個人的ニュース 

2000年9月1日〜9月30日分

 

2000.9.1.(金)

 南野の姉、「奥様」とシャルル・ド・ゴール空港に到着。南野が二人に会うのは、昨年夏京都に一週間ほど戻った時以来、ほぼ一年ぶりだ。実に懐かしい。この二人の訪問が、南野がパリで迎える「お客さん」の最後となるだろう。実は南野、9月10日に帰国の予定だったのだけれど、彼女たちが急遽この時期にくることになったため、一週間帰国を延ばすことにしておいた。この一週間は、彼女たちに付きっきりで世話をするように、と姉からきつく言い渡されていたためだ。それで書きかけの原稿も一時停止。

 日本からの直行便が到着するド・ゴール空港の第二ターミナルFホールは、近年新築なったばかりのぴかぴかのもの。到着ロビーはガラス張りで、飛行機から降りて来た人たちが荷物を受け取るベルトコンベア周辺の様子が外からもうかがえるようになっている。南野が覗いていると、到着後ほどなく、トランシーバーを持ったJALの男性に誘導された二人が階段を降りてきた。「奥様」と一緒にいるおかげで、南野の姉までVIP待遇だ。いつも通りノーチェックの税関を通り抜け、二人が外にでてきた。日本人が3人、お迎えに近づいていく。JTBパリ支店の人たちだ。このあと二人をホテルまで送ってくれることになっている。しばらくして南野も近寄り、挨拶。いやはやなつかしい。奥様は70歳を越えておられるが、飛行機の旅にお疲れの様子もなく、お元気そうだった。ホテルでの再会をうち合わせ、いったん別れる。あちらはプロのフランス人運転手の車、負けてなるものか、と南野、それなりに「機敏な」運転でホテルへと向かう。

 二人の投宿先は、パリの超高級ホテル、プラザ・アテネ。高級ブティックの本支店が居並ぶ、モンテーニュ大通りに堂々と構えるこのホテル、もちろん南野は入ったことすらない。エティエンヌのおんぼろ車でホテルの真ん前に到着した南野、豪華な制服を着たホテルのドアマンに車を預けるのが実に気恥ずかしかった。かなり不釣り合いだ。二人はちょっと前にホテルに到着したばかりで、ロビーのソファーに腰をかけ、宿泊カードの記入などをしているところだった。JTBの藤田さんがいろいろとお世話をしてくださる。しばらくすると、プラザ・アテネ総支配人が挨拶にやってきた。まあ、お越しくださって光栄だとかいう、ありきたりの挨拶ではあったものの、すごいVIP待遇! 貧乏性の南野姉弟、すでにぽーっとなってしまう。

 そしていよいよ部屋へと案内される。もちろん、スィートルーム! フランス式の二階、つまり日本で言うと三階にあるこの部屋、いやはやすごい。部屋からはエッフェル塔が間近に見える。奥様のスィートと南野姉弟用のセミ・スィートは隣合っていて、中の扉を開けておけば出入り自由。つまりスィートとセミ・スィートも二つ併せてまた一つ大きなスィートになっているというわけ。各部屋にトイレ・バスが二つずつあったり、冷蔵庫がいくつもあったり、とにかく部屋の中で迷ってしまいそうな大きさ。品のよい調度品はさすがプラザ・アテネのセンス。歓迎の胡蝶蘭やフルーツ・バスケットも気が利いている。南野姉弟のセミ・スィートはベッドルームとサロンが一つになったタイプのものだが、奥様の方のスィートはもちろんそれぞれ別の部屋になっている。サロンにある大きなソファーは実に快適。風呂場などにおいてある石鹸は、ニナ・リッチ製。毎日一個ずつもらって帰ろうなどと思ってしまう。南野、パリ生活の最後の一週間をこんなところで過ごせるのか、と密かに興奮する。

 二人が少し休憩をしたあと、ホテル近辺をぶらぶら散歩。シャンゼリゼまではほんの2,3分の距離。モンテーニュ大通りにはシャネル、フェラガモ、プラダ、ロエベ、ルイ・ヴィトンなどなど、ブランド品の大きなお店が並んでいる。フツーの日本人女性である姉は、もう、大はしゃぎ。次から次へとちょっと入って見てみよう、を連発し、奥様も南野も、早速閉口させられてしまう。ま、見るだけで満足という人だからまだいいか。

 夕食はエティエンヌも誘い、庶民的な寿司屋、明日香へ。食後、これまで一度もプラザ・アテネに入ったことのないエティエンヌを我々の部屋へ案内する。彼もまた、部屋の豪華さにため息まじりで驚いていた。そしてエティエンヌが帰ったあと、南野は快適な巨大ベッドで就寝。なんだかお金持ちになった気分。ふふふ。

 

2000.9.2.(土)

 プラザ・アテネで迎える初めての朝。南野が目を覚ますとベッドに姉はいない。広い室内、探すのも結構大変だ。奥様の部屋と南野姉弟の部屋を仕切るドアも昨夜から鍵をかけたままになっている。どこへ行ったのだろうか? あ、いたいた。彼女はバルコニーに出て、一人エッフェル塔を眺めていた。いかにもパリ、という雰囲気を満足げに味わっているようであった。ふと南野、ルームサービスを呼びたくなった。オレンジジュースとコーヒーを持って来てもらうことにする。電話をかけてほどなく、真っ白のスーツに黒の蝶ネクタイを結んだ青年が、銀のお盆に載せた飲み物を持って来てくれる。これまでどこを旅行してもチップなど渡すことのほとんどなかった南野、さすがにここではそういうわけにも行くまいと、10フラン硬貨を渡す。10フランなんて、けちな客と思われただろうか。この辺の相場は、よくわからない。

 部屋にあるほんとうに巨大なテレビは、同じパリだというのにこれまで南野が見たことのないチャンネルがたくさん入っている。NHKの国際放送も。NHKニュースなんて、実になつかしい。部屋に届けられた朝日新聞を広げながら、NHKを見て、あたたかいコーヒーを飲む。南野がこの3年間、アレジアのアパートで迎えてきた朝の風景とは大違い。南野は大満足だったものの、朝からエッフェル塔をぼうっと眺めるような姉は、せっかくパリに来たという雰囲気がまる潰れだからNHKなんて消せ、と言う。

 11時頃、ホテルを出発。今日はよい天気だ。例によってモンテーニュ通りの高級ブティックを覗きながら、シャンゼリゼ方面へ。昼食をオペラ座近辺の日本料理店が集まっている地区でとることにする。姉はまたしてもパリに来た気がしない、と文句たらたら。南野は大満足。パリは日本のようにタクシーがどこでも流している、というところではないから、タクシー乗り場以外でタクシーを拾うのが割合難しい。シャンゼリゼでもそうだ。メトロはさすがに乗りたくないという奥様と姉の希望をいれ、南野、バスで行くことを提案する。

 さすがに奥様もパリで市バスに乗ることになるとは想像しておられなかっただろう。だいたい、仕事ではなくプライベートで、友人とだけでの海外旅行なんて、もう何十年ぶりだという奥様、今回のパリ滞在は南野姉弟だけに囲まれて、いろいろと予想だにされなかった出来事がちょくちょく出てくるに違いない。両親がパリにやってきたときも、できるだけ貧乏学生のパリ生活に合わせた滞在を強いた南野、今回もなるたけ普通のパリ生活を味わっていただきたいと思っていた。それで市バスに乗るというのはその第一弾、といったところか。

 幸いオペラ座方面行きのバスは混雑しておらず、奥様も姉も座ることができた。パリの市バスの運転はかなり荒く、老人が乗ってこようと、子供がいようと、運転手はおかまいなしに急発進、急ブレーキ。日本のように乗客が座るのを確認してから出発、なんてことはまずない。なので座席に座れないとかなり疲れる。まあ、二人とも座れたので、一安心。

 オペラ座近辺でバスを降りた三人は、目的のレストラン鮨太郎へと向かう。このあたりは観光客を狙ったスリやひったくりが多いので要注意、とJTBの藤田さんに言われていたところの一つ。パスポートや現金など、全部ホテルにおいていってください、と南野姉弟がなんども頼んでいるにも関わらず、肌身はなさず自分で持つ、と言って聞かない奥様、大きなショルダーバッグをここまで持って来られた。薬だとかいろいろなものも入って大きく膨らんだこのカバン、傍目にはきっと多くの貴重品が詰まっているように見えるに違いない(実際クレジットカードやたくさんの現金なども入っているのだけれど)。さすがに心配なので、南野が代わりに持つことにする。それで奥様は姉と腕を組んで歩く。まるで孫と娘、いや失礼、まるで親子だ。

 鮨太郎の隣には金太郎がある。鮨太郎は名前からわかるように、鮨が中心のメニュー。金太郎の方は、ラーメンやカレーライスなどのメニューになっている。どっちでもいい、と二人がいうので、南野、鮨太郎を選ばせてもらう。金太郎には何度か来たことがあるが、鮨太郎の方は、これまで一度しか来たことがなかったから。こういう時にいいものをご馳走になっておかないと!

 食事の途中から雨がひどく降り始める。さっきまであんなに晴れていたのに・・・。パリの雨は、ふつうはちょっと降ったあとすぐに上がるのだけれど、この雨はどうも本降りだ。上がりそうにない。傘も持って来なかった。仕方なくお店でタクシーを呼んでもらうことに。行き先は・・・。南野のアパート! 実は二人と一緒にプラザ・アテネに泊まる、ということを予測していなかった南野、急遽泊まることになり、いろいろと着替えなど、ホテルへ持って行きたいものがあったため、いったんアパートに戻りたいと考えていたのだ。実に庶民的なパリのアパートを奥様に見ていただく、というのも一興だろう。

 南野がこれからの一週間の着替えなどをかばんに詰めていると、例によって週末のお散歩(?)に出かけていたエティエンヌが帰宅。流暢な日本語で昨日はどうもご馳走様でした、などと挨拶をしている。そういえば、奥様の来仏に備え、「お目にかかれて大変光栄です」というフレーズを一生懸命暗記していたエティエンヌ、いったいこのフレーズをいつ使うつもりなのだろう。

 ようやく雨が上がってきたので、このあと買い物にでかけるエティエンヌの車に便乗し、サン・ジェルマン・デ・プレ界隈へ向かう。このあたりもまた、日本人にもよく知られた高級ブランドのお店がたくさん集まっている。ちょっと覗いたアルマーニのお店で、南野、奥様にネクタイを買ってもらう。突然ネクタイを選んでいただき、プレゼントされた南野の感動はここに書くまでもない。ネクタイのように、これから頻繁に使うであろうものを選んでいただけるというのは、本当にすばらしい思い出になる。あいかわらず次から次へとこの店に入ろうあの店に入ろうと主張する姉を適当に二人であしらい、界隈を一回りしたあと、サン・ジェルマン大通りに面したカフェテラスに入って少し休憩。サン・ジェルマン・デ・プレ教会近くには文豪が通ったことでも有名な高級喫茶店ドゥ・マゴフルールなどもあるが、三人の入ったカフェはなんの変哲もないところ。コーヒー1杯200円くらい。生ビールを一杯飲む。

 その後タクシー乗り場で順番を抜かそうとする厚かましい日本人のおばちゃん連中に、慇懃にどうぞどうぞと列を譲ったあと、ようやくやってきたタクシーに乗り込み、いったんホテルへ戻る。着いてみると、ホテルの入り口には人だかり。どうやら有名人が出てくるのを待っているようだ。プロのカメラマンらしき人もいれば、いわゆる「おっかけ」風の一般人らしき人もいる。誰が泊まっているのかな、と思いながら人だかりを堂々とかきわけ、ロビーへ入る。ドアマンがきちんとガードしているので、ロビーの中はいつも通りの静けさ。だれが出てくるのか、実に興味があったので、少しロビーに座って観察することにする。

 気がつくと、その有名人はすでにロビーで関係者に囲まれて立ち話をしていた。きっとこれから夕食にでもでかけるのだろう。男女10人くらいの団体さんだ。あまり海外の俳優に詳しくない南野でも、しばらく考えてその人の名前を思い出すことができた。クリント・イーストウッドだ。後で聞いたところによると、この少し前に行われたヴェネツィア映画祭に出席したあと、パリで主演映画(タイトルは忘れた。イーストウッドは宇宙飛行士役。『カウボーイ』だったかな?)の劇場公開の舞台挨拶にやってきたらしい。実は奥様、イーストウッドのファンだったらしく、やや興奮なさる。姉は話して来い、写真を一緒に撮ってくれと頼んで来い、とか南野に言う。自分で言うのではなく「通訳」に頼むだけだから、得てして海外にやってきた日本人はあつかましくなるものだ。ツアーコンダクターの苦労がしのばれる。南野、厚かましい客が身内でよかった、とつくづく思う。

 イーストウッド氏一行がロビーから外に出て、待ちかまえる人々にフラッシュを浴びせられ、サインを求められ、マイクを向けられ、その後リムジンに乗り込むのを見送ったあと、三人は部屋に戻る。そして夕食をどこでとるか、の相談。エティエンヌは平日は仕事のため、あまり三人と会う機会もないだろうから、今日、土曜日の夕食がひょっとすると最後のディナーになるかもしれない、ということで、彼のよろこびそうな高級日本料理店へ行くことになる。もちろん、奥様のご配慮。

 日本料理店は結構知っているものの、高級なもの、となるとあまり詳しくはない南野、JTBの支店長さんに電話をかけ、教えを乞うことに。いくつかあげてくださったなかから、衣川を選ぶ。じつはここ、南野の友人でもある東内さんのご家族経営、と岩月君から聞いたことがある。夜の京風懐石セットメニューが750フランという、ちょっと破格の値段。それでもちろん、これまで行ったことはない。迎えに来てくれたエティエンヌの車に乗り、ルーヴル博物館近くの衣川1号店へ。たしかに入り口からして、大変高級な雰囲気。メニューを見て、エティエンヌも驚愕している。

 夕食後、エティエンヌの運転で、恒例のパリ夜景ツアー。歓楽街のピガール地区で、一瞬、売春婦の姿を見つけて、姉、興奮。それを見て、売春婦を見損なった奥様は悔しそう。ホテルに戻り、地上階にあるバーで食後酒をいただく。グラスに入ったシャンペンが500フラン、という、これまた南野が通いなれたようなバーでは見ることのない価格。部屋に戻ってバルコニーからきれいにライトアップされたエッフェル塔に見とれていると、ちょうど下から順番にライトが消えていく瞬間に出くわす。つまり午前二時だったようだ。

 

2000.9.3.(日)

 午前11時頃、エティエンヌがホテルへ3人を迎えに来てくれる。パリを離れて郊外までドライブをすることになっていた。ところが肝心のエティエンヌの愛車、先日来タイヤの調子がおかしかった。端的に言えば、パンクしていた。昨日も、サン・ジェルマン・デ・プレへ向かう途中、信号で停まった際、隣合わせた車のカップルがわざわざ窓を開け、タイヤがおかしいわよと注意してくれた。フランス人って、他人のことにはおかまいなしの個人主義者だと言われているが、たまにはこういう親切な人もいるのだ、と一同驚いたところ。実は奥様と姉の来訪に合わせて、2,3日前にタイヤを修理に出してくれたばかりのエティエンヌ、まじかよー(C'est pas vrai !)、と相当ショックを受けている様子。フランスでは車の修理業者のことをガラジスト(garagiste)、つまりガレージの人、というが、南野、これまでこのガラジストという職種について良い評判を聞いたことがない。自家用車のブレーキランプが壊れたので修理に出したら、トラック用のランプをつけられてしまい再び修理に出したフランソワーズおばさんや、ドアの鍵が壊れたのを修理してもらったところ、家に戻ってドアを開けたとたん再びドアが閉まらなくなったエティエンヌなど、とにかく全く信用できない、という話を山ほど聞かされてきた。修理に出すたびに高いお金を払わされ、しかもちゃんと直ってこないばかりでなく、他のところが壊れて戻ってきたりするのだから、ひどいものだ。いつもエティエンヌが出す修理屋さんは、それでもルノー社の認定店。そういえば、先日もフロントガラスにヒビが入ったので交換に出したら、ガラス工場がストをやっているため予定より一週間遅れる、という説明を、しかも修理屋さんから連絡してきたのではなく、約束の日に車を取りにいったエティエンヌにその場ではじめて言った、ということもあった。もう他の修理屋さんにしたら? と南野が言うと、エティエンヌは一言、どこも同じだから。フランスというのは、そういうところなのだ。

 そういうわけで、再びパンクしているらしい車に奥様や姉を乗せて高速道路をドライブをするわけにはいかないので、今朝はエティエンヌが家の近くでレンタカーをしてきてくれた。さて、今日の行き先は、ジヴェルニー(Giverny)。パリの西北、セーヌ川に沿って走ること約2時間ほどのところにあるこの小さな町は、なによりも、クロード・モネ(Claude Monet、1840-1926)の家があることで有名。日本では多忙を極め、ほとんど外出もままならない奥様を、こういう機会に快適な散歩にお連れしたい、という姉の希望を受けて、南野がエティエンヌと相談した結果、以前エティエンヌが Mel おじさんを案内して大変な好評を博したというこの町へ行ってみることになった。

 フランスの高速道路ドライブは、まずまず快適だ。日本の名神東名のように、ほとんど始終トラックだらけ、ということがない。道幅も広いし、きれいに整備されている。そしてなによりも、ちょっとパリを離れると、あたりはすぐに広大な自然に囲まれてしまうのだ。フランスという国が農業国であることは、パリにいるとなかなか実感がわかないものの、ほんの半時間ほどパリから高速を走ったり列車に乗ったりすると、実によくわかる。右も左も、延々と麦畑や牧場が続く景色に一変するのだ。今回4人が通ったコースは、どちらかというと最初しばらくは都会の部分を通るものの、セーヌ川に沿ったコースや、ヴェルサイユ近くの森に囲まれたコースなど、なかなかの自然を堪能させてくれる部分があった。

 エティエンヌの運転で無事到着したジヴェルニーの町、南野も今回が初めてだ。小さな町に似つかわしくないほどの、たくさんの観光バスが来ている。みな、モネの家目当てだ。アメリカ人らしき観光客が多いのに驚く。人気があるのだろう、きっと。日本人らしき人もちらほらみかける。昔ながらの狭い幅の道路に、ぶらぶら歩く観光客と、彼らにやや遠慮しながらのろのろ走る観光バスやマイカー。日本とは違い、タクシーはない。こんなところまで走ってくれるタクシーは、パリにはないからだろう。エティエンヌが車を駐車場に停める。4人はまず、昼食をとることに。観光地とはいえ、さすがにモネしかないわけで、土産物屋もレストランも数件ほどしかない。あまり選択の幅はなさそうだ。クレープ屋さんに入ることにする。クレープといえば、日本ではお菓子のイメージしかないけれど、こちらでは一応ちゃんとした食事と考えられているらしい。小麦粉を溶かしてつくった丸く平べったい下地に、肉や野菜、卵など、いろいろなものをおいて焼き、さらにそれを上手に包みあげる。ようするに、日本でいうところのお好み焼きと思えばいいだろう。こういうのは、crepe sale (しょっぱいクレープ)というカテゴリーに入り、日本でいうクレープのような、なかに砂糖をいれたり、チョコレートやバナナなどを包む、crepe sucre(甘いクレープ)とは区別される。クレープ専門のレストランで食事をするときは、まずしょっぱいクレープの方を食べ、その後甘いクレープをデザートにとる、というのが普通のようだ。そして飲み物はリンゴの発泡酒(シードル)と相場が決まっていて、パリでもどこでも、クレープ屋さんには必ずシードルがある。

 この昼ご飯が、奥様と姉にとっては、こちらへ来てからのはじめてのフランス料理となった。これまでの日本料理店とは違い、机の安っぽさ、配膳の遅さ、うるさい子供やその反面実によくしつけられた大型犬に囲まれての昼食は、きっと二人にとってはカルチャーショックだったに違いない。

 さて、食後はいよいよモネの家へ。とにかく花を愛し続けたモネ、広大な屋敷の庭がきれいに区画整理された花畑になっている。日本から贈られた桜の木なんかもある。花が大好きという奥様は、たいそう気に入られた様子。南野もエティエンヌもほっとする。迷路のようになっている花畑をぐるぐるまわったあとは、道路をはさんで向こう側にある、ちょっとした森のような庭へ行く。道路にはちゃんと地下道が造られている。こちら側は大きな池があり、しだれ柳や太鼓橋も。モネの有名な作品になんども描かれた景色だ。この太鼓橋は、「日本橋」という名前。人が多いのはいただけないものの、うっそうとしげる大樹のもと、池のほとりをのんびり歩くのは、実に快適な一時だ。

 再び地下道をくぐり、花畑の方へ戻ってきたとき、いきなり日本人のご婦人二人組に、あら、***さん! と奥様が声をかけられてしまう。おそるべし、日本のおばさんパワー。挨拶よりもなによりも、まず、写真撮ってください、の一言。写真を撮り終わってから、挨拶が始まる。奥様はといえば、いやな顔一つせず、にこやかに応対。さすが。

 大きな土産物コーナーで、展示してあるモネの生前の写真やお土産品をじっくり見たあと、外に出る。ジヴェルニーに到着してそれを発見して以来、常に姉がこだわりつづけていた移動式のお店で、エティエンヌと姉がアイスクリームを購入。南野、一口もらったが、たしかに美味。そして駐車場の車へと戻る。

 パリへ戻る途中、ビズィー(Bizy)城に立ち寄る。ここには人がほとんどおらず、静かに散歩を楽しめた。エティエンヌが用意してきてくれた地図には、見晴らしの良い部分などのマークがちゃんとあり、それに従ってドライブを続けて見ると、かなりの高台から眼前に広大なセーヌがぱっと開けるところに出た。車を停めて降りてみる。はるか彼方にパリがかすんで見える。巨大な都市だ。そして足下からそのはるか彼方のパリまでは、延々と広大な平野。そのなかを、ところどころ蛇行するセーヌが走っている。大河に見える。車を停めたところには、またしてもキャンピングカーを改造したような移動式のお店があり、おじさんが一人でホットドッグや飲み物を売っている。小腹がすいた気がし、おじさんが運んできて広げているのであろう、安っぽいテーブルとイスを利用して、少し休憩。さすがにここまでくると観光客もおらず、4人の他には、子連れのカップルが一組、そして駐車場でたむろしている地元の若者が一グループだけ。快適な一時を過ごす。

 その後、エティエンヌの運転でパリへと向かう。途中、パリの西端にある、デファンス地区の新凱旋門などを横目に見つつ、午後7時頃、無事プラザ・アテネに戻る。夕食は、Chez Zhou で中華料理とあいなった。姉は相変わらずフランス料理! と叫んでいたが、南野はやはり大満足。奥様は、ここの焼きそばが大変気にいられた様子。よかった。用事があって一緒に夕食をとれなかったエティエンヌに、Chez Zhou でワインを一本譲ってもらい、おみやげ。翌日仕事のエティエンヌには早々に別れを告げ、タクシーでホテルへ戻る。

 

2000.9.4.(月)

 ホテルからタクシーで、モンマルトルへ。フランス革命百周年を記念して建てられた白亜の大聖堂、サクレ・クールが丘の上にパリを見下ろすように建っている。このあたりはくねくねと入り組んだ坂の多いところでもあり、たいへん趣のある地区だ。最近日本でやっている安室奈美恵出演のコマーシャルは、このモンマルトル界隈で8月末に撮影されたもの。実は南野、彼女たち一行の世話を頼まれていたのだけれど、あいにく北欧旅行が入っていたため、泣く泣くお断りした、ということがある。もし南野がこのお仕事をちゃんとやっていたら、今頃は松田聖子ではなく安室ちゃんが、すわ新恋人出現か、と日本のワイドショーをにぎわしていたかもしれない(2000年12月記)。

 聖堂前の広場から、階段に座ってパリを見下ろす観光客に混じって我々もパリを一望したあと、近くにわんさかとある土産物屋を物色する。奥様も姉も、知人・友人のため、Tシャツや小物などを大量に購入。この地区にはレストランもたくさんあって、その中の一つ、なんの変哲もない、いかにも普通のレストランという感じのところで昼食。昨日飲んだシードルが気に入った姉は、ここでもシードルを注文。メインディッシュはオムレツやラザニアなど。

 その後、聖堂前で発着をしている、まるで日本の遊園地を走っているような、小さな車両を長々と連ねたおもちゃのバス風のものに乗りこみ、モンマルトルの丘を降りる。次なる行き先は、ヴァンセンヌの森に決定。ここもきっと、のんびりした散歩ができることだろう。流しのタクシーがあまり多くないのは相変わらずのこと、ようやくやってきたタクシーに大喜びして乗り込む3人。ところがこれが不運の始まり。かなりひどい運転だった。モンマルトルのふもと、ピガール地区からヴァンセンヌ市までは、かなりの距離だ。若かりし頃、その激しい運転で家族の寿命を縮ませていた姉も、さすがにこの運転手の運転には相当怖い思いをしたらしい。しかも運悪く3人の真ん中に座ってしまった彼女、万一衝突でもしたらまず飛び出して死ぬのは私だと、恐怖におびえ始める。恐怖だけでなく、急発進急ブレーキの連続に、だんだん車酔いの症状まで現れる始末。顔は徐々に蒼白になっていき、衝突しても飛び出さないようにと両脇から彼女に腕組みをする南野と奥様も心配になってくる。もうすぐ着くからねもうすぐ着くからね、とだましだましなだめながら、南野、たしかにパリの普通の運転手に比べても、この運転手、ちょっとひどいかもな、などと思い始める。奥様もこの運転手さん、酒臭い、とのご指摘。そうかもしれない。ちょうどお昼ご飯の後の時間帯だから。いやはや、とんでもない運転手にあたったものだ。これならばまだパンクしたエティエンヌの車の方がまし、とは一番の被害者、姉の弁。

 ともあれなんとかヴァンセンヌの森に到着。転げるように車から飛び出す姉。しばらく森を散歩して、ようやく元気を取り戻したようだった。元気になると、なんでも弟のせいにする姉、しきりにああいう運転手を選んだのはおまえのせいだ、と理不尽な八つ当たり。さて、ヴァンセンヌの森は、とにかく広大で、南野もどこになにがあるかよくわかっていない。実は昨年4月、南野の両親がパリにやってきたとき、この森に案内したことがあるのだけれど、そのときは、たまたまメトロを降りて歩いていると実にきれいな湖のほとりにたどりでて、そののんびりした雰囲気に、両親が大変喜んだことがあった。今回もこの湖へ、と思って奥様をお連れしたのだけれど、どうも様子が違う。タクシーを降りた場所が悪かったようだ。たしかに森には違いないけれど、湖もなければベンチもなく、だんだん天気は悪くなってくるし、と南野、やや焦り始める。やはり運転手のせいだ、と気がつくと南野まで理不尽な八つ当たり。ややぐるぐる回ったあと、なんとか湖に到着。ほっとする。その後再び森の中を迷い、ちっぽけなスタンドで缶ジュースとワッフルを購入し、休憩。

 ヴァンセンヌの森には大きな動物園がある。ここにはかなり高い塔があって、エレベータで頂上の展望台に登ると、360度の大パノラマ。奥様は動物園がお嫌いとのことだったけれど、塔だけ登ってみることにする。さきほど訪れたモンマルトルのサクレ・クール寺院もはるか彼方に見える。あんな遠いところから、あの運転手の車でここまでやってきたのか、と思う。エッフェル塔も見える。凱旋門も見える。かなり違和感を放つモンパルナスタワーも。そして真下には、まめつぶほどのライオンたち。

 塔を降り、動物園を出る。いつものようにタクシーを拾うのにしばし苦労したあと、しかし今度はいい運転手にあたり、無事にホテルへ戻る。今夜の晩ご飯は、エティエンヌのアイデアでインド料理。彼の一番のおすすめというインド料理屋がお休みだったため、次善のチョイスとなった。仕事先から少し遅れてやってきたエティエンヌと4人で楽しい夕食。そしてホテルへ戻り、一階の豪華なバーで、豪華なお酒をほんの少々。

 

2000.9.5.(火)

 朝食の後、ホテルを出てモンテーニュ大通りでショッピング。まずはロエヴェのパリ本店へ。出たばかりのかなり素敵なスカーフ、奥様にぴったりということで早速お買いあげ。こういう高い買い物は、付き合っているだけで気持ちがいいもの。姉と南野はどうだかしらないが、奥様はやはり、成金で買い物目当ての日本人観光客とは違う雰囲気があるから、店員の態度が違う。ロエヴェの日本人店員は(このあたりのお店には、各店にほぼ一人ずつ、日本人店員がいる)、南野にそっと、とてもおしゃれな奥様ですね、何者ですか、と聞いてきた。教えてあーげない。

 昼食は南野の提案で、マレ地区にあるヴォージュ広場。18世紀の貴族の館が周りを囲む、それほど大きくはない、しかしパリでもっともきれいな公園の一つである。シャンゼリゼ大通りでバスを待っていると、姉が急に思いついたように、そうだ今買い物したこの荷物はお店に預けて来よう、と言い出す。言い出すのはかまわないけれど、当然預かってくださいと頼みに行くのは南野の仕事。仕方なく預けに行き、その後バス停に戻ると、ちょうどバスが行ったところで、南野、姉にお前はとろいとなじられる。ユニークな人だ。

 それでタクシーでヴォージュ広場に到着。天気も良く、芝生の上には昼寝や読書をしている人がたくさん。まず、昼食をとることになる。実はこの広場の周り、あまり適当なレストランがない。あるのは場所柄、高級な雰囲気をなんとなく出そうとしている一癖ありそうなものばかり。その中の一つ、広場の角にあるところへ入る。不運の始まり、第三弾(第四弾?)。

 南野、パリに三年も住んでいながら、いまだにフランスの料理用語をよく知らない。メニューを見ながら、これなにかしらと奥様に聞かれても、鳥だ魚だ牛だ豚だ、くらいのことしか言えない。奥様と姉は無難そうな肉料理。南野はお店のおすすめと書いてあった、タルタル・ステーキなるものを注文することにする。タルタルソースなら南野、大好きだ。きっとステーキにタルタルソースがかかっているのだろう。まず前菜のサラダが運ばれてきた。まずい。次にメインが運ばれてきた。奥様と姉の注文した肉料理、そして南野のタルタル・ステーキ。南野、目前に運ばれてきた瞬間、タルタル・ステーキがいったい何であったかを思い出し、愕然とする。以前にも同じ物を注文し、大後悔したことがあったのを思い出したのだ。実はこれ、生のひき肉。ハンバーグを作る途中で出現するような、べちょべちょの生肉。これがでーんとお皿の上においてある。ただそれだけ。姉はペディグリーチャム、つまり猫の餌だと言う。最低。とても食べられたものではない。以前もきっとタルタルソースと勘違いして注文したのだろう。記憶力のなさが災いした。辞書を持ってくればよかった。

 奥様と姉の肉料理もかなりまずかったらしい。サラダもまずければメインもまずい、ということで、大いに不満の昼食となってしまう。南野、平謝り。姉は激怒。奥様も、寒さとまずさで気分が悪くなってこられたよう。デザートもとらずにレストランを後にし、陽のあたる公園へ。芝生の上はぽかぽか。3人とも芝生に腰を下ろし、しばし気分直しのひなたぼっこ。

 ようやく元気を取り戻した3人は、リヴォリ通りへ出てタクシーを拾うことに。いったんホテルへ戻り休憩することにしたのだ。途中、店主手作りのアクセサリーを売るかわいいお店で、お土産をいくつか購入。ホテルに戻ってからは、一階の喫茶コーナーでお茶。ウェイトレス・ウェイターは美男美女。だんだん顔見知りになってきて、少し話したりする。その内の一人、陽気なお嬢さんに、南野、あんた色が黒いけど、何人なの? と聞かれ、ショック。おまえの方が黒いだろ。

 部屋に戻ってしばらく休憩の後、再びモンテーニュ通りへ買い物。今度はフェラガモの本店へ。このあたりの日本人店員としては割合上品な部類に入るおばさんが相手をしてくれる。しばらく買い物を続けていたところ、突然この日本人店員女史、ふと奥様が誰だか気がついたらしい。買い物を終えてお店を出るときには、お目にかかれて光栄でした、と涙ぐまれてしまう。ロエヴェのおばさんとは質が違う。

 今夜の夕食は、昼の苦い経験もあるし、しかも旅の途中でちょうど疲れも出てくるころだから、ということでルームサービスですますことに。電話で注文をしてしばらくすると、キャスターのついた大きなテーブルをごろごろ押して、おじさんと青年が3人、入ってきた。イスを適当に配置して、ちょっとしたテーブルのできあがり。いやはや今日は大変だったね、とくつろいだ夕食となる。

 食後、南野はたまたま携帯に留守電メッセージを残しておいてくれたバンジャマンをホテルに誘う。いろいろあって一年くらい口も聞いていなかった古い友人だ。日本語を専攻しており、かなり日本語は達者。昨年の夏にはコンクールに優勝して、京都への一ヶ月研修旅行などをものにした人。たまたまそのころ南野も京都へ一時戻っていて、鞍馬あたりを散歩したのが彼と会ったのは最後だろうか。シャンゼリゼをはさんでプラザ・アテネとは反対側のこれまた高級アパート地区に住んでいる彼、まさか留守電に反応してくれるとは思わなかったなどと感激しながら歩いてホテルまでやってきてくれた。

 ロビーに着いたと連絡があり、下へ降りてみると、大変な人だかり。夕食を終えたクリント・イーストウッド一行が、これからどこかへ遊びにでかけるらしい。ちょっと様子を見よう、とバンジャマンとロビーのソファーに腰をかける。ホテルの外はすごい人。バンジャマンもここへ入るのに一苦労したという。まじまじと見つめていると、イーストウッド氏、近くのソファーに腰をかけた。膝には若い女の人が座っている。だれ、この人? 楽しそうに歓談しながら、リムジンの到着を待っているらしい。

 そこで南野、思い切って、写真を撮ってもらうことに。断られたときのことを考えると異常にどきどきする。つくづく小心者なのだ、と思う。勇気を振り絞り、ハリウッドスターに近づく。はじめはフランス語で、写真を撮ってくれませんか、と聞いてみる。は? というような顔をされる。どうやらフランス語はできないらしい。それでへたくそな英語に切り替えると、一言、それもまったく表情を変えず、Never, ever と。一瞬意味が分からない。Never は決して〜ない、という意味だったよな。ever はなんだろう? たぶん、絶対ダメ、っていう意味だ。そうだ、それに間違いない。断られてしまった。かなり怖い。なにせ表情を全然変えず、南野の目をじっと見つめて静かにこう言うだけなのだから。どのように引き下がっていいものか、考えあぐねていたところ、先ほど彼の膝に座っていた女の人がげらげら笑いながら、カメラをよこせ、と言っている。渡すとちゃんと撮ってくれた。冗談だったのかな? いずれにせよ、やった、イーストウッドとのツーショット。この写真、近々このページにアップする予定なので、乞うご期待。

 その後、カメラのフラッシュを遮るようにしてリムジンへ滑り込み、夜の町へと消えていったイーストウッド一行をロビーから見送ったあと、バンジャマンとホテルのバーへ。つもりつもった話しもあり、お互い謝ることもあり、とにかく飲みまくり、喋りまくり。ふと気がつくと、隣のテーブルにはまたしても別の有名人が。フランスの若者に大人気の歌手、フォデル(Faudel)だ。アラブ系の歌手で、現在23,4歳の彼は、ちょっとしたアイドル的存在。南野もしょっちゅうテレビでその顔は見ている。たしかCDも一枚持っていたはずだ。どうやら友達と飲みに来ているらしく、全員アラブ語をしゃべっている。そのテーブルの隣には、太ったおじさんを囲むグループがいて、バンジャマンによると、テレビにもしょっちゅう出てくるフランスの有名なお金持ちらしい。名前は忘れた。おじさんグループが退席するときには、フォデルと挨拶していた。

 プラザ・アテネのバーはパリ市内のバーと同様、午前2時に閉まる。そろそろ閉店が近づいてきたとき、フォデルの友人らしき男の子がこちらに近寄ってきた。日本人か、と聞く。南野が、あれフォデルでしょ、というと、知っているのか、と驚く。そしてこのアラブ人の好青年、フォデル、こっち来い! と大声で彼を呼ぶ。そしてフォデルが我々のテーブルに。握手を求められ、こちらも立ち上がってそれにこたえる。フォデルというのは、大スターになってもいつも腰が低く、昔からの友人を常に大切にしていると、しばしばメディアで紹介されていたが、どうも本当らしい。かなりの低姿勢の人だった。CD持ってるよ、と南野が言うと、光栄です。テレビでいつも見てるよ、と言うと、ありがとうございます。とまあ、こういう感じ。写真を頼んだら、喜んで! と例のハリウッドスターとは大違い。日本へのコンサートも計画中らしいから、いつか日本に来たら楽屋でも行ってみるか。日本に来たときは通訳しますって言っておけばよかった。

 ミーハーな南野、すっかり有頂天になる。一夜にして有名人二人と写真。だからどうってことはないのだけれど。フランス滞在最後の、まあ一つのおかしな記念にはなった。その後バンジャマンと別れ、南野は部屋に戻って就寝。

 

2000.9.6.(水)

 今日はノルマンディへ足をのばすことにする。行き先は、エトルタ(Etreta)ドーバー海峡に面し、砂浜と断崖絶壁が続く有名な景勝地。夏に行くとすごい人だ。一昨年だったか、エティエンヌの車で友人二人とともに連れて来てもらったのが初めてだったと思う。今回は南野がレンタカーをする。フォルクス・ワーゲンの、なかなかゆったりとした大きめの車をシャンゼリゼ近くのレンタカー会社で借りたあと、ホテルへ姉と奥様を迎えに戻る。一昨日と同様、パリの西北へ向かう高速道路を走る。あいにく天気には恵まれず、雨足はどんどん強くなるばかり。風もきつく、かなりの悪天候だ。ル・アーヴルに近づいたころからようやく雨があがってくれる。それでも曇天であるのは相変わらず。

 ル・アーヴルからエトルタまではほんの少しの距離。道も狭くなる。両側には牧場が広がっている。牛や羊、ときどき馬もいる。きれいに晴れていたらさぞのどかな景色であるに違いない。しかしこのどんより曇った暗い空、いかにも陰鬱なノルマンディーという感じもする。ノルマンディというところは、哀愁ただようイメージがあって、それは一つには、めったに快晴に恵まれないから、ということがあるのかもしれない。

 無事にエトルタに到着し、海岸まで歩いて見る。かなり寒く、波も高い。厳しい海、という言葉がぴったりの眺め。3人の降り立った海岸線から左右に目をやると、そこには巨大な断崖が迫っている。この寒さのなか、断崖の上の方まで歩いて登る人の姿がちらほらとかすかに見える。南野がかつて来たときは、かなり大勢の人が断崖を登っていて、南野たちもそれに混じって上の方まで行ったのを思い出す。今回は、実に寂しげな雰囲気を醸し出している。3人とも、しばらく海をぼうっと眺める。海はいろいろなことを思い出させ、そして忘れさせてくれる気がする。

 かなり寒いので、近くのカフェに入って温かいコーヒーを飲む。そこで絵はがきを買ったりもする。その後エトルタの町を少し散歩。町といっても、基本的には海岸沿いに観光客目当ての土産物屋やレストラン、カジノなどがあるくらいのもの。しかも今日はその多くが閉まっている。もうヴァカンスシーズンは終わっているのだ。それでも開いている土産物屋を何軒か冷やかして、断崖の制覇はあきらめて車に戻る。

 快適な高級車でのドライブを続け、途中フランス最長の橋であるノルマンディー橋を経て、もときた高速を通ってパリへと戻る。夕食は、かねてから一度試してみようと言い続けていた、プラザ・アテネのレストラン。ホテルの中庭の部分に、テーブルが並べられている。寒いと言った姉と奥様には、ちゃんとそのために準備してある肩掛けがあてがわれた。このお店の料理はイタリア風フレンチで、かなりおいしいものだった。ワインも極上。食後はホテル一階のバーでくつろぐ。今日は残念ながら、有名人には会えずじまい。

 

2000.9.7.(木)

 いよいよ姉と奥様にとってパリ滞在最後の日になった。二人は明日の飛行機で日本へ帰国。もっと長く来られればよかったねえ、としきりに二人が言うのは、南野にとっては嬉しかった。南野の奮闘のおかげで(?)今回のパリ滞在、もっといたいと思うほどに喜んで貰えたということだろう。まったく満足できない滞在だったから、このまま帰る気にはなれない、という解釈も可能かもしれないが。

 さて今日の昼食は、奥様がもう一度あの焼きそばが食べたい、とおっしゃるので、Chez Zhou へ。相当お気に召したようだ。その後、今度は姉のたっての願いで、アンドレ・シトロエン公園へ。現在、2000年を記念して、ここに大きな気球がつながれていて、それに乗ってパリをはるか上空から眺めることができるのだ。どうやらこれに乗りたかったらしい。南野も乗ったことがないから行ってみようということになる。

 もともとセーヌ川沿いのこの地区にあったシトロエン社の工場かなにかを取り壊した跡地に造られたこの公園、実は南野もこれが初めてだ。芝生や噴水、小川などがきれいに設置されていて、人工的ではあるがたいへん気持ちのよい公園。天気も実に良い。

 もちろん奥様も気球に乗ったことはない。南野も。姉も。いざ公園に到着し、気球の側まで歩いたところで、奥様が突如驚嘆される。どうやら気球に乗る、というのは、気球そのものの中、つまり上の大きなバルーン部分の内側に乗ると想像しておられたらしい。きっと中には喫茶店でもあると想像しておられたのかも知れない。それが現物を見て、バルーンにぶらさがった籠のような部分に乗ると気づかれたようで(当たり前だろ!)一抹の不安を覚え始められたのだ。

 とはいえ、高いところは平気という奥様、姉の大はしゃぎにつられたのかどうかはわからないが、最終的には全く迷うことなく威勢良く気球(にぶらさがった籠に)乗り込まれた。乗ってから、むしろ怖くなったのは南野の方。南野は、高いところがあまり得意ではない。地上と気球をつないでいるロープがウィンチで徐々にゆるめられると気球の方はずんずんと空高く舞い上がっていく。怖くなくはないけれど、エッフェル塔やモンパルナスタワー、遠くにサクレ・クール、新凱旋門などが見えてくると、恐怖を忘れてカメラのシャッターを押す余裕がでてくる。

 気球には、いちおう運転士さんのような人がいて、ウィンチを遠隔操作しているらしい。とはいえほとんど全自動のこの気球、運転士さんも実は余りすることがないらしく、籠の中をぐるぐる歩いて、他のお客さんたちと雑談に耽っている。しばらくして我々の方にもやってきて、日本人ならお願いがある、という。下の切符売り場のところに、いろいろな国の言葉で歓迎・感謝・お別れの言葉を書いたポスターを作りたいらしく、日本語でいくつか簡単なフレーズを書いてくれ、というのだ。それで気球を降りたあと、切符売り場に戻り、渡された紙に姉がようこそ、ありがとうございました、またお目にかかりましょう、といったフレーズをマジックで書き付ける。運転士兼切符売り兼土産物販売員のこのお兄さん、姉の達筆ぶりに(?)たいそう喜んでくれて、普段は記念に売っているらしい、「気球に乗りました証明書」を三枚、それぞれにサインをしてプレゼントしてくれた。ここで奥様と姉は、またしても友人知人へのお土産に、大量にTシャツ等々を購入。それでまたしてもこのお兄さん、大感激。どなたかこの公園に行かれたら、切符売り場に南野の姉の書いたポスターが貼ってあるか、見てきていただきたい。ちなみにこの気球、一応2000年限りのイベントということで始まったものだけれど、好評なので、もしかしたらしばらく続けられるかもしれない。

 続いては、有名なホテル・クリヨンへ、お茶をしに行く。昭和天皇をはじめとし、日本政府の要人はほとんど必ずこのホテルに泊まる。つい先日は、森総理も泊まっていたようだ。ダイアナ妃の泊まったホテル・リッツとならんで、このクリヨン、日本でもよく知られているだろう。南野は、なんどか中に入ったことはあるけれど、その喫茶店を利用したことはない。それで3人揃って初体験。

 たかが喫茶店だというのに、床も壁も大理石。天井には豪華なシャンデリア。そしてハープの生演奏付き、ときた。さすがはクリヨン。しかしなんというか、ここで紅茶を飲むだけならば、学生でもできるというほどの料金である(紅茶一杯が千円程度だから、普通のパリの感覚では破格の高さであるものの、日本人にとっては別に驚くほどではないだろう)うえ、とにかくあまりにも有名過ぎるため、近くのブランド店で大量に買い物をして大きな袋を抱えたままズカズカ入ってくる若い日本人観光客があまりにも目に付きすぎる。もうちょっとスマートに利用してくれれば日本人がいたってもちろんかまわないのだけれど、ヴィトングッチエルメスの大きな買い物袋を抱えたまま入ってこられたのではやはり雰囲気にそぐわない、というものだ。そんなことを考えていると、豪華な大理石やシャンデリアも、なんだか成金的で悪趣味なものに思えてきた。もともとはこの建物、大変由緒ある歴史的建造物なのだけれど。まあ、そんなわけで、プラザ・アテネの上客としては(!)、ふん、クリヨンもなりさがったものよ、という結論に落ち着いたというわけである。

 クリヨンの裏側、マドレーヌ寺院へ向かって二筋ほど入ったところには、これまた高級ブティックが並ぶ有名なサン・トノレ通りがある。ここはいつ行っても多くの買い物客でごった返しているところ。エルメスの本店もある。ちょっと雰囲気を味わうためにウィンドウショッピング。そのままサン・トノレを東へ進み、大統領公邸エリゼ宮の方まで行く。その後プラザ・アテネのあるモンテーニュ通りまで戻り、連日のひやかし(?)ですっかりなじみになった感のあるロエヴェの本店など。プラダでは、奥様が南野とエティエンヌにと、ポーチを買ってくださる。ホテルに戻り、これまたすっかりなじみになった感のあるウェイター・ウェイトレスのいる喫茶コーナーでお茶。姉などは、やはりプラザ・アテネの方が格段に品があるわ、などと「通」ぶった我田引水。

 パリ最後の夜ということで、奥様がエティエンヌに是非おいしい日本食をご馳走してやりたい、と言ってくださる。それでパリに数ある日本食レストランの中でも老舗中の老舗、サン・タンヌ通り伊勢へ行くことに。これまた南野にとっては初めてのお店。カウンターの他にはテーブル席が二つだけという小さな作りも、日本の寿司屋風。二階に座敷席があるらしいけれど。4人の席は一階のテーブル席。次にメニューを手にしてびっくり。これはかなり高い。エティエンヌもびっくり仰天。遠慮なくどうぞ、という奥様の言葉に甘え、ほんとうに遠慮なく注文させていただいた。いやはや、ここの寿司は絶品であった。これまでパリで食べたどの寿司よりも旨かった。比べ物にならない、と言っていいだろう。穴子の代わり、というウナギはなんとも形容しがたいおいしさ。一つ残念至極であったのは、お店が狭い分、うるさい客がいるとかなり耐え難いうるささだということ。おまけにここの大将、なにか勘違いしているかのように、あまりにも威勢が良すぎる。客がくるたびに、ぃらっしゃい! と大声で怒鳴る。そのたびに南野はギクッとする。また、注文が入るたびに大将はそれを大声で繰り返す。運悪くカウンターに座ったアメリカ人っぽいビジネスマン連中がまたうるさく、雰囲気はまるでダメだった。しかしそれにしてもおいしかった。そして当然、お勘定はびっくりするくらいの値段。奥様、ご馳走さまでした!

 その後、エティエンヌも誘ってタクシーでアテネへ戻り、一階のバーへ。このバーに来るのもこれで最後だ。午前1時くらいまでおいしく最後のお酒をいただく。ほんとうにあっという間の一週間だった。南野も、二人がもっと長くパリにいてくれれば、という気になる。

 

2000.9.8.(金)

 今日の午後、ついに姉と奥様は日本へ帰国。最後の朝食はスイート・ルームへ運んでもらったルーム・サービス。一生涯でこんな部屋に一週間も暮らすというのはきっとこれが最初で最後だろうと思いながら、南野は最後の豪華な朝食を味わう。食後、姉と奥様は荷造り。とにかく大変な量の荷物。山のように日本から持参して、結局一度も食べずに終わったカップラーメンなどの即席和風(?)食品を南野においていってくれる姉。ボールペンや石鹸など、貰っていっても怒られなさそうなものはできるだけカバンに詰めるせこい南野。さすがにバスローブは、貰って帰ると後で電話がかかってくるかも知れないからやめておこう。スリッパは・・・迷うところだ。食べきれなかった果物類はもちろん貰って帰ることにする。

 お昼過ぎ、お迎えの車が来るまでの間、これまた最後の思い出に、とホテル一階の喫茶コーナーでお茶を飲むことにする。やはり最後の思い出に、と姉は大きなティラミスを食べている。さっき朝食をとったばかりなのに。なじみになったウェイトレス・ウェイターにさようならの挨拶。約束の時間になってもJTBの藤田さんたちが現れないため、南野がロビーへ行くと、もうすでに来ておられた。それでは、ということで、部屋まで大量の荷物をとりに来て貰い、車へ積み込む。そして空港へ。

 それにしても、すばらしい一週間だった。まず、事件も事故もなく無事にここまでやってこられたのは、本当になによりだった。久しぶりに姉と一週間ゆっくり過ごせたのは楽しかった。日本でもこんな風に毎日一緒に生活しなくなってからもう10年ほどがたっている。そして奥様と一週間まるまる一緒にいられたのは、たいそう恵まれた時間だった。奥様を独り占めできたという気持ちになる。いろいろな話しを聞いて貰えたし、いろいろな話しを聞かせて貰えた。行ったことのない土地、なつかしい土地へ行くこともできたし、入ったことのないお店やホテルにも入れた。会ったことのない有名人にも会えた。この一週間は、それ以外のことはほとんど何もできなかったものの、というより、むしろそのせいもあって、濃密な、充実した一週間だった。生涯忘れがたい思い出になることだろう。

 空港では丁重に奥様と挨拶をし、姉に、後しばらく、奥様を無事に自宅へ送り届けるまでしっかりと、と言い聞かせて別れる。ガラス製の仕切りの向こうに二人の姿が見えなくなったあと、空港内のカフェで藤田さんと少しお茶をして、その後藤田さんをJTBパリ支店までお送りして帰宅。一週間分たまっていた郵便やメールなどに目を通すことから、普段の生活へのリハビリを始めることとする。

 

2000.9.11.(月)

 姉と奥様が帰国したと思うと、いよいよ今度は南野自身の日本帰国だ。あと一週間をきってしまった。帰りたくもあり、帰りたくもない。パリ生活三年間の最大の不満は、実は食事。人からはよく、フランス料理が安く食べられるのだからうらやましい限り、などと言われるのだけれど、南野は毎日和食が食べたかった。日本ならどこにでもある、学生や独身サラリーマン向けの、小さくて安く、夜遅くまで開いていて、カウンターに座ってスポーツ新聞を広げながら、あるいはテレビを見ながら行儀悪く好きな物を気楽に食べられるような定食屋は、パリにはない。外食しようとすると、ちょっと一人ではなんとなく気が引けるような、いわゆるレストランか、逆に一人でも気楽に入れるようなところと言えば、その場で食べることもできる中華料理の総菜屋さん、マクドナルドなどのファーストフード、あるいはちょっとした料理も出すカフェくらいしかない。自炊すればいいのだろうけれど、おいしい和食をつくるための腕も時間もないというのが実際のところで、自然、夕食はだいたい、スーパーで大量に買い込んである冷凍食品を温めなおしたものなどになってしまっていた。この三年間、Findus というメーカーの冷凍ピザをいったい何枚食べたことだろう。この点、日本に帰るのは本当に楽しみだ。コンビニもある、定食屋もある、カレー屋さんもある。24時間いつだって食べることができる。

 とはいえそんなことは小さなこと。3年間住み慣れたパリを離れるというのはあまりにも辛すぎる。けれど帰国は18日の予定。それまでに荷物を船便で日本へ送ったり、家具を売り払ったり、することは山ほどある。感傷に浸っている暇はないだろう。

 

2000.9.13.(水)(?)

 Helene が最後に食事をしようと誘ってくれる。南野が帰るまでに一度は日本料理屋へ案内しろと以前から言われて続けていたので、先日、姉とともに奥様にご馳走になった高級日本料理店「衣川」に決める。姉、奥様と行った一号店ではなく、二号店にする。両親と一緒に着飾って現れたエレーヌは、相変わらず美人。お母さんはそんなに美人でもないのに。お父さんがまあハンサムかも知れない。初めてはいる衣川二号店、なかなか良い雰囲気の内装で、エレーヌ一家にも気に入って貰えた。食事の後は、悲しい別れ。エレーヌだけでなくお母さんまでもが涙ぐまれてしまったのには参った。

 

2000.9.16.(土)

 トロペール教授と最後の昼食。場所はまかせると言われていたので、衣川一号店にする。大好きな人であっても、相手が教授、しかも外人となれば、否が応でも緊張する。恒例の週末散歩に出かけるというエティエンヌと途中まで一緒だったけれど、あまりに南野が緊張しているのをエティエンヌは興味深げに観察していた。

 トロペール教授は13時の待ち合わせきっかりに現れる。フランス人とは思えない時間厳守の人だ。ところが、車を置く場所をまだ探しているからしばらく待っていてくれと言い残し、衣川を後にされた。わざわざそのようなことを言うために二階まで上がって来て下さったわけ。フランス人教授とは思えない気配りの人だ。二階の窓から何気なく外を眺めていると、トロペールの車がなんどもレストランの前を行ったり来たり。10分ほどしてから、運良く駐車していた車が離れた。そこに見事な縦列駐車でトロペール号が停車。

 日本のビールで乾杯のあと、お昼のコースを注文し、いよいよ最後の昼食が始まった。トロペールという人は、旅行が大好きで、日本も含め世界中の様々な地域へしょっちゅう出かけておられる。彼を見ていると、大学教授というのは良い職業だなとつくづく思ったりもする。専門分野以外の話題も極めて豊富な人で、とくに現代建築についてはかなり詳しい。関西空港をまだ見たことがないので、是非とも見に行きたいとおっしゃっておられた。歴史や芸術にも造詣が深く、つまるところ第一級の知識人だ。そのようなわけで話題には事欠かず、あっというまに二時間が過ぎてしまう。会計の段になって、割り勘にしようと主張されたが、そこは南野が押し切り、初めてのことではあるけれど、おごらせて貰う。店員さんに頼んで写真を一枚撮って貰い、衣川を後にする。

 南野はその後引っ越しの手続きのため、クロネコヤマトのパリ支店へ行くつもりだというと、では送ってあげましょう、ということでトロペールの車に乗せて貰う。そのとき、トロペールが、不要になったパーキングチケットを丸めて道ばたに捨てるのを目撃! そこはやはりフランス人であった。

 南野が利用したクロネコヤマトの引っ越しパックは、30キロの段ボール5箱(船便)と20キロ1箱(航空便)がセットになって3000フラン(約54000円)というもの。段ボールやガムテープなどを配達してくれるのも便利。もちろん荷造りが済めば自宅まで取りに来てくれる。南野の荷物といえば、ほとんどは書籍であとは衣類など。ただ実際に荷造りを始めるととてもこのパックでは間に合わず、結局同じパックをもう一つ申し込む羽目になってしまった。帰国も高くつく。さて、この3年間に買った家具類のうち、エティエンヌと二人で使ったもの、つまりテレビや冷蔵庫、洗濯機といったものについては、購入時に半額づつ出している分から、減価償却分を差し引き、エティエンヌに代金を支払って貰うことで現物を残して行くことにした。これについては、エティエンヌをはじめとする多くの人々から南野はがめついと非難を浴びた。一人で使った家具、つまりベッドや机といったものについては、先日来、パリの日本語新聞などに帰国売りの広告を出しておいたところ、うまい具合に徐々に売れていった。ベッドの骨組みは、パリに来てホームスティをしているものの、寝るためにマットレスしかなく、なんとなく地べたに寝るのはいやというお嬢さんが買ってくれた。売れ残ったマットレスの方は、机を見にきてくれた奥さんに、マットレスもいかがですか、急な来客のときなどに便利かもしれませんよ、などと言って押し売った。ベッドの骨組みの方は、解体して南野が車で届けるというサービスぶり。マットレスと机の方は、とても南野では無理なので、先方が大きな車を借りて取りに来て下さった。本棚はエティエンヌが買い取ってくれることに。タンスが売れ残ったのはやっかいだ。これは仕方がないからエティエンヌに寄付することにした。寄付されたエティエンヌは、粗大ゴミを不法投棄されるようなものだと怒っていた。その通りかもしれない。熱帯魚の水槽は、机とマットレスを買ってくれた奥さんに強引に勧めたのだけれど、旦那さんと見に来られた結果、断られてしまう。結局武田君が買ってくれることになり、ほっとした。

 こうして南野の部屋はほとんどタンスを残すのみの、がらんとしたものになってきた。ばたばた体を動かしている間はなんということはないのだけれど、ふと休憩をしたりすると、しみじみと寂しくなる。出発は明後日。

 

2000.9.18.(月)

 いよいよ日本へ帰国。ついにこの日が来てしまう。帰りたくなーーーーーい! 早朝、エティエンヌの車でシャルル・ド・ゴール空港まで送ってもらう。スーツケースが35キロ、手荷物が15キロ、それにリュックサックとノートパソコンというすごい荷物になってしまう。果たして無事にチェックインできるだろうか。空港の超過料金は実に高い(1キロ1万円くらい)から、かなり心配する。今回の飛行機はオーストリア航空。ウィーン経由になる。パリ、ウィーン間はエールフランスとのコードシェア便で、乗員も機体もエールフランスのもの。エティエンヌは、朝一番の飛行機は、チェックインカウンターのお姉さんもまだ疲れておらず機嫌が良いから、きっと大丈夫だよ、などと根拠のない励ましをくれる。

 果たしてその通りだった。すでに超過している35キロのスーツケースだけでなく、なんと15キロの手荷物まで、いいわよと預かってくれたのだ。これには本当に助かった。ウィーン空港での乗り継ぎも楽になるだろう。ノートパソコンとリュックだけという楽な格好になり、搭乗までのしばらくの間、エティエンヌとカフェで朝食。エティエンヌはこのあとそのまま職場へ行くため、スーツ姿。車で送って貰えたのも、これまた本当に助かった。

 いよいよ出発の時刻が近づく。実は荷物整理がまだ完全でないこともあり、いったん東京で新たなアパートを見つけたあと、10月に再度パリへ戻ることに決めていた。そのためエティエンヌとの別れも、また二週間後に会えるのだからあまり感動的なものにはならないだろうと思っていた。しかしことのほか、エティエンヌが悲しそうな顔をしてくれている。やはり3年間の共同生活は大きなものだった。今後はパリに来るといっても、それは旅行者としてのそれ。もうエティエンヌと一緒に住むこともないだろう。そのような事が頭を駆けめぐり、そこへいつになく悲しそうな顔をしてくれているエティエンヌを前にして、南野、思わず目頭が熱くなってしまう。Merci, Etienne !!!

 

2000.9.19.(火)

 朝、関西空港に到着。両親が迎えに来てくれていた。俔子・多恵子宅に寄ったあと、久しぶりの我が家へ。柴犬のコンタも元気。夕方、仕事を終えた姉も来てくれる。京都の電気屋さんで携帯電話を購入。

 

2000.9.21.(木)

 新幹線で上京。これからまずはアパート探しだ。アパートが決まるまでの間は、ススムのアパートに泊めて貰うことにする。明日から活動を開始する。

 

2000.9.28.(木)

 大学近辺の本郷、根津といった地区、なんとなくフランス人が住んでいそうな神楽坂や飯田橋方面、大学へ行くのにも便利な有楽町線沿線などを精力的にまわった結果、有楽町線の千川駅を最寄り駅とするアパートに決定。フランスに行く以前、南野は西部池袋線の東長崎駅を利用していたから、土地勘の利く地区だ。住み慣れた東長崎までは自転車で4,5分とかからない。決定した物件は、三階建ての三階で、周りには二階建ての建物しかないので、日当たりも風通しも抜群に良い。一階二階に住む大家さんも良さそうな方なので安心できる。それにしても賃貸契約にはお金がかかる。賃料の他に、敷金2ヶ月分、礼金2ヶ月分、それに不動産屋に支払う手数料が1ヶ月分だから、合計6ヶ月分の家賃を一挙に支払わなければならない。礼金という慣習は、愉快なものではない。

 

2000.9.30.(土)

 ススム宅からパリへ出発。千川のアパートを契約したとはいえ、まだカーテンすらないがらんどうの部屋。とても寝泊まりすることができない状態なので、今日までススム宅にお世話になっていた。さて、今回の渡仏は直行便を初めて利用することにした。エールフランス航空。ここ数年間の間にほとんどの飛行機会社の国際線は全席禁煙となったのだけれど、このフランスの国営航空の国際便には、喫煙人口が多いからか、あるいはアメリカ主導の禁煙運動に反発してからか、喫煙コーナーが設けられている。廊下の一部をカーテンで仕切っただけの狭いスペースに、定員7名と書かれた小さな紙が張ってあり、そこに灰皿が置いてあるだけの簡素なもの。定員7名といういことで、ときどき乗員が注意しにくるものの、いつも10名を超えるスモーカーが集い、しかも特別な換気装置があるわけでもないので、かなり空気の悪いスペースだ。他人のくさい煙の臭いをかぐたびに、ほんとうにタバコとは不愉快なものだとつくづく思う。そろそろ南野も禁煙しよう。

 直行便はやはり早い。機内で上映される映画を観たり、本を読んだりしているうちに、あっという間にパリに到着という感じ。空港にはエティエンヌとバンジャマンが迎えに来てくれていた。これには驚きと感激。10日しかたっていないこともあり、まるで旅行から我が家に戻ってきたという感覚だ。近所の中華料理店 Chez Zhou でなつかしい料理を食べ、ばたんきゅう。

 

 

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(日本人の集い、フランソワ・フランソワーズ夫妻宅、フレデリック誕生日パーティー、モニックさん・彩子ちゃん来訪、北欧旅行など)

北欧旅行続き、ゲオルギ来訪、玲子兄・藤田君来訪、オリヴィエ4号来訪、色川君来訪、ピアノ片付けなど)

2000年9月1日〜30日分

姉・奥様来訪、日本へ帰国、東京でアパート探し、再びパリ行など)

(誕生日パーティ、Troper 教授主催研究会、Cayla 教授と夕食、日本へ帰国など)

(花垣・糸ちゃん邸、スマップコンサート、フランス憲法研究会、憲法理論研究会など)

(洛星東京の集い、東大17組クラス会、パリ、ウィーン、ブラティスラヴァなど。)

(エティエンヌ来日、広島・山口旅行ボー教授来日、法学部学習相談室のセミナーなど)

長野旅行、パリで国際憲法学会など)

新・個人的ニュース

リール大学で集中講義のため渡仏、興津君・西島さん・石上さん・ダヴィッド・リュック・ニコラと再会など)

(リール大学での講義スタート、武田君・タッドと再会、ヒレルと対面、芥川・安倍・荒木・柿原来仏、モンサンミッシェル、トロペール教授と昼食、浜尾君来仏、ヤニック・エティエンヌ・エレーヌと再会、復活祭パーティなど)

パリ行政控訴院で講演コンセイユ・デタ評定官と面談リール大学最終講義、日本へ帰国)

 

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