妄りに洋行生の話を信ずべからず。彼らは己の聞きたること見たることを universal

case として人に話す。豈計らん、その多くは皆 particular case なり。また多き中には

法螺を吹きて厭に西洋通がる連中多し。彼らは洋服の嗜好流行も分からぬくせに己れの

服が他の服より高き故時好に投じて品質最も良好なりと思えり。洋服屋にだまされたり

とはかつて思はず。かくの如き者を着て得々として他の日本人を冷笑しつつあり。愚な

ること夥し。   (夏目漱石『ロンドン留学日記』 明治34(1901)年1月5日)

 

1999.11.13.(土)

 ホームページを作りはじめてもうすぐ三週間。とつぜん思いついて始めてみたのだけれど、思ったより簡単にいろいろできて、楽しくて仕方がない。200人以上(「のべ」だけど)も訪問してくれた人がいると思うとますます嬉しくなって、本業そっちのけで没頭してしまい、現在やや後悔中。というのも南野は来週の木曜日、つまり18日、フランス学士院で行われる、「フランス法・政治哲学学会(SFPJ)」主催の研究会(テーマは<憲法制定行為>)で「革命的憲法制定行為?――日本の場合」と題して30分の予定で報告をしなければならないのに、その準備がまだまだ整っていないからだ。ようやく、しかもなんとなく、「はじめに」というか「冒頭挨拶」というか、まあ、そういった、あまり報告の中味と関係のない最初の部分ができあがったばかり。いま、パリの時間で朝の9時。早起きしてがんばっているのではなく、徹夜してがんばっていたのだ。ちょっと気分転換に、という自分への言い訳をつぶやきながら、こうしてまたホームページをいじっているというわけ。いや、本当にやばい。というわけで近況を記すのもここでやめよう。ちなみに上記研究会のプログラムは、フランス語ページの方にアップしてあるのでよろしければご覧あれ。ところで、どなたか(一人か複数かわからない)が早速インターネット書店BOLで買い物をして下さったようだ。合計600フランも。その5%、つまり30フランが南野に入ることになる。ほんとうにありがたいことだ。合掌。

 

1999.11.18.(木)

 研究会「憲法制定行為」当日。とりあえず報告原稿を書き終わったのが前日の夜10時くらい。アパートをシェアしているフランス人エティエンヌに頼みこんで、フランス語の最終チェックをしてもらい、その後一人でなんどか読み直したり書き直したりしていたらすでに午前3時をまわっていた。研究会は朝の9時からなので、すぐに寝なければと思ってはいるのだが、これまでこの研究会の準備のために昼夜逆転の生活を送っていたため、全く眠気がおそってこない。ベッドに入ってはみたものの、一時間ほど悶々としてしまう。「腹の皮が膨れると目の皮がたるむ」というので、何か食べようと思いつき、家族が日本から送ってくれていた「どん兵衛きつねうどん」なるものを午前5時頃食べる。効果があったのか、すぐ眠れた。しかし二時間ほどで起床しなければならない。研究会の行われるフランス学士院(Institut de France)は、セーヌ川をシテ島より少し下った左岸にある。シラク大統領が先年京都を訪問した際だったか、京都市長が市内を流れる鴨川に同じような橋をかけようと提案して物議をかもした、ポン・デ・ザール(芸術橋)が目前にかかっている。南野のアパートからはそれほど時間がかからない距離である。メトロの4番線に乗り、サン・ジェルマン・デ・プレ駅で下車。そこから小降りの雨のなかを、セーヌ川まで歩いた。

 もちろん学士院に入るのはこれが初めてだ。フランス学士院は、現在ではアカデミー・フランセーズなど、5つのアカデミーからなっていて、今日の研究会が行われるのも、Salle des cinq Academies (5つのアカデミーの部屋)と通知されていた。外から見る学士院は重厚なドームを戴いた立派な建物だし、研究会もさぞや立派な、歴史のある部屋で行われるのだろうと思っていたのだが、想像とは少々違った。まずエレベータで5階に上る、というところからして、18世紀の建物という趣を失わせてあまりある(パリでは19世紀末のアパートなどざらに残っていて、そのなかにうまく螺旋階段の中心スペースを利用するなどして後になってからエレベータを付け加える、ということも珍しくはないけれど)。ただ部屋自体は壁にタペストリーがかかっていたり、四方に胸像がおいてあったり、と、それなりに普通の会議室とは違う雰囲気を持ってはいた。部屋の奥が司会者と報告者のテーブル、そしてそれに向かい合って普通のイスがずらっと並んでおり、手前側、部屋の入り口のあたりには立ち話用のスペースと給仕係つきの飲み物・軽食コーナーがあった。

 さて、今回の南野の報告は、研究会のテーマが憲法制定行為ということなので、日本国憲法の制定過程とそれをめぐる宮沢俊義(当時の東大教授)の学説(ふつう「八月革命説」と呼ばれている)などを紹介しながら、憲法制定行為と「革命」の観念を論じるもの。そもそも南野がこのような報告をすることになったのは、この研究会のオーガナイザーの一人でもある、EHESS(社会科学高等研究院)の Olivier Cayla 教授が、ここ二年来、憲法制定行為をテーマとしてゼミを行なっており、そこに参加していた南野が昨年、やはり宮沢の学説を紹介するゼミ報告をしたところ、大変興味を示してくれ、今回のコロックでもなにか話してみないか、というふうに誘ってくれたからだった。報告の内容については、原稿(フランス語)をご覧いただくとしてここでは触れない。

 人前での報告というのは、話し始める直前まで、ほんとうにぎりぎりの直前まで、とにかくすごい緊張をもたらすものだ。聴衆のなかに、「この人はごまかせない」、などと自分が思っているような優秀な人がいれば、なおさらそうである。今回の研究会はその意味で、南野にとっては異常なプレッシャーとなるものであった。数週間前にプログラムが送られて来るまで知らなかったのであるが、南野の報告が行われる午後の部を司会するのが Michel Troper 教授。南野が師事するためにパリに来た、まさにその人である。さらに、この研究会は南野を含めて合計8本の報告が予定されていたが、南野以外の報告者はいずれも博士号を持っている人ばかり。そのなかには、Cayla 教授のほか、有名な Otto Pfersmann 教授や Philippe Raynaud 教授、また憲法制定権力研究の単行本を先年出したばかりの Claude Klein 教授、著名なフランス革命研究家でCNRS(国立学術研究センター)の研究主任 Ran Halevi 氏、またこれまた有名な哲学者、Etienne Balibar 教授など。正直なところ、こういった人たちのリストに自分の名前を連ねることができるということの名誉よりも、少なくともこういった人たちが自分の報告を聞くのだということの恐怖の方が、プログラムを受け取ってから報告を始める直前まで、南野の心を支配していたと思う。

 ちょうど9時に学士院に着いた南野は、いきなりエレベータで Otto Pfersmann 教授と一緒になってしまった。報告の前も後も、怖い人とは喋りたくないと思っていたのに。怖いというのは、もちろん学問的にということであって、学問の話しさえしなければ、この先生は、大変感じのいい人で、南野は大好きである(握手をするのにちゃんと手袋を脱いでくれた)。そういうわけで、眠いだとか、緊張しているだとか、そういうどうでもいい話しをしてなんとか5階までのエレベータの時間をつぶした。「5つのアカデミーの部屋」に入ると、すでに大勢の人が集まっていたが、もう定刻のはずなのにまだ入り口の方で立ち話をしている。座席に座っている人はほとんどいない。まず昨年からパリ第一大学に留学しておられる塚本氏と目が合い、挨拶。日本人に聞かれるのはいっそう恥ずかしいからと思って、彼にはこの研究会のことを言わないでおこうと思っていたのだけれど、パリ第一大学の掲示板でこの研究会の案内をご覧になったそうだ。彼と立ち話をしていたのはトゥルーズ大学の講師 Frederique Rueda 氏。彼女とは、6月のエクサン・プロバンスでのフランス憲法学会の研究大会で知り合い、さらに7月のロッテルダムでの国際憲法学会で再会して以来になる。わざわざ今日のために飛行機でトゥルーズからパリへ来たということだ。その他パリ第一、第二、第十大学の博士課程の学生や教授たちなど、見慣れた顔もいくつかあったが、とにかく誰とも話したくないので、適当に座席をみつけて一人さっさと座ることにした。

 いよいよ研究会が始まった。まずはパリ第二大学の講師 Carlos Miguel Pimentel 氏の報告から。内容自体は、主権概念の歴史だとかフランス革命史など、これまでの研究成果を整理したもので、なにか理論的な問題提起があるわけでもない、というような、そういう意味では陳腐なものだったと思う。しかし、当たり前のことではあるが、そのあまりのフランス語のうまさ、喋り方のかっこよさ、プレゼンテーションの巧みさに、これまた当たり前のことなのであるが、自分などとてもたちうちできない、と南野はふと異常な自信喪失におそわれる。それまでも、とくに喪失すべき自信を持っていた、というわけではないけれど、あからさまにこのような報告を見せつけられて、なんだか自分が情けなくなってきた、というのがこのときの心境にもっとも近い言い方だろうか。報告が終わると司会者がコメントを行う。日本のように、「ではみなさんご自由に議論をはじめてください」と言うだけが仕事ではないから、フランスの司会者は大変である。午前の部の司会を務めるのは、法史学が専門の Marie-France Renoux-Zagame という、姓も二つ、名も二つという、長い名前の教授。パリ第十大学で南野は彼女のゼミに出ていたことがある。そのときはルーアン大学教授という肩書きだったが、現在はパリ第一大学教授である。彼女のフランス語は難解で、ゼミでは本当に辛い思いをしたのを覚えている。それから二年がたった今でも、彼女のコメントはさっぱり理解できない。ますます不安になって仕方がなかった。

 10分間程度の質疑応答に続いて即座に行われた二本目の報告が終わったあとは、30分のコーヒーブレイク。Olivier Cayla 教授と喋る羽目になってしまう。彼は大の愛煙家で、どこでも平気でタバコを吸う。そういう意味では悪しきフランス人の典型みたいなところがあって、やはり「5つのアカデミーの部屋」でもすぱすぱ吸っていた。とりあえず今回南野を報告者の一人に数えてくれたことの礼を言ったあと、報告内容については話したくないので、南野は禁煙して二ヶ月になる、などという話しをした。ちょうど10年間吸い続けたのを機にやめた、と言うと、同教授は自分は25年間吸い続けていて、別にやめたいとは思わないと言っていた。彼は40歳くらいだと思うのだが、そうすると15歳から吸い始めたということか。そういえば、フランスではようやく最近になって、禁煙キャンペーンなどが始まり、国会でも報告書が出されたりしている。現在は法定年齢というものがなく、何歳でも吸ってよいのだが、これを改めようという議論が出始めている。

 さて、その後再び Renoux-Zagame 教授の司会で研究会が始まり、二本の報告。Etienne Balibar 教授の報告はちんぷんかんぷんだったので、自分の報告原稿を取り出し、読み直したり書き直したりして時間をつぶす。そして昼食休憩。南野は報告者ということで、学士院の別室での昼食に招待されていたのだが、どうも報告者プラス司会者だけではなく、著名な教授たちも皆招待されているらしく、日本でも最近その翻訳がだされた、Lucien Jaume 教授なども別室へと足を運んでいったので、そのメンバーによる格式ばった(?)昼食の雰囲気を想像するとさすがに怖くなり、遠慮することにした。いつやってきたのか、哲学者で現在ブザンソン大学で博士論文執筆中の Mikhail Xifaras 氏がいたため、塚本氏と3人で昼食にでかけることにした。ミカイルは、ギリシア血統のフランス人で、現在の奥さんと知り合ったという京都に2年住んでいたためもあって、京都なまりの日本語が大変上手な人である。顔の下半分がヒゲに覆われ、透き通る目をした外人さんが、京都弁をたくみに操るというのは変なものである。京都出身の南野と彼とは歳が一つ違いということもあり、会うと楽しい仲である。

 この日、つまり11月の第三木曜日は、ボジョレー・ヌヴォーの解禁日でもあった。塚本氏は余りお酒を嗜まれないが、ミカイルと南野はどちらかというと酒好き。「あの人ったら昼間っから酒を飲んで・・・」、というようなニュアンスの言葉遣いはフランス語にはなく、みな昼間から酒を飲んでいる。研究会の合間だってそうである(はずだ)。というわけで、昼食に入った食堂のおばさんのすすめに従い、この若くてフルーティーな赤ワインを飲むことにした。フランス語と京都弁、東京弁のおりまざった食事は大いに盛り上がり、あっという間に午後の部スタートの時間になった。

 会場に戻ると、Cayla 教授がどうして食事に来なかったんだ、一つだけ席が空いたままになっていた、と言ってきた。部屋の前方では Troper 教授がこちらに来いと手招きしている。いよいよだ。中央に司会者 Troper 教授が座り、彼を挟むかたちで右側に報告者の Klein 教授、そして左側に南野。こうして聴衆と向かいあった。まずトロペール教授が、午前の開会が遅れたために、報告後の質疑応答時間を少し削る、というようなことを言った。思わず笑みがこぼれてしまう。報告よりもなおいっそう、会場からの質問にその場で答えるということが南野は苦手だからである。心中では、いっそのこと質疑応答なしにして欲しいと思っていたくらいだ。Klein 教授の報告を聞きながら、聴衆をぐるぐる見回してみた。最前列中央に Pfersmann 教授がぴーんと姿勢を正して座っている。一応目が合うとほほえんでくれた。その横には午前の司会をした Renoux-Zagame 教授。そしてその隣に、Olivier Beaud 教授。この人もまた、南野が「おそれている」人の一人である。午前中は来ていなかったのに。その他の教授たちは後ろの方に散らばっていたようだ。聴衆のなかに、パリ第十大学の昨年のクラスメートや、ロッテルダムの国際憲法学会で知り合ったパリ第一大学の博士課程の学生の顔を見つけた。みなこちらを見て微笑んでくれる。彼らは南野を「いじめる」ために来た人ではないから、ふと安心させられる。

 おとなしく座っているはずのところが、あまりの緊張のせいか、あるいはボジョレー・ヌヴォーのせいか、Klein 教授の報告が終わって質疑応答に入ったころになると、心臓の鼓動が異常に激しくなり、顔は火照り、頭がボーっとしてきた。おまけに尿意も。思い切って席を立ち、トイレへ。いや、調子にのってワインなど飲むのではなかったと思いながら席に戻ってふとみると、壁際でパソコンをたたきながら熱心にメモをとっているミカイルも実に赤い顔をしている。焦りながらも南野は、自分がいわゆる「地黒」で、酒を飲んでも余り顔に出ないたちであることを幸せに思った。

 そしていよいよ、南野の報告。もうここまで来たらどうしようもない。あとはできるだけ上手に話すのみだ。昨夜から何度か読み直して、かなりゆっくり読みあげても30分の予定時間をほんの数分上回るだけ、ということは確認してある。ゆっくりと落ち着いて発音するように心がけよう。イントロダクションの部分はだいたい日本の憲法学とは関係のない「挨拶」が中心だから、ほとんど原稿を見ないで、会場を見回しながら話すようにつとめる。会場の人々はほとんどみんな南野をじっと見つめている。南野の横に座っているTroper, Klein の二人もこちらを見つめている。この、真横から至近距離で報告者をじっと見つめる、という行為は、おそらく日本の研究会では目にすることのないことだろうと思う。「視線を感じる」という言い回しが実感できる。

 とくに大きく「とちる」こともなく、自分の想定していたペースで報告を進めることができた。笑いをとるべきところでもちゃんととれたし。聴衆が一生懸命南野の報告に集中してくれているのが、実によくわかった。これはうまく言えないが、肌で感じる、というのだろうか。空気がぴーんと張りつめていて、聴衆の意識がこちらに集中しているのだ。Olivier Beaud 教授もじっとこっちを見て聴いてくれている。これに南野は大変勇気づけられた。というのは、今から一年ほど前、同様のコロックがルーアン大学で行われたとき、南野の一列前に座っていたボー教授が、ある報告を聴きながら、見事に居眠りを始めたのが印象に残っていたからである。フランス人は授業中でも、またこういうたぐいの研究会でも、あまり居眠りをしないようである。パリに来てから、それまで居眠りをしている人をみたことがなかったので、Beaud 教授が派手に居眠りを始めたのが強い印象として残っているのである。今回はとりあえず熱心に聞いてくれている。これはいい兆しに思えた。

 そして、報告が終わった。Klein 教授の報告が終わったときと同様、トロペール教授は、「時間がないのですぐに質問を受け付けます」の一言。Otto Pfersmann 教授が即座に挙手し、トロペール教授に指名された。南野はそこでとっさに「まだまだフランス語がよく聞き取れませんから、質問は短く、単純なものをお願いします」と叫び、またしても笑いをとった。Pfersmann 教授の質問は、通常、微に入り細に入る、きわめて複雑なものだったからである。これが効を奏したのか、あるいは時間がないことに配慮したのか、彼にしてはかなり短いといえる発言だった。正直に書こう。べた褒めだった。clair(明快な)、interessant(おもしろい、興味を引く)、convainquant(説得力のある)という三つの形容詞は、こういう学会でのほめ言葉の決まり文句というところだろうが、この全てを用いて、そしてそれに tres (非常に)という副詞をなんどもつけて賞賛してくれた。とりあえず Otto Pfersmann 教授という第一の関門をクリアーした、という感慨がわき起こる。そのあと、トロペール教授が質問に一つずつ答えるか、それともまとめて最後に答えるか、と南野に聞いてくれたので、まとめて答えることにする。その方が、回答を考える時間も稼げるだろう。

 しかし、ようやく報告が終わった、という脱力感と、Pfersmann 教授が誉めてくれた、という興奮で、なんだか頭はボーっとなってしまい、Pfersmann 教授の誉め言葉以外の指摘・質問はよくわからなくなってしまった。その後、3人ほど女性(そのうち一人はパリ第十大学でトロペール教授が主催する法理論センターの研究員でもある Francoise Michaut 氏)が立て続けに質問をしたのだが、これももう全くわけがわからない。目の前でフランス人が南野に対して喋っているというのに、そして南野はそれを一生懸命聞いているというのに、南野の頭のなかは、「ついに最悪の事態がやってきた、どうしよう、答えられないぞ・・・」という焦りの表現が日本語でかけめぐっているだけである。正直に「よくわからないし、時間もないので、後日お答えしたいと思います」と言ったのだが、「後日」と言ったところが少し苦笑を買っただけで、司会者のトロペール教授もそれで場を閉じようとせず、会場はしんとして南野の答えを待っている。トロペール教授がみかねて、最初の女性の質問をそのままゆっくりと繰り返してくれた。しかしそれでも、「後日答えることにする」という逃げ口上が効を奏しなかったこともあって、さらに気が動転してしまっていて、南野にはなんのことかさっぱりわからない、という、とにかくどうしようもない危機的状況に陥ってしまう。

 勘弁してくれないということがわかったので、仕方なく何か言わなければ、と思い、「まず、Pfersmann 教授のご指摘についてですが・・・」といった決まり文句を言いだした。言い出したからにはもう後にはひけない。そのあとは無我夢中でなんとか「とりつくろった」という感じである。通常は質疑応答では実に攻撃的でしつこい Pfersmann 教授だが、今回はこの「とりつくろった」南野の回答でおとなしく黙ってくれた。納得してくれたのか、これはこれ以上質問しても話しにならない、と諦めたのか、それとも単に時間がないから遠慮したのか、その辺の真相はわからない。女性たちの質問についても、報告原稿では準備していながら、実際の報告では(シュミット研究の第一人者と目されている)「オリヴィエ・ボー教授が来られているので、省略します」などと冗談をいいながら飛ばして触れなかったシュミットの学説紹介の部分を利用しながら、最終的にはなんとか「答えているぞ」という形をとることはできた。なんだか答えになっていないなあとは思いながらも、その女性の後ろに座っていた見知らぬ男性が、南野の回答に大きくうなずいてくれていたのが見え、大変勇気づけられたのを思い出す。

 この質疑応答時間は、ほんの10分足らずの時間だったはずなのに、いやはや、早く終わってくれ早く終わってくれ、と思い続けた、ほんとうにいやな時間であった。ようやくトロペール教授が締めくくりの挨拶をしてくれる。終わった。開放感。満面に笑み・・・。質疑応答という少々後味の悪い時間があったけれど、全体としては大満足の出来であった。トロペール教授は最後に一言、もう一度南野の報告を誉めてくれ、拍手をしてくれた。それにつられて、会場からも大きな拍手がわいたため、思わず南野は日本式に立ち上がってお辞儀をした。

 そして会場はすぐさまコーヒーブレイク。南野はまだ報告者席で手荷物の整理。するとトロペール教授がまたしても、「本当にすばらしい報告だった、ブラボー」などと言ってくれ、内容についてのコメントもしてくれた。彼と座ったまま話していると、Pfersmann 教授がやってきて、握手をしてくれ、ブラボーブラボーと言ってくれる。いやはや、本当に幸せであった。

 その後何人かの人が近づいてきて、質問をされた。天皇は文化的な権威としての存在であっただけで、政治的な実権を持っていたのは「ショーグン」ではないのか、と言ってきたおじさんもいた! 日本国憲法制定の頃には征夷大将軍はいなかったはずだ。そういう簡単な、また、報告にあまり関係のない質問を皆の前でしてくれれば、もう少しかっこうよく堂々と応答できたのに・・・。パリ第十大学のかつてのクラスメートなども南野の周りに集まってきてくれる。ミカイルはおめでとうおめでとうと言いながら、コーヒーを取ってきてくれる。塚本氏も慰労して下さる。

 フランス式の小さなコーヒーでは乾ききった喉を潤せないので、会場後方の喫茶・軽食コーナーへ大きなグラスに入ったジュースをとりに行く。途中すれ違う人見知らぬ人からもブラボーなどと言われたりして、ふと、ほんとうに報告内容がよかったからなのか、それとも単に「まだ幼稚園の年長さんなのに、上手にお歌をうたえたね、ブラボー」といった感じの評価なのか、なんだかわからなくなってきた。

 ともあれオレンジジュースにありついて一息ついていると、Olivier Beaud 教授が近づいて来る。彼もしきりに clair, interessant という言葉を使って誉めてくれた。ボー教授に誉められれば喜んでいいだろう、とホッとする。ただ彼は、ドイツの憲法制定過程との比較もして欲しかった、と注文を付けることも忘れなかったけれど。そこに Philippe Raynaud 教授や Renoux-Zagame 教授もやってきて、やはり誉めてくれた。しかし誉められたことはわかったのだが、Renoux-Zagame 女史は、相変わらず何を言っているのかほとんど理解できなかった。「僕は1997年ー98年度、ナンテール(パリ第十大学)であなたのゼミに出ていましたが、覚えていますか」、と南野が言ったのに対して、「ええもちろんよく覚えています」と彼女が言ったことだけははっきりわかった。こんな程度の理解力でよく彼女の授業の単位を落とさなかったものだとつくづく不思議に思う。

 幸福なコーヒーブレイクはあっという間に終わり、Olivier Cayla、Otto Pfersmann 両教授の報告の時間となる。二本とも実に興味深い報告ではあったが、Cayla 教授の方は、かつて憲法院40周年記念コロックで、彼が報告したものとほとんど同じ内容。少々期待はずれだった。報告、質疑応答ののち、トロペール教授の閉会挨拶をもって、学士院での研究会は終わった。トロペール教授を始めいろいろな参加者にお礼の挨拶をしたあと、Claude Klein 教授にはその著書にサインをしてもらい、塚本氏、Frederique Rueda 氏などと帰る。奥さんの出産が間近というミカイルはいつの間にか消えていた。塚本氏が慰労ということで南野をカフェに誘って下さる。開放感、満足感も手伝って、喋りっぱなしのとても楽しい一時を過ごす。サン・ミッシェル駅近くのカフェだった。

 さすがに睡魔が襲ってくる。夜の8時頃に帰宅したが、ちゃんとした食事もしないで10時頃には寝てしまったのではなかったろうか。実に長い一日(二日?)であった。フランスで発表・報告をするという経験は、ゼミ報告などを含めて今回が5回目くらいだったはずだが、それまでのどれとも比較にならない思い出深いものとなった。もっとも、質疑応答をちゃんとこなせるようにならなければいけない、という課題は相変わらずそのままだけれど。

 (後日談) Troper 教授はその数日後に電子メールをくれ、そこには「もういちどブラボー」と書いてあった。また本日(11月24日)Cayla 教授が電話をくれ、「みんながほめていた、私も貴君を誘ったことを光栄に思う」などと言ってくれた。資金が調達できれば、このコロックの記録は本になるらしい。宝くじにでもあたったら、寄付しようと思う。

 

1999.11.19.(金)〜21.(日)

 (19日)同居人のフランス人エティエンヌとブルターニュ旅行へ出発。これはだいぶん前から約束していたもの。ブルターニュ半島の先、Quimper (キャンペール)泊。パリなんかとは全く違う趣のある街だ。アルザスみたいだと言ったら、これがブルターニュなのだ、とエティエンヌにバカにされる。車でパリから5時間ほどかかった。500キロ超のドライブ。

(20日)キャンペールからフランス最西端の岬、Pointe du Raz をめざす。雨が降ったりやんだりという、ブルターニュらしい天気。オフシーズンなので人も少ない。ホテル・レストランなど、営業していないところも多い。ホテルを見つけるのが大変。Plouhinec (プルイネック)という小さな街にようやく一軒だけ営業しているホテルをみつけ投宿。海の幸の夕食。生牡蠣がうまい(日本で食べるとなぜかあたってしまう南野も、フランスでは今までのところ大丈夫)。

(21日)Pointe du Raz から海岸沿いを走り、Locronan(ロクロナン)へ。石畳の古い町並みで、大変気に入る。昼食はムール貝(こんなもの日本では食べたことなかったが)。そしてキャンペールを素通りし、ゴーギャンが住み着いたという Pont-Aven(ポン・ターヴェン)などを経由して、道路地図に絶景ポイントとか、古代の遺跡、などの表示を見つけるたびに行き先を変更し、午前零時ごろパリに戻る。古代の巨石群で有名な Carnac (カルナック)には行けなかった。しかし、悔いを残しておくとまた行こうという気にもなるだろう。

 

1999.11.24.(水)

 今週からトロペール教授のゼミに出席させてもらうことにした。先日の研究会で会ったときに、今年も出させてくれと言ったら、去年・一昨年と同じ内容だから・・・、と言われたのだが、やはり去年・一昨年よりはフランス語の理解力も内容の理解力もアップしているだろうから、よりよく理解するためにももう一度出させて欲しいと言う。なにより来年の夏には日本に帰らなければならないのだから、トロペール教授の講義を聴けるのも最後のチャンスかもしれないし(彼は61歳だから、次に南野がフランスに留学するときには、すでに退職しているかもしれない)。それで今日行ってみたのだが、去年までとは違い、毎回毎回のゼミが3時間に伸びていることを知り、ちょっと後悔する。3時間はきつい。

 

1999.11.25.(木)

 EHESS(社会科学高等研究院)の研究主任、Olivier Cayla 教授のセミナーが始まる。彼は毎年、11月の最終金曜日からゼミを始め、6月頃には終える。ということは、6月末から11月いっぱいのあいだ、彼は何をしているのだろう。フランスの大学教授はもしかしたら日本の大学教授よりも優雅な生活なのかもしれない。昨日Cayla 教授から別件で電話があり、偶然彼のセミナーが今年は金曜日ではなく木曜日に開かれるということを知ったので、これまた参加させてもらうことにした。今年も引き続き、テーマは「憲法制定行為」である。南野がパリに来た二年前から彼はこのテーマのセミナーを始め、今年で3度目になる。彼の説明によると、一年目は、憲法制定行為をめぐる一般的な理論、二年目はフランスの憲法制定行為についての研究を進めてきたが、今年は、イスラエルと南アフリカそしてなんと日本の憲法制定行為を題材にして話しを進めることになるらしい。これらの三か国が、フランス人学生の関心を十分引くかどうか、よくわからない。来週からがくっと学生の数が減っているのではないだろうか。授業後、このEHESSのすぐ近くに住んでいる武田君と食事でもしようと思って電話をしてみたが留守だったようで、仕方なく中華料理の仕出し屋で一人寂しく食べて帰宅。

 

1999.11.26.(金)

 パリ第一大学付属の施設である、憲法研究センター(通称マレーセンター)でのセミナーが始まった(別掲のプログラム参照)。昨年度から始まったこの形式のセミナーは、パリ第一大学の博士課程の学生数人が企画し、年間を通してのテーマを設定したうえで、有名な教授たちにほぼ月に一度のペースで報告をしてもらう、というもの。いわば連続講演会である。最終回はラウンド・テーブルと称して、複数の報告者を迎えて討議が行われる。昨年度のテーマは「裁判官統治(Gouvernement des juges)」であった。今年度のテーマは、「欧州連合にはいかなる民主主義か?(Quelle democratie pour l'Union europeenne ?)」。第一回目の報告者は Otto Pfersmann 教授。出席者は50人ほどか。そのなかに、Michel Troper, Francis Hamon, Didier Mauss, Gerard Timsit 教授などの顔。南野は塚本氏、そしてロッテルダムの国際憲法学会で知り合って以来の友人である Marc と並んで座る。

 

1999.11.27.(土)

 オリヴィエ・Rの誕生日パーティー。あいにくエティエンヌは風邪を引いてしまい具合が悪かったので、夜12時ごろ先に帰ってしまった。南野は午前3時頃まで残り、酔っぱらって運転できなくなったマニュエルのぴかぴかの新車トゥインゴを運転し、順番にもう一人のオリヴィエ、ガブリエルを家まで送り、マニュエルを我が家までつれて帰り、泊めてやる。初めてここに泊まったマニュエルは、翌朝、文句をとうとうと言ってくれた。上の階で飼われている犬が早朝から走り回ってその爪の音で起こされたとか(南野はここへの引越当初、巨大ネズミだとばかり思っていた)、再び寝付いたころに隣人のびっくりするようなドアの開け閉めの音でまたしても起こされたとか(これはお隣の Zhou さん一家が犯人に違いない。いつも家族全員が怒ったようにドアをばたんと閉めるので、たしかにすごくうるさい。Zhou さん一家については、「レストラン情報」を参照)とか、教会の鐘の音がうるさすぎるとか(フランシスコ会の修道院が斜め前にあって、日曜日はミサの前に必ず鐘がなるのだ)、表通りを通る車の音がやかましいとか(表通りに面したサロンで寝ると、たしかにそうかも知れない)、あげくのはてには、よくもまあこんなところに住んでいられるな、自分のアパートだと、朝は小鳥のさえずりしか聞こえない、とか言っていた。実にユニークな人である。

 

1999.11.28.(日)

 マニュエル、エティエンヌと一緒に、オデオンの近くの「にせもの」日本料理店(すごく安いところ)で昼食。その後オリヴィエ・Mも合流して4人でリュクサンブール公園近くのカフェ(すごく高いところ)。解散したあと、寒いけれども天気が良かったので、家まで歩いて帰る。

 

 

 

日 付
主な内容
旧・個人的ニュース
1999年11月13日〜28日分

学士院研究会報告顛末記、ブルターニュ週末旅行、オリヴィエ誕生日パーティーなど)

(ステファン誕生日パーティー、ストラスブール日仏公法セミナー、ブルジュ・ヌヴェール週末旅行、大晦日仮装パーティーなど)

(元旦、武田・岩月君、EHESSセミナー、大村先生宅、伊藤先生、Cayla 先生宅など)

(スト、岡田先生、ベルギー週末旅行、クリストフ、武田君、瑞香来訪、美帆・由希子帰国など)

(Mel Madsen 氏来訪、辛い研究会、樋口先生、ススム来訪、灰の水曜日、早坂先生、皮膚・性病科、健太郎来訪、ニース珍道中記など)

(カレーパーティー、大村先生宅大嶽先生宅、復活徹夜祭、アントニー来泊、緑の桜の謎、花沢夫妻来訪など)

アムステルダム週末旅行日本シリーズ参議院調査団通訳、多恵子一行来訪など)

南野邸お茶会、ルカ洗礼式、ローラン・ギャロス、子どもモーツァルト、イタリア旅行、樋口先生、音楽祭り、研究会「違憲審査制の起源」など)

(日本人の集い、フランソワ・フランソワーズ夫妻宅、フレデリック誕生日パーティー、モニックさん・彩子ちゃん来訪、北欧旅行など)

北欧旅行続き、ゲオルギ来訪、玲子兄・藤田君来訪、オリヴィエ4号来訪、色川君来訪、ピアノ片付けなど)

姉・奥様来訪、日本へ帰国、東京でアパート探し、再びパリ行など)

(誕生日パーティ、Troper 教授主催研究会、Cayla 教授と夕食、日本へ帰国など)

(花垣・糸ちゃん邸、スマップコンサート、フランス憲法研究会、憲法理論研究会など)

(洛星東京の集い、東大17組クラス会、パリ、ウィーン、ブラティスラヴァなど。)

(エティエンヌ来日、広島・山口旅行ボー教授来日、法学部学習相談室のセミナーなど)

長野旅行、パリで国際憲法学会など)

新・個人的ニュース

リール大学で集中講義のため渡仏、興津君・西島さん・石上さん・ダヴィッド・リュック・ニコラと再会など)

(リール大学での講義スタート、武田君・タッドと再会、ヒレルと対面、芥川・安倍・荒木・柿原来仏、モンサンミッシェル、トロペール教授と昼食、浜尾君来仏、ヤニック・エティエンヌ・エレーヌと再会、復活祭パーティなど)

パリ行政控訴院で講演コンセイユ・デタ評定官と面談リール大学最終講義、日本へ帰国)

 

 

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