山や森に囲まれるようになってきたのである。大きな川があり、それにかかる橋のちょうど真ん中がノルウェーとフィンランドの国境になっていた。相変わらず国境の前後には何もなく、ただ国境を示す看板が橋の真ん中にあるだけ。橋を渡ったところに車を停め、橋の真ん中まで歩いて戻り、国境掲示板の前で記念撮影をしたり、深そうで流れの速い川を眺めたりする。

 橋を越え、大きな坂を上りカーブを曲がると突然、信号と税関が出現した。我々の車が近づくと、信号がいっせいに赤になり、税関から制服をきたお姉さんが出てきて、パスポートを見せろと言う。運転していた南野が、スタンプを押して欲しいと言うと、じゃあオフィスへ来なさい、と。それで車を停めて小さな建物の中に入る。中にはおじさんと、もう一人愛想の悪いお姉さんがカウンターの向こうに座っており、我々のパスポートにぽんぽんと事務的に入国印を押してくれる。そこで驚いたのだけれど、カウンターの中には大きなパソコンがあって、そこにははっきりと、国境部分の橋の生映像が映っていたのである。つまり、車も全然通らない橋の上を、我が物顔で歩き、写真を撮ったり川をのぞき込んだりしていた我々の行動の一部始終が先ほどから監視されていたというわけ。我々のような怪しい一行が通ったときにだけ、税関の信号を赤にするのかもしれない。

 無愛想なお姉さんに英語でサンキューと言ってフィンランドのドライブを続ける。イナリまではあと百キロほどだ。森を抜けると背丈ほどの低木が生えた広大な平原が続く。時折トナカイが道路を悠々と歩いているのに出くわす。なかには首輪を付けている奴もいる。ラップ人に飼育されているのだろう。午後6時過ぎ、ついにイナリの町に到着。目当てのユースホステル兼キャンプ場はすぐにわかった。受付でチェックイン。実はこのユースにはパリから南野が電話をして予約したのだけれど、そのとき、あまり英語の上手でない、しかもなんだか愛想のないおじさんが応対してくれ、電話口の向こうで子どもがぎゃーぎゃー泣いていたのを覚えている。まったくこの人に違いない、と確信させられるようなおじさんが奥から出てきて、そして電話をしたときの光景が目に浮かぶように、奥では子どもがやはりぎゃーぎゃー泣いていた。いつも泣いているのか、このガキは。

 名前を告げると宿泊カードのようなものへの記入を求められ、その後我々のコテージへと案内される。受付から300メートルほどの距離。案内するおじさんとそれに従って歩く4人を南野がのろのろ運転でおいかける。到着したコテージは、すばらしいの一言。ぴかぴかの木製で、まず玄関を入るとテレビのあるサロンがあり、その奥にキッチンと一人用の寝室、そしてサロンには暖炉もある。玄関脇にはシャワーとトイレがあり、その中にはサウナ室も。階段が屋根裏へと通じており、そこには三つマットレスが置いてある。そしてこのコテージの裏はほんの10歩の距離でイナリ湖の砂浜が広がっている。あまりのすばらしさに、大感動。これで5人で約一万円。これまでの宿泊先のなかで最高であること、間違いなしだ。少し離れた両隣には同じようなコテージがある。車のナンバーから察するに、ドイツ人のグループとフィンランド人のグループが今夜のお隣さんらしい。受付のある方には、広場があり、テントがいくつか張ってある。テント客用の共同のトイレ、シャワー、サウナなどもある。自転車でテントを積んで北欧を一周しているというフランス人のカップル、そのフランス人のカップルと道中で知り合いになり一緒にツーリングを続けているというオーストラリア人のカップルなどと少し話す。

 さて、今日の夕食は、我々のコテージがあまりに素晴らしいので、女性陣が料理を作ってくれることになった。食材を求めてエティエンヌと君子、もと子が町のスーパーへ行ってくれる。玲子はラップランド地方の悪しき名物、大量に発生しているをおそれてコテージ内で休憩。南野は一人、途中のスーパーで買っておいた蚊よけスプレーを全身にまき散らし、湖畔やユースホステルの敷地内を散歩。蚊には閉口するものの、すばらしい空気だ。スーパーから戻ってきた3人によると、今夜のメニューはスパゲティ。ビールなどもたくさん買ってきてくれた。もちろん明日の昼食用のサンドイッチの材料も。エティエンヌと受付の公衆電話からパリに電話をかけている間に、夕食の準備は完了。コテージに戻ったら、おいしそうなミートソーススパゲティができあがっていた。雰囲気にだまされたのか、あるいは女性陣の腕のなせる業かは知らないが、このスパゲティ、とにかく最高のおいしさであった。食後の洗い物を男性陣が担当して、ちゃんと男女平等。

 食後は昨日同様、「漢字ゲーム」。木へんの漢字って、意外にたくさんあるものだ。暑いのは苦手というエティエンヌが一人先に寝たあと、日本人4人で初サウナ。おじさんに教えられた通りの手順でスイッチオン。ときどき熱くなった石に水をかけ、蒸気を発生させたりする。この蒸気が我々の不注意で部屋に漏れだしてしまい、深夜一時頃、火災報知器のアラームを鳴らしてしまう。どこをどういじってもこのアラーム、鳴りやまず、ついにおじさんを起こしに行かなければならないかと思っていると、ようやく鳴りやんでくれ、一安心。エティエンヌが再び寝たあと、水着に着替えた日本人は初サウナを堪能する。あとで聞けば、そもそもフィンランドのサウナというのは、サウナで温まっては湖の冷水に体を浸し、その後再びサウナで温まる、という手順を繰り返すのが正しいやり方だそう。我々は湖に浸かりこそしなかったものの、サウナで熱くなったあと、湖畔でしばしぼうっとして体を冷やす。午前二時になっても夕方のような明るさ。実に爽快な気分で就寝。 

 

2000.8.3.(木)

 我々のスカンジナビア北部のドライブ旅行も終わりに近づいてきた。キールナで借りた車はキールナで返すのが一番安い。それでヘルシンキ行きの列車はキールナから乗ることに決めていた。イナリからキールナまではやや距離がありすぎるので、本日はちょうどその真ん中あたりにある、ほとんど知る人もいないような、フィンランドとスウェーデンの国境にあるムオニオ(Muonio)という町に泊まる予定になっている。イナリからだと240キロほどの距離。これだとらくちん。

 エティエンヌの案では、ムオニオに早目に到着し、そこにある大きな湖でボートやカヌーに乗ろうということになっていた。予約しておいたユースホステルの案内に、カヌーなどを貸してくれると書いてあったからだ。しかし、道路地図をみると、イナリからロシア国境までは100キロ余りしかない。それで雄大な自然のなかでカヌーに乗りたいエティエンヌと、ボートなら相模湖でも乗れるからむしろロシア国境を見に行きたい南野が対立。両方ともやりたいという女性陣を交えてのじゃんけんの結果、ロシア国境を見に行くことになる。

 イナリのコテージのチェックアウト時間は正午。しかしスウェーデンとフィンランドに一時間の時差があることをうっかり忘れかけていた我々は、気を利かせたおじさんが、時差があるから今は午前10時じゃなくて11時だよ、と言いに来てくれたおかげでなんとかぎりぎり正午にチェックアウト。フランスで買ってきたミシュランの道路地図によると、ロシア国境へ通じる一本道が白い点線になっている。凡例を見ると、舗装されていない道、とのこと。何事にも慎重なエティエンヌの提案で、まずイナリのインフォメーションセンターへ行き、道路の具合を聞いてみることにする。おばさんは、グッド・ロードという。なら安心、と思ったのだけれど、いろいろ聞いてみると、工事中のところがある、とも言う。よくわからない。まあ行けそうなところまで行ってみることにする。

 イナリのあるイナリ郡は、フィンランド最大の郡で、総面積17,000平方キロメートル余。四国ほどの大きさがある。そしてその中には、東京都よりも大きい国立公園が、二つもあるという。そしてこの巨大な郡の人口はたったの8000人弱。イナリ郡の役場がある、郡の最大都市、イヴァロ(Ivaro)までの40キロほどのドライブは、左手に延々と続くイナリ湖を臨みながらの快適なもの。イヴァロからロシア国境の町、Raja-Jooseppi までが問題の白い点線道路だ。はじめは道幅も広く、きれいに舗装されたぴかぴかの道路だった。たしかにグッド・ロードじゃないか。これなら安心。道路の両横は、林というか森というか、それほど大きくはない木が延々と自生する広大な平野。まさに平野を切り開いた道、という気がする。トナカイにはしょっちゅうお目にかかる。行き交う車は全くない。

 突然、道路の舗装が途切れ、盛り土を押し固めたような道になる。いよいよ始まったか。ときどき、道路工事をしている大型車両の横を通り過ぎる。こんな道を通る人が珍しいのか、工事のおっさんはみな、愛想良く我々に手を振ってくれる。あまりにみんなが手を振ってくれるので、ふと、実はこの先へは行ってはいけないと合図しているのではないかと不安になったりする。そのうち道路は小石を敷き詰めた非常に走りにくいものになる。タイヤがはねる小石が車体にあたり、嫌な音を立て続ける。その後、きれいに舗装された道路や土の道、小石の道が替わる替わる現れ、また時々工事車両とすれ違ったりしながらあまり快適でないドライブが続く。実は百キロ近くあるという我々の計算の根拠となった、地図上の白い点線道路の横に書いてある数字は、距離ではなく道路番号91だということが途中でわかり、エティエンヌの地図読みによると、実際にはイヴァロからは50キロもない、ということになった。そういうわけで、やや不快なドライブもしばらくすると終わるだろうと一安心。

 相変わらず両横の景色は森林平野。人里などまったく現れてくれない。ようやく何度目かに、またきれいな舗装道路になり、今度はこれがずっと続いてくれる。どうやら国境地帯にさしかかったらしい。警察の出張所のような建物も現れてきた。駐車場のパトカーからおりたお巡りさんがこちらを凝視している。手は振ってくれない。そしてついに国境に到着。ロシア語、フィンランド語、スウェーデン語、英語、ドイツ語、フランス語などで大きな看板が出ている。道路には踏切のような制止棒があり、全路線ともふさがっている。我々が停車すると、踏切小屋のような税関からロシアの軍服のような制服をきたお姉さんとお兄さんが出てきた。ロシアのヴィザは持っているのか、と聞かれる。持っていないと言うと、それではこの先へは入れない、と言う。まあ、予想通りの結果ではある。あんたたちはフィンランド人かと聞くと、そうだと答える。ロシアのような軍服を着てはいるが、ここはフィンランド側の国境、彼らはフィンランドの役人だった。この踏切制止棒より先へ入らなければ写真を撮っても良いというので、車を降り、記念撮影。残念ながら、ロシア側国境との間には、なんというか、緩衝地帯のようなものが設けてあり、2〜300メートルほど向こうに青色の、やはり踏切型制止棒があるのが見えるだけ。ロシアの税関も、ロシア人も、なにも見えなかった。やや残念。

 まわりをうろうろしたり、ロシア側をバックに写真を撮ったりしていると、先ほどの警察出張所から来たと思われる、お巡りさんや役人らしき人が4〜5人乗ったワゴン車が到着。にこやかに挨拶をする。そのうちの一人、若い役人が我々に近寄ってきて、どこから来たのか、とかいろいろ話かけられる。ちょっとした長話になる。どうも、暇らしい。もと子は記念撮影を申し込んでいた。彼によると、この国境を通過する車は一日に4〜500台とか。大半は、ロシア人らしい。しかしここへ来るまでに我々がすれ違った車はほんの2〜3台。とても一日に500台も通過しているとは思えない。南野が数字を聞き間違ったのかもしれない。ロシア側からやってくる車を見よう、としばらく待ってみるが、一向に来る気配もないので、仕方なく諦め、おしゃべりなお兄さんに挨拶をして、Uターン。もときた道を再びイナリ方面へと向かう。途中、日本のオートマティック車専用免許しか持っていないという女子三人が、初めてのマニュアル車運転に挑戦する。エンストしたりして大笑い。その後、河畔にちょっとしたキャンプ用スペースをみつけ、そこで遅めの昼食。女性陣が作ってくれたサンドイッチ。サーモンなど、大変美味。空気の良さも相変わらずだ。

 その後イヴァロ、イナリ、ともときた町を通り過ぎ、スウェーデン国境に近いムオニオを目指す。途中で立ち寄った駐車場の土産物屋はなかなかの規模で、どうやらラップ人らしきおじさんが、マイクをもって観光客にいろいろな言葉で語りかけている。我々にはニーハオ、ニーハオと言ってきた。日本人だと言うと、あわてて手元にある手製のノートをめくり、コンニチハ、ヨウコソ、オゲンキデスカと言い始めた。いろんな国の言葉での簡単な挨拶を集めたらしいこのおじさんのノート、なかなか面白かった。「あなたが好きです」なんてフレーズもある。なにやってんだか、このおっさん。しかしこの土産物屋、家族と一緒にやってきた子供用のためであろう、ブランコなどの、公園にあるような遊具がおいてあったりして、なかなか気が利いている。コーヒーも、他にライバル店はないはずなのに、大変良心的な価格。トイレも清潔だ。とても感じの良い土産物屋さんだった。絵はがきしか買わなかった我々に、このおっさん、最後にちゃんと、ヨイタビヲ! と叫んでくれた。

 さて、ムオニオまで150キロあたりのところ、ポッカ(Pokka)という小さな町を越えたところから、地図では道が二つに分かれている。そして両方とも点線になっている。工事中のサインだ。いずれの道が良いか、ということは、イナリのインフォメーションセンターでも分からず、ポッカの町に着いたらそこで聞いてくれ、と言われていた。それでポッカでインフォメーションを探すが、そんなものはない。町といっても、さびれたカフェが一軒、いくつかの人家の散らばった道路沿いにぽつんとあるだけだ。それで助手席にいた南野が、地図を持ってカフェに入る。おばさんに地図を示しながら聞こうとするが、どうも英語を話さない人らしく、手振りで、カフェの入り口においてあるゲーム機で遊んでいる少年二人に聞け、という。そしてフィンランド語で少年二人に何かを叫んでいる。すると少年が近づいて来て、地図をのぞき込んでくれる。なんとか英語が通じたものの、得られた情報はかなり怪しい気がした。どっちの道がベターなの、と聞いたのだが、しばらく考え込んだあと、二つの道のうち、地図ではやや太く描かれている方の道の上に人差し指をパチンとおいた。

 カフェの駐車場にはドイツナンバーのキャンピングカーが何台か泊まっていた。何事にも準備万端で、調べに調べを尽くして旅行にでる(はずの)ドイツ人ならば、絶対いずれの道がいいか知っているはずだから、またあるいはひょっとしたらそっち方面からこちらに来たのかも知れないから、と言って、エティエンヌに聞きに行ってもらう。戻ってきたエティエンヌによると、彼らの持っている地図では、太い方の道は点線にはなっていない、とのこと。工事が終わっているのかも知れない。それでドイツ人は自信を持って、これからこちらの太い方の道を行く、とエティエンヌに言ったらしい。少年もドイツ人も、太い方、というので、我々も太い方を行くことにする。

 しかし太い方の道はどこまでも砂利道のまま。やはりフランスのミシュラン製の地図が正しかったということか。太い方の道は、かなり遠回りすることになるので、おなじ砂利道ならば、ということで、引き返して地図では細くなっている方の道を走り直すことにする。ロシア国境へ向かうときの砂利道と同じようなコンディションだ。車体の底に小石が跳ね返る感じの悪い音を聞きながら、60キロほどを進む。ようやく舗装された大きな道にでる。その後は快適。午後8時頃、ムオニオのホテルに到着。やはり湖に面した、小高い丘の上に小ぎれいな山小屋がいくつか建っている。受付でチェックインを済ます。にこやかだがほとんど英語の通じないおじさんが対応してくれる。カヌー漕ぎから戻ってきたフィンランド人などがいる。我々にあてがわれた山小屋は、これまた大変素晴らしいもの。丘の頂上だから景色も抜群。サウナはないものの、ベッドが二つずつある部屋が二つ、キッチン、ソファーベッドの置かれたサロン、それにシャワーとトイレ。これで一泊全員で約7000円。いかにも安い。隣のコテージはスイス人の一家。

 いつも通り、まず町のスーパーへ買い出しに行くことに。その前に、カヌーに乗りたいエティエンヌ、受付で何時までカヌーを貸してくれるかを聞こうとする。やはり英語が通じない。困っているとこのおじさんの息子らしい少年が現れた。彼には英語が通じた。時計を見て、少し考え、午後11時まで、と返事をしてくれた。じゃあ、今夜、後ほどお願いしますということにして、町へ出る。午後8時だと思っていた我々は、またしてもフィンランドに時差があることを忘れていた。誰も時計をフィンランド時間に合わせていなかったのだ。それで9時閉店のスーパーは、当然のことながらすでに閉店。今夜の買い出しは失敗。それで夕食のため、レストランを探す。町を一周したところ、レストランはどうやら一軒しかないので、仕方がない。ピザ専門店だった。そこでトナカイ肉のピザなどを注文する。なかなかの美味。スウェーデンやノルウェーと違い、フィンランドはどうも物価も安いらしく、パリ並の値段で食事ができた。

 その後、山小屋に戻り、カヌーを貸してくれと頼む。おじさんが無言で我々を湖畔まで先導する。先ほどの息子はすでに湖畔で湖から戻ってきた観光客のカヌーを片づけたりしている。南野は、これまでカヌーには乗ったこともなく、しかもどうやらカヌーという言葉の意味する物を勘違いしていたようだ。カヌーという乗り物は、細長いボートに下半身をすっぽり覆うような形で座り、一人で、両端に羽が着いた一本のオールを両手で漕ぎながら進む乗り物で、ひっくり返ると水のなかで身動きできないもののことを言うと思っていた。だからカヌーに乗る場合は、ひっくり返って起きあがる練習からするとか聞いた覚えがある。そんな危ない乗り物にこんなところで乗ってたまるか、と思っていた。しかし、この乗り物はカヌーではなく、カヤックというものだと教えられた。カヌーと呼ばれているものは、日本語で言うと、普通のボートだった。ただ、一人が両手で漕ぐというのではなく、二人で片方ずつ漕ぐ、という違いがあるだけのもの。このカヌーなら、南野だってできる。というわけで、びびっていた女子3人も安心し、南野と女子三人でカヌーを二艘借りることにする。フランスですでに経験があるというエティエンヌは一人でカヤックを借りる。息子が湖の地図をくれ、ここは危険、ここはきれい、などと説明をしてくれる。そしていざ出発。南野はもと子とペアーを組む。出発の直前、ボート小屋にビーチバレーのコートがあったので、バレーボールも貸してくれ、と頼んでおく。

 午後11時出発のボートなんて、実に不思議な気分。しかしまわりは夕方の雰囲気。やはり水鳥は寝ておらず、ときどき湖面から顔を出したり潜ったりしている。エティエンヌは水を得た魚のように、カヤックでどんどん進んでいく。大変上手に思える。もしかしたらすごく簡単なのかもしれない。それに反して、我々のボートの方は、なぜかうまく進まない。もと子が右、南野が左を漕ぐと、なぜか左へ左へとまわり、逆にすると逆にカーブしてしまう。なかなかまっすぐ進まないのである。もと子は中高と女子バレーで鍛えた私の方が腕力があるのよ、と笑う。そんなはずはない。お前ら何をしているのだとエティエンヌが近寄ってくる。事情を説明すると、さすが理工科学校出身の英才君、ボートだと後ろの漕ぎ手の方の力が前の漕ぎ手に比べて大きな影響力を持つことになるのだと説明してくれる。なんだ、そうだったのか。

 南野が後ろ、もと子が前に座り、やりなおしてみると、上手くいった。後ろの漕ぎ手は余り漕がないで、主として舵取りに専念すればいいのだ。余り漕がなくていいかららくちん。もと子には申し訳ないけれど。それで南野チームはうまく進むようになった。気の毒な玲子・君子チームはまだ後ろの方で蛇行を繰り返している。知恵をしぼったらしく、玲子が3回漕いだ後、君子が3回漕いで、というふうに交代交代に漕ぐことにしたようだ。しかしジグザグに進むだけで、あまり改善されていない。そのうち後ろに座った玲子が舵取りに専念するようになり、ようやく玲子・君子チームもまっすぐ進むようになる。しかしスピードは断然ない。やはりバレーで鍛えたもと子の腕力には、君子のそれがかなわなかったのだろう。小一時間ほど湖を廻った後、ホテルの船着き場へ無事に戻る。夕日のような太陽が実にきれいだった。

 健康優良児の我々一行、次はビーチバレーである。少年はちゃんとボート小屋にバレーボールを置いておいてくれた。深夜1時前のビーチバレー。なかなかのものだ。ちなみに南野、バレーボールはかなりの腕前(だと思っている)。中高で女子バレーの部長を務めたもと子にはかなわないけれど。君子もなかなか。玲子は人並み、そしてエティエンヌはど素人。手が痛いと騒いでいる。他の四人にとっては、手の痛さなんかよりも、群がる蚊を追い払う方がきつかった。すごい数の蚊が発生しており、蚊よけスプレーを吹き付けた我々に、スプレーなんてなんのその、といった勢いで群がってくる。喋っていると口の中にも入ってくる気がする。隣にいる玲子の頭の上には蚊柱。一時間ほどバレーをしたあと、いい加減に蚊にうんざりし始めたころ、ちょうど小雨も降ってきたので山小屋へ戻る。隣のスイス人一家の長男がベランダで退屈そうにしていたので、彼も誘って我々の小屋のベランダでビールを飲む。蚊取り線香を三つ炊きながら。

 明日はキールナへ戻り、車を返した後、午後2時前の列車に乗らなければならない。寝坊をするわけにも行かないので、午前2時頃、スイス人のルカス君と別れ、一同おとなしく就寝。実に健康的な一日だった。

 

2000.8.4.(金)

 ムオニオの裏手には大きな川が流れており、この川がスウェーデンとの国境をなす。スウェーデンは物価が高いので、ムオニオの近くでガソリンを満タンにして、キールナを目指す。国境にはちゃんと税関があったけれど、人影もなく、ノーチェックでスウェーデンへ入国。その後は350キロのドライブ。左右に広がるラップランドのこの景色とも今日でお別れだ。キールナには予定通りちょうど正午過ぎに到着。中央駅でレンタカーを返却。予想していた通りの小さな駅で、Avis の事務所は閉まっている。それで前もって空港で言われていた通り、事務所前の郵便箱に鍵を返しておしまい。合計5日間、総計約2100キロのドライブがこうして無事終わった。レンタカーの料金は、ガソリン代を別にして、一人あたり約11,000円。

 ほんとうに小さなキールナ駅のカウンターで切符を買う。ヨーロッパ全土の鉄道時刻が載っているトーマスクック時刻表で調べておいた結果、ヘルシンキへ向かう我々は今夜、スウェーデンとフィンランドに挟まれたボスニア湾の最北端のフィンランド側にある、ケミ(Kemi)という何もない町に泊まることにしていた。キールナを午後2時に出て、ケミに着くのは午後10時半。ここまで行くのが今日のところは限界だろうと考えていた。ナルヴィクからやって来た列車は満員で、キールナ駅も、どこからこんなに人が湧いたかと思われるほど、キールナを離れる人で一杯になっていた。みな、ノールカップなどを訪れて来た帰りなのだろう。

 キールナを出た列車の終着駅は、やはりボスニア湾に面したスウェーデンのボーデン(Boden)。午後5時頃到着。車窓からの景色も素晴らしかったはずだけれど、これまでの疲れがたまっていたのか、一同ぐっすり寝てしまったようで、あまり記憶に残っていない。さて、ここからはバスの旅になる。鉄道がないのだ。ボーデン駅前で待つこと15分、接続良く国境の町ハパランダ(Haparanda)行きのバスが来る。ハパランダではまたバスを乗り換えなければならない。午後9時前の出発まで一時間ほどある。バスを降ろされたところにある、ちょっとした寂れたロータリーのようなところで、唯一開いていたハンバーガーショップで夕食。まわりはあきらかに地元民だけだ。北欧の人はみな、ほんとうに美しい金髪なのに、これをわざわざ黒髪に染めている女の子がたくさんいる。どうやらハパランダの不良らしい。タバコを吸い、ビールを飲み、唾を吐く。そして化粧はアイラインをひどく強調したヘビメタ系。田舎の不良だ。こっちも興味があったが、向こうも興味があったようで、お互いちらちら見て、目が合う。そんな感じで一時間の暇を潰していると、ようやくケミ行きのバスが到着。フィンランド国籍のバスになった。国境通過の手続は全くなし。あたり一面、どうみても森しかないようなところに停留所があり、地元民が一人、また一人と降りていく。家族が車でバス停まで迎えに来ている人もあれば、そのまま森へ消えて行く人もある。40分ほどバスに揺られたあと、ようやくこれまでの記憶のなかではかなり大きい部類に入る町が見えてきた。しかし異様な匂い。養豚場のそれのようだ。これがケミの町だった。予定通り午後10時半になっている。予約しておいたホテルまで、重い荷物を持って約10分ほど歩く。着いたホテルはこれまでの我々のホテルとはまるで違う、大変高級感のある大きなものだった。フロント脇にはインターネットに接続されたパソコンがあり、自由に使って良いとのこと。ようやくホットメールを使って日本の家族に連絡をとることができる。

 二つの部屋が壁に作られたドアでつながっているタイプの部屋が我々に用意されていた。ベッドのシーツを自分でセッティングしなくて良いというのは、ストックホルム以来だ。コーヒーメーカなども置いてある。しばらく休んだあと、ちょっとした洗濯をしたりして、ホテルの一階にあるバーで乾杯。午前1時頃、就寝。明日は早起きをしてヘルシンキ行きの列車に乗らなければならない。

 

2000.8.5.(土)

 ホテルの朝食はビュッフェ形式、つまり取り放題。ヘルシンキ行きの列車が8時にケミ駅を出発するので、我々はこの旅行で一番の早起きをした。食堂にいるのは我々だけ。大変豪華な朝食だった。メニューが豊富でパンも焼きたて、ジュースも搾りたて、これまたこの旅行で一番豪華な朝食だった。あまり時間をとることができないのが残念だ。ケミ駅でタンペレ(Tampere)までの切符を買う。列車は空いており、実に快適。約6時間でフィンランド第二の都市、タンペレに到着。午後3時前。

 ヘルシンキへ向かう途中にあるこの町で途中下車したのは、なつかしい(最近再び放送しているらしいけれど)ムーミンの博物館を見たいと君子が主張していたため。そういえばムーミンってフィンランドの童話だったんだ、と行ってみることにしていた。フランスでは余り有名ではないらしい、このフィンランド人女流作家トーベ・ヤンソンの名作童話、エティエンヌは見たことも聞いたこともないと言っていた。

 玲子ともと子が列車の中で仲良くなったタンペレ出身でフランス語を勉強しているという女の子が、我々を案内してくれることになった。タンペレ駅はかなり大きなもので、人も多く、にぎやかだ。荷物をコインロッカーに入れ、駅を出ると大通りが開けている。道の両側にはお店やカフェ、デパートなどが並んでいる。立派な都市だ。人口は19万人余。しかもパリの駅周辺のような汚らしさは全くなく、きれいになっている。一見して気に入った。駅前の大通りをずんずん進むこと約10分、ムーミン博物館に到着。タンペレ人の彼女もここには入ったことがないというので、我々に付き合ってくれる。なつかしいムーミンの絵が至る所にある。南野は、ねえムーミン、こっち向いて・・・、という歌ははっきり覚えているものの、どうも細かい話はあまり覚えていない。いろいろな場面を再現したミニチュアなどもあるのだけれど、どうもピンと来ない。食い入るように見学している君子と違って、南野はなんとなく時間をもてあまし気味。

 受付の売店でムーミンの絵はがきを買ったあと、タンペレ人の彼女にお礼を言って別れる。巨大な湖を見下ろす公園を散歩しながら中心部の方へ戻る。京都や札幌のように、道路が碁盤の目のようになっているので、道に迷うことはない。そして適当に、おしゃれなカフェで休憩。午後6時半頃、タンペレ発ヘルシンキ行きの列車に乗る。そしてついにヘルシンキに到着。午後8時半ごろだった。

 ヘルシンキのユースホステルも、予約に苦労をした。何軒かに満員ですと断られたあと、ようやく予約がとれたのは、ヘルシンキ中央駅から徒歩15分くらいのところにあるユース。どうやら普段は学生寮として使われているようだ。シャワーとトイレは廊下に共同のものがある。しかし部屋の割に数が少なく、ちょっと不便そうだ。しかも女子トイレ、シャワーの方には鍵がついていないと女性陣は不満気味。予約をした南野、肩身が狭くなる。部屋で文句を言い合っていると、突然隣の部屋のドアがあき、あのう、日本人の方ですかあ、と女の子が顔を出した。そうですと言うと、一言、ああ、よかったあ、と叫ぶ。二週間ほど前から、夏休みの語学研修目的でヘルシンキにやって来ていたという彼女、どうやら日本人に飢えていたらしい。南野も、かつてリヨンの語学学校の寮で同じような思いをしたことを思い出す。孤独で仕方なく、隣の部屋のドアに日本人の名前が貼ってあるのを見つけたときには、ずっと彼女の帰室を待っていたものだ。

 しばらく話してすぐにうち解け、是非一緒に食事でも、と誘うと今日は予定があってだめだけれども、明日必ずお願いします、と言われる。それで明日の再会を約して我々は夕食を摂るため、ヘルシンキの繁華街へと向かう。ガイドブックに載っていたレストランはどれも今ひとつの雰囲気だったため、適当に町をぶらぶらし、なんとなくの勘で店を選ぶ。まずまず良いレストランだった。食事のあと、ユースホステル受付のお兄さんが薦めてくれたクラブバーを覗いてみる。身分証明書の提示を求められる。南野もついに未成年に見られたのだろうか! 受付のお兄さんも友人たちと飲みに来ていたのが可笑しかった。しかしなんとなくストックホルムで行ったバーの方がセンスが良かった気がする、というのが我々の意見。午前1時頃就寝。

 

2000.8.6.(日)

 ハムとパン、コーヒーにオレンジジュースといった簡単な朝食をユースホステルの食堂でとった後、午前10時半ごろ町へ出発。ヘルシンキの地下鉄は路線数も少なく使い勝手が悪い反面、路面電車は非常に便利。我々も利用する。まずは港へ向かい、対岸のエストニア共和国の首都タリン行きの船の時刻を調べる。ヘルシンキ港から1時間半ほどでタリンに着く急行船ノルディック・ジェット・ラインの窓口で情報を貰う。日本人もフランス人も、入国ヴィザは不要と言われたので、午後3時発の船に乗ることにする。そして再び路面電車に乗り、フィンランド国立博物館へ。石器時代から今日に至るまでのフィンランドの史料が収められているということだったので、旅の最後になってようやく北欧の歴史、あるいはフィンランドの歴史について何も知らないということに気づいた我々は、向学心に燃え、この博物館へ行くことに決めていた。まず先史時代の展示室から見学。石器、土器、青銅器などが順番に展示されており、英語の説明もあってわかりやすい。なかなかよく出来た博物館だ。しかしその後、中世、近代を経て、南野が一番興味を持っていたフィンランド現代史については、ほとんど展示が抜け落ちている。お慰め程度に、戦後のフィンランドを撮った約10分ほどの白黒映画が上映されていたけれど、なんの説明もなく、いったい登場する人物が誰なのかすらわからない。先史時代の部分を除いては、かなり期待はずれだった。スウェーデンやロシアに長らく支配されていたフィンランドが独立したのは1917年。今なお両国に対して複雑な感情が交錯しているゆえ、近現代史の部分は視点をはっきりさせた展示をしにくい、ということかも知れない。それにしても南野が一番知りたかった、第二次大戦前後のフィンランドについて、全くといっていいほど学ぶことができず、残念至極。

 国立博物館からのんびり町をぶらぶらしながら、港へと向かう。大変な都会だが、人も車も多すぎることなく、快適そうだ。東京よりもパリがいいと南野は思っていたが、パリよりもヘルシンキの方がよさそうだ。ただ、19世紀から今世紀初頭にかけての石造りの重厚な建物がたくさんある、という点では、やはりパリの方が趣があるかもしれない、と思わされたのも、ストックホルムを歩いていたときと同様だ。

 船着き場ではパスポートチェックがちゃんとあって、船のマークのついたフィンランド出国印が押される。我々の急行船は、中型のフェリー。なかにはカフェやレストラン、バーなどの他、免税店などがある。タバコが大変安くなっていたのに驚く。コインをいれてやるスロットマシーンもあり、一時間半の船の旅、外の景色を見たりもしながら、飽きることなくあっという間にタリンに到着。パスポートチェックの後は、ガイドブックも地図もないまま、町を散歩。エストニアと同じく、バルト三国の一つ、ラトビアの首都リガへ南野が行ったのは今から2年前の冬。その頃から、エストニアの方がフィンランドに近いせいもあり、豊かであると聞かされていた。それから二年たっている、ということがあるのかも知れないが、このタリン、なかなかおしゃれな町である。西ヨーロッパではやっている風のおしゃれな服を売る小ぎれいなお店、またフランスにも北欧にもあるようなオープンカフェがたくさんある。船着き場から歩いて15分ほどすると、古い建物に囲まれた、石畳が続く旧市街へと出た。天気はあいにくの曇り空だけれど、人も少なくなかなかの快適な散歩だ。ときどき、ドイツ語を話すガイドさんに率いられた団体客などとすれ違うくらいで、日曜日ということもあってか、余り人はいない。

 中央広場に面している銀行の現金自動支払機で、エストニアの現地通貨を引き出す。もちろん、シティバンクのカードを使う。タリン滞在はほんの4時間ほどだから、南野が代表して約2000円だけを降ろす。5人でカフェに入り、絵はがきを買うくらいだろうから、これで充分だろう。城壁に囲まれた公園のようなところへ登り、高台から町を見下ろす。赤煉瓦の屋根、細かく入り組んだ路地などは、西ヨーロッパの古い町とそんなにかわらない。旧市街の向こうには、高くそびえた超近代建築の立ち並ぶ一角が見える。これは2年前のラトビアにはなかった風景だ。さきほど通ってきたおしゃれなお店の数々とあいまって、エストニアの経済が順調なのだろうと想像される。

 高台に、ロシア正教の教会がある。これまで北欧では、ついにカトリックの教会にも、また正教の教会にもお目にかからなかった。訪れた教会は全て、プロテスタント、たいていがルター派のものだった。ロシア・ギリシア正教会とカトリック教会は、ローマ教皇の権威を認めるかどうかで決定的に対立してしまっているけれど、儀式に関するいろいろな細かい違いを除けば、信じている内容というか、教義のおおまかな点は共通している、と言っても良い。エストニアでついに正教会に入ることができ、南野、実に嬉しかった。南野が昔から探していたロシア正教の有名な聖人、聖セラフィムのイコンをも教会内部で見つけ、大満足。売店で小さな複製品を購入する。

 道ばたで絵はがきを売る現地人と値段の交渉をしたりしながら、中央広場へと戻る。ほとんど人のいない大きなオープンカフェでコーヒーを飲む。旧ソ連の人々は、ほほえみというか、愛想笑いを忘れてしまっているんだ、と二年前ラトビアに行ったときに思ったのだけれど、今回入ったこのカフェでもまた、きわめて無愛想なウェイターに出くわす。まあ、外人観光客相手に商売をしながら、外人観光客が大嫌い、という人はどこの国にもいるのかもしれない。カフェからヘルシンキのユースに電話をし、我々のお隣さん、今日の夕食を約束していた真紀ちゃんにつないで貰う。タリンに来ていると言うと、たまげていた。船着き場での待ち合わせを約束したあと、そろそろ船へ戻ることにする。

 船着き場には、我々外人にお金をねだる子どもたちがいた。つぶらな瞳でアイム・ハングリーと言われると、本当に心が痛む。高台から見えた豊かそうな町の景色に隠れて、いまだにこういう子どもたちもいるというのがエストニアの現実か。複雑な思いで船に乗る。午後7時半発のヘルシンキ行きの急行船は、一日タリン観光を終えた観光客でごった返している。地球の歩き方を広げた日本人の姿もある。来たとき同様、一時間半のちにヘルシンキに無事到着。しかし時差があるのでヘルシンキはすでに午後9時半。

 どうやらヘルシンキの夕食時間は日本並みに早く終わるらしく、午後10時半ごろになって入れてくれるレストランを見つけるのに大変苦労する。中華料理レストランを筆頭に、どこもかしこももうすぐ閉店なので、と断られてしまう。かなり苦労したあと、一軒のレストランでエティエンヌの長い交渉の末、ようやくテーブルにありつける。南野は魚料理を注文するが、なかなかおいしかった。ユースホステルに戻ったあと、フロント前のロビーのようなところで、フロントで作ってもらったカクテルやビールを飲みながら深夜1時半頃まで語り合う。明日はいよいよヘルシンキ最終日。

 

2000.8.7.(月)

 いよいよヘルシンキを離れる日になった。今日の夕方6時発の豪華(?)客船ヴァイキングラインに乗り、ストックホルムへ向かう予定。ユースホステルをチェックアウトし、ヴァイキングラインの乗り場へ向かう。真紀ちゃんも一緒。荷物をコインロッカーに預け、最後のヘルシンキ観光へと出かける。まずは船着き場近くにそびえる、北欧最大のロシア正教会というウスペンスキー寺院を見学。大きなロシア正教会があるなんて、さすがはフィンランド。なかはイコンに飾られ、実に荘厳な雰囲気だ。ここでも聖セラフィムのイコン、しかもタリンにあったのと同じ物を見つける。売店のおじさんに聖セラフィムのカードが買いたい、というと、ちょっと来なさい、と祭壇の方へ連れて行ってくれる。そこにはガラスケースに厳重に収められた、またしても同じ聖セラフィムのイコンが飾ってあった。よく見るとイコンの中央下の部分に骨が収められている。おじさんが、セラフィムの遺物だと説明してくれる。右手の人差し指の、第一関節の部分の骨だそうだ。北欧旅行最後の最後に、南野がこれまで探し続けて来たロシア正教の聖人、聖セラフィムの遺物に対面でき、心より感動する。売店でこの遺物付きイコンの複製葉書などをたくさん買う。

 次は海に面したマーケット広場を歩く。その名の通り、果物や野菜の市場になっている。巨大な鉄板で鮭のぶつ切りを焼き、ポテトやサラダなどを添えて売る、簡易レストランのようなものもいくつかある。その中の一つに入り、ちょっとした昼食。君子は露天で新鮮な苺を一パック買い、歩きながらむさぼる。そして広場の北方に、太陽の光を燦々と浴び、きれいに晴れ渡った青空をバックに大きく構えているヘルシンキ大聖堂を目指す。パリのモンマルトル寺院のような、白亜の殿堂だ。真っ白に輝くこのぴかぴかの大聖堂、ルーテル派のものだそうで、1852年に完成したとか。ツーリストや現地人が日光浴がてら座っている大階段を上り、中に入ってみる。やはりプロテスタントの、しかも新しい教会だ。なかには装飾の類は全くない。会衆の座る座席と、正面に牧師さんが説教する壇があるくらい。あまりのシンプルさに拍子抜けした思い。教会堂の内部にあるきれいなトイレを拝借してそそくさと外に出る。

 その後、中心街のデパートに買い物のため立ち寄る。ナルヴィクのユースホステルで化粧道具を忘れてきてしまったもと子、これまでは君子と玲子の化粧道具を借りてしのいでいたのだが、ついに、ノルウェーやスウェーデンに比べれば物価も安く、それでいて十分な大都会である、ここヘルシンキのデパートで自前の化粧道具を選ぶことに決意したのだ。しかし本音は、明日ストックホルムで、大変な美少年マルタン君に何カ月ぶりかで再会するから、自分で納得のいくように化粧をしたい、ということだったのかも知れない。ちょうどエティエンヌもTシャツが足りなくなっていたとかで、紳士服売り場を覗きたがっていた。それで二人の買い物に付き合うことにする。女子は一階の化粧品売り場、男子は二階の紳士服売り場へと向かう。ここで南野、女が化粧品を選ぶのに、どれほどの時間を費やすものなのか、ということを初めて知った気がする。男がすっかり二階全体を見終わって、結局これといったものがなく、エティエンヌは何も買わなかったのだけれど、それでも充分時間を費やしたと思いながら一階に下りてみると、もと子の買い物はまだ終わっていない。女子三人はそれぞれ、試供品のマニキュアなどを化粧品売り場のお姉さんに塗ってもらったりしている。ようやくもと子の買い物が終わり、デパートを出発。きっと明日、もと子は見違えるほどの美人になっていることだろう。

 最後の目的地はシベリウス公園。「交響曲フィンランディア」で有名な、フィンランドの代表的作曲家ヤン・シベリウス(1865〜1957)の死後10年を記念して作られたオブジェが公園の中にあるという。市の中心部の東端にあるヘルシンキ大聖堂から、市の西はずれにあるこの公園まではとにかく遠かった。日が燦々と照りつけるかなりの暑さの中の健脚大会だ。見慣れた中央駅や、昨日期待はずれの思いをさせられた国立博物館などを通り過ぎたあとは、静かな住宅街。一時間ほど歩き続けた後、ようやく海沿いの、芝生や木々が美しい大きな公園に出た。まずは先ほどから座りたい座りたいと思っていた南野の要求がかない、カフェで休憩。そしてあと少しでシベリウスのオブジェ、と言い聞かせながら再び出発。ステンレスパイプを無数に中空からぶら下げたような、パイプオルガンに見えなくもないオブジェがやっと見えてきた。観光バスも何台か停まっている。ここがそうだ。そしてそのパイプオルガン風オブジェの横には、シベリウスの大きな顔をやはりステンレスで作ったオブジェがある。ただこれだけ。別にシベリウスに関する展示や説明があるわけでもなんでもなかった。

 さすがに同じ距離を歩くのは嫌だったため、路面電車に乗る。これまで余り足を踏み入れたことのない、市の南部の方で下車。なかなかにぎやかなところで、カフェやレストラン、洋服屋や家具屋など、様々なお店がある。いや、ほんとうにヘルシンキ、南野の気に入った。住みやすそうだ。パリはごみごみし過ぎている。少しカフェで休憩したあと、いよいよヘルシンキを離れる時間が近づいてきた。徒歩で船着き場へと向かう。我々の乗る予定のヴァイキングラインのガブリエラ号は、すでに煙を吐き出しながら、出港の準備をしている。荷物をコインロッカーから出し、乗船口が開くのを待つ。

 ノルウェーの王室警備隊だという、頭を短くカットした若者たちの団体が目立つ。乗船ゲートが開くと、動く歩道つきの長い陸橋のようなものを渡り、船へと近づく。途中、専門のカメラマンが順番にゲートを通る人の写真を撮っている。後で船の中で売ってくれるのだろう。すっかり豪華客船の気分になりはじめる。10階建ての船の中は大変立派。カーペットがきれいに敷いてあり、大きなカフェやレストランなど。まずは我々の部屋へと向かう。我々の部屋のある7階へ降りていくと、そこはまるでホテルのようだ。迷路のように廊下が入り組んでいる。カード式の鍵でドアを開けると、丸い窓のついたきれいな部屋があった。ベッドは壁にくっついており、寝るときにはそれをおろせばいいようになっている。ちゃんとシャワーとトイレもあるし、電話も付いている。すごいすごい。一同大喜び。

 いったん荷物を置いて船内の探検にでかける。カジノやディスコ、サウナやジャグジープールまである。すでに泳いでいる人もいる。ヘルシンキのユースホステルで知り合いになったイタリア人グループも乗って来た。彼らは最も安い座席券だという。つまり寝るところはないわけだ。まあ彼らは夜通し船内のディスコで踊り明かすのだろうから、それでいいのかもしれない。そろそろ船がヘルシンキを出港するころになったので、甲板へ出てみる。白く輝くヘルシンキ大聖堂や、赤煉瓦づくりのウスペンスキー寺院などがきれいに見える。ゆっくりと船が動き出すと、それに合わせて、飛び交うカモメの群の向こうでこれらの景色も徐々に小さくなっていく。船の旅って、ほんとうにいいもんだ。

 もう一段上って、一番上の甲板へ行ってみる。かなり風がきつい。しかし晴れ渡っているので、すでにかなり遠くへ退いたヘルシンキの町もはっきり見え、実に爽快な気分。ストックホルムに着くのは明日の朝9時だ。長い船の旅になる。なんとなくわくわくする。船内に戻り、早速スロットマシンなどで遊んで見る。もちろん負けるばかり。7時頃、夕食を摂ることにする。食べ放題のヴァイキングレストランは予約で一杯。きっと大食いのノルウェー人の王室警備隊の若者に違いない。それでいくつかのレストランを物色し、メニューが豊富そうな方へ入る。ヘルシンキを出てしばらくは、大小さまざまな島の間を通るため、食事中の景色も単調でない。まだまだ近くを通る小型船なんかにも出くわす。なかなかいい雰囲気での豪華な夕食となる。禁煙席しか空いていなかったのが、南野にはやや苦痛だったけれど。

 他の4人が取り放題のデザートを物色している間、南野はついに我慢ができなくなり、となりのカフェバーへ行き、食後の一服。カラオケをやっている。スウェーデン語かノルウェー語だかわからない歌詞が大画面に映し出されている。ビール缶を手に持った頭の悪そうな若者二人組のひどい音痴。もうこいつら酔っぱらっているのか。これなら勝てると思い、あとで一曲挑戦しようと決意する。レストランに戻ると、見るからに気持ち悪そうな、甘ったるそうなケーキを一同ほおばっている。食後に甘いケーキを食べるのは、日本では女だけだが、フランス人は男でも食べる。エティエンヌも大変満足そうだ。南野は若干のフルーツサラダ。カラオケの様子を報告し、揃ってカフェへ行ってみるが、すでに終了していた。もう一つ隣にある大きなバーでダンスタイムが始まったためらしい。おじさんおばさんのカップルがたくさん踊っている。ちょっと若者向きの雰囲気ではない。甲板を散歩したり、相変わらず負けっぱなしのスロットマシンで遊んだりする。

 もう一つ別なバーを発見。そこではルーレットブラックジャックをやっている。ちゃんとディーラーを相手にするいわば本物のカジノ。ただ正装しなくていいだけだ。まずは皆で揃って見学。大体要領が分かったので南野も現金をチップに替えて貰い、やってみる。やはりあっという間に手持ちのチップはなくなってしまう。その後隣のテーブルでのブラックジャックを見学。エティエンヌにルールを説明してもらい、もと子が挑戦。もと子はいつも良い服を着ているので、テーブルに足を組んで座り、つんとしてチップを賭けている姿はさながら金持ちのマダム風。しかし賭ける額はほんの少しであっというまに手持ちがなくなり退散するところを見れば、やはり本職は奈良の大学生だ。

 一つ上の階にあるディスコに行って見る。時々船がゆっくりと、しかし大きく揺れるので、おかしな気分。イタリア人の若者グループもがんばっている。すでに女の子のナンパに成功したらしい。ノルウェーの護衛隊員たちもすっかり酔っぱらって踊りまくっている。彼らの本国ではお酒もびっくりするほど高いから、フィンランドの安さに出会うとついつい飲み過ぎてしまうのかも知れない。まだまだ2000人の乗客の多くは寝る様子もなかったけれど、我々はかなり疲れていたこともあり、午前1時頃、部屋に戻っておとなしく就寝。時々ある揺れも気にならず、ぐっすりと就寝。

 

2000.8.8.(火)

 13日間に及ぶ北欧旅行も本日で終わり。今夜の飛行機でパリに戻ることになっている。そう思うとガブリエラ号の中でぐっすり寝てしまったのはなんとなくもったいない気がする。まあしかし、起きていたらカジノで負け続けていただけかも知れない。午前8時頃、部屋にセットしておいたモーニングコールで起こされる。ストックホルム到着まではあと1時間ばかりだ。晴れ渡った窓の外には、すでに陸が見えている。

 カフェテリアで朝食を摂ったあと、甲板へ出て接岸風景を見る。意外と簡単そうに見える。そして荷物をまとめて、いよいよ船を出る。入国手続などは何もない。豪華客船の旅もこうしてややあっけなく終わる。シャトルバスに乗ってストックホルム中央駅のバスターミナルへ向かう。荷物をコインロッカーに入れ、ストックホルム最後の観光へ。我々にとっては10日ぶり、もと子にとっては初めて見るストックホルムの町である。中央駅近くは一大ショッピング地区になっていて、大きなデパートもいくつかある。その中の一つ、オーレンス(Ahlens)で、北欧っぽいおしゃれな文房具を買おう、ということになる。北欧っぽいというのはいかにもいい加減な言い方だけれど、たしかにこれまで、大きな町で見る家具店や食器類を売るお店などは、いずれもパリなどで見るものとは少し趣の異なった、独特のセンスのあるものが多かったのである。それで我々は、これらをまとめて北欧っぽい、と言い続けてきていた。

 オーレンスの地下にある文房具売り場、なかなか楽しかった。ステンレスを基調にした小物などは、なかなかかっこよい。まあ、日本の無印良品にも同じ物がありそう、と言われればそういう気もしないではないが。南野はここでいかにも北欧っぽいという気がしたペン立てを購入。しかしメイドイン台湾だった。スウェーデンのデザインでスウェーデンのために台湾が作っているだけで、きっと台湾には売っていないものなんだ、と自分に言い聞かせて慰める。デパートを出たあと、マルタンに電話。昼食後に合流しようということになる。

 ショッピング地区をぶらぶら歩きながら、旧市街のあるガムラスタン島へ行き、行き慣れたカフェの近くのレストランで昼食。もと子に旧市街の王宮などを説明しながら再び中央駅近くへ戻り、約束の場所でマルタンを待つ。いつも通り、定刻ぴったりに現れたマルタンと、我々は10日間ぶりの、そして入念に化粧をした(?)もと子は2ヶ月ぶりくらいの再会を喜ぶ。もと子がCDを、エティエンヌが服を買いたいというので、先ほどとは別の、マルタンおすすめのデパートへ行くことにする。

 CD売り場では、もと子と玲子がマルタンに薦められたスウェーデンのヒットCDを買う。服売り場はたくさんあって、たしかにいつもかっこいいマルタンのお勧めだけあって、センスのいいお店ばかり。服には人一倍うるさい君子が、迷ったあげく、男物のトレーナーを買う。自分で着るのだそうだ。南野も欲しくなるが、財布と相談した結果、やめておく。ヴァイキングラインのカジノで負けていなければ買えたのに。結局エティエンヌも何も買わず。

 空港バスの出る時間まであと少しあったので、近くのカフェで休憩。マルタンになにかお礼のお土産をと思っていた南野は、オーレンスで買ったペン立てを見せ、彼の気に入ったようならあげようと考えていたのだけれど、台湾製と言ったら大笑いされたのでやめておいた。誰か別の人にあげよう。台湾製ということは内緒にして。

 中央駅で空港バスの切符を買い、いよいよマルタンとお別れ。ストックホルムを全く観光していないもと子は、あと一泊する予定になっているから、彼女ともここでお別れだ。実に良い人柄のマルタンとは、再会を期すものの、あと一ヶ月で離れるパリで会おう、と言えないところが悲しい。東京で会おうと言っておく。もと子とマルタンに見送られ、我々四人はアーランダ空港へと向かう。行きの飛行機とは大違いで、帰りの飛行機は全て順調に進み、予定通り、午後10時、シャルル・ド・ゴール空港に到着。空港バスでオペラ座まで戻り、玲子・君子ともお別れ。エティエンヌとタクシーで帰宅。100通近く届いていたメールにざっと目を通し、返事は明日以降ということにして爆睡。2週間近くの北欧旅行、旅の道連れにも、旅の行き先にも、旅先での出会いにも、全てに恵まれた、南野のパリ滞在の最後を飾る、すばらしいものであった。感謝、感謝。

 

2000.8.9.(水)

 北欧旅行から戻って一泊があけた。一日洗濯をしたり荷物の片づけをしたり、メールや手紙の整理をしたりして過ごす。夜、モニックさんがパリに戻って来られる。南野宅近くのホテルに一泊されたあと、明日の飛行機で日本へ戻られる予定なので、今夜は最後の夕食ということで、エティエンヌも一緒にパリ15区の、最近の南野のお気に入り韓国料理店、例の島田伸助似と地球の歩き方に書かれているおじさんのいる、レストランオドリへ行く。久しぶりのアジア料理、大満足だ。

 

2000.8.10.(木)

 昼前、モニックさんをシャルル・ド・ゴール空港まで送る。来月には日本で再会することになるだろう。南野の関空行き飛行機はちょうど一ヶ月後、9月10日の予定。その後ゆかりちゃんの家庭教師。いつも通り、数学と英語。その後、ブルガリア人の友人ゲオルギを迎えに再びシャルル・ド・ゴール空港へ。夜、ととやで日本食をご馳走する。

 

2000.8.13.(日)

 たった3日のパリ滞在だったゲオルギをオルリー空港まで送る。夕方、シャルル・ド・ゴール空港へ、玲子とその兄、その友人藤田君の3人組を迎えに行く。今日日本とアメリカから別々に着いた二人は空港で玲子と合流し、そのままパリのリヨン駅から夜行列車に乗ってイタリア旅行へ出発。玲子はその後日本からやってきた両親と旅行を続けるため、南野の帰国前にはもう会うことができない。それで最後にもう一度会うという目的をかねて、3人を空港からリヨン駅まで送ってあげることにした。リヨン駅近くのカフェで簡単な夕食を摂ったのち、帰宅。これで全ての用事が終わったという感じだ。さっさと仕事に取りかからなければならない。

 

2000.8.14.(月)

 明日、8月15日は聖母被昇天祭のため、フランスは休日。こういう風に火曜日が休日になったりすると、多くのフランス人はあいだの月曜日も仕事を休む。そしてこのように飛び石連休を3連休にすることを、フランス語では「橋を架ける(faire le pont)」という。こういうフレーズがあること自体、いかにそういうことをする人が多いか、ということを物語っている。エティエンヌも橋を架け、本日の月曜日は仕事を休む。

 そろそろ引越の準備を始めている南野、長らく借りていた電子ピアノの解体をエティエンヌに手伝って貰う。このあともと子が借りることになっているので、エティエンヌの車でもと子のアパートまで運ぶ。パリ滞在中のもと子の妹さんにも手伝って貰い、4人でピアノのセッティング。あとはピアノ屋さんに行って、借り主の変更手続をするだけだ。もと子のアパートへ行く前にピアノ屋に寄ってみると、8月22日までバカンスのため休業と張り紙がしてあった。それで手続は改めて月末にすることになる。

 ピアノがなくなって、南野宅のサロンはちょっと広くなった。ピアノが置いてあった場所に、引越荷物を徐々に詰めているクロネコヤマトの段ボール箱を置く。ほんとうに帰るのだな、という気になり淋しくなる。南野のパリ滞在、あと一ヶ月を切った。

 

2000.8.18.(金)

 夜、エティエンヌを北駅まで送る。週末を利用してロンドンへ遊びに行くとか。羨ましい。現在南野が執筆中のフランス語の原稿を、ロンドンへ向かうユーロスターの中で手直ししてもらうこととの引き替えに、駅まで車で送ってあげることにした。夜は久しぶりにオペラ座近くの日本食街で一人カツカレーを食べる。カウンターに一人座って新聞を広げながらカレーを食べるなんて、まるで日本だ。満足満足。

 

2000.8.19.(土)

 イタリア旅行を終え、ニースから夜行列車に乗ってきた、玲子の兄とその友人藤田君が早朝パリに到着。朝寝坊したい南野に配慮してくれたのか、シャンゼリゼなどを散歩したあと、午前10時過ぎ、アレジア到着。今日の夕方の飛行機でそれぞれ日本とアメリカへ帰るとか。南野邸でシャワーを提供し、さっぱりしてもらったあと、大きなスーパーでなにげないお土産を買いたいという二人をイタリア広場のショッピングセンターへ案内する。ワインやマスタード、チョコレートなどを買ったようだ。その後ポンピドゥーセンター近くのクレープ屋で昼食。両親が日本へ戻ったばかりの君子も合流。食後、マレ地区を散歩したあと、シャルル・ド・ゴール空港へ。まず、藤田君がワシントン行き飛行機に乗り込んだあと、成田行きの飛行機に乗り込む玲子兄を見送り、君子とパリへ戻る。夕食は中華。

 

2000.8.20.(日)

 南野のホームページの読者、色川君がパリ到着。ニースで三週間語学研修を受けてきたそうだ。色川君は東京の大学院でフランスの家事調停制度について研究しているとかで、パリの家事調停あっせん組織へのインタビューをも目論んでの初の渡仏となったらしい。ニースでは連日フランス料理だったそうで、意気投合して韓国料理屋オドリへ行く。南野、最近オドリへは頻出しているので、だんだん島田伸助似のおじさんの愛想がよくなってきた気がする。食後、インタビューを計画している家事調停組織のオフィスを探して見る。彼が予め調べて来た住所リストと地図を見比べながら行ってみるが、着いたところはなんの変哲もないアパート。しかも看板も何も出ていない。二軒あたって見たけれど、二軒ともそう。気の毒な色川君、ショックと不安を隠しきれないようであった。夜11時半頃、エティエンヌがロンドンから帰国。北駅まで迎えに行く。ロンドンで偶然、南野の友人、オリヴィエと会ったとか。世界は狭い。このオリヴィエは、つい先日、フランス大西洋岸のラ・ロシェールという町からヴァカンスに来ていると絵葉書をくれたばかりなのに。どいつもこいつも遊びまくっているようだ。

 

2000.8.21.(木)

 午後、近所のスーパーで買い物をしていたところ、南野の携帯がなった。オリヴィエ4号からだった。96年の夏、南野がリヨンの語学学校で一ヶ月間語学研修を受けていたとき、一緒の寮に住んでいた日仏ハーフのバイリンガル。妹さんとその友人と一緒にパリに来ているという。97年のお正月に東京へやって来た彼と再会して以来、電話ではちょくちょく話してはいたものの、実に3年以上も会っていない。もうすぐ日本へ帰るから一度パリへ遊びにおいでよとは以前から言っていたのだけれど、こうも突然来られると驚いてしまう。彼らのホテルが偶然我が家の近くだったこともあり、さっそく夕食を一緒にとることに。みんなお金がないというので、我が家でパスタをご馳走する。エティエンヌが用意してくれた、ゆでたパスタに缶詰のソースを温めてかけただけの簡単料理は、作った本人も認めるほどのまずさだったけれど、とにかく久しぶりのオリヴィエとの再会で、話も尽きることなく、あっという間に日が替わる。昨日日本からパリに着いたばかりという妹さんとその友人は、半分寝ていた。

 

2000.8.22.(火)

 もと子とアレジアのピアノ屋さんへ行く。南野がこれまでレンタルしていた電子ピアノを、そのままもと子が借りてくれることになった。それで南野のレンタル契約を取りやめ、もと子が契約を新たに結ぶため。南野の帰国準備、それなりに進んでいるけれど、これまで南野が使っていたベッドや机などにまだ買い手がつかない。こちらには「帰国売り」という言葉があって、フランス生活を終えて日本へ帰る人がいろいろな物を売ることを言う。日本語新聞などにたくさん広告が出ている。南野も先日、パリのジュンク堂書店の掲示板に貼り紙を出してきたのだけれど、一向に問い合わせの電話がかかってこない。帰国時までに処分できなかったら困るなあ。

 さて、このところの南野、北欧旅行などにお金を使い過ぎたせいもあって、金欠がままならい状況になってきた。それでこれまでのパリ滞在中、いろいろな人がいろいろな機会にプレゼントしてくれ、そのまま使わずにとっておいた一万円札を、ついに両替屋でフランに交換してもらうことにした。パリには両替屋がたくさんあって、そのそれぞれで交換レートが異なる。ピアノ屋を出たあと、いくつかの両替屋でのレートチェックにもと子にもご同行願う。結局、10軒くらい回ったなかで、運良く最後に見つけたお店が最もレートが良かったため、そこで5万円を両替する。5万円が3380フランになった。1フラン15円以下だ。これは大助かり。いつも1フランは20円という頭があるものだから、たいそう特をした気分になる。

 この両替屋の近くが君子のアパートだったので、もと子と突撃訪問。ちょうどできあがったばかりの、君子の北欧写真を見せて貰いながら、近くのカフェでお茶をして解散。なんとなくお金持ちになった気分で帰宅。

 

2000.8.23.(水)

 夜、フレデリック1号、ステファン、シルヴァン、フレデリック2号がやってきた。近々それぞれイタリアへ行き、ローマかどこかで合流する計画があるらしい。それで先日イタリアへ行ってきたばかりの南野とエティエンヌに、いろいろと情報を、ということで今夜の夕食会となった。帰国を控えた南野には、適当に友人たちに最後のお別れを告げる良い機会でもある。イタリアに詳しいナンテールの友人、フレデリック3号も誘う。フレデリックだらけ。夕食のメニューは多数決でピザの宅配と相成った。しかし昼食に冷凍ピザを電子レンジで温めて食べていた南野は、頑固に中華の宅配を選ぶ。結局イタリアの情報といっても、どの町が良かった? と聞かれて、そうだねえ、ローマも良かったし、フィレンツェも良かった、ヴェネツィアもいいよ、という程度の答えで終わり。ナポリなんて行ったことないし。あとはまるで違う話で12時頃まで盛り上がる。南野とエティエンヌ、彼らのなんの役にもたたなかった気がする。

 

2000.8.26.(土)

 夕食後、ギヨーム1号、ギヨーム2号、エリックなどと飲む。彼らともこれが最後になるかも知れない。一応、日本へおいでよと行っておく。憲兵隊に勤めるお役人のエリックは、しょっちゅう会議で日本へ行っているから、すぐまた会えるかもしれない。ところでこのエリック、最初はたくさんお酒を飲んでいたものの、後半はバナナ・ジュースばかり飲んでいた。一応飲酒運転にならないように気を遣っていたのかも知れない。飲酒運転といえば、パリでもときどき検問をやっていて、かなり前だけれど南野もお巡りさんに、はいこの風船吹いてくださいと言われたことがある。そのときはフレデリック4号たちとビールを飲んだ後だった。これはやばいことになったと思いながら南野が風船を吹いたところ、お巡りさんが風船の下についている目盛りを眺めながら、あなたお酒飲んでます? と聞いてきた。こうなっては仕方ないと思い、正直に、はい飲んで来ました、と答えたところ、このお巡りさん、目盛りを南野の顔の方へくるっと向け、飲んでないじゃないか、と一言。どうやら違法となる酒気の度合いが日本とは違うらしい。それで南野、オール・ヴォワールと言われて解放された。しかし、飲んでます、って言ったのになあ。自己に不利な自白だけでは有罪とされない、ということだろうか。そんなことを思い出した。いずれにせよ、飲酒運転禁止といっても、後半だけバナナ・ジュースにすれば大丈夫という程度なのか。事故が多いわけである。憲兵隊のエリックにそのへんのことを詳しく聞いておけばよかった。最後までお酒を飲んでいたギヨーム2号の車で送ってもらい帰宅。

 

2000.8.27.(日)

 エティエンヌとそのポリテクニーク時代からの親友であるジル君と映画「X Men」を観に行く。パリの南東、セーヌ川の右岸、12区にあるベルシー地区は、いわば新開発地区で、大蔵省の新しい建物を筆頭に、オフィスビルが建ち並ぶ。オフィスの他には高速道路、ホテル、巨大なショッピングセンター、催し物会場、そして映画館などがある。我々はこの映画館に行ったというわけ。初めてここへ来たという大変な映画好きのジルは、その巨大さに圧倒されていた。映画館を出たところには、ちょっとした小ぎれいな道があり、その両横に洒落たブティックやカフェ、レストランが集まっている。映画館から出てきた人でどのレストランも満員。やっとのことで空席を見つけた我々は、さっそくいかにもフランスらしく、映画の感想を話し合う。そこまでは和気あいあい。

 「映画評論会」が一段落したところで、エティエンヌが嫌な話題を持ち出した。以前からエティエンヌとは意見の一致を見ない、第二時大戦中のフランス史をめぐる話である。つい先日、テレビで大作「パリは燃えているか」がやっていて、それを見てまたいつもの話題になったことがあったからかも知れない。ナチス・ドイツにさっさと降伏したペタン元帥か、ロンドンからBBCラジオでフランス国民にドイツ軍へのレジスタンスを訴えたド・ゴール将軍か、いずれが偉いか、という例の話題である。国防省のお役人であるジルは、ペタンとド・ゴールへの評価についても、レジスタンス一般の意義についても、南野とは徹底的に意見が合わない。それでエティエンヌと一緒になって南野を総攻撃。お互いにお前の主張は史実に反する、楽観主義に過ぎる、現実的でないと非難しあい、ののしり合う。だんだん熱くなり、議論も泥沼にはまり込んできたところで、12時前となり時間切れ。フランス語での議論だと、言いたいことの半分もうまく言えず、鬱憤がたまる。しかも2対1ではあまりに不利だ。ペタンとド・ゴールの評価についてはほぼ南野と意見の一致する武田君がそばに居てくれたらなあ、とつくづく思った。ジルを車で送り、帰宅。

 

 

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学士院研究会報告顛末記、ブルターニュ週末旅行、オリヴィエ誕生日パーティーなど)

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南野邸お茶会、ルカ洗礼式、ローラン・ギャロス、子どもモーツァルト、イタリア旅行、樋口先生、音楽祭り、研究会「違憲審査制の起源」など)

(日本人の集い、フランソワ・フランソワーズ夫妻宅、フレデリック誕生日パーティー、モニックさん・彩子ちゃん来訪、北欧旅行など)

2000年8月1日〜27日分

北欧旅行続き、ゲオルギ来訪、玲子兄・藤田君来訪、オリヴィエ4号来訪、色川君来訪、ピアノ片付けなど)

姉・奥様来訪、日本へ帰国、東京でアパート探し、再びパリ行など)

(誕生日パーティ、Troper 教授主催研究会、Cayla 教授と夕食、日本へ帰国など)

(花垣・糸ちゃん邸、スマップコンサート、フランス憲法研究会、憲法理論研究会など)

(洛星東京の集い、東大17組クラス会、パリ、ウィーン、ブラティスラヴァなど。)

(エティエンヌ来日、広島・山口旅行ボー教授来日、法学部学習相談室のセミナーなど)

長野旅行、パリで国際憲法学会など)

新・個人的ニュース

リール大学で集中講義のため渡仏、興津君・西島さん・石上さん・ダヴィッド・リュック・ニコラと再会など)

(リール大学での講義スタート、武田君・タッドと再会、ヒレルと対面、芥川・安倍・荒木・柿原来仏、モンサンミッシェル、トロペール教授と昼食、浜尾君来仏、ヤニック・エティエンヌ・エレーヌと再会、復活祭パーティなど)

パリ行政控訴院で講演コンセイユ・デタ評定官と面談リール大学最終講義、日本へ帰国)

 

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