個人的ニュース 

2001年1月4日〜2月23日分

 

2001.1.4.(木)

 上京したあと、高橋教授を囲んでの新年会。本郷にて。南野が帰国したら一度一緒に飲んでくださいと教授にお願いをしておいたところ、せっかくだから他の憲法専攻者も誘いましょうということになり、ほとんど全員が顔を揃えた。いやはや、大変になつかしかった。

 

2001.1.20.(土)

 帝国ホテル洛星東京の集い。洛星中・高等学校同窓会の東京バージョンだ。残念ながら同期は南野を含め4人だけ。しかも洛星中学校の入学試験日と重なったとかで現役の先生方は東京に来られず。すでに退職なさっている村田神父、木村先生や苫名先生などに挨拶。大変なつかしい。同期が少ないということもあり、二次会もなくおとなしく帰宅。のはずであったところ、南野、パーティー会場で財布を同期の冨江に預けたまま別れてしまったことに地下鉄の駅改札口で気づく。カードもお金もすべてない。ポケットの小銭いれには170円しかない。南野の最寄り駅までは190円かかる。仕方なく切符を買おうとしていたお姉さんに頼んで20円を恵んで貰う。自宅に帰り冨江に連絡しようと思うが、さて、連絡先がわからない。勤務先の名刺を今日もらっただけなのだ。ほぼ絶望しながら勤務先のメールアドレスにメールを送ってみる。しばらくすると偶然自宅でメールをチェックしてくれたという冨江より電話。おまけに彼は東長崎に住んでいるという。東長崎といえば、南野の住む千川からだと自転車で10分もかからない距離。大雪が降り積もるなか、早速冨江のアパートまで財布を取りに行く。一件落着。それにしても財布を預けたのが東長崎に住む富江でほんとうによかった。神奈川に住む出野や五味だったら、もっと面倒なことになっていただろう。

 

2001.1.25.(木)

 参議院の金子さん、村上さん、その同僚である尾崎君と夕食。たいへん眺めの良い、かなり豪華なレストランとバーに連れて行って貰う。いつものことではあるけれど、実に楽しい一時であった。

 

2001.1.27.(土)

 東大17組クラス会。駒場時代のクラスメートの集まりだ。神田学士会館を借りる。57名のクラスメートの内、今回連絡がとれたのが約50名。そのうち20名余の参加を得ることができた。実はこのクラス会、南野が幹事を仰せつかっていて、卒業してからコンスタントに開催してきたものの、南野のパリ滞在中は開催が中断していた。今回の復活で4回目の集いとなった。一人で準備をするのはかなり大変なので、次回からは新たに幹事グループを作って準備をしてもらうことになった。それにしても南野はまだ学生をやっているというのに、まわりはみんな、バリバリのサラリーマンだったり、官僚や法曹関係者。情けなくなってしまう。二次会は近くのバーへ、フジタツヤ、大谷、長澤、笠間、佐藤、前野と。前野と地下鉄で帰る。

 

2001.2.3.(土)

 パリへ出発。大韓航空に乗るのは実に久しぶりだ。10年ほど前、大韓航空のマイルエージプログラムは、アメリカに現住所があるか、あるいは韓国籍を持っていなければ加入することができなかった。南野はかなりのマイルエージオタクで、それゆえ乗ってもマイルのたまらない大韓航空には乗らないようにしていたのである。ところが数年前から、大韓航空のマイルエージプログラム(スカイパス)は、あらゆる国籍・住所の人に開放されるようになった。しかも航空業界の合従連衡が進む中、大韓航空はエールフランスと提携を結び、スカイチームというグループを作っている(現在スカイチームには、このほかアエロメヒコ航空チェコ航空デルタ航空が参加している)。エールフランスのマイルエージプログラム(フリークエンス・プラス)のメンバーである南野は、それゆえ大韓航空を利用してもマイルを貯められるというわけ。この時期は航空券も安い時期で、南野はソウル経由のパリ往復便を6万5千円で購入できた。

 今回の渡仏の一番の目的は、フランス政府給費奨学生の資格を辞退するということ。東京に生活の本拠を移すことが確定的になったため、ちょうど学期半ばの研究進行度合いの調査票の提出に合わせ、手続きを行うことにした。トロペール教授のサインを貰ってヴェルサイユの地方学生厚生センター(CROUS)に書類を提出に行く予定。

 さて、ソウルの金浦(キンポ)国際空港も久しぶり。もうすぐ仁川(インチョン)国際空港がオープンするから、おそらく金浦を利用するのも今回が最後になるかもしれない。パリ便の搭乗手続きが始まるまでのあいだ、日本人と韓国人でごったがえす免税店などをうろうろしながら時間をつぶす。韓国製ビビンバや日本製カップラーメンという機内食サービスに大満足のうちに、パリのシャルル・ド・ゴール空港に到着。タラップを降りると、なんと Sebastien が迎えに来てくれていた。空港の税関職員である彼、特殊な身分証明書のおかげでこんなところまでアクセスできるのだ。パリ20区のエティエンヌのステュディオの鍵は、エティエンヌがスロヴァキアに滞在中、セバスティアンに預けてある。たまたま彼のアパートも20区にあるので、エティエンヌの家族や友人が、このステュディオを利用したくなった際にはセバスティアンから鍵を受け取る、ということにしてあるのだ。南野は出発前、セバスティアンに連絡を取れなかったのだけれど、ちゃんとエティエンヌが大韓航空の到着時刻を伝えていてくれたらしい。残念ながらセバスティアンは勤務中だったので、パリまで送って貰うわけにはいかず、鍵を受け取ってひとり20区へと向かう。いやはや、なつかしいパリだ。

 20区のステュディオは、きれいに片づいていた。14区のアパートから運んだ家具類がところ狭しと置いてはあるものの、きちんとカーペットも敷いてあるし、ソファーとベッドもある。机も電話も。テレビとビデオがないけれど、いったいどこへ行ったのだろうか。キッチンがまるで物置となっていて、食器類の入った段ボールがそのまま積み上げられている。もともと自炊をほとんどして来なかった南野だから、キッチンが不便なのはまるで気にかからない。ただし洗濯オタクの南野、洗濯機がまだ動かないのは非常に不満。コインランドリーへ行かねばなるまい。

 さっそくバンジャマンに電話をする。10月にパリを離れるとき、それまで使っていた携帯電話の解約手続きをしたのだけれど、解約までのあいだ、誰かから電話がかかってくるかも知れないからということで、たまたま未だに携帯電話なるものを利用していない彼に、預かって貰うことにしていたのだ。ちゃんと書面で解約手続きをしたにもかかわらず、3ヶ月以上たった今もまだ、南野の携帯電話は健在。それで、今回の南野の滞在のあいだ、再び手元に置かせて貰うことにした。

 取りに来ても良い、というので、久しぶりのバンジャマン宅。大統領官邸(エリゼ宮)の近く、なかなかの高級住宅街に彼のアパートはある。大学で日本語を専攻しており、実際かなり日本語が達者な彼、ルームメイトはいつも日本人である。現在のルームメイト、ミユキさんは外出中で、代わりにその友人という栄二郎がいた。電話を受け取ったあと、時差ぼけもありそろそろ眠たくなってきたため、ちょうど真夜中頃に栄二郎と揃ってバンジャマン宅を失礼する。

 

2001.2.4.(日)

 世間は狭い。栄二郎は音楽専攻でのパリ留学中の人だ。彼によると、今日、別な日本人留学生、安斉君のコンサートが国際大学団地で行われるとのこと。実は南野、この安斉君と知り合いであった。へー、と驚き、特にすることもないので行くことにした。音楽好きの玲子を誘う。玲子と会うのも実に久しぶり。彼女もそろそろ日本への帰国が近いはずだ。コンサート会場では、日本人のご婦人に、あら南野さん! と声をかけられた。はっきりと顔は覚えているのだけれど、はて、どこで会ったのか、とんと思い出せない。それで、はっきりとお顔は覚えているんですけれど、どこで会いましたっけ、と正直に尋ねる。帰国前に机とマットレスを買いに来て下さった方であった。というわけで、世間はやはり狭い。

 コンサートのあと、これまた久しぶりの岩月君、武田君、猪又さんを誘ってととやで夕食。南野がのび太のママに似ているとかねてより主張している、ととやの女主人も久しぶり。あら帰ってきたの? と行ってくれる。しかし中国人だから特別なサービスはなし。近くのバーで遅くまで飲んで、帰宅。岩月君もそろそろ帰国が迫っている。

 

2001.2.7.(水)

 13時の待ち合わせきっかりにナンテールの Troper 教授の部屋を訪ねる。久しぶりの再会でなつかしい。まず昼食に行きましょうということで、教授の運転する車に乗せてもらい、近くにある、ナンテール市の経営する劇場へ。そこになかなか感じの良いレストランがあるとのこと。ナンテールには何度となく足を運んだ南野、考えてみると駅周辺とキャンパスしかこの市のことは知らない。こんな劇場があるなんて、これまで全く知りもしなかった。立派な建物で、入り口を入ると2階部分まで吹き抜けになったホールがある。そしてその二階部分に、ちょうど一階の劇場入り口を見下ろすようにカフェレストランがある。教授の説明によると、ここで昼食をとっているのはだいたいが劇場関係者か大学関係者だという。小さなテーブルに案内され、向かいあって昼食をとることに。それにしても久しぶり、さて博士論文の方はどうなっているか、と聞かれる。もちろん予想していたものの、返答に困る。上手な言い訳が思いつきませんと言ってお茶を濁す。しかしそこは前にも書いたとおり、話題の豊富なトロペール教授、研究には直接関係のない話題へと巧みにもっていって下さった。ところが、なんたることか、この段になって南野愕然としたのだけれど、自分のフランス語力が、明らかに、日本へ帰国してからのこの半年足らずのあいだに、がくんと落ちている。久しぶりの緊張する会話であったということを差し引いて考えたとしてもなお、情けないほどにフランス語が下手になっている気がした。日本へ帰ったらフランス人の友達を見つけなければ!

 再び教授の車で大学へ戻る。彼の部屋で奨学金の書類にサインを貰う。本棚に彼の論文のコピーや抜き刷りなどがたくさんあって、あれもこれもと一部ずつ貰う。教授はいろんな雑誌に書く人なので、なかなかその書いたもの全部を揃えるのは大変。抜き刷りの中にはギリシアの法律雑誌に掲載されたものなどもあった。大助かりだ。

 トロペール教授のサインのあとは、大学院の公印を貰わなければならない。博士課程担当の事務官の部屋に行ってみると、なんたることか、数日後までヴァカンス中との張り紙がしてある。代わりの人がいるわけでもなく、部屋には鍵がかかっている。このような場合、フランスでは諦めるほかない。とはいえ、この公印がなければ手続きができないし、そもそも今回パリに何しにやってきたのかわからなくなる。それでDEA課程担当の事務室へ行き、事情を説明し、DEA課程の公印でいいから押してくれと頼む。それはできない相談よ、とおばちゃんにそっけなく突き返されそうになったのだけれど、このような場合、フランスではすぐに諦めてはいけない。日本からわざわざ来たとか、奨学金の事務局の方は別に少々の違いは気にしないはずだとかいい加減なことをことを言って粘った結果、ついにこのおばちゃん、無言でポンとハンコを押してくれた。これで一件落着(のはず)。火事場のばか力というほどのことではないけれど、窮地に陥るとなかなか南野のフランス語も捨てたものではないのかも知れない。

 どっと疲れて帰宅。

 

2001.2.8.(木)

 行きの大韓航空の中でふと、指先にぷつぷつと小さな吹き出物のようなものができているのに気がついていたのだけれど、それと関係があるのかないのか、ここ2,3日のうちに、背中や腹部にも湿疹のようなものが現れてきた。今月いっぱいはフランス政府が南野のために社会保障費を払ってくれているはずだから、パリにいるあいだに皮膚科へ行くことにする。電話帳で適当に皮膚科を選びかけてみるが、どこも今日診てくれるというところはない。結局、夕方に一件だけ、予約を取ることができた。診察料は400フラン。ちょっと高い。以前のアレジアの皮膚科に比べてもかなり高い。しかしここしか空いていないから、仕方なく行くことにした。場所はシテ島

 よく日焼けした、かなり色っぽい女医さんだ。白衣を着ていなかったらどこかのバーの美人ママといった風。なんとなくこの医者で大丈夫だろうかという気になるが、人を見かけで判断してはいけないと言い聞かせる。診察室に通されると女の子が漫画を読んでいる。この医者の娘だという。診察室が一階にあるこのアパートの上階に住んでいるのだそうだ。相当な金持ちとみた。娘さんに待合室へ行っていなさいと医者が言う。診察室をちょっと眺めると、なぜか電子ピアノが置いてあることに気づく。そこで南野、黙っていればよかった。ついうっかり、なんでピアノがあるんですかと聞いてしまったのである。そこから南野、延々20分ほど、この女医さんのピアノ談義を聞かされる羽目になった。なんとかという街のなんとかというレストランでこの女医さんが夕食を取っていたら、横にいたのがなんとかという有名なジャズピアニストで、それ以来彼に影響を受けてピアノを習いに行っているそうで、今ではなんとかという曲も弾けるのよ、という話しだった。このなんとか、というところにすべて固有名詞が入るわけだけれど、それを言うたびに彼女は、南野に、知っているか、と聞いてくる。すべて知らない。そんなことより早く診察して欲しいなと思っていると、このおしゃべりドクターの次の話題はアジア人のメンタリティーについて。さきほど南野が待合室で待っているときに、ついうとうとしていたのをめざとく見つけていた彼女、アジア人はどこでも寝られるのね、と決してそれを馬鹿にしているのではなく、心底不思議に思っているという風に言う。きっとアジア人はどこでも簡単にリラックスできる術を心得ているのだわ、と一人で納得して感心している。フランス人はいつもストレスを抱えているからねえと、そういう風に彼女の頭のなかで像ができあがってしまったアジア人のことがうらやましいようである。そう思わないか、と必ず同意を求めるのが彼女の癖らしい。そうかも知れませんね、そんなこと考えたこともありません、と流しておく。早く診察をして欲しい。見かけだけでなく、少し話してみたあとでも、やはりこの医者で大丈夫だろうかという気持ちは失せるどころか、一段と強まっていった。

 ようやく診てくれることになり、指先を見せ、上半身を見せる。さわってみたり、顔を近づけて見てみたりしたあと、下半身、とくに性器にはこのような湿疹はないか、と聞かれる。きっぱり、ありませんと言う。するとこの医者、結局よくわからないけどお薬を出しておくわ、と言う。おいおい、と思っていると間髪を入れずに、そんなことよりね、とこの医者。私はニキビ治療が専門なの、あなたのその顔にあるニキビ、私ならすぐ治してあげるわよ、そんなにニキビがあってはいい男が台無しよ、治しなさい、見違えるようにきれいになるから、と強くニキビ治療を勧めてくる。たしかに以前、アレジアの皮膚科へニキビのため通院したものの、結局完治するには至っていなかった。治したいなと思っていたこともあり、じゃ、お願いします、と南野。まるでようやく私の本領が発揮できるわ、と言わんばかりのはつらつとした顔になったこのマダム風ドクター、では、と言ってステンレスのピンのようなもので南野のニキビをつぶしにかかった。つぶすと跡が残るんじゃないかという南野の心配は無視。だんだん帰りたくなってきた。

 2,3個のニキビをつぶし、芯らしきものを取り出したあと、治療は終了。これなら南野だって自分でできる。おいおいそれだけか、と思っている南野に、ドクターはもう一度来週来るようにと言う。来週もう一度、湿疹と顔のニキビを診て、治療方法を考えようということらしい。えーまた来るのか、と憂鬱になりながらも、湿疹用塗り薬の処方箋を貰ったあと、診察料として400フランの小切手を切り、長々と待たされていたかわいそうなお嬢ちゃんにも挨拶をして、そそくさと退散。なんだか腑に落ちない。

 

2001.2.9.(金)

 ウィーンへ行く。サベナ・ベルギー航空のマイルエージがうまい具合にたまっており、しかも使わなければまもなく有効期限が来てしまう。それでブリュッセル経由のパリ、ウィーン往復無料チケットを貰うことにした。エティエンヌが転勤になったスロヴァキア共和国の首都ブラティスラヴァは、ウィーンとは車で一時間足らずの距離。久しぶりの再会をかねて、今回初めてブラティスラヴァに行くことにもした。分離独立したもう一方の国、チェコ共和国は、日本人の場合、ヴィザなしでの観光入国ができるのだけれど、スロヴァキアはいまだにヴィザが必要。それで広尾の大使館であらかじめヴィザを貰っておいた。

 午後4時頃、ウィーンの空港に着く。南野は無事に着いたのだけれど、荷物が無事に着かなかった。これまでの南野の海外旅行経験のなかで、荷物がちゃんと届かなかったのはこれが初めてだ。早速、荷物担当の部署へ。英語でのやりとりに自信はなかったのだけれど、荷物を預けたときに貰った半券を出せばあとは向こうが適当にコンピュータで調査してくれる。ブリュッセルでの積み換えが間に合わなかったそうで、今夜の飛行機で遅れてウィーンに到着するらしい。到着すればホテルの自室まで送り届けてくれるとのこと。

 荷物がちゃんと今夜着くのであれば、考えようによっては、空港からスーツケースを引きずることなく、リュックサックだけの軽装でホテルまで行けるのだから、ありがたい話しだ。なんだか幸せになって市内を目指す。今日はエティエンヌがブラティスラヴァでの仕事を終えて、夜8時頃にウィーンまで車でやって来る予定で、その後週末を利用してウィーン観光をすることになっていたため、あらかじめウィーンのホテルを予約しておいたのが幸いだった。

 空港から市内への列車に乗ろうとするが、ホームにある切符の自動販売機がドイツ語表記しかなく、ちょっと苦労する。よくわからないし、しばしばヨーロッパの列車でそうであるように、車内検札でちゃんとした切符を持っていないことが発覚すると高額の罰金をとられる、ということになると困るので、近くにいたおばさんに教えて貰うことにした。どうも英語が通じないようなので、かといって南野はドイツ語が話せないので、ドイツ語と英語をちゃんぽんにした妙な言語で質問する。おばさんも必死にドイツ語と英語をちゃんぽんにした妙な言語で答えてくれる。そうやってなんとか市内中心部への切符を購入し、列車に乗る。この国でも、空港から市内へは近い。

 ウィーンに来るのは数年ぶり。はっきりと覚えている景色もあればそうでないものもある。最初にウィーンに来たのは今から10年以上も前、ちょうど東欧で共産主義政権が崩壊しつつある時期だった。共産国を順番に苦労して回って、ユーゴスラヴィア(その頃はまだ一つの国だった)からようやくウィーンに着いた南野は、町のどまんなかにはっきりそれと分かるツーリストインフォメーションがあって、そこでは沢山パンフレットが貰えて、しかも対応してくれる人はみんな英語が上手でにこやか、というウィーンの風景に、心底、西側先進国に入ったのだと実感してホッとしたのを覚えている。その後東欧へは足を踏み入れていないから、今回、ウィーンのあとにブラティスラヴァへ行くのがなんとも楽しみだ。10年を経て、もうすっかり西側のようになっているのだろうか。

 ホテルにチェックインしたあと、地球の歩き方を読んだりしながら時間をつぶし、エティエンヌの到着を待つ。相変わらず時間厳守の人であるエティエンヌは、ブラティスラヴァ市内から高速に乗る道を2回も間違えたとか言いながらも、約束の時間からわずか5分の遅れで到着。4ヶ月ぶりの感動の再会とあいなった。ブラティスラヴァの会社から提供されている豪華なドイツ車を、ホテル近くの路上に駐車したあと、早速食事へと行く。11時頃ホテルに戻ると、ちゃんと南野のスーツケースが届いていた。一安心。

 

2001.2.10.(土)

 朝からエティエンヌとウィーンの市内観光。シュテファン大聖堂や、美術史博物館(圧巻!)などを回る。土曜日なので、夜はウィーンっ子が集まるというクラブを少しのぞいてみる。

 

2001.2.11.(日)

 午前中は観光の続き。昼食を市内中心部でとったあと、いよいよエティエンヌの車でブラティスラヴァへ。一時間ほどのドライブは快適。ウィーンの街並みをあっという間に抜けたあとは、草原とときどき小さな集落があるだけの一本道をひたすら東へ。しばらくすると、オーストリアとスロヴァキアの国境に至る。かなり厳格にチェックしているという印象を受けた。オーストリア側の国境も、スロヴァキア側の国境も、一台一台車を停めてパスポートをチェックしている。しばし緊張。

 国境を抜けてさらに東へと走ると、すぐにブラティスラヴァに入る。そしてしばらくすると巨大な橋が見えてくる。そう、ここにドナウ河が流れているのだ。橋の中央部分にはずーんと高くそびえる支柱があり、その先端は展望レストランとなっているらしい。橋からは、右手前方にブラティスラヴァの中心部、左手には小高い山の上にたつブラティスラヴァ城がみえる。上からみると正方形で、その四つ角にまっすぐな塔がたっているので、ちょうどコタツをひっくり返したような形をしている。フランスなんかのお城とは趣が全然違う。橋を渡るとそこはもう、ブラティスラヴァの中心部。右手は旧市街で重厚なカテドラルらしき教会が見える。左手は、ブラティスラヴァ城へとつながるなだらかな丘になっており、瀟洒な街並みが広がる。ところがなんとも残念なことに、そのど真ん中を我々の走る自動車道路が突っ切っているのだ。もったいない景観破壊だ。エティエンヌによると、この自動車道路を地下化して、街並みを復元するというプロジェクトがあるらしい。

 あっという間にエティエンヌのアパートに到着。高さの揃った石造りの建物が道路の両側に並ぶところはパリなどと変わらない。ただ、全体に質素で、パリの古いアパートのような装飾がなく、なんとなくのっぺらぼうの印象を与えるところや、壁がはげ落ちているものが多くみられるところは、旧共産圏のまだまだ貧しい国、という感じ。パリ同様、アパートの近くに路駐をし、パリ同様、玄関にあるボタンでコードを押し、建物の中に入る。そしてまたパリ同様、数分後には自動的に消える電気を付ける。エレベータがないので、階段で四階まであがる。そしていよいよエティエンヌの部屋。なかに入って驚いた。外見とは裏腹に、内側はきれいにリフォームされていたのだ。びっくりするくらい綺麗で、びっくりするくらい広い。トイレ・洗面台・バスタブの揃ったバスルーム、大きなシステムキッチン、立派なソファーの置かれたサロン、そして優に20畳くらいはあると思われる寝室には、大きめのシングルベッドが二つ。日本式に言うならば、2DKだろうけれど、中に入るとかなり豪華な印象を与える。こんなところに一人で住んでいるというのは、さすがに西ヨーロッパからやってきたエリートサラリーマンだ。家賃はすべて彼の会社が払っているとか。ちなみに、彼の車も、そのガソリン代も、すべて会社もち。なんとも優雅な生活ではある。

 しばしの休憩のあと、せっかくの日曜日だから、ということもあり、さっそく街並みをエティエンヌに案内してもらうことにする。暗くなる前に、ということで先ほど車から遠目に眺めたブラティスラヴァ城へ。小高い山の上に建つこの城からの景色は最高。ブラティスラヴァ市街のほか、ドナウ河やその向こうに広がるオーストリアまでもが一望できる。城そのものはすでに閉まっていたため見学せずに丘をおり、旧市街をぶらぶらと歩く。街並みだけをみれば、フランスなどとそう変わらない気もするが、お店、人、車、なにもかもがパリに比べると圧倒的に少ない。こぢんまりとした印象を受ける。かつてエティエンヌが現地の友人に連れて行ってもらって以来気に入っているという、現地料理を出すレストランで夕食。ビーフ・ストロガノフのようなものを食べる。大変おいしかった。しかも大変安かった。

 

2001.2.12.(月)

 エティエンヌは8時半ごろ出勤。一人残された南野は、キッチンにある大きなテーブルを使って、日本から持ってきた仕事を続ける。午後、街へ散歩にでかける。中心部はさすがににぎやかだ。市電やバスも走っている。マクドナルドなんかもある。イギリス資本の Tesco という巨大なショッピングセンターは、いろいろとものが揃っていて便利そうだ。物価はとにかく大変安い。なかなか住みやすそうだ。

 エティエンヌは夜8時頃帰宅。いまのところブラティスラヴァで一番の友人という、ロマン君とヴラディア嬢とともに、市内の大きなホテルにあるわりと高級なレストランでスロヴァキア料理を食べる。二人とも英語ができ、オーストリア銀行に勤めている。スロヴァキアの標準的な若者、というわけではなさそうだ。

 

2001.2.13.(火)

 夕方、長距離バスターミナルへでかける。南野は明日、ウィーン発の飛行機でパリへ帰るのだけれど、平日のため、エティエンヌがウィーン空港まで南野を送ってくれない。それでブラティスラヴァ発ウィーン空港行きのバスに乗る予定。その切符を購入しに行ったのだ。10年ほど前、共産政権崩壊直後の東ヨーロッパを旅行した時、駅で切符を買うのは大変な苦労だったことを思い出す。どの窓口も大変な行列、ようやく自分の順番になったら英語が通じない、なんとか通じたら、外国人は別な窓口へ行けと言われ、その窓口へ行くと、今日の販売はもう終わり、などといった悲惨な記憶がよみがえる。しかし10年の年月はさすがのもの。行列はなくなっているし、英語も通じる。外国人の別扱いもないようだ。すんなりと翌日のウィーン行きのバスチケットを購入することができた。

 一端エティエンヌのアパートへ戻ってみて、なんたることか、合い鍵を持って来るのを忘れていたことに気がつく。エティエンヌの帰宅までにはまだ2,3時間もある。仕方なく繁華街へ戻り、テレフォンカードを購入、エティエンヌに電話をする。会社まで鍵を取りに行く羽目になる。詳しい地図もなく、不安ではあったけれど、バスを乗り継ぎ、なんとか彼の会社までたどりつく。驚くほど近代的な巨大なビルだった。一階にある携帯電話販売店には長蛇の列。ここでも携帯ブームらしい。今のところエティエンヌの会社は、スロヴァキア唯一の携帯電話会社なので、さぞかし儲かっていることだろう。それであんなに豪華な生活をさせて貰っているのかも知れない。

 鍵を貰って帰るつもりだったのだけれど、ちょっと会社を見ていくか、と言われ、すぐに応じる。映画で見る、アメリカの巨大なオフィスビルのような感じの建物に入る。エレベーターやフロアの入り口はすべて電子錠でロックされており、バッジのようなものをそれにかざして開錠するシステムになっている。そしてエティエンヌのオフィスへ。壁の一面がすべてガラスで、見晴らしは最高。しかも広い。大きな机とパソコン、電話、FAXなど。こんなところで仕事をすればさぞはかどるだろうと羨ましくなる。あと1時間くらいで帰宅だというので、別の机を借りて持っていた本を読んで待つことにする。そしてエティエンヌの車で帰宅。夕食はイタリアレストランでピザ。

 

2001.2.14.(水)

 お昼前、エティエンヌが仕事を抜け出してきて、アパートまで迎えに来てくれる。車でバスターミナルまで送ってくれたのには助かった。観光バス風の大きなバスは、ほぼ満員。数人のフランス人もいた。見渡してみて、アジア系は南野ただ一人。エティエンヌにお礼を言って、いざ出発。あっという間に国境に到着。係官が乗り込んできて、全員のパスポートを集めて行く。バスに乗ったまましばらく待っていると、出国印の押されたパスポートが同じ係官によって返された。これでスロヴァキア出国はおしまい。次はオーストリアの入国手続き。こちらでは全員バスから降ろされる。バスの車体にしまわれていたスーツケースなども全てまとめて出される。係官がそのうちの4,5個をアトランダムに選んだ。運悪く南野のスーツケースが選ばれた。開けろと言われたので開ける。簡単なチェックのあと、閉めろと言われたので閉める。これでおしまい。ウィーン空港に着いたあと、出発までしばらく時間があったので、カフェで簡単な食事のあと、本を読んだりして過ごす。サベナ航空のブリュッセル経由便で、無事パリに到着。

 

2001.2.15.(木)

 午後1時、パリ第二大学へオリヴィエ・ボー教授を訪問。4月に来日予定のボー教授とは、その打ち合わせも兼ねて昼食をとることになっていた。樋口教授からの伝言などもある。パリ大学には、教授個人の研究室などないので、言われていたとおり、教授たち専用の講義準備室のようなところへ行く。暗証番号を押さないとドアが開かないシステムになっているため、ドアの前でしばらく待っていると、ボー教授が中からドアを開けてくれる。実に久しぶりでなつかしい。せっかくだから、ということで教授控え室の中を案内してくださる。古い彫像や絵画などがあり、なかなか豪華なサロンという雰囲気。雑誌や新聞なども置いてある。他に教授が一人、ソファーに座って雑誌を読んでおられただけ。

 パリ第二大学は、別名を、その主たる建物がある場所の名前を冠してパンテオン・アサス大学ともいうが、南野が今回ボー教授を訪ねたのは、パンテオンの方。パンテオンの真ん前にある。パリ第一大学はパンテオン・ソルボンヌ大学で、パンテオンの校舎は、第一大学と第二大学が共有している部分がある。いずれも評判の法学部を有する大学なので、パンテオン周辺には、法律専門書の本屋などが集まっている。南野もよく来た場所だ。近くには上品なレストランも沢山あって、学生や教員がよく利用するものもある。その中の一軒に行くことになった。

 ボー教授とはこれまで何度も会ったことがあるけれど、二人きりで食事をするのは初めてで、やはり緊張する。しかしまあ、パリ第二大学の教授はとっつきにくいという評判があるわりには、ボー教授は気さくな方で、楽しく食事をすることができた。4月の来日は、ボー教授にとっても、その奥さんにとっても初めての日本旅行ということもあり、いろいろと心配しておられ、まるで旅行代理店のように、微に入り細に入った説明をしてあげる。成田空港までも迎えに行ってあげることにする。

 これまでもフランスの教授と話すと必ず聞かれてきた、ところで博士論文はすすんでいるか、というイヤな質問も、やはりされてしまった。彼は自分の博士論文執筆時代が相当苦しかったそうで、人生で最悪の数年間だったとも言っていた。南野も早く博士論文から解放されるように、と何度もおっしゃる。そうしたいものだ。

 夕方、例のマダム風皮膚科医で二回目の検診。とくにかわったこともなく、相変わらず。やはり顔のニキビを治すべきだとしつこく主張され、飲み薬を買うことに同意。本来フランスの医者は、一ヶ月を越える量の薬を処方することはできないことになっているそうだけれど、南野がもうすぐ日本へ帰ってしまううえ、この飲み薬は半年間服用し続けなければいけないとかで、どうしたものか、とこの女医さん、知恵を絞ってくれた。その結果、近所の薬局にその場で電話をし、薬剤師の説得にとりかかった。この飲み薬は強力なもので、副作用も強力なので、処方箋がなければ売ってはいけない薬。一ヶ月分の処方箋は書くけれど、残り5ヶ月分の処方箋は書けない。けれども売ってやってくれないか、という交渉だ。どうやら薬剤師は、売ってもいいけれど、5ヶ月分は処方箋がなければ保険での払い戻し対象にならない、ということを気にしてくれているようだ。ようは患者の財布を心配しているだけで、5ヶ月分の薬を販売することには、この医者も薬剤師もなにもひっかかっていないようだ。少々驚きながら、薬剤師が電話の向こうで計算してくれた金額を女医から聞かされ、南野はOKする。全部でなんと4万円くらいになるが、これで綺麗さっぱりニキビが治ってくれるなら、いいだろうか、などと考えてしまった。

 それで話しがまとまった。女医さんは、ただし、この薬は血液検査の結果、コレステロール値が正常であるということを確認したあとでなければ処方できないものなので、まあ今回は特別と言うことで処方箋は書くけれど、帰国までに必ず血液検査を受けて、その結果を私に届けるように、と言う。コレステロール値に問題はないはずなので、血液検査は受けずに帰国するつもり。

 診察後、教えて貰った薬局へ行き、大量の薬を購入して帰宅。薬剤師に、ほんとうにこの薬は六ヶ月も飲み続けなければならないものなのかと聞いたところ、その通りとの返事だった。

 

2001.2.17.(金)

 パリ最後の買い物。姉に頼まれた高級ブランド品が大変だ。栄二郎に付き合って貰う。モンテーニュ大通りルイ・ヴィトンは、日本人や韓国人、台湾人などの買い物客で長蛇の列。店内を見るだけならば自由に入れるのだけれど、店員と話したい、つまり買い物をしたい人は行列を作って順番を待たなければならないことになっているらしい。さんざん待ったあげく、その商品はありません、と言われると馬鹿らしいので、行列の先頭にいる店員さんに、姉から頼まれた商品が果たしてあるのかどうか、それだけ先に教えてくれないかと頼む。すぐにOKしてくれて、在庫を調べに行ってくれる。これには驚いた。こういう大名商売をやっている高級店は、大挙して押し寄せてくる日本人にはえてして対応が悪く、すぐに突き返されるだろうと思っていたのに。しかも戻ってきたこの店員女史、品物はあった、それだけ買うならいますぐに売ってあげるわよ、とまで言ってくれた。行列のなかに同じ品物を欲しがっている人がいたら、と良心が痛まないでもなかったけれど、余り時間もないことだったし、ましてや他に買いたい品物などないので、すぐにそうしてくれとお願いする。それにしてもびっくりするくらいの高い品物。姉の財力というか、価値観というか、姉弟とはいえ、信じられない気がする。

 いったん帰宅して、最後の荷造り。もともと荷物が多い上に、姉のために買った大きなヴィトン製品がかなり面倒なので、タクシーで空港まで行くことにする。かなり感じの良い女性ドライバーにあたり、いろいろと話していると、なんとその息子さんが、トロペール教授の教え子だということがわかる。なんたる偶然。これまたパリではめずらしく、極めて快適なタクシーでの移動とあいなって、無事に空港へ到着。今日はなかなか感じの良い人にばかり巡り会えた。

 

2001.2.18.(土)

 無事成田空港に到着。とにかくすごい荷物なので、芳樹に車で迎えに来てくれるよう頼んでおいた。持つべきものは良い後輩なるかな、ちゃんと迎えに来てくれていた。これには本当に大助かり。深夜12時頃、自宅に到着。ばたんきゅう。

 

2001.2.23.(金)

 エティエンヌが来日。毎年一回は日本とアメリカへヴァカンスに出かけることにしているそうだ。今回は二週間ほどの滞在。つい最近会ったばかりなので、おかしな気分。まあ、懐かしいと言えば言えなくもないけれど。

 

 

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学士院研究会報告顛末記、ブルターニュ週末旅行、オリヴィエ誕生日パーティーなど)

(ステファン誕生日パーティー、ストラスブール日仏公法セミナー、ブルジュ・ヌヴェール週末旅行、大晦日仮装パーティーなど)

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北欧旅行続き、ゲオルギ来訪、玲子兄・藤田君来訪、オリヴィエ4号来訪、色川君来訪、ピアノ片付けなど)

姉・奥様来訪、日本へ帰国、東京でアパート探し、再びパリ行など)

(誕生日パーティ、Troper 教授主催研究会、Cayla 教授と夕食、日本へ帰国など)

(花垣・糸ちゃん邸、スマップコンサート、フランス憲法研究会、憲法理論研究会など)

2001年1月4日〜2月23日分

(洛星東京の集い、東大17組クラス会、パリ、ウィーン、ブラティスラヴァなど。)

(エティエンヌ来日、広島・山口旅行ボー教授来日、法学部学習相談室のセミナーなど)

長野旅行、パリで国際憲法学会など)

新・個人的ニュース

リール大学で集中講義のため渡仏、興津君・西島さん・石上さん・ダヴィッド・リュック・ニコラと再会など)

(リール大学での講義スタート、武田君・タッドと再会、ヒレルと対面、芥川・安倍・荒木・柿原来仏、モンサンミッシェル、トロペール教授と昼食、浜尾君来仏、ヤニック・エティエンヌ・エレーヌと再会、復活祭パーティなど)

パリ行政控訴院で講演コンセイユ・デタ評定官と面談リール大学最終講義、日本へ帰国)

 

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